2008年ローマ人への手紙第5講
義人はいない。ひとりもいない
御言葉:ローマ人への手紙2:17-3:20
要 節:ローマ人への手紙3:10「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」
先週、私たちは神様の正しいさばきについて学びました。世の人々は、罪を犯してもすぐには神様のさばきが現われないので、さばきはないものと考えます。罪がばれるかどうかだけを考え、神様を侮って罪を重ねています。しかし、神様の正しいさばきがあります。律法を知っていながら罪を犯した者は律法によってさばかれますが、律法を知らない者はその人の良心に照らしてさばかれるのです。
今日の御言葉でパウロはユダヤ人の罪を具体的に指摘しています。ここで、ユダヤ人のように宗教的な人、指導者的な立場にいる人たちも例外なく罪人であることが分かります。結論的に、「義人はいない、ひとりもいない。」ということです。パウロはすべての人が神様の裁きの下にあると宣言しています。今日の御言葉を通して私たちが神様の御前で罪人としての自分のほんとうの自我を発見することが出来るように祈ります。
?.ユダヤ人の罪(2:17-29)
2章17-20節をご覧ください。「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」とあります。自分をユダヤ人ととなえる人たちに与えられた御言葉です。ユダヤ人のように宗教的な人、自分は真面目に生きているつもりだと思っている人々に与えられる御言葉です。彼らは特別な考えを持っています。優越感を持っていて偉そうに行動します。教会でもいろいろ勉強して教えている人たちに見られます。自分は盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しています。ところが、彼らはどれほど神様を愛しているでしょうか。また、どれほど御言葉に従っているのでしょうか。それが問題です。
ある人は自分が麻生総理大臣のような人と知り合いであることを誇りに思っています。自分はあの有名人と知り合いだということをよく言う人もいます。誰も聞いていないのに、自分で自分が偉い人と知り合いであることを言い漏らすのです。自分がそのレベルの人だということを誇るのです。同様に、私たちは神様を教えながら、自分が神様と知り合いであることを誇りに思っています。自分がダニエルも、パウロも、ダビデも知っているんだということで自分を彼らのレベルに高くしてしまうのです。パウロは彼らが「自任している」と指摘しています。自分が知っている人、自分が教えている人物と同じレベルであるかのように思っているのです。さらに、自分は教えているから偉くて、教えられている人たちは盲人であり、愚かな者であるかのように思っていることです。ところが、ほんとうに、宗教的な人、教えている人たちは盲人の案内人なのでしょうか。愚かで幼稚な人々を真理の道に導く教師なのでしょうか。そのように見えるかも知りません。しかし、それは外見上の姿だけです。内側はよく分かりません。そこで、パウロは何と言いますか。
21-23節を読んでみましょう。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」ここに、自分が人を教えていると自任している人たちの問題が指摘されています。彼らには五つの問題があります。「自分自身を教えない問題」「盗む問題」「姦淫する問題」「偶像崇拝の問題」「律法を違反している問題」です。これらの問題は一般の人々にとっても大きな問題です。しかし、これらの問題について知っていて教えながら自分も同じことを行なっているならそれこそ大きな問題です。それは人をだますことであるだけではなく、自分をだまし、神様をだましてしまう恐ろしい罪だからです。私たちが御言葉を教えることは素晴らしいですが、それによって自分をごまかすようなことをしないように気をつけなければなりません。私たちは教えることによって私たちが救われるのではありません。私たちは、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われます。イエス・キリストは私の罪のために、私の咎のために、あの荒削りの十字架につけられました。私を罪から、永遠のさばきから救うために死んでくださいました。よみに下られ、3日目に死者の中からよみがえられました。その復活の日が主日です。ですから、私たちは主日礼拝に来る時も、ただ礼拝があるから、自分が担当している奉仕があるからではなく、神様の御前でへりくだり、罪人の心で出てくるべきです。
私は学生の時、3人の友だちがいましたが、「今日はあの子がいないね。」と言いながら可愛い女の子のことをよく言いました。牧者になった時は、だれがもっと多く兄弟姉妹たちを連れて来たのかということで競走し、フェローシップのリーダーになった時は他のフェローシップと競走しました。その競走のためによく祈り、霊的に成長した面もありますが、心の関心が神様と自分の罪よりも人のことにあったのです。ところが、今はどうでしょうか。私はこのメッセージを準備しながら、自分の罪を悔い改めることより、どうすれば良いメッセージを伝えることばかり考えていたことに気づかされました。人を教えながら自分を教えることは怠けていたのです。しかし、礼拝は講演会ではありません。もちろん、メッセンジャーは最善のメッセージを準備しなければなりませんが、まず、悔いた心で神様をあがめ、神様に礼拝することが大切なのです。生活の中で気づかされた罪を悔い改め、まだ気づいていない自分の罪でも神様に御前で悔い改める謙虚な心で礼拝をささげることが大切なのです。
事実、罪人たちが砕かれた心、悔いた心で集まり、礼拝するところが教会です。神様の御前で罪人である自覚がなく、悔い改めがなければ私の行ないも、偉大な業績も、立派な地位も無意味なものです。
