2009年収穫感謝祭

私の救いの神にあって喜ぼう。

御言葉:ハバクク3:1?19
要 節:ハバクク3:18「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」

 今年も、早いもので11月になりました。ここまで私たちを見守り、導いてくださった神様に感謝します。11月は感謝の月でもあります。日本では11月23日は「勤労感謝の日」で、勤労を尊び、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう祝日です。アメリカでは11月の第四木曜日が「Thanksgiving Day」と言われる祝日になっています。天と地を造られた神様の恵みに感謝する習わしですが、私たちの教会では毎年11月三週目の日曜日である今日が「収穫感謝祭の日」です。
 そういうわけで、今日はすべての事について感謝しながら収穫感謝祭の礼拝を神様にささげたいと思います。特に本文の御言葉を通してハバククの祈り、ハバククが知っている神様の偉大さ、主にあって喜び勇むハバククの信仰を学びたいと思います。

ハバククは小預言者のうちの一人であり、旧約聖書の中ではあまり目立たない人物と言えます。ある人は聖書に「ハバクク書もありましたか。」と言いました。しかし、2章4節「正しい人(義人)はその信仰によって生きる」と言う言葉は有名です。パウロはローマ人への手紙1:17で「義人は信仰によって生きると」と引用していますが、人類の歴史に大きな影響を与えました。特に、この御言葉はルターによる宗教改革の原点となり、今もプロテスタント教会を支えています。
この預言者ハバククはカルデヤ人の新バビロニア帝国が台頭してきた紀元前7世紀から6世紀頃に活動しました。1,2章を読んでみると、ハバククの時代について知ることができます。1章を見ると、ハバククの生涯に何が起こるのかが記されてあります。1章1,2節に「預言者ハバククが預言した宣告。『主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。』」とあります。「いつまで悪をさばかれないのですか」というハバククの叫びです。それに対して神様は答えます。5,6節に「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。」とあります。神様はカルデヤ人を起こすと言われます。カルデヤ人は非常に荒々しい民族です。彼らがユダを占領します。そのことがハバククの時代に起こるというのです。これはユダヤ人にとってはわざわいであり、悲劇です。それを聞いたハバククは何をしましたか。

?.ハバククの祈り(1,2)
3章1,2節を読んでみましょう。「預言者ハバククの祈り。シグヨノテに合わせて。主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。」ここに預言者ハバククの祈りがあります。しかも情熱的な祈りです。「シグヨノテに合わせて」とありますが、「シグヨノテ」というのは「リズムの早い変化を伴う情熱的な歌」を表わす聖歌の用語です。つまり、ハバククはリズムの早い変化を伴う情熱的な歌に合わせて祈りをささげています。何のためにそんなに激しく祈ったでしょうか。彼は祈りの中で「主のうわさを聞き、主のみわざを恐れました」と告白しています。彼は強暴で激しいカルデヤ人が占領してくるという主のうわさを聞き、主のみわざを恐れました。もし、北朝鮮が明日でも東京にミサイルを発射し、占領するといううわさを聞いたら、皆さんはどうするでしょうか。それを恐れるのではないでしょう。ハバククも自分の国に襲ってくるわざわい、その悲劇的なうわさを聞き、恐れました。ところが、彼は「この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。」と祈っています。つまり、ハバククは強暴で激しい国民によって占領されるうわさを聞き、「それをくり返してください」と祈っています。しかもリズムの早い変化を伴う情熱的な歌に合わせて情熱的に祈っています。では、どうしてハバククは自分の国民が荒々しい民族によって占領されるわざわいがくり返されるように祈っているでしょうか。
それは第一に、主がなさるすべてのみわざは完璧であると信じたからです。たとえ、カルデヤ人によってユダヤ人が一人も残らず滅ぼしつくされることがあっても、主のみわざに間違いがないと確信したのです。だから、彼は自分の民が強暴で激しい国民に占領されることであっても主のわざをくり返してくださいと祈ったのです。
第二に、ユダの霊的状態が外国人によって苦しめられなければ悔い改めることも、信仰を回復することもできないほどになっていたからです。神様がユダにくり返してわざわいを見させなければ回復できない状態に陥っていたのです。事実、1章を見ると、ユダは暴行と暴虐があり、闘争があり、争いが起こっていました。律法は眠りになっていました。ハバククと同時代の預言者ゼパニヤ、エレミヤなどがメッセージを伝えても、彼らは眠っていたのです。聖書に『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても悲しまなかった(マタイ11:17)』とあるように、彼らの心は鈍くなり、生活はマンネリ化されていました。滅ぼし尽くされるほどのわざわい、さばきがなければ全く回復される見込みが見えない状態までに無感覚な状態になっていたのです。そこで、ハバククは情熱的に「この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。」と祈りました。それをくり返すことはわざわいであることが分かっても、イスラエルの回復のためには、イスラエルが生き返るためにはそうしてもらわなければならないと信じたのです。そういう意味で「それをくり返してください。」というのは「それを生き返らせてください」ということにもなります。実際に新共同訳の聖書には「それを生き返らせ」と訳されてあるし、韓国語の聖書でも「復興させてください。」と訳されてあります。ハバククはユダの回復、リバイバルのために情熱的に祈ったのです。ですから、彼は「それをくり返してください。」と祈りながらも「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。」とも祈っています。つまり、彼は罪を憎まれる神様がイスラエルの回復のためにわざわいを下すことを知っていましたが、罪人に対してはあわれみ深いことも信じて祈ったのです。ここでイスラエルの回復、リバイバルに対するハバククの熱い祈りと信仰を学ぶことが出来ます。
過去、私はイエス様を信じて救われた人が教会の集まりに来なくなったり、離れて行ったりする時、その人のやることが失敗するように祈る人の心が理解できませんでした。軍隊にいた時、ある人は日曜日に重労働の作業があると教会に来ますが、サッカーをしたり、遊んだりする時には来ませんでした。すると、軍隊教会の伝道師がサッカーをしながら怪我をしてでも自分の罪を悟るようにと祈りました。私は「やさしくない伝道師だなあ」と思いました。しかし、ハバククを通して、怪我をしてでも信仰を回復することを願う心が理解できるようになりました。神様に選ばれている人が霊的に回復することはそれほど大切なことだからです。また、一時的に怪我をしても、わざわいにあっても、それによって霊的に回復されて永遠のいのちを保つことができるなら、それこそ主のみわざであるからです。ハバククにはそういう確信があったからこそ、あれほど情熱的に祈りました。そしてその祈りと信仰は600余年後の使徒パウロに、影響を与え、さらに、2,000余年後にはルターにも影響を与えたと思われます。
ではそのハバククが確信している神様はどんな方ですか。3-15節にシナイ山での神様のご威光と紅海を渡ったこと、ヨシュア時代の勝利などの救いのみわざが記されてあります。

