2008年 ルカの福音書第2講

あなたは人間をとるようになるのです。

御言葉:ルカの福音書 5:1-11
要 節:ルカの福音書 5:10bイエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

先週、私たちは「貧しい人々に福音を伝える」というイエス様の使命について学びました。イエス様は「どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。」という使命感に燃えておられました。人は使命感に燃えているとしたいことが多くなります。使命感がない人は「自分のしたいことは何だろう」とついつい「自分の好きなこと」「自分が得意なことの延長線でものを考えるでしょう。しかし、「何かのために、誰かのために何とかしなければ・・・」という使命感があればしたいことはおのずと見えて来るのです。子どものため、妻のため、愛する人のために、あるいは地域のため、学校のため、教会のため、世界のため・・・と思う人ほど行動をしています。だからボランティアや宣教師で海外へ行く人たちは、苦くても迷いなく危険地帯へ行きます。普通の人はあぶらないのに・・・とリスクや危険を先に考えるけど、使命感から入っている人は、その迷いがないのです。自分が死んでも人を生かすために働きます。イエス様はそう使命感から神の国の福音を宣べ伝えて人を生かす事をなさいました。同時に、イエス様は福音を伝え、人を生かすことのために人を召して育てられました。
今日の御言葉はイエス様が福音を伝え、人を生かす使命のために人を召されたことを教えてくれます。イエス様はお一人で働かれず、人を召して人とともに働らかれます。そのめにも人に関心を持って人を探し、人を召されます。ではイエス様が関心を持って召された人々はどんな人たちでしょうか。また、イエス様の召されに対する彼らの態度はどうだったでしょうか。

1,2節をご覧ください。「群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。」とあります。イエス様はゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の岸辺に立っておられましたときです。群衆がイエス様に押し迫るようにして神のことばを聞いていました。すばらしい光景です。群衆はイエス様に押し迫るようにして御言葉を聞くほど霊的に飢え渇いていました。その上、イエス様の教えは人々が押し迫るようにしてでも聞きたがるほどに恵みと力がありました。「飢え渇いている心に、恵みの御言葉が語られる」と、人々はどんなに感動するでしょうか。そういうところにいのちのみわざが起ります。弱っている人も、疲れている人も癒されていくでしょう。リバイバルが起るのです。
イエス様は大群衆に教えながらも、すぐ隣で仕事をしている漁師たちにも関心を持たれました。漁師たちは舟から降りて網を洗っていました。彼らは「群衆」と言われるほどの人々がイエス様の教えに耳を傾けているのにもかかわらず自分の仕事だけをしていたのです。しかも、彼らはイエス様のことを全然知らない人たちではありません。そこにいたペテロはすでにアンデレの紹介でイエス様を知っていました。先週、学んだように、イエス様は彼のしゅうとめをひどい熱から癒してくださいました。彼はイエス様を知り、イエス様の恵みを受けたのです。それにもかかわらず、人々がイエス様の教えを聞いている時に、彼は自分の仕事をしていました。こういう人を指して「恩知らずの人間」だというでしょう。しかし、イエス様は彼をあきらめませんでした。「恩知らずの人間だ」と責めることもなさいませんでした。むしろ、彼を助けるために彼にお願いしておられます。サマリヤの女と関係性を結び、彼女を助けるために「水を飲ませてください。」と頼まれたように、ペテロにも頼まれたのです。
3節をご覧ください。「イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。」とあります。そしてイエス様はすわって、舟から群衆を教えられました。イエス様は自ら出てきた人々だけではなく、自分の仕事をしていた漁師たちも御言葉を聞くことができるように、特にペテロを助けるために、ペテロの持ち舟にすわって、舟から群衆を教えられました。そして、話が終わると、イエス様はシモンに話しかけられました。イエス様は何と言われましたか。
4節をご一緒に読んでみましょう。「話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。」イエス様はシモン・ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。おそらく、この一言はペテロの人生において忘れられない御言葉になったと思います。また、この時が、彼にとって人生の転換期になったでしょう。人生の転換期に与えられる御言葉はなかなか忘れられないものです。
