2008年 ルカの福音書第1講

貧しい人々に福音を伝える

御言葉:ルカ4:16-44
要 節:ルカ4:18、19「「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」

神様が20周年記念礼拝を大きく祝福してくださり感謝します。準備委員会を初め、同労者たちが心を尽くして仕えましたが、尊い主のしもべたちの上に神様の慰めと祝福が豊かにありますように祈ります。20年間と言っても、私にとってはあっという間の20年でしたが,多くのことがありました。神様の恵みと愛、皆さんの祈りとご協力に心から感謝し、また一からの出発のつもりで日本宣教のために励んでいこうと思います。特に新年度からは12名の学生牧者養成から霊的建築を始めて行こうとしていますが、神様はすでに学生たちを送ってくださいました。これからますます多くの学生たちがこのセンターに来て1:1聖書勉強をし、主日礼拝に参加することも信じて感謝します。皆さんも信じて心から望み、祈り続けてください。神様は私たちが信仰と祈りによって生きることを望んでおられます。個人の祈り課題も自分の心の板に書き記し、そのとおりになることを心から望んでください。箴言3:3節を見ると、「恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。」とあります。ヘブル11:1節には「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。私たちが望んでいる事がらは信仰によって自分のものにすることができるのです。それで、私たちは「♪見ゆるところは いかなるも われ早や得たりと 信じつつ 疑うことなく 歩みなば 必ずそのごとくならん♪」と歌っています。どうか、私たちが自分の目標、祈りの課題を明確にし、信仰と祈りによって大いなる神様の力と愛を体験して行くことができるように祈ります。
神様が私たちに今週からは新年度を迎えてルカの福音書を学ぶことにしてくださり感謝します。すでに何度も勉強した方が多いと思いますが、初めて学ぶ方とともに心を新たにして新しく深く学ぶことができるように祈ります。
この福音書の著者ルカは医者でした(コロサイ4:14)。彼は医者としての仕事をしながら福音伝道のために励み、イエス様のご生涯を綿密に調べてこの福音書を書き記しました。また、彼は使徒の働きも書き記していますがパウロの忠実な同労者でもありました(使徒16:章を見ると9節まで「彼ら」とありますが、11節から「私たち」となっています。)。彼が書いたルカの福音書にはイエス様が行なわれた、力あるわざと不思議としるしなどが記されてあります。使徒の働きにはイエス様が行なわれたことが使徒たちを通しても行なわれたみわざが記されてあります。つまり、ルカはイエス様が行なわれたみわざは使徒たちを通して、聖徒たちを通して続けられることを伝えようとしたのではないかと思われます。
ですから、私たちはルカの福音書に記されている出来事が私たちの間でも行なわれることを期待することができます。イエス様の力あるわざは使徒たちの時代にも、過去2000年間の人類歴史にもあったように、今の私の生活の中で、私たちの生活の中でも起こります。御言葉の力はイエス様の当時も、使徒たちの時も、今日も同じです。私たちはルカの福音書に記されているすばらしいイエス様のわざを体験して行くことができるのです。
そういうわけで、今年ルカの福音書を通して学ぶイエス様のすばらしいみわざが私たちの間でも行なわれることを期待し、信じて慕い求めたいと思います。
今日の御言葉にはイエス様がメシヤ、救い主として公の生涯を始められたことが記されてあります。ここで私たちはイエス様のアイデンティティと使命について学ぶことができます。

16節をご覧ください。「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。」とあります。当時、会堂はイスラエル人の宗教生活の中心地でした。所々にある会堂で律法を教えていました。人々は会堂に入って告白の祈りをささげ、それが終わるとシェマを朗読しました。シェマは申命記6章4,5節です。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と朗読したのです。その後、律法学者やラビたちが説教もしますが、説教者がいなければ律法の書を朗読しました。それは安息日ごとに行なわれましたが、イエス様はいつものとおり会堂にはいり、朗読しようとしてたたれました。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられました(17)。その書に何と書いてありましたか。