?.ハバククに啓示された神様(3-15)
第一に、威光と栄光の神様です(3-7)
3,4節をご覧ください。「神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。セラ/その尊厳は天をおおい、その賛美は地に満ちている。輝きは光のよう。ひらめきはその手から放たれ、そこに力が隠されている。」とあります。テマンはエドムの地にある都市であり、パランの山はシナイ山の北側にある多くの山々を指しています。かつてシナイ山で輝かしい光として現われた神様の尊厳は天をおおい、その神様に対する人々の賛美は地に満ちていました。ハバククは啓示を通して偉大な力と栄光を帯びてこられる神様の御姿を見たのです。事実、神様は太陽が宇宙を照らしているように、暗やみの世界を照らしておられる光であり、栄光であり、義に満ちたお方です。
 第二に、大いなる力の神様です(8-11)。
8節をご覧ください。「主よ。川に怒りを燃やされるのですか。あなたの怒りを川に向けられるのですか。それとも、あなたの憤りを海に向けられるのですか。あなたは、馬に乗り、あなたの救いの戦車に乗って来られます。」とあります。ハバククは幻の中で神様が馬に乗り、救いの戦車に乗って来られる御姿を見ました。その力は地を裂いて川々とされました。その力に圧倒された山々は神様を見て震え、豪雨は流れ去り、深い淵はその声を出し、その手を高く上げました。また、ハバククはヨシュアの時代にギブオンで太陽と月の動きも留まらせた御姿も見ました。このように、神様は天地万物を支配し、動かしておられる方、大いなる力の主です。
 第三に、さばき主の神様です(12-15)
12、13節をご覧ください。神様、憤って、地を行き巡り、怒って、国々を踏みつけられました。神様は、ご自分の民を救うために出て来られ、神様に油そそがれた者を救うために出て来られます。そして神様は、悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。これはカルデヤ人に対するさばきです。神様は暴行と暴虐に満ちたユダをさばかれる時に、カルデヤ人を用いられますが、そのカルデヤ人もさばかれるのです。神様はユダを攻撃した戦士たちの頭に矢を刺し通されます。神様の馬で海を踏みつけ、大水に、あわを立たせて彼らを滅ぼし尽くされます。かつて、出エジプトの時のように、カナンの地を征服する時のように、カルデヤ人を滅ぼし尽くされるのです。
 ハバククは、このような神様の啓示を通して神様の威光と大いなる力、さばきを見ました。出エジプトの時も、カナンの地を征服する時も、神様は大いなる力を持って働かれました。そのように、異邦人を徹底に聖絶されるさばき主の神様を見たのです。その時、彼の心には言葉では言い尽くせない驚きと恐れが臨まれました。同時に、このように尊厳と威光に満ちておられる神様、大いなる神様がイスラエルを懲らしめてからは、必ずバビロンから救い出してくださると確信しました。すべては輝かしい栄光に満ちておられるお方、大いなるお方、神様がご自分の栄光のために主のみわざを成し遂げてくださる確信したのです。