イエス様は愛する人たちに、深い関心を持って助けておられる人々に御言葉を与えてくださいます。イエス様ご自身のように、福音を伝えて人を生かす使命を果たすべき人たちが御言葉の力、御言葉への従順の力を体験するように助けられるのです。御言葉が与えられた時、それを受け入れて従うかどうか、私たち次第です。神様は無理やりに従わせるのではありません。ただ、従う人は御言葉への従順を通して大いなる神様の力を体験します。御言葉への従順を通して自分が神様の祝福を受けることはもちろんの自分の子孫も祝福されます。千代までも祝福されます。そういうわけで、神様も、イエス様も、いつも愛する人々に御言葉に聞き従う従順を求められます。イエス様もペテロたちを愛して彼らがイエス様の御言葉に耳を傾けるように、彼の持ち舟に乗って御言葉を教えられました。そして、彼に「「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言って従順を求められるのです。 ところが、私たちがイエス様の御言葉に素直に従うことはなかなか難しいでしょう。私たちに従順が求められる時、従わなくても良いような理由も思い浮かびます。 もちろん、従わなければならない理由も思い出されるでしょう。そこに私たちの葛藤がありますし、だからこそ信仰が求められます。では、ペテロにとってはイエス様の御言葉に従わなくても良いような理由は何でしょうか。 
第一に、ペテロはすでに夜通し働きました。夜通し働いたのにまた働きますかと言えるでしょう。第二に、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。 私も漁師の子どもですが、魚を取るには、夜間が最も良いです。その夜に一匹も取れなかったのに明るくなった朝に取れるはずがないでしょう。第三に、彼らはすでに舟から降りて網を洗っていました。仕事は終わったのです。第四に、彼らが知っているイエス様は大工の息子だし、自分たちは漁師です。自分の専門分野に対して関係ない人から言われることほど聞きづらいこともないでしょう。第五には体も疲れています。このほかにも数多い理由を取り上げることができるでしょう。しかし、従おうとすれば従える理由もあります。第一に、海は広く魚が多くいると言うことです。夜通し働きましたが、まだまだ網を降ろしていない面積がもっともっと広いです。第二に、網を洗うくらいの力だったら、網を降ろすこともできる力があると言うことです。第三に、彼らは漁師だからこそ、再び網を降ろすことができます。魚を取ることは大工よりも漁師のほうがよくできるはずです。だから、イエス様に「あなたがやってみてください」と言わないで自分でやってみることができるのです。第五に、ペテロはイエス様が自分のしゅうとめを癒してくださったことを経験しました。つまり、イエス様の力は経験したことがあるのです。そのことを考えれば不可能なことにも文句を言わないで挑戦することができるでしょう。第五に「夜は夜」「朝は朝」だという肯定的な考え方で挑戦してみることもできます。そのほかにもいろいろ考えられるでしょう。
とりあえず、従える理由があるし、従えないと言える理由があります。こう考えてみると従えそうに見えますが、また、いやだと思えば従いたくないと思うようになるでしょう。ですから、葛藤があります。悩みがあります。ペテロがどれくらい考えてから決断したのかはありませんが、従順を決断しました。そして行動しました。
5節をご一緒に読んでみましょう。「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」確かにペテロは従順できない状況を知らせています。夜通し働きましたが、何一つとれなかったことです。彼の話はうそではありません。それが現実です。彼は疲れ切っていたでしょう。ですから、彼は「しようがないですよ。サヨナラ。」と言って帰ってもいいような状況なのです。漁師の子どもである私が判断してみても網を洗った以上、早く家に帰って奥さんがつくった温かいスープを飲んで休むべき状況です。しかし、彼の答えはどうでしたか。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言っています。彼は従うことができない現実を知っていましたが、それでもイエス様のおことばどおり、従いました。いきなり魚が数多く見えてきたから御言葉に従ったのではありません。何か兆しが見えたから御言葉に頼ったのではないのです。ただ、イエス様のおことばを最優先にして従いました。どうやってそれができたでしょうか。その理由は具体的に書いてありません。ただ、先ほど従える理由から考えてみると、それはイエス様のことを思い出したからだと思います。 
