2008年ルカの福音書 第4講(朴エズラ宣教師)
安息日にして良いこと
御言葉:ルカ6:1?19
要 節:ルカ6: 9「イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
先週、私たちは二人の病人を癒してくださるイエス様を通して、私たちが元気になることを願われるイエス様のお心について学びました。イエス様は私たちがイエス様の中で明るく、力強く生きることを切に願っておられます。
今日の本文は、安息日に起きた二つの事件と12使徒を召されたことが出てきます。イエス様はこのことを通して、ご自分が私たち人間のために安息日を制定された安息日の主であることを明らかにされました。
目が回るほど忙しい現代は、どこに行っても本当の安息、真の休みを得ることがなかなか難しいです。朝から晩まで、週末もない生活が強いられています。そこで、経営心理学の田尾雅夫先生は休めず働くしかない会社に隷属した人間の問題を取り上げて、『会社人間の研究』という本で、現代の会社人間の様々な諸症状を指摘しています。そして、その代案として『脱会社人間』という本を出し、組織べったりの会社人間からの脱皮を提言しています。しかし、こうした対応策は根本的な処方箋になりません。なぜなら、本当の安息がどこから来るか知らないからです。
イエス様は、今日の本文で、ご自分が安息日の主であることを明らかに示し、安息日を単なる形式として捉えて、人々を疲れさせる当事の宗教指導者たちの代わりに、本当の安息日の意味を伝えられる弟子たちを立てられました。私たちが本文の御言葉を通して、私たちのすべてをご存知、私たちの幸せのために与えられた安息日の本当の意味と、疲れさせる現代社会の中で、私たちがどのように生きるべきかを、イエス様の御言葉を通して教えていただく時間となりますように祈ります。
?。安息日の主であるイエス様
6章1?2節をご覧ください。イエス様の弟子たちは、イエス様と一緒に麦畑を通るとき、ひもじかったのか、麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていました。しかし、それを見ていたパリサイ人たちが、「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか」と非難しました。
パリサイ人たちは、刈り入れやもみがらふるいは、安息日にはやってはいけない仕事としてとらえていました。なので、弟子たちは当然、彼らに非難され、非常に困った状況に陥るところでした。
パリサイ人たちは、安息日をよく守るために、1261条の規則を作り、厳しく守っていました。律法を徹底的に守ろうとする生活は、外見上、彼らを敬虔にさせたかもしれませんが、心の奥底には自分はしっかり守っているという自己義と守っていない人を裁く心を生じさせました。そこで、律法の根本精神とも言える、人に対する愛がなく、人への批判と裁きで心はいつも騒いでいました。それに対してのイエス様の反応はどうでしたか。
3,4節をご覧ください。「イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
ダビデは当時サウルから逃げていましたが、あまりにもお腹がすいていたので、祭司以外の者は食べてはならない供えのパンを食べました。これは律法(レビ記24章8-9節)の御言葉を守らない行為でした。しかし、神様はこのようなダビデに対して、何も問題にされませんでした。何故ですか。それは神様が外面的に律法を守ることより神様との関係性、つまり彼の内面の中心をご覧になったからです。ダビデはサウルから逃げ回る最も辛い時にも、「私の心はゆるぎません」(詩篇57:7)と、心の中心はいつも神様にありました。このようにダビデの心の中心をご覧になる神様は、外面的な行為で彼を裁かれませんでした。しかし、パリサイ人たちの心は、神様に向かず、群衆から人気のあるイエス様に対する妬みと比較意識でいっぱいでした。
私たちが信仰生活で最も重要視すべき点は何でしょうか。それは、規則を守るために励むのではなく、どんなに辛い状況の中でも、心の中心から神様を愛し、神様との正しい関係性を持とうと努力することです。もしも、願わず罪に陥った時には絶望したり落胆することより、イエスさまの御前にあるがまま出ていき、悔い改め、イエス様をかたくつかむことです。聖書での“義人”とは、たくさんの律法を守る人ではなく、神様と正しい関係性を結んだ人です。神様が安息日を制定されたのも、神様との正しい関係を維持し、すべての人が本当の安息を得ることを願われたからです。
5節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」」
