2009年マルコの福音書第7講 

実を結ぶ秘訣

御言葉:マルコの福音書4:1?20
要 節:マルコの福音書4:20 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

先週、私たちはイエス様が12弟子を任命された出来事を学びました。その目的はイエス様が彼らをご自分のそばに置くためであり、さらに、宣教に遣わされるためでした。私たちが主に選ばれている目的も、私たちがいつも主のそばにいて主と交わり、主に見習うためであり、さらに宣教に遣わされるためです。どうか、私たち一人一人がその目的にふさわしい者として生きることができるように祈ります。
今日の御言葉は、「種まきのたとえ」として知られていますが、ここで、私たちは主のそばにいる者の心構え、実を結ぶ人生の秘訣を学ぶことが出来ます。どうか、今日の御言葉を通して私たちが三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ生涯を送る人となりますように祈ります。

1節をご覧ください。「イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。」とあります。この御言葉には、イエス様が「種まきたとえ」を語られた時の環境と状況が書かれています。イエス様は湖のほとりで十二弟子を始め、いつもイエス様について来る人々に教え始められます。すると、遠くから見ていた人々も集まって来ました。おびただしい数の群衆のためにイエス様は湖の上の舟に乗って教えるほどになりました。その教えとは「種まきのたとえ」です。
ご一緒に3-8節までを読んでみましょう。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」  
このたとえの内容ですが、私のように農村で生まれ育った人はよく理解できると思いますが道ばた、岩地、いばらの中に落ちた種からは実を結びません。しかし、よく耕しておいた農地に落ちた種は、芽生え、育って実を結びます。大麦でも、大豆でも30倍、60倍、100倍以上の実を結びます。正確に覚えていませんが、大麦1kgを蒔いたら、100kg以上の収穫があったと思います。
そういうわけで、湖のほとりで語られたイエス様のたとえ話は、種まきをしながら生きている当時の人々にはよく分かる内容でした。でも、なぜ、イエス様がこれらのたとえを語られたのか、このたとえに隠れている教訓とは何なのか、と言うことについては分かりません。それを知りたがる人もほとんどいません。実際に、おびただしい数の群衆がイエス様のたとえを聞いたのですが、ほとんどの人がイエス様から離れていきました。しかし、同じ環境、同じ状況の中でもイエス様の御言葉を注意深く聞いて受け入れる人々がいます。
10節をご覧ください。「さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。」とあります。イエス様にいつもつき従っている人たち、十二弟子たちはイエス様のたとえ話を注意深く聞いていました。だから、彼らはイエス様だけになった時、たとえのことを尋ねました。ではイエス様は彼らに何と言われましたか。
11、12節をご一緒に読んでみましょう。「そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」ここで、いつもつき従っている人たち、イエス様がご自分のそばに置くために任命された12弟子たちには神の国の奥義が知らされていることが分かります。しかし、おびただしい数の群衆には知らされていません。彼らは、イエス様のみもとに集まりはしますが、自分の都合の良いときだけ集まります。自分の必要が満たされたら、イエス様から離れて行きます。彼らは神の国の奥義、イエス様のようになる人生、実を結ぶ人生と言うことには関心がありません。イエス様の教えを聞いても自分の有益になることだけに関心があります。いわゆる、「ご利益信仰、困った時の神頼み」です。彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らりません。悔い改めて赦されることもありません。しかし、弟子たちは、いつもイエス様につき従い、生活をともにしていました。イエス様とともに歩み、イエス様に尋ねながらイエス様と交わりをしていました。彼らには神の国の奥義が知らされたのです。つまり、イエス様は、いつもイエス様との生きた交わりをしている人たちに神の国の奥義を知らせてくださいます。
13節をご覧ください。「そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。」とあります。「このたとえ」とは、先ほど、イエス様が語られた種まきのたとえです。もし、このたとえが分からないなら、これから語られるたとえの理解もできないでしょう。種まきのたとえが神の国の奥義を知るための土台になるからです。そこで、イエス様は親切に種まきのたとえを解説してくださいます。
第一に、道ばたに落ちた種です。
14、15節をご覧ください。「 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。「御言葉が道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・御言葉を聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を持ち去ってしまうのです。」とあります。道ばたは、道に近い場所です。農地の真ん中ではありません。そこは道の往来によって踏み固められています。そのように、道ばたの心は、多くの人の往来によってかたくなにされています。道を往来している人々から落ちるこの世の知識、さまざまな情報、さまざまな考え方などによって心がかたくなにされているのです。それで、御言葉を聞いても心の中に受け入れません。そのうちに、サタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を持ち去ってしまうのです。私が子どもの時、牛を連れて道を歩いていくと、道ばたの農作物を食べてしまう時がありました。私たちの心も、道ばたのようになっているなら、御言葉が蒔かれた時、牛ではありませんがサタンが御言葉を持ち去ってしまうのです。
