2008年 ルカの福音書 第6講
恐れないで、ただ信じなさい
御言葉:ルカの福音書8:40?56
要 節:ルカの福音書8:50「これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」」
先週、私たちはイエス様が死に掛かっている百人隊長のしもべを癒し、すでに死んでいたやもめの一人息子である青年を生き返らせてくださったことを学びました。今日の御言葉にも、イエス様が病人を癒し、死んだ子どもを生き返らせたことが書かれています。ただ、違うところは、持っている信仰をほめられたり、かわいそうな人をあわれんでくださったことではなく、持っている信仰が成長するように助けられたことです。神様は私たちの「成長」、「信仰の成長」を喜ばれます。
最近、私は3歳の娘を通して私たちの成長を喜ばれる神様の御心を考えました。娘は「もう幼稚園生だからひとりでトイレに行くよ。」と言うようになりました。先週は始めてのお弁当だったのですが、私が仕事から家に帰ると、娘は「ひとりで全部食べてきたよ。」と言って自分の弁当を見せてくれました。何とか自分が成長していることをアピールしようとしていますが、成長していく姿が私にとって大きな喜びになりました。あまり言わないけれども感謝の手紙を書いてくれた長男の成長にも感動しました。そこで、私は自分も父なる神様に喜ばれるように成長していく姿を見せようと思いました。私たちの信仰が日々成長して行くなら、父なる神様は大変喜んでくださるでしょう。ではどうすれば私たちの信仰は成長するでしょうか。
この時間、長血を患っている女、会堂管理者ヤイロを助けられたイエス様を通して、私たちの信仰がもっと積極的な信仰に成長し、復活信仰も持つように助けてくださるイエス様を学びたいと思います。
40?42節をご覧ください。イエス様がガリラヤの向こう側のゲラサの地方からカペナウムに帰られると、群衆は喜んで迎えました。みなイエス様の帰りを待ちわびていたからです。そこに、会堂管理者であったヤイロという人がイエス様のもとにやってきました。会堂管理者というのは、長老たちから選ばれて会堂管理を任された人です。礼拝の最高責任者としての宗教的な面だけではなく、社会的地位も高い人でした。その会堂管理者が、群衆の前で、人間的には大工の青年に過ぎないイエス様の足元にひれ伏しました。その理由は「彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていた」という御言葉にあります。ヤイロは娘の癒しのために、父親としてできるすべてを尽くしたことでしょう。でも、それにもかかわらず、いちにん前になったばかりの娘が死にかかっていました。娘が死にかかっているという現実に直面したヤイロの心はどうだったでしょうか。自分がどんなに無力か、地位や名誉が何になるかということを知らされたでしょう。ところが、「不幸中の幸い」と言うでしょうか、彼はイエス様を信じていたことです。ヤイロが自分の無力に絶望してもイエス様に対する信仰がなければイエス様の足元にひれ伏すことができなかったはずです。イエス様のところに出てくることさえなかったでしょう。しかし、ヤイロは、イエス様の評判を聞いたり御言葉を聞いたりしてイエス様を信じていたのです。それで、彼は最後の希望をイエス様にかけて来ました。そこでイエス様は彼のお願いを聞き入れてくださりヤイロの家に向かいました。ところが、その時に、どんなことが起りましたか。
43節をご覧ください。イエス様がヤイロの家に向かって行かれる時に12年も長血を患った女性がいました。「長血」と言うのは長い日数にわたって血の漏出がある病気です。レビ記15章によると、この病は病による肉体的な苦しみだけでなく、宗教的にも汚れた者として扱われました。2重の苦しみをもたらすものだったのです。その苦しみが12年間も続いていました。もう何もかもあきらめたくなる状態だったでしょう。しかし、彼女はあきらめませんでした。彼女もイエス様に希望をかけていました。
44節をご一緒に読んでみましょう。「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。」彼女はイエス様のうしろに近寄って、イエス様の着物のふさにさわりました。当時、漏出がある場合は人に触れることさえ禁じられていました。人込みに来て他の人と接触することは考えられないことでした。それにもかかわらず、彼女は群衆をかき分けてイエス様のうしろに近寄って来たのです。普通、病気にかかったら医者に行って診てもらうでしょう。実は彼女も多くの医者に見てもらいました。でもマルコの福音書によると「この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」とあります。彼女は多くの医者に診せながら自分の財産を使い果たしてしまいました。それでも直るどころか、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。こうなると、部屋に閉じこもって自分の運命を嘆いている人も少なくないでしょう。しかし、この女性は違いました。自分の家から出てきました。弱くなった体力にもかかわらず多くの群衆が押し迫っている人並みの中を通ってイエス様のうしろに近寄りました。