イエス様は神様と一緒に安息日を制定された安息日の主です。しかし、イエス様はご自分のためではなく、人間のために安息日を造られたのです。マルコ2:27で、イエス様は、「「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」」とはっきり宣言されました。神様は私たち人間のように疲れるはずがないですが、創造の歴史のあと、自ら模範を見せて7日目には休まれました。そして、私たち人間にも6日間は一生懸命働き、7日目は休むように言われました(出20:12)。さらには、人だけではなく、土地や動物さえも休むようにしました(出23:10-12)。神様は人間の脆弱さをよく理解し、安息日を定められたのです。人間は、6日間働いて、1日は休まないといけない存在です。リフレッシュが必要な存在です(出23:12)。神様は、私たちが過労せず、肉体的に、精神的に、霊的に元気に生きるように、日曜日には仕事を休んで教会で礼拝を捧げるようにしたのです。礼拝を捧げることで、私たちの疲れた体は休みを得るのみならず、命の御言葉によって、1週間溜まったストレスから解放され、リフレッシュされます。
このように人間の幸せのために、イエス様は自ら安息日をつくられたので、人間が作った安息日の規則によって影響されることはありません。ここで、重要なのは、安息日の規則ではなく、安息日の主であるイエス様とともに生きることです。安息日をよく守ることは、イエス様を心から愛し、仕え、従順し、礼拝することです。これは安息日にだけ限られたのではありません。私たちが積極的にイエス様を愛し、従おうとする時、規則に拘束されるのではなく、真の自由を味わうようになるのです。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)。私たちが、安息日の主であるイエス様のことばの中にとどまる生活を通して、形式の律法から解放され、誠に自由な信仰生活ができるように祈ります。
?。右手のなえた人を直されたイエス様
6節をご覧ください。「別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。」 別の安息日に、会堂に右手のなえた人がいました。彼は手に障害を持っていたので、いつも自意識と羞恥心の中で意気消沈した日々を過ごしていたでしょう。私は、手の指が一つない方が、その手を隠そうとすることを見たことがあります。しかし、この人は、完全に一つの手がなえてしまったので、どれほど心が萎縮されていたでしょうか。彼は、片手によって心もなえてしまったはずです。私たちの周りでも、外見上は、片手のなえた人はほとんどいませんが、心のなえた人は沢山いると思います。私たちの心は、不思議にも、強くても脆いものであり、本当に小さなことで心が傷つけられ、萎えてしまう場合があります。例えば、「何気なく言った周りの人の一言で、心が萎縮されて、対人関係がうまく行かない方もいます。」あるいは、「消極的な性格や家族間のトラブル、身体に対するコンプレックス、私のように父に対する恐れと、いくら食べても体重が増えない体質」のことで、心が萎えてしまうケースもあります。とくに、日本社会は、欧米社会に比べると、閉鎖的な社会だとよく言われています。著名な思想家、丸山真男先生は、日本社会は、一個の閉鎖的な「タコツボ」になっていると指摘しました。
こうした閉鎖的特徴は、外にストレスを発散できず、内側に溜まらせる傾向があります。外側は何の問題がないように見えますが、内側では複雑な人間関係からくるストレスで、心が萎えて、萎えて、すっかり萎えてしまうようにさせます。最近のニュースをみると、長男が母と兄弟3人を殺したり、親が子供を虐待したり、殺した事件など、とんでもない家族間の殺人が起きています。閉鎖的な人間関係の中で、溜まったストレスが、本来最も愛すべき身近な家族に爆発しているような気がします。こうした人々は、片手のなえた人のように、だれかの助けが必要です。
7節をご覧ください。「そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。」病んだ人々、助けが必要な人々を助ける立場の律法学者、パリサイ人たちは、右手のなえた人の心の痛みについては全く関心がありませんでした。ただ、片手の萎えた人を利用してイエス様をわなに陥れようとするだけでした。彼らは助けが必要な人々を助ける牧者ではなく、自分たちの利益ばかりを追求する利己的な者でした。人に対する愛情と憐みが全くありませんでした。そういった人たちがリーダーとなっている社会は本当に不幸な社会です。
