2008年ローマ人への手紙第10講

神の律法と罪の律法

御言葉:ローマ人への手紙7:1?25
要 節:ローマ人への手紙7:25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

先週は、収穫感謝祭礼拝を通してまことにいつくしみ深い主の恵みを感謝し、賛美することができたことを心から感謝します。すべての事について感謝することは、キリスト・イエスにあって神様が私たちに望んでおられることです。私たちが収穫感謝祭の日だけではなく、いつでも、どこでもすべての事について神様に感謝する生活ができるように祈ります。
今日は、ローマ人への手紙に戻って「神の律法と罪の律法」について学びたいと思います。先々週、私たちは6章の御言葉を通して「キリストにあって生きた者」であることを学びました。私たちは、いつもキリスト・イエスにあって生きた者だと思うべきです。そして生きた者だからこそ、私たちの手足を義の器として神様にささげる生活をしなければなりません。なぜなら、私たちは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。では律法の下にはなく、恵みの下にあるということはどういうことなのでしょうか。7章の御言葉を通して律法から解放されたクリスチャンの身分、律法の役割、「神の律法と罪の律法」との関係について学びたいと思います。この学びを通して私たちの信仰がますます成長するように祈ります。

?.律法から解放されたクリスチャンの身分(7:1-12)
1節をご覧ください。「それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。・・私は律法を知っている人々に言っているのです。・・」とあります。法の拘束力と支配力は人が生きている期間だけに権限を持ちます。これは法学部を卒業しなかったとしても知っていることでしょう。死んだ人に対しては権限を持つことができません。パウロはこの事実を夫の律法に縛られている妻のことを例えにして説明しています。
2、3節をご覧ください。「夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。」とあります。ここで、パウロは私たちが律法から自由になったことを説明しています。
お嬢さんの学校と言われる女子高、女子大学を卒業したある女性が立派な男に見える律法さんと結婚しました。男の世界をよく知らなかった彼女は、自分もある宣教師夫婦のようにきっと幸せな生活ができると思いました。事実、一緒に生活して見ると、律法さんはとても立派な人でした。それで、自分もこの人のように立派な妻になろうと思い、一生懸命に夫に仕えました。夫より早く起きてお祈りをし、出来立てのご飯と美味しい料理をして仕えました。夫が職場から帰る前は部屋の掃除もきれいにして置きました。ところが、夫は完璧主義者なので、ゴミ一つでも部屋に落ちているのが見つかったら大変なことになりました。外出から帰りが遅くなると、夫から怒られました。同窓会に行って「うちの旦那、律法は素晴らしいよ。」誇って来たにもかかわらず、律法さんは妻に自由を許しませんでした。ただ高いレベルの決まりを守ることだけを要求しました。それでも、彼女は一生懸命律法さんの要求を満足させようとしましたが、律法さんがあまりにも完璧な人だったので、それを満足させることができませんでした。いくら立派な夫であっても、完璧に夫に従わなければならない生活は幸せになりませんでした。外見上は良い夫婦のように見られても夫に拘束されていて全く自由がない生活は苦しくなりました。彼女はこれ以上我慢できないと思われて律法さんから離れようとしました。しかし、律法さんと結婚した以上夫に関する律法から自由になることができませんでした。いい人を紹介してもらっても自分の夫から離れて行くことはできませんでした。夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるからです。仕方なく、葛藤し、苦しみながらも夫の律法に縛られていなければなりませんでした。夫が死なない限り、不自由な生活を続けなければなりません。しかし、あの完璧な律法さんは死にません。結局、彼女が自由になるためには彼女自身が死ぬしかありません。このたとえで夫は律法であり、妻は私たちクリスチャンです。私たちは生きている間、律法の支配下にあります。高いレベルを要求する律法の支配下で私たちは罪に定められ、責められて絶望し、苦しまなければなりました。しかも、私たちの力ではその律法の支配から解放されることができません。人間の夫は妻より先に死ぬ時もありますが、律法の夫が人より先に死ぬことはないからです。私が死なない限り、律法から解放されて自由になることができないのです。ところが、こんな私たちの身代わりにイエス・キリストが死んでくださいました。