18、19節をご一緒に読んでみましょう(イエス様のお気持ちを考えながら・・・)。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、 主の恵みの年を告げ知らせるために。」驚くべきことに、その御言葉はメシヤ、救い主に関するイザヤの預言でした。イエス様がこの御言葉を朗読される時、人々の心はどうだったでしょうか。メシヤの権威ある御言葉が人々の心に響かれていったでしょう。人々は権威ある恵みの言葉に感動したようです。イエス様は書を巻き、係の者に渡してすわられましたが、会堂にいるみなの目がイエス様に注がれました。そこで、イエス様は人々にこう言って話し始められました。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」と。つまり、イエス様はイザヤ書に記されているそのメシヤがまさに自分自身であると宣言されたのです。同時に、イエス様はご自分の使命を明らかにしておられます。イエス様はメシヤとしての公の活動をはじめる時、ご自分の使命を確かめ、使命感を持ってご活動に当たって行かれたのです。
私たちも何かを始める時、自分の使命は何かを知り、使命感を持って事に当たって行くことはとても大切です。伝道者の生涯を始める時も、大学生活を始める時も、会社生活を始める時も、自分が成し遂げるべき使命を見つけて、使命感を持って事に当たって行くことです。私たちが自分の使命を知り、使命感を持つようになると、人生の方向を提示してくれるビジョンと価値観も持つようになります。さらに、自分の長期、短期の目標を立てる基本方針を持つことになります。すると、自分の時間、才能、そしてエネルギーを最大限に活用していくことができます。イエス様は「貧しい人々に福音を伝える」という使命、それに対する使命感があったからこそ、それに合わせて行動し、ただ3年間の公生涯を通してご自分の使命を完了なさいました。
「経営の神様」と呼ばれるほど日本屈指の経営者であった松下幸之助さんは言いました。「人間は、ときに迷ったり、おそれたり、心配したりするという弱い心を一面に持っている。だから、事を成すに当たって、ただ何となくやるというのでは、そういう弱い心が働いて、力強い行動が生まれてきにくい。けれども、そこに一つの使命を見出し、使命感を持って事に当たっていけば、そうした弱い心の持ち主といえども、非常に力強いものが生じてくる。つねに事に当たって、何のためにこれをするのかという使命感を持たねばならない。そしてそれをみずから持つとともに、人びとに訴えていくことが大事である。そこに“千万人といえども我ゆかん”の力強い姿が生まれるのである使命感を持つ事により弱い人間も強くなりえる。」と言うことです。私はこれを読んでなるほどと思いました。
私たちは新しいセンターで新学期を迎えましたが、自分の使命を確かめてみましょう。そして何事にも使命感を持って事に当たって行くことができるように祈ります。ではイエス様の使命とは何でしょうか。もう一度18、19節をご覧ください。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、 主の恵みの年を告げ知らせるために。」とあります。イエス様の使命は貧しい人々に福音を伝えることです。「貧しい人々」とは、どういう人たちなのでしょう。ナザレは山の中の小さな貧しい村でした。イエス様の父親のヨセフも貧しい大工でした。しかし村人たちは、イエス様の言われる「貧しい人々」ではなかったようです。
22節をご覧ください。「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。」とあります。最初、イエス様の話を喜んで聞いていた彼らでしたが、途中から、ヨセフの子の彼の言うことを信用しても良いものかと疑問を抱きました。さらに、23?29節を見ると、イエス様が彼らの不信仰を責められるとき、彼らは怒り出しイエス様を殺そうとしました。耳に快い「恵みのことば」は喜んで聞いても、自分たちの高ぶりを打ち砕くことばには腹を立てて福音を拒みました。彼らは恵みの言葉を聞いても御言葉に従って生きようと努力しませんでした。不信仰な生活態度を責められると、悔い改めるどころか、むしろそれを言い訳にして怒り出しました。彼らは貧しく見えてもイエス様の言われる「貧しい人々」ではありません。しかし、聞きにくいことばでもへりくだって聞く人たちはイエス様の言われた「貧しい人々」です。福音はそういう人々のものです。自分の置かれた環境が好ましくなくても、へりくだって福音を受け入れる人が貧しい人なのです。そういう人たちは福音を聞いて「恵みを受けた。感動した。」ということで終わりません。御言葉への従順を通してイエス様の愛と力を体験するようになります。人生に変化を経験し、自分の想像を超えた祝福と癒しも経験するようになります。
