2008年ルカの福音書第5講  

青年よ。起きなさい。

御言葉:ルカの福音書7:1?17
要 節:ルカの福音書7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。

先週、私たちは安息日にしてよいことについて学びました。安息日は言葉のとおりに何の煩いもなく、くつろいで休む日です。私たち人間は医学的にも週に一日は休む必要があると言われます。何もしないでいる必要があるのです。しかし、私たちが善を行ない、いのちを救うことはしなければなりません。それこそ良い行いです。イエス様は安息日にも良い行いをなさいました。また、良い行ないをする12使徒をお立てになりました。UBF設立者の故李サムエル宣教師は2歳の時にお母さんが天に召されたために、とても悲しく辛い人生を生きていました。しかし、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって作られたことが分かった時に素晴らしい人生に変わりました。彼はエペソ2:10節「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」という御言葉を人生要節にして安息日にも良い行ないのために「Hard Working, Hard Study」をしました。それは今日世界90カ国にも広がっているUBF教会の土台となりました。そして今も世界中のUBFメンバーは「Hard Working, Hard Studyのスピリット」で宣教活動を続けています。
今日の御言葉には百人隊長の良い行ないが紹介されています。イエス様は彼の信仰を認め、祝福してくださり彼のしもべを救ってくださいました。また、すでに死んでしまったやもめの一人息子も救ってくださいました。ここで私たちはイエス様が喜ばれること、イエス様の働きを学ぶことができます。この時間、御言葉を通してイエス様に認められる信仰を学び、私たちをよく知っていてあわれんでくださるイエス様の御声を聞くことが出来るように祈ります。それによって私たちが癒され、生かされますように祈ります。

1,2節をご覧ください。ある百人隊長のことが記されてあります。百人隊長は100名の部下を率いる指揮官のことです。今の会社でも100名の部下がいる部長なら権限が大きいと思いますが、当時、ローマ軍団の百人隊長に与えられた権限も大きいものでした。特にユダヤのようなローマの植民地での百人隊長の権限は莫大なものでした。一方、当時「しもべ(奴隷)」は、「物を言う道具」と思われていました。奴隷は軽んじられていたのです。ところが、百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていました。このしもべは百人隊長に重んじられていましたが、それでもしもべはしもべです。「物を言う道具」に過ぎない存在だから、当時、ほとんどの百人隊長は病気のしもべを捨ててしまいました。しかし、本文の百人隊長はどうしましたか。
 3-5節をご覧ください。百人隊長は、イエス様のことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いしました。イエス様のもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言いまし。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」ここで、私たちは百人隊長の人柄について学ぶことができます。彼は部下の中でしもべにすぎない人であっても重んじていました。彼は自分の部下を愛していたのです。しかも、口先や言葉だけで愛するのではなく、真実と行ないによって愛していました。彼はしもべを助けるためにユダヤ人の長老たちをイエス様のもとに送りました。しもべのひとりを送ったのではなく、ユダヤ人の中でも長老たちを送ったのです。それは彼がイエス様を自分の上官よりも権威ある方として認め、尊敬していたからでしょう。また、イエス様のもとに送られたその人たちは熱心にお願いしています。ユダヤの長老たちがイエス様にお願いすることも珍しいことですが、熱心にお願いしているのは、それほど百人隊長が信頼されていることでしょう。事実、長老たちは言いました。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」と。彼は自分のしもべだけではなく、ユダヤの国民を愛していました。彼らのために会堂を建てることによってその愛を実践していました。それで、ユダヤの長老たちも彼らの話をよく聞き、彼のしもべのためにもイエス様に熱心にお願いするほどに彼を愛し、尊敬していたのです。
一般的に植民地の民は支配国の人々を嫌い、敵対します。当時のユダヤ人もローマ人を嫌い、敵対していました。言うまでもなく、ローマ軍人である百人隊長もユダヤ人から嫌われ、敵対されるべき立場に置かれていたのです。しかし、本文の百人隊長はユダヤ人に敵対されるどころか、愛され尊敬されていました。ここで、「愛する人は愛される」ということを学ぶことができます。もちろん、ほんとうに愛し続けてもなかなか分かってくれないと思われる時もあります。与え続けても与えられない時もあります。愛し続けたのに愛されるどころか、無視され、捨てられたと思われるほどに耐え難い苦しみもありません。しかし、真実な愛は通じるものです。敵対している国の人であっても愛し続けるならその愛は伝わっていくのです。おそらくローマ人の百人隊長がユダヤに派遣されて行った時、ユダヤ人は彼を喜んでくれなかったはずです。尊敬されるどころか、嫌われていたでしょう。ローマ人とユダヤ人の間には大きな隔たりがありました。お互いに理解しがたい文化的な違いもありました。考え方の違いもありました。言葉の違いもありました。しかし、百人隊長が真実に愛し続けると、ユダヤ人から愛され、尊敬されるようになりました。ユダヤ人のほうから助けてあげたい、彼のためなら何でもしてはげてと思うほどに信用される人になりました。心から愛される人になりました。
イエス様は私たち人間を愛して天から降りてこられました。私たちがまだ弱かった時に、罪人であった時、敵になっていたその時に、ご自分の驚くべき愛を現わされたのです。しかし、人々はその愛を分かってくれませんでした。聖書に「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった(ヨハネ1:10,11)」とあります。人々はイエス様を受け入れず十字架につけて殺してしまいました。ところが、それでもイエス様は私たち人間を愛し続けてくださいました。ユダヤ人はイエス様を殺したのですが、イエス様は私たちのために死んでくださったのです。ローマ5:8節は言います。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」そうです。イエス様は私たち人間のために死なれたのでご自分を十字架に釘付けてしまった人々のためにこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と祈ってくださったのです。ここにほんとうの愛、真実な愛があります。その愛によって人々は赦され、救われています。そして、人類歴史上誰よりも愛されています。去る2000年間イエス様を愛してイエス様のためにいのちを捨てた人は数え切れません。イエス様の愛が分かってイエス様を愛するためにいのちをかけている人々も数え切れません。
私たちも、百人隊長のように、イエス様のように愛し続けることができるように祈ります。たとえ、その愛を分かってくれなくても、自分の愛が裏切られてしまったように思われても愛し続けることができるように祈ります。特に宣教師たちは日本の国民を愛して日本宣教のために来ました。どうか、百人隊長のように国民を愛して、国民のために献身することができるように祈ります。