4a節をご覧ください。「私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。」とあります。私たちはキリストの十字架の死とともに律法に対して死にました。私たちはキリストと合体して律法に対して死んだので律法から解放されたのです。昔、パウロがこの手紙を書いている当時のローマでは、昔の日本のように、妻が夫に従わない時は夫が妻を手打ちにすることがあったと言われています。同様に夫である律法は律法に従順である私たち人間を手打ちし、殺そうとしていました。それなのに、イエス・キリストが天から降りて来られ、私たちの代わりに死んでくださいました。ですから、私たちは律法と死別し、完全に自由な身になりました。そして、今は死者の中からよみがえられたイエス様と再婚するようになりました。
4bをご覧ください。「それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。」とあります。私たちは死者の中からよみがえられたイエス様と結ばれて新しい結婚生活を始めるようになったのです。イエス様は恵みさんです。イエス様は律法さんとは違って私たちの弱さをよく理解し同情してくださいます。私たちが過ちを犯しても恵みによって赦し、私たちを貴く思い、愛してくださいます。私たちが実を結ぶ生活ができるように励まし、助けてくださいます。夫に愛される女性は幸せでしょう。その女性は夫を心から愛します。このように、信仰生活とは愛されて愛する生活です。愛する夫のために喜んで美味しい食事を用意、喜んで夫に仕える新婦のように、まことの夫であるイエス様を愛し、隣人を愛する生活がクリスチャンライフなのです。そして、愛すると愛の実を結ぶようになります。夫婦が真実に愛し合って結ばれる実が子どもです。私たちが神様を愛する神様のために実を結ぶようになります。愛は実として現われるのです。過去、私たちが肉にあったときは、律法のよる数々の罪の情欲が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし、イエス様と結婚している私たちはどうですか。
6節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」今はキリストを夫とし、今までのように律法に縛られて義務的にするのではなく、恵みに感じて新しい御霊の自由を持って仕えているのです。今までのように死のために実を結ぶのではなく、神様のために実を結ぶようになるのです。結局、キリストの死は私たちを罪から解放し、律法から解放してくださいました。こうして私たちは罪から解放されたのでその生涯と生活に自由があり、恵みに満ちたイエス様と共にいのちの実を結ぶようになりました。
結局、私たちは律法から自由になって、やっと神様のために実を結ぶ人生になったのです。それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。律法は悪いものでしょうか。パウロは「絶対にそんなことはありません。」と言います(7)。パウロは律法の役割を説明することによって律法は聖なるものであることを説明しています。
7b節をご覧ください。「ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない。』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」「むさぼってはならない。」は十戒の中で第9の戒めです。人々はむさぼりを悪く思いません。むさぼらないと金持ちにもなれないと思います。しかし、律法はむさぼりが罪であると言っています。私達はこのように律法がむさぼりに対して罪として定めているからそれが罪であることがわかります。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私達のうちにあらゆるむさぼりを引き起こします。これをジョン・バニヤンが書いた天路歴程では面白いたとえで説明しています。キリスト者がある部屋に入るとほこりがたくさん積もっていました。ところがある人がほうきでその部屋を掃きました。するとほこりが立ち上がって息ができなくて死にそうになりました。その時、他の人が水を注ぐときれいになりました。その部屋は腐敗した人間の心の状態を表しています。また、ほうきで掃いた人は律法さんであり、水を注した人は恵さんであるイエス様です。このように律法は罪を悟らせてくれる役割をしますが、罪の問題を解決してくれることはできません。また、私を息ができなくして死なせるものは律法ではなく罪なのです。ですから、律法自体は悪くありません。律法は聖なるものです。
