2008年ローマ人への手紙第9講
キリストにあって生きた者
御言葉:ローマ人への手紙6:1?23
要 節:ローマ人への手紙6:11「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
先週、私たちは信仰によって義と認められた者たちにある平和と望みについて学びました。ここで、今までの内容をまとめて見ると、パウロは挨拶の言葉から始めて3章20節までで、なぜ私たちには救いが必要なのかを説明しました。すなわち、人間は罪人であること、そして、救いの必要性を説明しました。そして3章21節から5章の終りまで、パウロは義と認められることをずっと説明してきたわけです。罪のゆえに死ぬべきであった私たちが、罪赦されて、主イエス・キリストの恵みによって義と認められました。義と認められた私たちはイエス・キリストによる平和と望みを持っています。これは律法にまさる恵みであって私たちは今、恵みによって支配されている幸せなものです。もはや罪の下にいる者ではありません。罪から解放された義のしもべです。では、義のしもべとして生きるクリスチャンはどのように生きるべきでしょうか。パウロは本文の御言葉を通して私たちクリスチャンがどのようにして聖化して行くべきかを教えています。つまり、キリストにあって生きた者としての生活について教えています。どうか、御言葉を通して霊的に成長し、聖なる実を結んで行く生き方を学ぶことが出来るように祈ります。
1節をご覧ください。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」とあります。この問いかけは5章20節に対する質問です。そこでパウロは「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いました。つまり、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言ったのです。それに対してパウロは、「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」と問いかけているのです。では、皆さんはどう答えられるでしょうか。まさか、恵みが増し加わるために、私は罪の中にとどまります。」とは答えないでしょう。わざと「神様の恵みに甘えよう」と思っている人もいないと思います。しかし、実際の生活においてはどうでしょうか。自分は罪の中にとどまっていること、安逸にとど持っていることを全く許していないと言えるでしょうか。「恵みに対して甘えてもよい」という無律法主義的な考え方も持っているのではないかと言うことです。
昔の教会にはそういう無律法主義者たちがいました。コリント人への手紙を読んで見ると、コリント教会にもそういう人たちがいました。聖餐式に集まるときに酔っ払ったり、教会の中にひどい罪があるのに取り扱わなかったりしていました。また、黙示録2,3章を読んで見てもそのようなことがありました。サルデスの教会は「生きているとされているが、実は死んでいる。」と言われていました(黙示録3:2)。自分の罪を悔い改めて罪と戦って成長することも容易なことではなかった状況を言い訳にして、彼らは恵みに甘えていたのです。しかし、そのような生き方は非難されるべきです。どんな口実があっても罪の中にとどまっていてはならないのです。そこで、パウロは何と答えていますか。
2節をご一緒に読んでみましょう。「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」ここで、パウロははっきりと「絶対にそんなことはありません。」と言っています。「確かに、救いは全く恵みによって与えられます。しかし、それは生活はどうでもよいと言うことには決してならないのだ」と言っているのです。クリスチャンなのに正しく生きることについて深く考えもせず、あまり求めもせず、怠けてばかりいて、自分の罪のために口実をもうけたりしている人がいます。クリスチャンとして真剣に生きようとはしない人もいます。そのような罪人の自然な傾向に対してパウロは反対しているのです。ここで、パウロは、「ただ、恵みによって」ということに甘えるのではなく、自分のことを、神様の御前で真剣に考え、真剣に吟味し、真剣に取り扱うようにと励ましています。神様の御恵みに対して悪い意味で甘えたりしてはならないからです。一方的な恵みが与えられたのは、勝手な生き方をするためではなく、神様をもっと真剣に求める者となるためです。その理由は3-5節にあります。
ご一緒に3-5節を読んでみましょう。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」ここで、パウロは「救いは恵みによって与えられた」と言うことを考える時、「だからもう甘えてもいい」という結論をもつのではない理由を説明しています。「私はキリストともに死に、キリストとともに復活したのだから、新しい生き方をしなければならない。」ということです。キリストを信じて義と認められた者は、キリストにあって生きる者です。キリストとつぎ合わされたしるしとしてバプテスマがあります。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、罪に死に、新しい霊のいのちに生きるように変換されました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6-10節をご覧ください。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」とあります。パウロは「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた。」と言っています。ここで、「私たちの古い人」とは、先週学んだ5章の「アダムとキリスト」の話につながっています。ローマ人への手紙では「古い人と新しい人、古い契約と新しい契約、死といのち、罪と義、それらがみなペアになっています。そして、キリストとアダムとは契約の代表者であります。つまり、古い人はアダムにある自分であり、新しい人はキリストにある自分と言う基本的な違いを表わしています。ですから、「古い人がキリストともに十字架につけられた」という時、「そのアダムにある自分がキリストともに十字架上で死んだ」ということを具体的に説明しているものです。
