2008年ローマ人への手紙第6講

ただ、神の恵みにより

御言葉:ローマ人への手紙3:21?3:31
要 節:ローマ人への手紙3:24「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 先週、私たちは「義人はいない。ひとりもいない。」ということについて学びました。パウロは1章の18節からずっと3章の20節まで異邦人とユダヤ人の罪について話しました。それは全世界が「自分も罪人だ」ということを知るようになるためでした。即ち、「律法によってはただ罪の意識が生じる」のであります(3章20節)。律法は決して無意味なものではありませんが、これによっては救われないのです。ではどうやって私たち人間は救われるのでしょうか。どうやって義と認められるでしょうか。パウロは今日の御言葉を通して私たちがどうやって義と認められるのか、すなわち、どうやって救われるのかについて教えてくれます。特に、3章21-26節を通してローマ人への手紙の主題である福音をまとめています。
この時間、私たちは福音の中でも「福音のエキス」のようなものを学ぶことが出来るのです。ここだけが福音をよくまとめた唯一の箇所ではあるとは言えませんが、その中でも最も重要な箇所の一つであります。どうか、私たちが聖書の中でも最も大切であるといえる福音真理を悟って神様の恵みに心から感謝し、ただ、信仰によって生きる者となりますように祈ります。
 
21-22節を読んでみましょう。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」
先ほども話したように、パウロは1章18節からずっと異邦人とユダヤ人の罪について話しました。それが全世界が「自分も罪人だ」ということを知るようにためでした。では、皆さんどうでしょうか。パウロが目的したとおりに先週まで学んだローマ人への手紙を通して「自分も罪人だ」ということを知るようになったでしょうか。だれでも心の一番深いところまで行くと、目を覆いたくなるような汚れに気づかせられることでしょう。罪が多い人は言葉も多くなりますが、それは自分の罪を隠すためでしょう。ある牧師先生は人がよく傷つけられることも隠れた罪のためだと言いました。自分の中に罪がなく、正しく生きているなら、何を言われても弁解する必要がなく、傷つけられる必要もありません。自分の弱さ、自分の罪を認めたくないからいろいろな理論を作って弁明しますし、自分の自尊心のために傷つけられるのです。しかし、自分に正直になってみると、自分がそんなに偉くない人間であることが分かります。私たちはパウロのように「私は、ほんとうに惨めな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるでしょう。」と言わざるを得なくなります。事実、私たち人間はそのように惨めなものです。聖書が言っているとおりに義人はいません。ひとりもいません。いくら律法を行うために闘争しても惨めな罪人の姿が現わされるだけです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです(20)。「しかし、今は」どうですか。
パウロは「しかし、今は、律法とは別に。」と言っています。ユダヤ人が最も大切にして来た律法とは別に何かがあることを宣言しています。それはイエス・キリストのことです。すなわち、主イエス・キリストがこの世に来られて、救いのみわざを完全に成し遂げて、天に昇り、御父の右に着座された時を指して、パウロは「今は」と言っているのです。歴史の根本的変革の時、大転換期を宣言しています。律法による世界とは根本的に違うイエス・キリストによる世界があるということです。
新約聖書の中でこの「しかし、今は」という言い方は何回も何回も使われていますが、それはキリストによって今までとは全く違う新しい事、全世界を変える大いなるみわざが成されたからです。パウロは、自分が全世界の全歴史の中で歴史の根本的変革の時代に生きていることを日々体験していたことでしょう。そして、それがどんなに大切なのかということを伝えているのです。主イエス・キリスト以前の時代の歴史と主イエス・キリスト以後の時代の歴史は、根本的に違うものです。イエス・キリストが来られる前のBC時代は律法に支配されていました。しかし、今は歴史のすべてが変えられました。イエス様がこの世に来て、十字架上で死んでよみがえって、天に戻られたからです。それで、パウロは「しかし、今は・・・神の義が示された」と宣言しています。「イエス・キリストによって今までとは違う、今までよりもずっと深くて広い意味で、神の義が示された」のです。
これは私たちが本気で新鮮な衝撃を受けるべきことです。神様ご自身が惨めな罪人である私たちのために人となって世の来てくださいました。しかも、私たちのために十字架にかかって死んでくださったのです。そのことがパウロの「しかし、今は」という言い方の中に含まれています。この「しかし、今」という時が、すべてを変えるのです。