人々は律法、聖書に興味を持って勉強します。ところが、聖書勉強をするにつれて段々自分が罪人であることを知るようになります。聖書の御言葉は鏡のように私たちの罪人としての姿を映してくれます。先週、私の顔に赤い傷ができていました。人々から目の下が赤くなったと言われました。でも、私は知りませんでした。人々から言われても顔がどうなっているのか、全くわかりませんでした。しかし、鏡を見てよくわかりました。ちょっと恥ずかしくなりました。ちょっと汚れていたからです。このように聖書を学ぶと自分が罪人であることを悟るようになり、恥ずかしくなります。心苦しくなります。それで多くの人々が最初は興味を持って聖書勉強を始めますが、自分の姿が映されると聖書勉強を避けようとします。しかし、聖書勉強を通して自分の罪を悟ることは大切なことです。なぜなら、罪を赦してくださるイエス様に出会うためにはそれが必要だからです。律法はこのように罪を悟らせてイエス様に導いてくれる家庭教師のようなものです。ですから、この律法は信仰生活において必要なものです。恵みの下にあるからといって、律法を無視すると恵みを恵みとして知ることができません。律法の役割は必ず必要なのです。

?.神の律法と罪の律法 (7:13-25)
14-24節には「私」という存在とともに罪が擬人化されて出ています。ここでの「私」とは神様が与えてくださった本来の自我を意味します。この自我は真実に生きることを願っています。神様の御言葉に従うことを願っています。善を行ないたいと願っています。たとえば、私達はイエス様が私達を愛してくださったことを学び、普段憎しみを持っていた兄弟を愛しようとします。ところが、その兄弟を見た瞬間愛したい心が消えてしまいます。どれくらいかというと、その兄弟が話すことも、歩く姿も、表情さえも気に入らなくなります。心は愛しようとしますが、心ならず憎くなり、その兄弟にやさしく声をかけることができません。その時、私たちに葛藤が生じます。なぜしたいと思うことはできないで自分がしたくないことをしているのか。
14節をご覧ください。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」とあります。私たちは罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。ですから、自分がしたいと思うことをしないで、自分が憎むことを行なっているのです。
17節をご覧下さい。「ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。」パウロはそれを通して自分のうちに善をしたいという願いはありますが、それを実行する力がないことがわかりました。すなわち、自分の力によっては兄弟を愛することができないことを悟ったのです。このような葛藤を通してパウロは一つの原理(principle)を悟りました。
21節をご覧下さい。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」ここで私達は人間はどんな存在であるのかを学ぶことができます。これは聖書的な人間観です。人間には善をしたいという本来の自我とそれができないようにする罪の勢力があります。ところが善をしたい力より罪の力がもっと強いのが問題です。23節で言っている法律は力、勢力を意味します。私の中にはいつも善と悪との戦いがあります。ところが、この戦いでいつも善が悪の勢力に負けてしまうのが問題です。兄弟を愛したくない人が誰もいないと思います。しかし、罪の勢力のために愛しようとしてもいつも失敗するのが問題です。ここでパウロは自分の力では何もできないことを悟り、絶望します。24節をご覧下さい。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」彼は自分が本当にみじめな存在であることを悟りました。彼はそのような絶望の中で自分を救ってくれる誰かに助けを求めました。彼はみじめな自分を救ってくれる対象を切なる心を持って探し求めました。