十字架を見上げてそれを信じる者は、「罪のからだ」、この肉体ではなく、また罪の行ないあるいは罪の見である犯罪でもなく、その根である罪の根、即ち罪そのものの本体が滅びました。これから、もはや私たちが罪の奴隷になることはないのです。パウロがこの手紙を書いている時、奴隷は死ぬまで解放されない状況でした。死によってのみ、奴隷から完全に解放されたのです。そして、アダムからの罪の遺伝性を持っている古い人も同じことです。その先には「死」しかありません。死ななければ罪の奴隷から解放されることはないのです。ところが、こんな人間の代わりにイエス・キリストが十字架につけられて死なれたのです。ですから、イエス・キリストの十字架を信じてキリストとともに十字架につけられた身分の者は、「罪から完全に解放された者」で、自由があります。そして、キリストとともに死んだ者はまた、キリストとともに生きることにもなります。そして、よみがえった者に対しては罪はもはや力を持てません。キリストが罪に対して一度死に、神様に生きる者によみがえって、もはや死なれないからです。
「キリストと一緒に死んで一緒によみがえる」という二つのことをパウロはずっと一緒にしています。キリストと共に生きること、キリストと共によみがえることはとても大切なことです。ここで「よみがえる」という言葉には将来の意味もあるし、キリストが復活したときにキリストと共に「よみがえった」という意味もあります。毎日の生活において新しい歩みをするということは、復活のいのちの歩みです。私たちは毎日の生活に適用して生きるべきです。そして未来の意味があります。やがてイエス様が再臨される時、死んだ者は完全によみがえりますし、生きている者は携挙されて天から降りてこられるイエス様を迎えるようになります。そういう意味において「一緒に死んで一緒によみがえった」といっているのです。十字架で死んで後よみがえったということは、古い自分と新しい自分が今自分の中に共存しているという意味ではありません。古い自分はもう死んでしまって存在していないのです。ただ、新しい自分の中にまだ罪が残っているので、罪の戦いがあります。新しい自分はまだ“完成品”ではないからです。新しい自分は、今から成長して、本当に主イエス・キリストに似た者となります。そのために毎日頑張って新しいいのちの歩みに励みます。ここで、大切なのは、まず、私たちは古い自分がもう死んで切り離されたということがはっきりと認識されなければならないということです。そのように考えなければならないのです。そして実際にそのように行なわなければなりません。
アウグスチヌスに対する有名なエピソードがあります。彼は若い時に放蕩息子でした。彼は遊女との間に私生児まで生みました。しかし、母モニカの涙の祈りによって悔い改めて偉大な神様のしもべとして新しく生まれ変わりました。ある日、彼は昔放蕩していた時にかよっていた町に入りました。すると彼を知っていた遊女達が近寄って「一緒に遊びましょう」と誘いました。その時、彼は言いました。「人違いです。過去のアウグスチヌスはすでに死にました。」私たちも過去の古い人はキリストとともにすでに死んでしまったことをはっきり知らなければなりません。時々、私は仕事を後回ししてしまっている自分に対してしようがないと思います。過去、怠け者でノロノロしている人間だったからしようがないと思うのです。しかし、御言葉に照らして考えてみると過去の鄭台棟は死にました。イエス・キリストの十字架の死とともに死んだのです。そして、キリストの復活とともに生き返りました。再創造されました。名前も鄭ダニエルです。イエス・キリストを信じる皆さんも同じです。アダムにある古い人は死にました。今はキリストとともに生きているのです。
11節をご一緒に読んでみましょう。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」ここで、私たちがどういう考え方、どんな認識を持って生きるべきかをはっきりと教えています。私たちは自分に対して「今、自分の中に古い自分と新しい自分の両方があって戦っている」という認識していると、混乱します。罪に対する戦いは、精神分裂症にならないとしても、きわめて弱いものとなるのではないでしょうか。「やはり自分は弱い者だ」、「生い立ち、育ちが違うからしようがない」と思ってしまいます。自分が怠けても罪を犯しても弱い自分だからと言って自分に対して口実を言ってしまいます。しかし、私たちは古い人ではありません。罪に対しては死んだ者です。ですから、私たちは常に、「古い自分はもう死んでしまった」と考えなければなりません。そして、クリスチャンにとって、それは厳然たる事実なのです。「私は、もう新しい人になった」と考えなければなりません。私たちこそ真の新人類です。神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者なのです。それが「新しくなった」ということです。「私はそういう者である」ということを深く自覚することができるように祈ります。過去、イスラエル人はエジプトから解放されたのですが、なかなか自己認識が変わりませんでした。奴隷根性が残っていました。よくつぶやき、何でも指導者のせいにし、神様のせいにしていました。聖なる国民としての自己認識が足りなかったのです。しかし、彼らは聖なる国民であり、祭司の王でありました。私たちもイエス・キリストにあって生きた者としての認識が足りなければ死んだ者のように生きるようになります。奴隷根性のために感謝もせず、何度も人のせい、環境のせい、時代のせいにしながら不平不満の生活から解放されません。しかし、私たちは生きた者です。いのちにあふれている者です。何より私たちのうちにキリストのいのちが宿っています。永遠のいのちがあります。ですから、古い自分を忘れて新しい自分は「生きた者だ」と思って生きるべきなのです。