20世紀最大の伝道者であるビリ・グラハム牧師はこう言いました。「私が救われるのは、私が数十万人の人を主に導いたからではありません。私が罪人であるから神様の御前で救われた。」そうです。私たちが神様の御前で誇れるものは何もありません。忠実な牧者だから、宣教師だから、神学博士だから神様が大目に見てくれるのではありません。むしろ、自分の行ない、自分の身分、自分の知識のゆえに高慢になってしまうなら異邦人の中で聖なる神様の御名を汚してしまいます。
24節をご覧ください。「これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。」とあります。高慢と偽善的な生活が及ぼす悪影響は恐ろしいものです。そのようなクリスチャンのゆえに、聖なる神の御名が汚されています。ノンクリスチャンはクリスチャンに品格ある生活を期待しています。言うまでもなく、牧者や宣教師たちにも高い品格と言葉遣いを期待しているでしょう。それで、少しでもクリスチャンらしくない生活、牧者や宣教師らしくない生活をすると、キリスト教に対して悪口を言います。牧師や宣教師によって神の教会が悪く言われるのです。結局、それは神様の御名が汚されていることになります。ですから、偉そうなことを言わないで、ただイエス・キリストを信じることによって生きなければなりません。つまり、自分を誇るのではなく、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださるイエス様に感謝します。たとい、私たちの罪が紅のように赤くても羊の毛のようにしてくださるイエス・キリストの十字架の恵みに、ただ感謝するのです。その感謝から心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして神様を愛することです。
私たちにとって一番大切なのは、私たちの罪を赦してくださるイエス様との関係性です。イエス様との関係性が良くなければ、私たちの行ないも、身分も、割礼も、洗礼も重要ではありません。自分が罪人である自覚、その謙虚な心からイエス・キリストの十字架の贖いに感謝し、その十字架の恵みのゆえに神様を愛する愛の関係性こそ私たちが大切にしなければならないことです。私たちが本当に謙遜になって自分の罪を悔い改め、神様に感謝する生活をするなら、そこから力も出てきます。
先日、ラジオでWBC世界フライ級タイトルマッチ内藤と選手の話を聞いたのですが、彼の話に感動しました。彼は一時、タイの選手との対決で負けたのですが、ただ34秒で倒れたそうです。それで、日本の恥だといわれていたそうです。でも、彼は「こんな俺でも応援してくれる人がいる。こんな俺でも・・・」ということに気づかされた時、力が出て頑張ることができたと言いました。私は世界チャンピオンが言う「こんな俺でも・・・」ということばに感動したのです。その謙虚な心が世界一にならせたのだなあと思いました。私たちが本当に神様の御前で「こんな俺でも赦してくださった。こんなに惨めな罪人でも赦してくださった、こんな俺を応援してくださる神様がおられる。」という思いで生きると、本当に力ある生活ができるでしょう。しかし、自分がクリスチャンだから、バプテスマを受けたから、牧者や宣教師だからと言って外見上の姿に頼っているなら、その生活には何の意味もなくなってしまいます。
25-29節を読んでみましょう。「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」とあります。
割礼とは、ユダヤ人が神様との契約のしるしとして受けています。創世記17:10-12を見ると「次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。」とあります。ユダヤ人は割礼を受ける自分たちこそ、アブラハムの子孫として神様の選ばれた民だと思っていました。しかし、割礼を受けているからアブラハムの子孫ではなく、アブラハムの子孫としてのしるしが割礼です。ですからパウロが言っているとおりに「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」心の割礼とは新約時代において聖霊によるバプテスマです。それは第一に罪の汚れからきよめられることです。コロサイ人への手紙2:11-12節を見ると「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によってキリストとともによみがえらされたのです。」とあります。私たちは体の割礼よりも、聖霊の働きによって心からイエス・キリストの十字架の死と復活を信じるなら、その信仰によって割礼を受けた者になります。罪の汚れからきよめられた神様の子ともになるのです。そしてその結果として心を尽くし、精神を尽くしして神様を愛するようになります。このような心の割礼を受けた者こそがほんとうのイスラエル、真の神の民です。聖霊によってイエス・キリストを信じ、きよめられて神様を愛するなら、その人は神様の子どもとして永遠に生きるようになります。
?.すべての人が罪の下にある(3:1-20)
先ほど2章の終わりにパウロはユダヤ人の自尊心を粉々に砕きました。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。」と述べたのです。それに対してユダヤ人なら、当然なこととして言えることがあります。「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。(3:1)」ということです。私たちも言えることです。「私たちが御言葉をゆだねられていること、バプテスマを受けていることにどんな益があるのですか。」ということです。それに対してパウロは何と答えていますか。