8節をご覧ください。「イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った」。イエス様は、パリサイ人たちの考えをよく知っていながら、右手のなえた人を助けられました。イエス様は、右手のなえた人が、人の目を意識する点を助けられました。人の目を意識する瞬間、神様から与えられた本来の能力、長所が失われてしまいます。右手のなえた障害は、左の手で何とかカバー出来ますが、心がなえてしまうと、直すことが出来ないからです。右手のなえた人が、多くの人の前で立つことは、とても難しいことです。では、どんな点で難しいでしょうか。
まず、人の視線に打ち勝たなければならないからです。人間は目が天に向かうようになっていないので、常に周りの人々を意識しながら生きています。他人を意識しないなら、なえている右手の不便さだけを考えれば良いのですが、人はその不便さより、周りの人が自分をどう見ているか、どのように自分は照らされているか、などの自意識や恥ずかしさのため、片手のなえた人は体中の血流が逆に流れる気がしたでしょう。第二に、自分の中にある、本当に「直るか」という不信のささやきを捨てなければなりませんでした。しかし、彼は、人が自分をどう見るか、という自意識と不信を捨て、立ち上がりました。
9節をご一緒に読みたいと思います。「イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
イエス様は、立っている彼の前で、安息日はそもそもどんな日なのか、何をやるべきかをはっきり教えてくださいました。安息日にやってよいことは、善を行なうことであり、いのちを救うことです。
では、どのようにすれば、安息日に善を行い、いのちを救うことが出来ますか。まず、自分自身が主の御言葉によって生かされる必要があります。私たちは月曜日から土曜日まで自分に与えられた仕事や勉強、家事、子育てなどを一生懸命にしています。そこで、仕事や勉強などから来る心配や不安、人間関係などのストレスで魂は疲れ果てています。そうした自分の魂が安息日に語られる主の御言葉によって、まず生かされる必要があります。そのためには、私たちはたくさんの仕事の中で日曜日には、肉体的にも霊的にも安息ができるように優先順位をつける必要があります。土曜日の夜遅くまで仕事をやると、当然日曜日の朝教会に来ても1週間を過ごす力を得ることは難しいでしょう。
次に、安息日にしてよいことは、周りの疲れ果てている人々の魂を慰め、励まし、新しい力を得て一週間の出発ができるように助けることです。それが、善を行なうことであり、命を救うことなのです。
10節をご覧ください。「そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。」イエス様は、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われました。イエス様の御言葉には、拒めない力が入っていました。彼は、イエス様の御言葉にすなおに従って、手を伸ばしました。すると、驚くべきことに「彼の手が元どおりになりました。」イエス様の御言葉にすなおに従うだけで、彼を萎縮させていた「右手のなえた」問題が一瞬に解決されたのです。
彼がイエス様の声に従うのは非常に難しい状況でしたが、彼が周りの人々を見ないで、イエス様を見上げた時、従う勇気が与えられました。私たちが周りの環境や状況、人々を意識する時、自分にあるわずかな力さえも発揮することが出来ず、失ってしまいます。しかし、右手のなえた人がやったように、周りの人や状況、環境を見ないで、少し角度を上げて「天を仰ぎ見ましょう」。そこにイエス様がおられます。そのイエス様に、私たちのすべての悩み、苦しみ、不安などを委ねましょう。すると、いつのまにか、私たちを縛っていたすべての問題が少しずつ私たちから消え去っていくことを気づくようになると思います。
これは嘘のような話ですが、イエス様が来られる2000年前に、神様はその法則をイスラエルにはっきり示してくださいました。民数記21章4-9節を見ると、出エジプトしたイスラエル人は、食べ物、飲み物などの問題があるたびに、神様とモーセに逆らって文句を言いました。神様は彼らをエジプトの奴隷生活から救い出したにもかかわらず、不平不満ばかり言う彼らを訓練するしかなく、彼らは燃える蛇に噛まれるようになりました。燃える蛇に噛まれ、多くの人が死んだとき、彼らは悔い改めて、救いの道を与えてくださるようにモーセに切に頼みました。すると、神様はモーセに仰せられました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセはそれに従って、一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけました。しかし、不思議なことに、蛇が人を噛んでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きるようになったのです。理性的で論理的な人はこの方法は到底納得できないと考え、自分の力で燃える蛇から逃げようとしたでしょう。しかし、彼らはすべて死にました。しかし、青銅の蛇を仰ぎ見た人たちは、噛まれても生きたのです。