6b?8節をご一緒に読んでみましょう。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
ここに、百人隊長の謙遜がよく現れています。彼はイエス様の御前で、自分がどんなにみすぼらしく、卑しい存在であるかを悟っていました。彼は「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。」と言っています。この謙遜さは、神様の前での自分を深く知ることから生まれてきたものです。彼は人間的に見るととても魅力的な人です。地位も、権力もありますし、人柄も素晴らしい人です。しかし、彼は神様の前では自分が罪深く、汚れた者にすぎず、神様の恵みを受けることさえ相応しくないと自覚したのです。
聖書に「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける(箴言3:34)。」とあります。また「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。」(箴言11:2)ともあります。知恵はへりくだっている百人隊長とともにありました。もし、彼が「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。」と言って終わったならイエス様との関係はそこで終わったはずです。しかし、彼は「ただ、」「ただ、」と言って「おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」」と言いました。彼は最も大切なおことばを求めたのです。この世で一番知恵ある生き方は「おことば」をいただいてその権威に支配されることです。百人隊長はそれを信じて「おことば」求めました。これはほんとうに知恵ある求め方です。「ただ、おことばをいただかせてください。」という言葉にイエス様のおことばに対する信仰もよく表れています。空間的に離れていてもイエス様のお言葉にはすべてを支配している権威があると信じたのです。ではへりくだった百人隊長に授けれた恵みとは何ですか。
 9-10節を読んでみましょう。「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていた。」イエス様は驚かれ、ご自分の言葉に対する百人隊長の信仰を公におほめになりました。人々への愛、イエス様への尊敬と謙遜、さらにイエス様のおことばに対する深い信頼はイエス様も驚かれるほどでした。彼は日ごろ良い行ないをし、心の中ではイエス様への尊敬と謙遜、信仰に満ちていたのです。そしていざとした時にその心が現われました。そこで、イエス様も彼の信仰に感激して「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」と賞賛されたのです。結局、その信仰のとおりに彼のしもべはよくなっていました。離れていても遠隔治療ができたのです。
 私たちもそういう信仰の持ち主になりたいと思います。神様の御言葉は目に見えなくても私たちのうちに働きます。この間、インターネット電話を設置する時のことですが、代理店からもらったCDをインストールしても電話ができませんでした。それで会社に電話すると、韓国の本店に繋げてくれました。すると、その人は私がパスワードを入力しただけで、私の部屋で私がマウスを動かしているかのようにコンピュータを動かし、必要なデータを入れてくれました。私がその会社を信用しただけで会社の人は韓国からでも私のコンピュータを自分のもののように動かしたのです。ましては全世界、全宇宙を造られた神様、すべてのすべてを支配しておられる神様にをきないことはありません。私が神様を信用すれば神様が天から私たちに対して遠隔治療をしてくださるのです。ただ、私たちは信じてパスワードを入力する必要があります。それは神様をイエス・キリストの御名によって祈ることです。「イエス・キリストのお名前」それが神様とつながるパスワードです。私たちがイエス様の御言葉を信じて祈り、パスワードとして「イエス・キリストに御名」を入れるなら、神様は私たちを助け、私たちを治療してくださるのです。さらに、百人隊長のように愛と謙遜、信仰によって生きるならイエス様から賞賛されるしっぱな信仰の人として生きることができます。私たち一人ひとりがイエス様からほめられる百人隊長のようなりっぱな信仰の持ち主となりますように祈ります。
 ところが、ある方は自分は百人隊長のようなりっぱな信仰を持つことは無理だと思う方がおられるかも知れません。私は皆さん「肯定的に考えましょう。」と言ってもなかなか肯定的にならない方もいらっしゃるでしょう。「前向きに考えましょう」と言ってもなかなか前向きにならない方もいらっしゃるでしょう。しかし、絶望しないでください。イエス様はあわれみ深い方です。