シモンは自分のしゅうとめのことを通してイエス様の御言葉の権威と力を間接的に体験していました。イエス様がしかりつけられると、しゅうとめの熱が下がりました。その場で起きてもてなしができたほどに回復されました。一度イエス様を経験したのです。仕事のためにゲネサレ湖で行なわれていた朝の集会に参加することはできませんでしたが、自分に関心を持って自分の舟に乗って話をしてくださるイエス様に期待するようになったのです。一度経験したことに対してそれは過去のことだと片付けてしまうのではなく、しゅうとめに現われたイエス様の力が自分にも起こりうると思ったのです。すると、イエス様のおことばを信頼して従うことができました。
私たちも、過去経験したイエス様のことを忘れずに、イエス様を信頼するなら、イエス様の御言葉に従うことができます。イエス様に祈った時、熱が下がったことでも無視しないでイエス様を信頼するなら、過去より理解できない御言葉が与えられても、御言葉に従うことができます。過去より現実状況が厳しく、難しくてもイエス様に従うことができます。それによって私たちは大きく御言葉を体験し、さらに深い霊的な世界に入ることができます。
クリスチャンは何かイエス様のことを経験したからイエス様を信じて救われているはずです。小さなことでも大きなことでも、直接的にも、間接的にもイエス様を体験したこそクリスチャンになっているのです。ところが、多くのクリスチャンがその経験を忘れてしまうから、おことばへの信頼が薄くなってしまいます。自分が経験したイエス様のことを思い出してイエス様のおことばを信頼し、おことばに従うなら、今までの経験にまさる恵みを受けることができます。そういうことを通して私たちの信仰はさらに成長していきます。私たちはイエス様のみ言葉が自分に新しい変革を求め、新しいチャレンジを与えても、自分の考えのために、何も行動しない場合が多くあります。「お言葉ですが自分はこう思います」というわけです。そうではなく「自分の考えはこうですが、でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」といえる者になるように祈ります。ではシモンがイエス様の御言葉に従って網をおろした時、どんなことが起こりましたか。
6,7節をご覧ください。「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」とあります。ペテロが御言葉通りにして網を降ろすと、瞬間的に網の中に魚がいっぱいになりました。網は破れそうになりました。おびただしい魚のために、網を引き上げることができないほどでした。ペテロは急いで友達を呼びました。「オイ。ヤコブ、ヨハネ、ちょっと助けて・・・」。彼らは喜んで網を上げました。あまりにも嬉しくて踊りたくなるほどでした。本当に楽しい漁になりました。あっという間に魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになりました。大漁になったのです。
結局、ペテロはイエス様のおことばどおりに従う従順を通して不思議な神様の力を体験し、今までの経験にまさる神様の恵みを体験することができました。彼は従順を通して多くの信仰の先輩たちが経験した神様の力と祝福を経験したのです。アブラハムが経験したように、モーセ、ギデオン、サムエル、ダビデなどが経験したように、ペテロも経験して神様に用いられる器として成長していったのです。
張パウロ宣教師は会社に辞表を出したので今まで勤めている会社の社宅から引越しなければならなくなりました。それで教会の近くに引越して来ようとしました。それが神様の御旨であると思われたからです。ところが、現実的な状況は神様の御旨に従うことができない理由が数多くありました。第一に家賃の問題がありました。第二に、引越はめんどくさいことです。第三に部屋が狭くなります。第四に前の環境より汚くなることもありました。その他にはよく分かりませんがいろいろあるでしょう。一方、従わなければならない理由もあります。第一に今年の要節がマタイの福音書6:33節「だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。・・・」です。第二に子どものパウロのことを考えても教会の近くに引越したほうがいいです。このほかにもいろいろあるでしょう。その中で、パウロ宣教師、ヨハンナ宣教師の葛藤と悩みが続きました。一度センター前のマンションを契約しようとしましたが、家賃が高いと思われてやめたのですが、再び、センター前のマンションに入ろうとした時は不動産屋から怒られることもありました。結局は、「まず第一に神の国とその義を求めなさい。」という御言葉に従ってセンター前のマンションに引越することになりました。神様に感謝します。きっと、神様がその従順を祝福してくださると信じます。新しい家でますます神様が行なわれる力あるわざと不思議としるしを経験して行くでしょう。ペテロが舟いっぱいに満たしてくださる神様を経験したような経験をして行くのです。