以上から内的な葛藤が自我発見と信仰の成長に影響を及ぼすことがわかります。二つの種類の葛藤があります。一つ目は人間関係から生じる葛藤であり、二つ目は神様と私との間に生じる信仰的な葛藤です。人間的な葛藤は無益です。イスラエルの初代王であったサウルはそのような無益な葛藤をした人です。ダビデがゴリヤテを一気に倒して帰って来た時、女達が「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と歌いました。サウルがこの歌の最初の部分だけを聞いた時は喜んだでしょう。女たちから「サウルは千を打ち。」と歌われる時、どんなに喜んだでしょうか。俺が千人も撃ち殺したぞと喜んだかも知れません。しかし、その次が問題でした。「ダビデは万を打った。」ということです。自分がダビデに比較されていたのです。人はだれでも、自分が他の人と比較されて無視されると、気持ちよくないでしょう。サウルは「ダビデは万を打った。」という言葉を聞いたその時からサウルは気持ちよくありませんでした。葛藤が生じました。そのまま謙遜に受け止めるか、ライバルになってダビデを殺すかとうい葛藤です。
結局、サウルはその人間的な葛藤から解放されず、ダビデを妬んでダビデを殺そうと追いかけるのに尊い人生を費やしてしまいました。最後には悪い霊にさいなまれながら惨めに死にました。このように人間的な葛藤は人をみじめにしてしまいます。ですから、このような葛藤が生じると私達はすぐ悔い改めなければなりません。そうしなければ受けた恵みも忘れてしまい、信仰の成長も止まってしまいます。結局神様の恵みから離れてみじめな人生を送るしかありません。しかし、パウロが体験した信仰的な葛藤は神様の御前に真実に生きようとする人に生じるものでした。ですから、これは自我発見と信仰の成長に有益なものです。私たちはこの葛藤によって自分がどれほど無力な者であり、どんな罪人であるかという自我を発見することができます。アウグスチヌス、ルータ、カルビンなど偉大な信仰の先輩達はこのような葛藤を通して自我を発見し、偉大な人として成長しました。ですからこのような葛藤が生じても恐れてはなりません。また、このような葛藤を避けてはなりません。このような葛藤なしには信仰の成長がないからです。信仰的な葛藤は自分が霊的に目を覚ましていることを現わしています。しかし、いくらこのような葛藤が有益なものだとしてもその葛藤自体に縛られてはなりません。このような葛藤が生じる時に自分に対しては早く絶望し、問題の解決者となられるイエス様を見上げることが大切です。また、人間的な葛藤が生じる時に信仰的な葛藤に切り替えることが必要です。私達は一人で信仰生活をすることはできません。必ずキリスト者の共同体を通して信仰生活ができます。
ところが、信仰生活をして見ると、様々な人々が集まっているので必ず人間的な葛藤が生じます。競争心や妬みが生じます。その時、私達はそれ自体に縛られて自虐したり兄弟を憎んだりしてはなりません。人間的な葛藤ばかりしていると、サタンの餌食になりやすいのです。しかし、この時、この問題を神様に持って行くことによって、信仰的な葛藤に切り替えることができます。神様の御前に出て行き、祈ることによって霊的に成長することができるのです。

25節をご一緒に読んでみましょう。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」パウロは暗闇の中から光を見つけました。彼はイエス様だけが罪と死の勢力から自分を救うことができる唯一の方であることがわかりました。
私たちはよく間違ってしまいます。キリストとともに十字架につけられたことを忘れて、自分で律法を行なおうとします。先々週、学んだように、私たちは罪に対してはすでに死んだ者です。ただ、神様に対してはキリスト・イエスにあって生きた者です。肉はすでに死んでいるのです。なのに、心では神様の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えて肉の生活を生かそうとしてするのです。しかし、私たちが必ず覚え、信じていなければならないのは、私たちが罪の律法に対して死んだという事実です。律法は必ず、私たちを殺すところまで導いて行きます。そして、「私はどうしようもない、救いようのない、みじめな人間だ。」と叫ばせるところまで導きます。そうして、救いをキリストに求めさせます。律法によって、私たちはキリストに追いやられて行きます。それで、私たちは自分に対して絶望し、死んでいきます。ところが、私たちは神様の一方的な恵みによって私たちの身代わりに死んでくださったイエス様を受け入れ、信じるようになりました。キリストの死と共に罪に対して、律法に対しては死んだのです。ですから、律法は悪くありませんが、私たちの主イエス・キリストのゆえに、私たちは律法に縛られている必要がありません。律法の支配から救われているからです。今はイエス・キリストによって神様との新しい関係、いのちの関係が形成されました。どうか、このイエス・キリストによって新しい結婚関係、キリストに結ばれた者であることを、確信して生きることができるように祈ります。