2-3節をご覧ください。「それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。」ここで、パウロはユダヤ人の特権について語っています。この特権についても後で9章でも述べられます。9章4,5節を開いて見ましょう。「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」何と素晴らしい特権でしょうか。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。キリストまでも人としては彼らから出られたのです。何よりも、パウロは彼らにいろいろな御言葉をゆだねられていることこそ、最大の特権であることを証しています。
では、この特別に特権づけられたユダヤ人が不真実だからと言って、そのために神様の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。人々には何でも神様のせいにする癖があります。それで、神様があんなに大きな特権が与えたのに、彼らが罪を犯しているのは、神様の間違いではないかというのです。しかし、彼らだけではなく、すべての人が皆不真実であって信じるに足りないとしても神様だけは真実であられるお方です。
自分の目に見えないから太陽が無くなったと言えるでしょうか。人が神様を信じないからと言って神様がどこかに出かけるでしょうか。パウロが言っているように、絶対にそんなことはありません。4節をご覧ください。「絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。人間は御言葉に従うことによって正しいとされるし、従わなかった時にはさばかれます。それによって神様の正しさ、正義が現われます。神様は人の行ないに関係なく、勝利を得られるのです。こう言いますと、議論が好きな人は、またと質問するでしょう。「私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、私たちの不義も神様の義を明らかにするために必要ではないか」というようなことを言うのです。しかし、パウロは言います。
5節をご覧ください。「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。」とあります。これに対しては「絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。」と断定的な結論を持って答えています。さらに、あり得る質問に対してもパウロは言っています。
7節をご覧ください。「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。」とあります。ほんとうに詭弁的な質問です。ユダの裏切りによってイエス様が十字架につけられましたが、その十字架の死によって人類を救われたのだからユダが悪くないと言っている人のような詭弁です。人々は自分の罪を素直に認めて悔い改めたくないからいろいろな詭弁的な質問をします。特に、自分を偉そうに思っている人、劣等感や高慢のために悔い改めたがらない人たちはさまざまな詭弁を持って質問をします。そこで、パウロは言います。「もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。(8b)」
このように、パウロは異邦人、ユダヤ人の罪、宗教的に教える地位を持っている人々の罪までも指摘してから結論的に宣言します。
9、10節をご一緒に読んでみましょう。「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」
ここで、パウロは「私たちは他の者にまさっているのでしょうか。」と問いかけています。今までパウロは異邦人の罪について、ユダヤ人の罪について、ユダヤ人の中でもプライドの高い人々の罪について述べてきました。では「私たちはどうなのか?」ということです。私たちも、この世の罪についてよく話します。「新聞を見ると悪いことばかりね。」といいます。そこでパウロは「では、私たちは他の者にまさっているのでしょうか。」と問いかけているのです。そして、パウロは「決してそうではありません。」と宣言しています。そうです。ユダヤ人もギリシャ人も、私たちも例外なく、すべての人が罪の下にあります。「義人はいない。ひとりもいない。」と書いてあるとおりです。真面目に生きている人、社会的な地位のある人、人々を教えている人などは自分が罪人であることを認めることが難しいかも知れません。むしろ、自分は比較的に義人であると主張したくなるかも知れません。しかし、義人はいません。ひとりもいません。すべての人が罪の下にあります。11-20節は罪の下にある人間の状態について述べています。ですから、私たちは謙遜になって自分の罪を認め、悔い改めなければなりません。旧約聖書を見ると、らい病にかかっているナアマンという将軍がいました。彼は自分の病の治療のためにさまざまな手段を使ってみましたが出来ませんでした。ところが、ある日ユダヤ人の女中から病を癒す力を持っているエリシャのことを聞いてエリシャに行きました。彼はエリシャが将軍である自分を丁寧にもてなし、病の癒しのために按手してくださると期待しました。ところが、エリシャは丁寧に迎えて按手するのではなく、ヨルダン川に七度体を洗うように言いました。そこで、ナアマンは憤り、帰ろうとしました。その時、部下が「わが父よ。あの預言者が、もしも、難しいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行きます。その時、彼はほんとうに自尊心が砕かれたでしょう。服を脱ぐ時、らい病で汚れている体がどんなに恥ずかしかったでしょうか。でも彼は言われたとおりにしました。すると、彼の体は元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなりました。
結論的に、私たちも汚れている自分の罪を謙遜に認めて言い表すなら、十字架の血潮によってきれいに洗われます。キリストに血によって私たちはきよめられ、救われて義人となります。イエス様が私たちのために十字架にかかって貴い御血を流され、死んでくださったからです。義人はいない、ひとりもいないこの世を救うために十字架にかかって死んでくださったイエス様の愛と犠牲を心から感謝します。