そして、自分の姿がばれないようにしてイエス様の着物のふさにさわりました。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからです(マルコ5:28)。彼女は信仰によってイエス様のお着物にさわったのです。すると、彼女はたちどころに出血が止まりました。12年間も患っていた彼女の病がいやされたのです。イエス様から彼女に力が出て来たからです。彼女は不思議なイエス様の力を体験しました。しかし、それを皆に証することはできませんでした。「汚れている病」として知られている病気だったからです。女として汚れていると言われる病気を告白することはやさしくなかったでしょう。自分にあったことを積極的に証するところまでは信仰が至らなかったのです。そこでイエス様は彼女が自分の身に起ったことを告白するように彼女の信仰を助けてくださいます。その理由は信仰告白によってたましいも救われ、安心して生きるようにするためです。
45?47節をご覧ください。イエス様は、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われました。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言いました。おそらく、誰もが「何を馬鹿なことをおっしゃるだろうか。」と思ったでしょう。しかし、イエス様は、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」と言われました。大勢の人が、ひしめき合って押していたのですが彼らは分からなくても、イエス様から出て行った力を受けた人がいるからです。その人は特別な期待と信仰を持ってイエス様にさわったこの女性でした。大勢の人の中でもイエス様を信じてさわった彼女だけがイエス様の力を受けたのです。
今日も、伝道集会に出席する人は少なくありません。聖書を読んでいる人も数多くいます。しかし、ただ漫然とそうする人は何の恵みも受けません。主日礼拝に来ても何の期待もなく、いつものように来ているなら同じことが言えるでしょう。イエス様を信じて参加する人だけが自分とイエス様との間にある神秘な世界を経験するのです。特別な願いと期待、信仰を持って参加する人は特別な恵みを受けるようになります。マンネリ化された心ではイエス様にさわっても恵みを受けることができません。しかし、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えて女の人のように「御言葉の朗読を聞くことだけでも恵みを受ける」と考えているならきっと恵みを受けるのです。そして、恵みを受けた人は、公にそれを証する必要があります。47節を見ると、女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエス様にさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話しました。彼女は自分が経験した恵みについて所感発表をしたのです。すると、イエス様はなんと言われましたか。
48節をご一緒に読んでみましょう。「そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」」イエス様は彼女の信仰告白を祝福し、信仰が彼女を直したことを明らかにしてくださいました。そして「安心して行きなさい。」と祝福してくださいました。イエス様は彼女が恐る恐る生活する隠れクリスチャンになることを望まれませんでした。イエス様は彼女が積極的に信仰告白し、安心して平安に生きるクリスチャンになるように助けてくださいました。もちろん、彼女が12年間も直れなかったのにあきらめることなく、イエス様のところに出てきた信仰、行動するその信仰だけでも素晴らしいです。その信仰が12年間も直せなかった病を直しました。しかし、イエス様は彼女が経験した信仰の体験を大胆に証できる信仰の人になるように助けてくださいました。信仰は目に見えない心の中のできごとですが、同時に信仰は公に告白され証しされ目に見える形で分かち合われる一面も持っているからです。「私は生涯現役クリスチャンです」ということばはあっても、「私は生涯隠れクリスチャンです」であってはなりません。聖書に「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(ロマ10:10)。」とあります。ですから、イエス様は彼女が信仰告白を通してたましいも救われて安心するように助けてくださったのです。彼女はイエス様の助けによってこれからの人生は安心して生きるようになりました。では先ほど話し始めた会堂管理者のヤイロの娘はどうなりましたか。
49節をご覧ください。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」 とあります。おそらく会堂管理者は12年間も長血を患った女性が癒された奇跡を見た時に彼の信仰もますます強められたことでしょう。きっと自分の娘も癒されて安心して生きるようになるのだと信じていたでしょう。ところが、イエス様がまだ話しておられるときに、「自分の娘がなくなった」と告げられました。娘の死の知らせを聞いたヤイロはの心はどうだったでしょうか。心臓が止まるようであったのではないでしょうか。イエス様が来てくださるなら、死に掛かっている娘でも癒されると信じてイエス様の前にひれ伏したのに、こんなことになってしまったと思われる時、どんなに落胆したでしょうか。時々、人の言葉は私たちを落胆させます。ところが、彼のそばには、彼を助けてくださるイエス様がいてくださいました。イエス様はなんと言われましか。