 11-13節をご覧ください。イエス様がナインという町に行かれた時、どんな行列に出会いましたか。イエス様が町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところでありました。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていました。「やもめ、シングルママ」は、今も昔も特別に保護されるべき弱い立場に置かれているでしょう。厳しい律法社会のユダヤではあわれな現実が厳しいさばきとしてと考えられることもありました。早く夫をなくし、続いて今ひとり息子を失った女性、この母親が味わっている苛酷な事実が同情されるどころか、罪人に対する処罰と考えられる時の悲しみ、その苦しみはどんなに大きかったでしょうか。彼女にとって、それは心引き裂かれる出来事であったでしょう。できるものなら、息子と一緒に葬られたいと切実に願ったのではないでしょうか。3年前、私の母は息子を亡くしたショック、その悲しみのゆえに葬式の日に倒れて病院に運ばれました。先週の主日に3周期を迎えたのですが、母は自分の胸に葬られている息子のためにまた泣いていました。私たちはこのような悲惨な現実の中で語る言葉を失います。ただただ心を痛めながら、共に涙を流す以外にはないのです。しかし、イエス様は違いました。私たちの悲しみの深い淵の底に降りて来られるだけでなく、その現実を造り替えてくださるのです。
13節をご覧ください。「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。」とあります。ここで「かわいそうに思い」という言葉の元々の意味は、「はらわたが揺り動かされる」という意味です。これがこの時にイエス様が感じられた思いです。イエス様は彼女の悲しみと絶望にはらわたが揺り動かされる痛みを感じられました。皆さん、人の悲しみにこれほどに心を痛めたことがあるでしょうか。身内の者であっても、人の悲しみにはらわたが揺り動かされるほどに理解することはなかなか難しいことでしょう。ではどうやってイエス様はそれが出来たでしょうか。カウンセリングを勉強していらっしゃる金ヨハネ宣教師によると、それはイエス様が彼女のことをよく知っておられたからです。私もそう思います。うちの学校で賞罰委員会が開かれると、学生課では厳しくして二度としないようにしなければならないといいます。しかし、たいてい担任先生は自分のクラスの生徒に対して甘いです。なぜなら、生徒のこと、家庭事情までもよく知っているからです。
神様は私たちのすべての状況をよく知っておられます。神様は私たちの生い立ち、習慣、心の傷、心理的な障害をすべて知っておられます。神様は私たちの長所も、短所も知っておられます。私たちの中には「先週一週間ずっと苦しかったなだなあ。」言う方がいるかも知れません。あるいは最近何も喜びがないと思っている方がいるかも知れません。今までの人生が大変だったと思っている方がいるかも知れません。ところが、神様はそのすべてをよく知っておられます。詩篇56篇8節を開いてみましょう。「あなたは、わたしのさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にくわえてください。」新共同訳では「あなたは私の嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの皮袋に私の涙を蓄えてください。(56:9)」とあります。神様は私のさすらい、私の嘆き、私の波を数えられました。「私の結婚生活がどんなに地獄のようなのかを誰も知らない。」と思っている方はいないでしょうか。神様は知っておられます。「私が経験しているむなしさ、苦しみ、寂しさを誰も知らない」と思っている方もいるでしょう。神様はすべてを繊細に知っておられるだけではなく、その涙までも数えておられます。詩篇31:7節は言います。「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。」神様は私たちの必要が何かを知っておられます。まさにこの瞬間、私たちのたましいが経験している苦しみを神様は知っておられるのです。このようにイエス様は私たちをよく知っておられるからこそ私たちを哀れんでくださいます。イエス様はひとり息子を亡くした母親のことをよく知っておられたので彼女の悲しみに同情し、かわいそうに思われました。では、イエス様はどのようにして彼女の悲しみの問題を解決してくださいましたか。
14節をご一緒に読んでみましょう。「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。」イエス様は「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」と言われました。聖書に「おじいさん!起きなさい。」と書いているところはありません。福音書にイエス様が生き返らせてくださった人は3人いますが、3人とも若者です。やはりイエス様は「青年は生きていてほしい」願っておられるからでしょう。体は青年であっても心とたましいが死んでいるなら青年だ言えないかも知れません。しかし、肉体は年取っていても心が生き生きとしているなら青年です。この間、韓国の「Christian Today」という新聞にMother Barry宣教師とのインタービュー記事がありましたが、北朝鮮の宣教師になりたいと夢見ていました。私はその記事を読みながら77歳ではなく、17歳かという若さを感じました。イエス様は若い人に言われます。「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」ここで「起きなさい」とは新約聖書に144回出る言葉です。ギリシャ語では「エゲイロー」ですが、それは「目を覚ます、起きる、立ち上がる、よみがえる」という意味だそうです。イエス様はヤイロの娘にも言われました。「子どもよ。起きなさい。(ルカ8:54)」このことばに力があります。この声に死の力を打ち砕く愛の力があります。イエス様の声は死んでいる者の耳に届くのです。ただこのような権威ある声に私たちは従うしかないでしょう。どうか「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」という主の声を聞くことが出来るように祈ります。その権威ある言葉に圧倒されて目を覚まし、起きて立ち上がることが出来るように祈ります。「愛は死より強い。」とありますがそのとおりです。主の愛の力、御言葉の力が死んだ青年に届きました。
15?17節をご覧ください。イエス様のお言葉を聴いた青年は起き上がって、ものを言い始めました。彼は何と言ったでしょうか。おそらく「ほめたたえよ。イエスの御名を(Praise Jesus!)。イエス様!ありがとうございます。そして、お母さん!もう泣かなくても良いよ。これからもっとりっぱな人になるから。青年に聖書を教えるUBFの牧者になるから。」と言ったでしょう。その光景を見た人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神様をほめたたえました。イエス様についてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まりました。