25、26節をご覧ください。「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。」とあります。シドンのサレプタにいたやもめ女のことはエリヤ時代の話です。当時、3年6ヶ月間雨が降りませんでした。全国に大ききんが起ったために食べ物もありませんでした。エリヤがシドンに行ってやもめに会いましたが、彼女には一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけでした。そこで彼女は「ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」と言いました。ところが、エリヤは彼女に言いました。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」やもめには決断の時がせまられました。とても難しい現実の状況で神様の約束を信じて主のしもべに従うことが不可能に思われたでしょう。しかし、彼女はエリヤのことばのとおりにしました?列17:15、16節に「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」とあります。彼女は従順を通して驚くべき祝福を受けるようになりました。当時多くのやもめがいましたが、心の貧しいやもめに主のしもべが遣わされたし、彼女は従順を通して神様の祝福を自分のものにしたのです。
 ある点で、私たちは皆がやもめ女のようにこの世で生きているでしょう。大飢饉ではなくても、世の中の状況は難しく、私たちが持っている所有は限定されています。体は疲れています。心も快く働けるような状態ではないかも知れません。しかし、今日、このやもめのように神様の御言葉に従う時、あふれるばかりの祝福を受けるようになります。従順できない状況の中でも従うことが従順です。持っているものがなく、食べるものさえ足りなくても、人々を助けるとき、神様が驚くばかりの恵みを施してくださるのです。
 27節をご覧ください。「また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」とあります。エリシャの時にナアマン将軍がいました。らい病にかかっていた彼は召し使いの話をエリシャの所に行きました。ところが、エリシャはナアマン将軍が来ても迎え入れようとしませんでした。ただ、「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」というだけでした。その話を聞くと、ナアマンは怒って帰途につきました。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言いました。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」結局、ナアマンは自分の考え、プライドを捨てて、エリシャの言ったとおりにしてきよくなりました。当時、らい病人がたくさんいましたが、謙遜に従ったナアマンだけがきよめられたのです。
 私たちもナアマンのように病気にかかる時があります。らい病でなくてもいろいろな病を患うときがあるのです。しかし、私たちが聖霊の導きを受け、ナアマンのようにへりくだって御言葉に従う人生を起きるなら、癒されます。
以上をまとめますと、私たちがやもめ女のように、またナアマン将軍のようにへりくだって御言葉に従うなら、福音は福音となります。捕らわれ人には赦免が宣布されます。盲人には目の開かれる恵みが施されます。しいたげられている人々は自由になります。ナザレの村人たちはイエス様を歓迎されませんでした。その理由はイエス様のことが慣れていたことにあるかも知れません。なぜなら、人々には慣れているものに対しては軽く思い、無視する癖があるからです。この間、私たちが旧約聖書申命記を勉強しましたが、その時、「新しい箇所を学ぶこともいいですね。」と言われる時がたびたびありました。どころが、ルカの福音書に対しては何も言われません。「ルカの福音書」は新約なので何度も聞いて慣れているからでしょう。私たちはこのように慣れていることを軽く思ってしまう、無視してしまうことがないように気を付けなければなければなりません。そうでなければ、ナザレの村人たちのようにイエス様を追い出してしまうこともありうるからです。私たちのところにすばらしい福音、本物の慰めを持って来て下さっているイエス様を追い出してしまうようなことがないように祈ります。