50節をご一緒に読んでみましょう。「これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」もし、このイエス様のお言葉がなかったなら、ヤイロはその場に倒れこんでしまったでしょう。ショックと恐れのために死んだかも知れません。
第二次世界大戦当時、ドイツや日本と戦争したアメリカの将兵のうち、戦場で死んだ人は30万人でありました。ところが、その若者たちを戦争に送ってから、恐れと不安で心臓麻痺などを起こして死んだ親と兄弟は100万人に及ぶと言われています。このことは「恐れ」がどれほど恐ろしい結果を招くかを教えています。ところが、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じなさい。」と言ってくださったのです。彼はこのイエス様のことばに支えられて信仰を保ち、イエス様とともに自分の家に向かって行くことができました。おそらく、この日に聞いたイエス様の言葉は、その日だけではなく、ヤイロの生涯の間、いつでもヤイロの耳に、その心に響いて彼の人生をささえ、励まし、導いてくださったことでしょう。
事実、私もイエス様が言われたこの言葉によって支えられてきました。もし「恐れないで、ただ信じなさい。」と言われるイエス様の御言葉を知らなかったら、どうなっていただろうと思います。一つ言えることは宣教師になった2年目に国に帰ったはずです。私は宣教師2年目にビザの許可ができないという通告を受けました。当時、私は東京韓国学校の教師になるはずだったのにそれもできなくなりました。時間講師として働くことさえ3ヶ月間できなくなりました。それで、3ヵ月後に常勤講師として採用されるという書類だけで就労ビザの再申請をしました。なかなか心が落ち着きませんでした。恐れと不安のために、眠れなかったり、帰国している夢を見たりしていました。ところが、ある日の朝、日ごとの糧の御言葉を通してイエス様は私に「恐れないで、ただ信じなさい。」と言ってくださいました。その御言葉は私の心に響いてきました。そこで、私は不信仰を悔い改めてただ信じることを決断しました。すると、不思議にも私は安心することができました。そして不思議にも就労ビザの許可も得ました。その後5年間も時間講師の生活が続いたので時々不安になる時もありましたが、イエス様は「恐れないでただ信じなさい。」と声をかけ続けてくださいました。それで、どうにかここまで歩いて来ることができました。イエス様の御言葉が私の信仰を守って、支えてくださったのです。
人生には3つの坂があるということを読んだことがありますが、その話によると、普通に考えると、上り坂と、その反対の下り坂があります。これは、自分が予想して歩むことができる普通の道です。しかし、まさかの坂という、予想のできない坂が私たちに襲ってくることがあるというのです。そのとき、どう対処することができるのか。ということです。先ほどビザのことを話しましたが、その時、正式教師になったと信じて校長の家を訪ねて挨拶もしました。だから、まさか、正式教師にならないと思わなかったのです。でも、人生には上り坂、下り坂だけではなく「まさかの坂」がありますね。私たちは、そのとき信仰がなかったら、どうして立っていることができるでしょうか。ヤイロは、イエス様のことばによってまっすぐ歩むことができました。私たちも信仰があれば、イエス様の「恐れないで、ただ信じなさい」というおことばによって、励まされ、まさかの坂に出会ったときに、しっかりと立つことができます。
しかし、恐れて信仰を捨てれば、しっかりと立つことはできません。もし、ヤイロがイエス様の御言葉を信じなかったら、彼の娘は死んだままで終わったでしょう。家から来た人の言葉だけを信用したなら、彼が言ったとおりになったはずです。私たちの信仰は良い方向にも働きますし、悪い方向にも働きます。先週、私の職場で一人の先生は注意していた生徒が反抗して家に帰ってしまったことで泣いていました。話を聞いてみると、今日は星占いが悪かったと言いました。あの先生は朝星占いを見てから今日は悪い一日だと信じたのです。そして、そのとおりにほんとうに悪い一日になってしまいました。それで、私は「何でそんなことに頼るんですか、それを信じるからそのとおりになるでしょう」と言いましたが、その先生はそれを知っていながらも星占いを見てしまうと言いました。そこで、私は恵まれた者だなあと思いました。毎朝「今日も神様が造られた素晴らしい日です」と告白できるし、日ごとの糧の御言葉を通して良い方向に信じて行くことができるからです。
会堂管理者ヤイロは、イエス様の御言葉を聞いて心を整理し、信仰の中心を守りました。その結果、彼はさらにアップグレードされた信仰を体験するようになりました。