おそらく、イエス様が種まきのたとえを語られる時も、道ばたに座っている人たちがいたでしょう。彼らには道を往来する人々の話も聞こえたはずです。それで神様の御言葉が心の中に入ることは不可能だったでしょう。結局、イエス様の御言葉を聞いても、道ばたのように、多くの人々の世的な往来を許しているなら、実を結ぶことはできません。この世の快楽を楽しんでいる人の話、儲かることばかり考えている人の話、テレビ番組、漫画、競馬などの話を一度二度聞いたら、そんなことに興味ありませんと答えます。しかし、何度も聞いていると、興味がわいてくるでしょう。そのうちに、御言葉に対する心は道ばたのようにかたくなっていきます。その心の中に御言葉が入ることはできなくなるのです。すると、せっかく蒔かれた御言葉の種をサタンがすぐ持ち去ってしまいます。
 第二に、岩地に落ちた種
 16,17節をご覧ください。「同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」とあります。この岩地とは、「土の薄い」地でした。従って、御言葉を聞くと、すぐに喜んで受けるのです。御言葉を聞いて「ウワー!素晴らしいですね。」と喜びます。しかし、それはしばらく続くだけです。困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。なぜなら、岩地のような心とは、感情的で衝動的であるからです。そういう人の思いは柔らかであっても、岩のような自分の生き方や信念は決して変えようとしません。それで、困難や迫害が起こると、すぐに以前の生き方で生きようとします。御言葉を受け入れて従うのではなく、岩のように堅くなっている自分の考え方や性格に従ってしまうのです。本来、太陽の光は、植物の成長には不可欠のものです。そのように、困難や迫害はクリスチャンが霊的に成長し、実を結ぶためには必要であり、有益なものです。
たとえば、私が聖書勉強を始めた頃は、友だちと居酒屋に行ったり、教会に行ったりする時もありました。ある日、1:1聖書勉強の約束があったのにお酒を飲んでしまったので何度も歯磨きをして教会に行きました。ところが、1:1牧者が「台棟兄弟!ビルいっぱいしましたか。」と聞かれました。そして、1:1聖書勉強が終わったら、?コリント16:13b節を読んでみましょうと言われました。そこには「男らしく、強くありなさい。」とあります。何だからその言葉は私の心に響かれて来ました。「男らしく、強くありたい!」と思うようになりました。その後、友だちから誘われてもお酒を飲むことを強く断り、世的な交わりよりも聖書勉強を優先にしました。すると、友だちとの関係が困難で迫害も受けるようになりました。家族からの迫害もありました。でも、そういう困難と迫害があったからこそ、もっと祈るようになり、祈りの力を体験することが出来ました。植物に必要な太陽の光や雨のように、私たちの信仰生活にも困難と迫害が起りますが、それらは成長のために必要なのです。しかし、心の中に自分のなりの生き方や信念が岩になっていると、御言葉の種が蒔かれて芽生え、成長して実を結ぶことができないのです。
第三に、いばらの中に落ちた種
18、19節をご覧ください。「もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。・・みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」とあります。いばらの中に落ちた種は、芽生え、育ちます。道ばたや岩地に落ちた種とは大きく異なります。土地には問題がありません。道ばたは見えるところから堅くなっているし、岩地は土が薄くあるので見えませんが目に見えるの土の下は堅くなっていました。しかし、いばらの地は堅くなっていません。だから、芽を出し、育つこともできるのです。問題はいばらの中に落ちた種よりもいばらのほうがよく育ち、ついに「ふさいで」しまうことです。ここでイエス様は「いばら」を「世の心づかいや、富の惑わし、その他のいろいろな欲望」のことであると解説されています。
この種のものは、私たちのとって最も注意を要するものだと思います。特に20代や30代の人よりも、私のように40代、50代になっている人にとって注意を要するものではないかと思われます。なぜなら、今の私の心が20代、30代の時よりも複雑になっているような気がするからです。見えないところの心づかいが多くなって来ました。家庭でも、教会でも、職場でも心づかいがなければならないし、年をとればとるほど、その幅がどんどん広くなって行きます。また、富の惑わしもそうです。私はアルバイトで生活している時は安定的な職場があれば富の惑わしは無くなると思いました。しかし、安定的な職場を持っている今は家族が多くなっているし、子どもたちも日々成長しているので富の惑わしがあります。もうちょっと収入が多くなる方法はないかなと思う時があります。その他のいろいろな欲望もあります。英語勉強もしたいし、日本語の文章の書き方や話し方も学びたいと思っています。多くの本を読みたいし、何とかして神学の博士号をとる勉強もしたいと思っています。この教会も礼拝参加者が120名まで成長するようにしたいし、日本全国にUBFを拡張したいという希望もあります。いろいろな欲望を数えてみるときりがありません。自分自身が考えても、私は欲深い人間だなあと思います。しかし、このようなことは私だけではないかも知れません。