 31?37節をご覧ください。イエス様は、ガリラヤの町カペナウムに下られました。そして、安息日ごとに、人々を教えられました。イエス様は貧しい人々に福音を伝える使命を忠実に果たしておられました。汚れた悪霊につかれた人かれ悪霊を追い出されました。ここで、見ると、悪霊どもでさえ神は唯一であることを知り、恐れおののいています(ヤコブ2:19―9)。悪魔は「あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。」と言っています。しかし、信仰は単なる知識的なものではない。「信じる」とは信仰の従順の態度です。ただ知識的な信仰だけで、この真の信仰がないなら、恵みを受けることはできません。イエス様はただ一言を持って悪魔を追い出されたので、人々は驚きました。
 38?41節をご覧ください。イエス様はシモンのしゅうとめを助けてくださいました。しゅうとめは、ひどい熱で苦しんでいましたが、イエス様がその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひきました。彼女はすぐに立ち上がって人々をもてなし始めました。日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来ました。イエス様は、ひとりひとりに手を置いて、いやされました。しゅうとめの熱に対してはしかりつけられましたが、みもとに連れて来た人たちに対しては一人ひとりに手を置いて癒されました。今、私たちが人に手を置いて祈ると、癒されるみわざが起ります。先週、私は娘に手を置いて祈ったのですが、癒されました。もちろん病院に連れて行く時もあります。しかし、私たちはイエス様のように手を置いて祈るとき、主が癒してくださることも体験をするようになります。イエス様は日が暮れてもひとりひとりに手を置いて癒されるほどに働かれましたが、朝になると何をなさいましたか。 
42a節をご覧ください。「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。」とあります。イエス様は寂しい所に出て行かれました。福音書を読んでみると、イエス様は何度も寂しいの所へ行かれたことが分かります(マタイ14:13、15;マルコ1:35、45;マルコ6:31‐32)。そこでイエス様は祈られました。イエス様が使命を全うするようになったのは祈りがあったからです。祈りがイエス様の使命を支え、生涯をささえました。私たちも、自分の使命を全うするために、自分の目標を達成するために、祈らなければなりません。祈りは使命を全うする原動力です。私たちが自分の目標を達成し、世の中で誘惑に負けず、勝利するためにも祈らなければなりません。祈る人は何を教えても権威あるし、祈る人に癒しもあります。祈るところに献身的な奉仕もありますし、祈るところにリバイバルも起ります。祈りによって自分も、自分が仕えている兄弟姉妹たちも霊的に成長します。私たちが祈り続けると、神様は私たちをご自分の目的にふさわしい人として導いてくださいます。ですから、私たちクリスチャンはいつでも、どこでも祈り、、「私がこのように祈ったら、神様がこのように答えてくださった。」と証できるようにならなければなりません。
結論的に42b?44節をご一緒に読んでみましょう。「群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。」人々はイエス様が自分たちから離れて行かないように引き止めておこうとしました。しかし、イエス様は「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」と言われました。ご自分の使命に対する使命感を持ち、祈りをしておられたから人々の言葉に揺れませんでした。ただ、「神の国の福音を宣べ伝える」使命のために働かれました。使徒パウロもひたすら「異邦人に福音を伝える」という使命を全うする生涯を送りました。今、私たちの生活はどうでしょうか。神様が私を日本に送られた目的のとおりに生きているでしょうか。今、私の人生は神様から与えられた使命のとおりに進んでいるでしょうか。
自分に与えられた使命を確かめてみましょう。また、今日、神様が私に与えられた使命は何か、新年度が始まったこの四月に今年度に成し遂げるべき自分の使命は何かも見つけることができるように祈ります。そしてへりくだって貧しい人としてイエス様の福音を受け入れ、従う生活ができるように祈ります。