51?53節をご覧ください。イエス様は、12弟子のうち、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れていかれました。人々は、死んだ娘のために、泣き悲しんでいました。イエス様は、その人たちに言われました。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」
イエス様がかけてくださった希望と慰めのことばです。しかし人々は、イエス様のことばを素直には受け止めませんでした。「イエスをあざ笑っていた」と書かれています。それもそうでしょう。人々は娘が死んだことを知っていました。確かに、娘は死んだのです。イエス様もその事実を知っておられました。ではなぜ、イエス様は、「死んだのではない。眠っているのです」と言われたのでしょうか。それはヤイロと人々が「死は眠りであり、再び目覚め、復活するのだ」ということを信じてほしいと願っておられたからでしょう。彼らの信仰がアップグレードされて復活信仰を持つことを願われたのです。ヤイロはイエス様が病人を癒すことを信じていました。死に掛かっている人でも生かすことができると信じていました。しかし、今は死んだ人を生き返らせることを信じなければなりません。死は終わりではありません。もし死ですべてが終わりならヤイロは何もしなくてもいいでしょう。泣き悲しんでいる人とともに泣くことしかできません。しかし、死が終わりではないからこそ泣かなくても良いのです。今こそ、復活の主、イエス・キリストを信じなければなりません。ヤイロは今までの信仰にとどまらず、復活信仰を持つべきときなのです。
イエス様は言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか(ヨハネ11:25、26)。」そうです。よみがえりであり、いのちであられるイエス様を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてイエス様を信じる者は、決して死ぬことがありません。
私たちの中にはヤイロのように今までイエス様を信じてきたのですが、まさかの坂が現われて絶望している方はいるかも知れません。さまざまな悩み事のために心に喜びがなく、死んだも同様な状態になっている方がいるかも知れません。宣教師や牧者たちの中では弟子養成に絶望するどころか、弟子養成に対する意欲さえ死んでいるかも知れません。勉強や仕事においても意欲が生じなくて「自分は五月病なのかなあ。」と思っている方がいるかも知れません。しかし、今こそ信仰を持つべきときです。今こそ挑戦するときです。復活信仰というは決して失望したり、絶望したり、あきらめたりしないことです。私たちは早稲田大学の近くに日本本部センターを購入することを願いましたがなかなかできなくてあきらめていました。しかし、去年不信仰を悔い改めて再び挑戦すると、不思議にもこの建物が与えられました。また、学生たちの礼拝参加のために、再び信仰のチャレンジをした時、不思議にも学生たちが多く礼拝に参加するようになりました。遠い長崎から、韓国からも学生たちが送られてきました。これからは世界に宣教師を派遣することも復活すると信じます。二人の宣教師をPNG、アメリカに遣わしてから15年間かもできませんでしたが、信仰によって再びチャレンジすると必ず神様が祝福してくださると信じます。私がこう言っても「誰が宣教師になりますか」と言われるかも知れません。しかし、今何も望めない状況だからこそ信仰が求められます。ヤイロの娘が死んだからこそ、イエス様は彼が信仰を持つように助けてくださいました。神様は私たちが不可能な状況の中でも可能になることを信じ続けることを望んでおられます。
アブラハムは75歳に信仰によって神様の召されに従いました。最初、彼は神様が自分の子孫を大いなる国民としてくださると信じました。でも長い長い歳月が流れても一人の息子も生まれませんでした。彼の妻サラの胎は死んでしまいました。しかし、このように悪化されている状況の中でもアブラハムは信仰を失いませんでした。聖書は言います。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました(ローマ4:19?21)。」そうです。信仰とは私たちの状況と状態が悪化されても、信仰がますます強くなって神様に栄光を帰し、約束の言葉を堅く信じることです。ですから、イエス様はヤイロも信仰の先祖アブラハムのように、娘の状態が悪化して死んだとしても信じ続けるように、その信仰がますます強くなるように助けてくださいました。
54?56節をご一緒に読んでみましょう。「しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。」結局、ヤイロは恐れないでただ信じて死んだ娘を生き返らせていただきました。
結論的に、イエス様は私たちにも「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われます。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 このことばは、今日も、私たち一人ひとりにかけられているおことばです。このことばをしっかり握りしめて、信仰の道を歩むことができるように祈ります。