私たちは言語集団、民族的な背景、社会的地位、学歴、職業、性別などによって自己認識を持つものです。しかし、私たちの最も深いセルフ・アイデンティティーとは何でしょうか。試練や困難によって自分は本当の意味で何者であって何のために生きているのかと自問を責められるとき、私たちはどこに立ち帰るでしょうか。同じ言語を使っているから、同じ民族だからといって自分を支えてくれるでしょうか。人は神様によって創造され、神様との関係が最も根本的な関係です。キリストにあって何者であるのかということは私たちのアイデンティティーの最も重要な部分でなければなりません。私たちはイエス・キリストにあって生きた者としてクリスチャンなのだから、クリスチャンらしく考え、クリスチャンらしく振る舞い、クリスチャンらしく生きなければなりません。パウロはここで「何をするにしても、自分が生きた者であること、クリスチャンであることを忘れるな。」と言うことを言っているのです。
「罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者であることを認める」というとき、そこにはもっと深い意味もあります。大学や会社に入ったとき、自分の心の奥底で何かが変わったということはないでしょう。表面的なところが少し変わっただけで、心の一番深いところが根本的に変わって自分は別人になったというような変化はありません。パウロがここで言っているのは、「主イエス・キリストを信じて完全に新しく生まれ変わったことの意味を深く覚えつつ自分のことを考えなさい」ということです。自分がそのような者となった事実を認めなさい、と言うのです。そのように自分認識をすると、私たちの人生は実際に変わります。 正しい自己認識をしてからはどういう生活をするべきでしょうか。
12節をご覧下さい。「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」この御言葉は罪に対して死んだ私達ですが、実際には罪に支配されることもあることを教えてくれます。それは私達の身分は変わりましたが、心には罪の欲望があるからです。ですから私達は自分の体を罪の支配にゆだねて、その情欲に従っていけません。生きた者として積極的に励むべきことがあります。
13節をご覧下さい。「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」ここで手足とは手、足、目などの体だけではなく考え、生活、お金、若さなどをすべて言うことばです。ここで、パウロは私達の体を器として表現しました。器は道具、あるいは武器という意味です。道具はどのように使うかによって、不義の器にもなれるし、義の器にもなれます。同じナイフでも医者が使うと、人を生かす道具になりますが、強盗が使うと、人を殺す道具になります。同じ手でも同労者を抱きしめる道具にもなれるし、殴る道具にもなれます。ですから、私達の手足と体を誰に捧げるかは大切なことです。私たちが自分のからだを神様にささげるとどうなりますか。
14節をご覧下さい。「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」積極的に自分を義の器として捧げる時、罪は私達を支配することができません。罪から解放されて恵みある生活をするようになります。ここで私達は罪の力に勝てる秘訣を学ぶことができます。私達は罪を犯さないために禁欲的な生活をする必要も、弱い自分を自虐する必要もありません。また、消極的に律法を守ることによって罪から離れようとする必要もありません。むしろ積極的に聖霊に導かれて神様に自分を捧げる生活をすればいいです。ガラテヤ5:16,17節は次のように言っています。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」私達が罪を犯す暇なしに積極的に神様のために、神様を中心に生活する時、罪に打ち勝つことができます。
15、16節をご覧下さい。「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」ここでも、パウロは恵みに甘えて生きていてならないことを教えています。人が淫乱な欲望に一度二度服従すれば、それを繰り返さなくてはならなくなり、結局淫乱の奴隷になってしまいます。反対に、祈り生活に一度、二度従順すれば、繰り返して従順するようになり、祈りのしもべになります。このように人は服従する相手の奴隷になります。私たちがキリストの奴隷、御言葉の奴隷、祈りの奴隷として生きることができるように祈ります。
17、18節をご覧下さい。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」ローマの聖徒達ももとは罪の奴隷でした。このような彼らが神様の福音を信じることによって、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。この御言葉からどうやって罪の奴隷が義の奴隷になれるかを学ぶことができます。それは神様の福音を心から信じることによって可能です。それに対してヨハネの福音書8:32 でイエス様は言われました。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」私達が真理を知り、心から信じる時、罪から解放されて、自由になります。
22、23節をご覧下さい。「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ここでなぜ死を「罪から来る報酬」と言い、永遠のいのちを「神のくださる賜物」と言っているでしょうか。一所懸命罪に仕え、罪のために忠実に働いた結果、得る報酬は死です。それほど罪のために献身したのに、報酬として死が与えられるなんてひどいことです。しかし、神様のくださる賜物は、永遠のいのちです。これはあくまでも賜物です。私達が苦労して得たものではないのです。ただ神様の恵みによってプレゼントとして与えられるものです。
以上で私たちはキリスト・イエスの死と復活につぎ合わされて罪に対しては死に、神様に対しては生きた者だということが分かりました。どうか、イエス・キリストにあって生きた者だという自己認識を持って積極的に義の器として自分を神様に捧げる生活ができるように祈ります。