イエス様は、周りの人や状況、環境を見ないで、イエス様を仰ぎ見、イエス様の御言葉に従うように言われます。今、私たちはどっちを選択すべきでしょうか。イエス様を仰ぎますか。それとも、他人の視線を意識したり、惨めな自分の状況ばかり見て、無気力に生きますか。この時間、私たちが、右手のなえた人のように素直にイエス様を仰ぎ見ることができるように、切に祈ります。
私は、神様の恵みで研究者としての道を歩んでいますが、研究者生活の辛さは仕事と休みの区分がはっきりないことです。とくに、会社に通われる方も同じだと思いますが、原稿の締め切りに追われると、口からは自然にため息が出ます。そうすると、隣でそれを聞いたエステル宣教師が「感謝しなさいよ!」と一言コメントします。その瞬間、口から出ようとしたため息が、そのまま入ってしまいます。私は、今回のメッセージを準備する前に、信仰とは「心の視線を上げて、イエス様を仰ぎ見る」ことであることを新たに悟りました。「仰ぎ見る」と、すべての心配、不安が自然に消え去ることを体験しました。みなさまも、日々そういった体験ができるように祈ります。
11節をご覧ください。「すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った」。パリサイ人たちは、片手のなえた人が直る奇跡を目の前で見たにもかかわらず、イエス様に従うより、イエス様に対する妬みで怒り、イエス様を殺そうと話し合うようになりました。では、このような絶望的な状況の中で、イエス様は何をされたのですか。
?。12使徒を選ばれたイエス様
12節をご覧ください。「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」
いくら教えても、悟るどころか、ますますひどくなる、宗教指導者たちを考えると、イエス様は心痛くて、夜通して祈らざるを得ませんでした。私たちは、一生懸命努力しても、現状が変わらないと、諦めたくなります。しかし、イエス様は否定的ではなく肯定的に考えられ、祈りのなかで一つの方向を決められました。
13?16節をご一緒に読んでみましょう。「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、 ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」
イエスさまは、弟子たちを呼び寄せて、その中で12弟子を選び、使徒と名づけました。イエス様は、従わない人たちに対して、怒りを表すことより、助けが必要な人々のために、ご自分に従う謙遜な人たちを集めました。その中で、12弟子を使徒と任命しました。
12人は、全世界はおろか、イスラエルの国だけでも非常に小さな人数です。しかし、イエス様は、イスラエルの大多数の宗教指導者たちに希望がなかったとき、創造的少数者(Creative Minority)に注目しました。アーノルド・J. トインビーは、『歴史の研究』で、文明の成長は創造的個人(Creative Individual)と創造的少数者(Creative Minority)によってなし遂げられると言いました。
イエス様によって選ばれた12人は、職業も性格もばらばらでした。しかし、一つの共通点がありました。それは、彼らは素直にイエス様に従う人々であり、イエス様から学ぼうとする姿勢がありました。この学ぼうとする心がある時、すべての弱点と短所が克服され、イエス様の弟子となられたのです。イエス様も彼らの学ぼうとする姿勢を受け入れてくださり、彼らを育てられました。素直に従うこと、それがイエス様の弟子たちと、当時の宗教指導者たちの決定的な違いです。使徒たちは当時の宗教指導者たちのような知識と能力は全くなかったのですが、創造主であるイエス様に従うことで、全世界を変化させる「創造的少数者」となったのです。
17?19節をご覧ください。イエス様は選ばれた弟子たちと一緒に人々を助けるために行かれました。イエス様は、弟子たちとともに歩みながら、忍耐と希望を持って彼らを育てようとされました。この時間、私たちに希望を置いてくださるイエス様の御名を賛美します。私たちがこのイエス様を信じ、イエス様の御手に私たちの人生を委ねることが出来るように祈ります。このイエス様を信じ、どんな状況の中でも素直にイエス様に従うことができるように祈ります。