以上で見ると百人隊長は日ごろよい行ないをし、熱心に求めて主の恵みを受けました。ところがナインのやもめは不思議にも町の外でイエス様に出会って意外な恵みを受けました。つまり、百人隊長は「良い真珠を探していてついに見いだした商人のようです。一方やもめは「畑に隠された宝」を偶然に見つけた人のようです。彼女の場合は使いを送らなかったにもかかわらずイエス様に出会って死んだ息子を生き返らせてもらう恵みを得たのです。
私たちは百人隊長のような厚い信仰がなければ恵みを受けることは出来ないと思いがちです。そう思っている方が多くいるかも知れません。しかし、そう思って自分の信仰の弱さを見て失望してはありません。私たちのすべてをよく知っておられる神様は不思議な方法で私たちに恵みを施してくださいます。もちろん、もともと信仰がなければ恵みを受けることは出来ません。しかし、イエス様が自らナインのやもめに近づいて、思いもよらない大きな恵みを下されたそのご愛、そのあわれみ深い御心を覚えなければなりません。イエス様は私たちの間で力あるわざと不思議としるしを行われます。このイエス様を覚える時、私たちの信仰も起こってきます。どうか、イエス様のお言葉に頼って起き上がり、青年らしく生きることが出来るように祈ります。さらに百人隊長のようなりっぱな信仰の人として成長していくことができるように祈ります。