私たちにとってもそうです。過去、私たちは「義人はいない、ひとりのいない」世の中にいました。自分の罪のために苦しみ、悩み、悲しんでいました。しかも、自分の力では罪の問題が解決できず、罪の罰を受けて滅んでいく者でした。しかし、今はイエス・キリストの十字架と復活によって変えられているのです。それだから、2008年10月12日という「今」に意味があります。今は律法とは別に、しかも律法と律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されたからです。パウロはモーセを通して与えられた律法とは別に人間にもたらされた新しい救いの啓示があったという事実を示しています。しかも、それはモーセを通して与えられた律法とは全く違うものではありません。その律法と預言者によってあかししている「神の義」です。
律法を守り行なうかどうかによって裁かれる義ではなく、それとは関係なく義と認められる「神の義」です。人の行ないよって左右される人の義ではなく、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。パウロは今まですべての人は罪人であることを証してきました。すべての人が罪を犯したのです。ですから、だれも神様からの栄誉を受けることが出来ません。ユダヤ人は神からの栄誉を受けることが出来るし、異邦人は出来ないというようなことはありません。日本人にも、中国人にも、韓国人にも同じです。何の差別もありません。律法の行ないによって義と認められるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められるからです。律法の行ないによると、すべての人は、罪を犯しました。だれも神様からの栄誉を受けることが出来ないのです。ただ、信仰によってのみ神様からの栄誉を受けることが出来ます。信仰によってのみ「神の義」が満たされて私たちは救われるのです。では私たちは何を信じなければなりませんか。
24、25節をご一緒に読んでみましょう。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」
パウロがここで非常に強調しているポイントは「神の恵みにより」「キリスト・イエスによる贖いのゆえに」「価なしに義と認められる」と言うことです。「恵みにより」という言葉と「価なしに」と言う言葉は、ある意味で内容的に同じ意味を持っています。そこで「ただ、神の恵みにより」という言葉を中心に皆さんとともに考えて見たいと思います。
聖書全体を要約する言葉は「愛」であると言えるでしょう。では福音全体を一言で要約する言葉とは何でしょうか。それは「恵み」であると言えます。「恵み」とはローマ人への手紙だけでも25回ほど使われています。パウロがこの手紙の冒頭にも、結びにも挨拶の言葉として使っているほどです。「恵みが・・・あなたがたの上にありますように」(1:7)。そして「どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように」(16:20)とあります。この恵みは、私たちが生まれる前から私たちのために備えられています。「恵みにより」と言っているのは、救いは100%神様が一方的に私たちに与えてくださるものだということです。私たちの救いは、私たちにただで与えられるという意味においてのみ「価なし」なのです。そして、それは私たちにただで与えられるために神様がその代価を払われたことでもあります。神様は、ご自分の御恵みにより、私たちの罪の贖いの代価を喜んで一方的に支払ってくださいました。それがキリスト・イエスによる贖いです。
ここで、恵みにより、価なしに義と認められること、すなわちただ恵みによる救いについてもっと深く考えて見たいと思います。私が高校生の時にうちの学校に、ほんとうに尊敬する神父先生がいました。イタリアからの宣教師でしたが、あの先生は何の罪も犯さずに生きているように見えました。それで、私には牧者や宣教師になることは、あの先生のようになることだという思いがあります。その思いのゆえに、自分もきよく正しく生きなようと決心しています。今まで何回も何回も決心を繰り返したものです。時々「昼は日のように、夜は月のように、そのように生きられないか」と歌いながら決心するものです。しかし、1日もその考えを保つことが出来ない、30分も出来ない人間であります。生活の中で自分の罪を深く見るときに、自分がどんなにどうしようもない罪深い人間なのかに気づかせられるのです。先週も私は自分がいかに罪深い者なのかと言うことに深く気づかせられました。私は次男と一緒に学校の説明会に行くことにしていました。そのために自分の計画も調整しました。ところが、いきなり次男が行きたくないと言うのです。いくら説得しても「行きたくない」と言いますし、私が言う言葉に対して反抗しました。すると、私は心から憤り、激しい怒りを抑えることができず道の上でも子どもを殴り、蹴飛ばしたくなりました。このままでは自分を抑えることが出来ないほどになったので子どもに「自分勝手にしろう」と言ってしまいました。「お前がそうならあの中学校に行かなくてもいいよ。」という思いで手放してしまいました。後で箱根山に行って祈りながらわれに返ったのですが、ほんとうに自己中心的で悪質な自分の心に気づかせられました。このような罪の問題は私の決心や行ないによって全く解決することが出来ません。恵みでなければ、救いの可能性すらないのです。神様の一方的な恵みによるものだからこそ私のような者も救われています。