ペテロは不思議な神様の力を経験した時、イエス様の御前で自分の姿も顧みるようになりました。自然世界、魚たちの世界までも支配しておられるイエス様の御前で自分の存在を考えるようになったのです。そこで、彼は何と言いましたか。
8、9節をご覧ください。シモン・ペテロはイエス様の足元にひれ伏して言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」彼がイエス様から話しかけられた時は「先生」と呼んでいました。「「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」と言っていたのです。しかし、今は「主よ。」呼んでいます。イエス様に対する姿勢が完全に変わっています。彼は御言葉通りに従う従順を通してイエス様は罪深い人間が近づくことができない「主」であり、自分は罪深い人間であることが分かりました。今までもイエス様を知っていたはずです。自分の兄弟アンデレにフィッシングされてイエス様にお会いしていました。自分のしゅうとめを助けてくださったことも知っていたはずです。でも、それはただ知識的に知っていることに過ぎませんでした。しかし、今回、彼はイエス様のお言葉通りに従う従順を通してイエス様が深い海の世界も、魚の世界も支配しておられる主であることが分かったのです。するとこの聖なるお方、イエス様の前にいることが恐くなりました。そこで、彼は「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」とお願いしています。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じでした。彼らは自分の罪深さに気づいたのです。ここで彼らはほんとうの意味でイエス様に出会っています。預言者イザヤは、主を見て、「ああ。私は、もうだめだ。」と言いました。ダニエルも、主の御姿を見て、「私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。(10:8)」と言いました。私たちは従順を通して神様を体験すると、自分の足りなさ、自分の罪を本当の意味で知るようになります。心に貧しさがおとずれるのです。そして貧しい人々に福音が伝えられます。では心が貧しくなっているペテロに伝えられた福音とは何でしょうか。
10b節をご一緒に読んでみましょう。「イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」「こわがらなくてもよい。」これは罪人に与えられる赦しの御声です。イエス様はシモンの過去を問わずに彼のすべての罪を赦してくださいました。そして、イエス様は、毎日ガリラヤ湖で漁をして魚をとっていたペテロに分かりやすく、彼が将来働くことについて教えてくださいました。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われたのです。「もし良かったら「人間をとる漁師になってみませんか」と聞いたのはありません。「あなたは人間をとるようになるのです。」とおっしゃいました。すると、ペテロはどうしましたか。
11節をご覧ください。「彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」とあります。主の御言葉に従うことによって神様の奇跡を経験したペテロは何もかも捨ててイエス様に従いました。ペテロと一緒に漁をしていたヨハネ、ヤコブも同じようにしました。彼はイエス様と同じ使命を持って人間をとる漁師として生きる新しい人生を出発したのです。
漁師の喜びは魚をとることです。海の中には目には見えませんが、たくさんの魚がいます。その魚をとるために網を降ろして、さかなを手に入れることが漁師の喜びです。そのように、この世界には、まだイエス様のことを知らない無数の人が生活しています。彼らに網を降ろすのではなく、イエスキリストの言葉を伝え、信じて救われる人間がたくさん与えられることは神様の喜びです。その喜びのために、イエス・キリストは人々に福音を伝え、いのちを生かす使命を果たされました。そして、ご自分の生涯をかけたその使命を果たしていく人を「人間をとる漁師」と表現されました。世の中には違う漁師もいます。人間に誤った、世界観、誤った神を信じさせている漁師もいます。そして、多くのさかながその網の中にかかって滅びています。しかしイエス・キリストは命を与える漁師です。命を奪う漁師ではありません。永遠の命を与え、人のいのちを生かす漁師なのです。実際にやがてキリストは私たちに永遠のいのちを与えるためにゴルゴダの丘の上で、ご自分の命をお与えになりました。私たちの罪と咎が赦されてこわがることなく、平安に生きるように、イエス様はゴルゴダの丘の上で荒削りの十字架にかかって死んでくださったのです。