いばらの地のような人たちは、良いことに熱心ではないでしょうか。信仰のことはいつも大切だと思っています。祈り、聖書通読、教会の出席も無視してはいません。その上、教養、趣味、スポーツ、文化活動、ボランティア活動もします。そして、それらの活動に大きな問題があるのではありません。しかし、それらが主な関心となって、神様よりも、そのことに熱心になってしまうことです。神様との交わり、神様との関係性よりも、世の心づかい、富の惑わし、いろいろな欲望が心の大部分を占めていることが問題なのです。そのことに気づかずに、無感覚であるなら、いつの間にか、ノンクリスチャンと同じ生き方で生きるようになってしまいます。クリスチャンになったというのは、イエス様の御言葉に感動した経験、イエス・キリストの十字架の愛に感動して涙を流した初めの愛があったということでしょう。その時、自分の人生が180度変わったような経験してしているのです。ところが、いばらの地になっていることに無自覚であるなら、いつの間にか、また180度変わってしまいます。それで、180度変わったものがまた180度回って360度変わったので元どおりになっているのです。ノンクリスチャンのようにイエス様の御言葉を聞いても無感動で自分の心に蒔かれた種が実を結ぶことができません。世の人々と同じく、心配し、つぶやき、不満足の中で生きています。世の人々よりも不平不満の多い生活をしてしまう場合もあります。
私は先週、ある人の記事を読んで感動しました。彼は1998年事業に失敗して一億ウォンを超える負債がありました。すると、奥さんの実家からは離婚するように言われました。何度も何度も言われました。でも、彼の奥さんは離婚しようとしませんでした。何もなく、負債だらけの夫を支えてくれたそうです。そこで彼は自分の状況をつぶやかないで、愛する自分の妻のために、家族のために、昼も夜も働きました。職場がないので新聞配達を始め、品物配達、引越センターの運転などのアルバイトをしました。一日に2時間しか眠れない日が続きましたが、それでも熱心に働いて10年後には負債を全部返したそうです。私はその記事を読んで家族愛でも本当に力があることを悟りました。私は愛の神様を信じている者として恥ずかしくなりました。
私たちがイエス様を信じて180度変わったら、またと180度変わってしまわないで実を結ぶ生涯を送ることができるように祈ります。ではどんな地に落ちた種が実を結ぶでしょうか。
 第四に、良い地に落ちた種
20節を読んでみましょう。「良い地に蒔かれるとは、御言葉を聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」良い地には、種と比べて何十倍の実が結ばれます。では「良い地」とはどんな地でしょうか。ここで考えてみると「良い地」についての解説はほとんどありません。前の3種類の地についてはいろいろ解説がありました。しかし、良い地については特別な解説をつけておられません。ただ、良い地の特徴とは「御言葉を聞いて受け入れ」ることになっています。そして、今日の御言葉の中でもよく聞きなさい。「聞く耳のある者は聞きなさい。」と聞くことを強調しておられます。
私たちが忙しくて御言葉を宣べ伝えることができなくても、まず御言葉を聞いて受け入れるなら、生活の中で30倍、60倍、100倍の実を結びます。私たちの人生において実を結ぶことはとても大切なことです。ヨハネの福音書15:16節を見ると「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」種が私たちを選び、任命したのは私たちが実を結び、私たちの実が残るためです。その実とはガラテヤ人への手紙5:22、23にあります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」御言葉を聞いて受け入れる人にはそのような実が約束されています。事実、聖書を読んでみると、御言葉を聞いて受け入れた人は数多くの実を結び、あらゆる面で祝福された生涯を送りました。
 私たちの信仰の先祖であるアブラハムは「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」という御言葉を聞いて受け入れました。すると、彼はあらゆる面で祝福されました。何よりも、聖書は「そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」と証ししています。アブラハムひとりが御言葉を聞いて受け入れた時、彼自身が聖霊の実を結び、あらゆる面で祝福されました。目に見える霊的な子孫においても数えきれない実が結びました。
 モーセも神様が仰せられた御言葉を聞いて受け入れた時、だれよりも柔和な人として内的な実を結ぶことだけではなく、奴隷の民イスラエルを出エジプトさせて乳と蜜の流れるカナンの地に導くことができました。サムエルも、ダビデも、神様の御言葉を聞いて受け入れた時、多くの実を結び、偉大な人生を生きるようになりました。先週、学んだ12弟子たちもイエス様の御言葉を聞いて受け入れたので、彼ら自身が宝石のように輝く人生、多くの実を結ぶ生涯を送りました。
 どうか、私たちも御言葉を聞いて受け入れる者でありますように祈ります。聞き流すのではなく、御言葉を聞いて受け入れるのです。そうすると、私たちも必ず30倍60倍、100倍の実を結ぶ生涯を送るようになることを信じます。聖霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制のある人に変えられていくのです。どうか、私たちひとりひとりが昨日よりは今日、今日よりは明日、もっと多くの実を結ぶ生涯を送ることができるように祈ります。