何よりもこの恵みの計画は、世界の基が据えられる以前の永遠の昔に始まるものです。神様は私たちの救いを計画され、私たちをご自分のものとすべく選び、選んだ者をキリストと同じ姿に変えられるように予定してくださったのです。その恵みのゆえに、私たちにイエス・キリストのうちに留まっているなら少しでも変えられていきます。実を結ぶ人生になります。ただ神様の恵みによって栄光から栄光へと変えられていくのです。
それゆえ、「恵みにより、価なしに私たちは義と認められる」とパウロが言う時、それは救いの偉大さと素晴らしさだけではなく、神様の恵みでなければ全く救われる可能性がない私たちの罪の深さも指しているのです。罪人の子孫として生まれ、罪に溺れてしまった私たちは、神様の一方的な恵みによるのでなければ決して救われることはありません。しかし、神様はそのような永遠な愛と御恵みを持って私たちに救いを与えてくださいます。これは無限な意味を持つ救いです。
私たちの人生は80年、90年、あるいは100年生きるものです。もしかすると、60年、50年、あるいは30年だけかも知れません。ところが、この世の中にしばらくいて、それから神様の永遠のエルサレムに行き、永遠に神様とともに生活するその無限な意味を持つのが救いです。それは永遠に終わることはありません。
私たちが静かにその意味を瞑想するならば、このような救いを私たちに与えてくださった神様の大いなる御恵みを深く感じられるはずです。同時に、この「恵み」とい言葉が私たちにとってどんなに尊い言葉なのかを知ることができると思います。それだから、パウロは挨拶するときに、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」と言っていたでしょう。このような素晴らしい神様の御恵みによって救われたということをパウロは挨拶の言葉に用いるのです。挨拶においてさえ、それがどんなに深い話なのかを思わされるのです。そういう深い意味を考えながら私たちも隣人と挨拶しましょう。「神様の御恵みがともにありますように。」
一方的な恵みによって罪深い、惨めな私たちを救ってくださった神様に感謝しなければなりません。同時に、私たちにただ与えるために神様が払われた大きな犠牲も覚えなければなりません。私たちはキリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるからです。イエス・キリスト私たちの代わりに罪の代価を支払ってくださいました。それがイエス・キリストによる贖いです。この言葉は当時の奴隷制度を背景にして使われた言葉です。奴隷は自らの力によっては奴隷の身分から免れることができません。必ず誰かが代価を払ってくれなければ奴隷の身分から解放されることができません。ここで人間は奴隷状態であることがわかります。イエス様は「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)と言われました。私たちはどんなに正しい社会、罪の社会を求めているでしょうか。警察も刑務所も要らない社会を求めています。しかし、清い生活を求めながら、情欲の罪を犯し、「むさぼるな」と言いながらむさぼっています。それは人間が利己心の奴隷、妬みの奴隷、偽りの奴隷、お金の奴隷、貪欲の奴隷になっているからです。奴隷なので自分の力ではそこから解放されることができず、心ならず罪を犯しているのです。神様はこのような罪人を救うためにイエス・キリストを購いの代価としてお与えになりました。私達が罪から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです(?ペテロ1:18,19)。このイエス様によって私達は罪の奴隷から解放されました。なぜなら、イエス様が私達の罪の代価をすべて払ってくださったからです。購い主なるイエス様に感謝します。ではイエス・キリストはどのようにして私たちを罪の奴隷から贖ってくださいましたか。
3:25a節をご覧下さい。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」「なだめの供え物」とは、旧約の祭司制度を背景にしています。年に一度大贖罪日になると、大祭司は動物の血を注ぐことによって自分と民の罪をきよめました。これは神様と人間を和解させる犠牲のいけにえであり、和解のいけにえでした。この供え物によって神様との関係が和解されるようになりました。