それで、今もイエス様を信じる者はいのちを得、豊かに得ることができます。そのいのちのみわざのために、イエス様は今日も、人間を取る漁師たちを用いられます。そして、今日も、神様はその聖なる使命のために働く漁師たちを探しておられます。群衆に教えながらもペテロに関心を以って話をかけられたように、イエス様は私たちにも至大な関心を持っておられます。そして、話を終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われたように、私たちにも「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われると思います。また、「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」も言っておられるでしょう。神様の関心と愛が注がれて神様に用いられる人生はほんとうに美しいです。
先週、UBFに信仰の先祖である金モーセ牧者が天に召されて「天国入城歓送式」が行なわれました。Mother  Barry宣教師をはじめ、世界中から多くの方たちが参加して地上でのお別れを惜しみながら天国入城を祝福しましたが、私はUBFホームページでお葬式の映像を通して大きな恵みを受けました。人間をとる漁師として勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したた牧者の人生は実にすばらしいと思いました。
ペテロのことを考えてみると、彼は生くさい魚の匂いがする生活をしてました。アンデレにフィッシングされてイエス様に会いましたが、相変わらず自分の仕事をしていました。御言葉通りに従う経験がなかった時は、イエス様に従うことができなかったのです。彼にはイエス様を押し迫るようにしてイエス様のおことばを聞いている群衆よりも霊的な希望がありませんでした。もし、彼が「「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」という御言葉に従わなかったなら、ただ魚を取る漁師の人生に終わったでしょう。今日も、何千人も参加する伝道集会に参加して恵みを受けて感動している人は数多くいます。しかし、人間を取る漁師としてすばらしい人生を生きている人は多くありません。素晴らしい音楽、すばらしいメッセージを通して恵みを受けますが、魚をとる自分の生活の中の従順がないからです。しかし、ペテロは御言葉への従順を通してイエス様を体験しました。その体験を通して彼はイエス様が単なる先生ではなく、主であると告白するようになりました。そして、人間をとる漁師としてすばらしい人生を生きるようになりました。
以上で私たちは二つのことを学ぶことができると思います。一つ目は従順です。ペテロは「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言いましたが、最後まで従うことは簡単ではなかったでしょう。御言葉は短いですが、岸辺から深みに漕ぎ出していく時間は長かったと思います。深みに漕ぎ出して行く時、やめたくなったかも知りません。しかし、彼は浅いところではなく、深みに漕ぎ出していきました。その間に、イエス様は何をしておられたでしょうか。ペテロがいろいろ葛藤しながら従って行く時、イエス様はおびただしい魚を集めておられたのではないでしょうか。申命記1:33をみると「 主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」とあります。神様は神様に従ってエジプトから出てきたイスラエルのために神様は宿営する場所を探しておられたのです。私たちが従う時、神様は私たちのために道を開き、私たちのために働いてくださるのです。ただ、従順は私たちが行なうことであり、奇跡のみわざは神様が行なわれることです。私たちが従うと、神様は私たちの期待を超えて行なわれます。
二つ目はイエス様はご自分と同じ使命を以って働く人として人間を取る漁師を探しておられるということです。イエス様は群衆を教えることで終わりませんでした。話が終わると、シモンに関心を示し、彼が御言葉を体験するように助けて人間を取る漁師にしてくださいました。私たちもイエス様が関心を持って助けておられる人です。イエス様は私たちに深い関心があってここまで導いてくださいました。イエス様の深い関心と愛を悟って、人間をとる漁師として召されるイエス様に従うことができるように祈ります。信仰によって御言葉に従う決断をし、決断のとおりに行なってイエス様を体験していく生活ができるように祈ります。そういう素晴らしい体験を通して信仰がますます成長し、人間をとる漁師として素晴らしい人生を生きることができるように祈ります。人間をとる漁師として勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通すことができるように祈ります。