和解の関係は人の間でもとても大切です。家で夫婦の間に和解関係が崩れると、その家庭に喜びも幸せも失ってしまいます。私にとって一番幸せを感じるところは家ですし、その中でも家内の隣です。しかし、和解関係が崩れて不和状態になると寂しくなります。平安もなくなります。同様に、神様と私たちとの和解関係が崩れると、私たちのたましいはどうなるでしょうか。平安と喜びの中で生きられるでしょうか。りっぱな家で高価な服を着て美味しいものを食べながら暮らしても不安な生活が続くでしょう。落ち着かない生活が続くようになってしまいます。ですから、神様と和解することが何よりも最優先的にしなければならない重要な問題です。そういうわけで旧約時代には祭司が人間の罪を購うために牛や羊などを犠牲にしてその血を祭壇に注ぎました。しかし、この動物の血は不完全なものでした。その効力は一時的であり、制限があったので根本的な解決策にはなりませんでした。それは来るべき影に過ぎませんでした。ところが、神様は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それで、イエス様は人となって世に来られ、世の罪を取り除く神の小羊として血を流されました。イエス様は茨の冠をかぶらせ血を流されました。なだめの供え物として鞭に打たれて血を流されました。両手と両足に太い釘が打ち込まれて十字架につけられ血を流されました。このようにイエス様はご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです(ヘブル9:12)。このようにして私達の緋のように赤い罪を雪のように白くしてくださいました。紅のように赤い罪を羊の毛のようにしてくださいました。このようにイエス・キリストの血には神様と私たちとの和解関係を回復させる力があります。私たちはいつでも、どこでもこのイエス様の血の力を信じるならその信仰によって神様の御前に出て行き、罪の赦しを受けることができます。神様と和解して神様に愛され、神様に祝福される人生を生きるようになるのです。それによって神様の義も現わされるようになります。
25b,26節をご覧下さい。「それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」
イエス様が十字架上で流された血は、私たちの罪がどれほどひどいものであるかと、神様がどれほど私たちを愛してくださったかを現しているものです。神様の義と愛が一番よく現れているのが、このイエス様の十字架です。神様は愛する一人子を十字架につけるほど罪を憎まれました。また、愛する一人子を十字架につけるほど罪人を愛してくださいました。神様が私達の罪を購うために一人子イエス様をお与えになりました。誰でもこのイエス様を信じる者は罪の奴隷から解放され、神様の子供となります。この時間、神様が私達のために用意してくださった救い主イエス・キリストを心の中に迎え入れることができるように祈ります。

 27、28節をご覧ください。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」とあります。結局、私たちは律法の行ないによってではなく、ただ信仰の原理によって救われるので、救いを誇ることが出来ません。ただ、神様の恵みに感謝し、神様に栄光を帰すべきです。
 29、30節をご覧ください。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。。」信仰によって救われるから、ユダヤ人だけではなく、異邦人も救われます。この神様は一つの民族だけを救われる神様ではなく、全世界を救われる世界的な神様です。
 31節をご覧ください。「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」
 ただ神様の恵みによって、信仰によって救われるといいますと、律法を無効にしてしまうのではないかと誤解する可能性があります。それに対してパウロは「絶対にそんなことはありません。」と言い切りました。神様はイエス様の十字架によって律法の代価を全部払うようになさいました。律法の要求を満たされたのです。そして、イエス様を信じて救われると、聖霊によって生まれ変わった人が律法を確立して行きます。内村鑑三「キリストが十字架を通して施された救いにあずかられてから善に対する義務は喜びに変り、罪を犯すことはこの上もない苦痛になった。善を愛するから善を行なうようになったし、悪を憎むから悪を行なわないようになった。律法はもはや重荷にならなかったし、使徒ヨハネの言葉も理解するようになった。「神を愛することは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(?ヨハネ5:3)。

 結論としてただ神様の恵みにより、信仰によって救われるようにしてくださった主の恵みを感謝し、主の御言葉を愛して守ることが出来るように祈ります。