?.ハバククの信仰(16-19)
 16節をご覧ください。「私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう。」とあります。この御言葉は2節の御言葉とつながっています。つまり、イスラエルはカルデヤ人によって占領されるうわさを聞き、「それをくり返してください。」と祈った時につながっているのです。イスラエルが強暴で激しいカルデヤ人によって占領されるうわさを聞いた時、ハバククのはらわたはわななき、彼のくちびるはその音のために震えました。選民イスラエルが荒々しいカルデヤ人によって略奪され、殺されることを考えると、彼の胸には裂かれるほどの痛みがありました。腐れは彼の骨のうちに入り、彼の足もとはぐらつきました。彼はイスラエルの回復のために、神様の懲らしめをくり返してくださいと情熱的に祈っているものの、自分の民族のために何もできず、悩みの日を静かに待つしかなかったのです。では、そのような状況でもハバククは何を信じましたか。
17、18節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」 いちじくの木、ぶどうの木、オリーブの木、畑、羊、牛はイスラエルの民にとって生きる糧をもたらすものです。イスラエルの経済そのものです。その経済状況が百年に一度あるような不況ではありません。それより酷いです。衣食住をささえるすべてのものが何もかもなくなるというのです。食べ物だけでなく、ライフラインのすべて、あるゆるものがなくなってしまう状況です。
皆さんにとって今の状況はどうでしょうか。ハバククが言っているような状況でしょうか。健康、財産、持ち物、愛する家族、それらすべてを失ってしまうような状況です。私は戦争経験していませんが、朝鮮戦争を経験した父や祖父の話による、それほど酷いことはないと言われました。私たちがそのような状況に置かれるようになると、私たちはどうするでしょうか。神様につぶやくでしょうか。それとも信頼するでしょうか。果たして最悪の状況の中でも私たちは神様にのみ信頼することができるでしょうか。そのような時でも、ハバククは神様の救いを信じました。もう一度18節をご覧ください。「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」とあります。素晴らしいですね。この「喜び」とは偽物の喜びではない「心からの喜び」です。彼には生活の基盤となるものは何もかもなくなってしまいます。何もないのです。ただ、神様だけがおられます。彼はこの神様にあって喜びます。神様がすべてだからです。彼が悲劇の状況を喜んでいるのではなく、神様にあって喜び勇んだのです。悪い状況を喜ぶのではなく、悪い状況、困難な状況、悲劇の状況から救ってくださる救いの神様にあって喜ぼうとしたのです。というのは神様の救いを確信したからでしょう。どんなに酷い状況の中で神様を信じるなら、私の救いの神様が救ってくださると信じて喜ぶのです。
「私の救いの神」とは、どのようなことが起こっても、私は罪から救われたのだという事実を確信していることもであります。彼は自分が経験した救いの神様に頼ってこれからも救ってくださる神様を確信しているのです。これが私たちクリスチャンの喜びであり、ハバククの心からの喜びであります。私たちの心の奥底にこの救いの喜びをもつことが大切です。今年もいろいろ経験して来ただろうと思いますが、私を救ってくださった救いの神様にあって喜び、感謝しましょう。ではその救いを確信しているハバククはどんなビジョンを持つことができましたか。
19節もご一緒に読んでみましょう。「私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」。「雌鹿」はどんな動物でしょうか。『ディア・ハンター』(The Deer Hunter)という映画では山の中で走っている鹿の姿を見ることが出来ます。田舎者の私は高校生になって初めての映画館で見た映画なので記憶に残っていますが、鹿は石の多い地、岩地でも自由に飛びまわることができます。神様は私の足をこの雌鹿のようにしてくれるのです。岩場のような状態であっても、どのように最悪の状況の中にあっても鹿のように力強く走ることができるようにしてくださいます。そうして圧倒的な勝利者の人生を生きるようにしてくださるのです。
そういうわけで、神様を知らない人は転んでしまう困難な状況の中でも信仰の人は希望を持って力強く走り続ける人生を生きるようになります。神様の御言葉が生きていて私たちに指針と導きを与えてくれるからです。イスラエルに律法が眠っている時、わざわいをもたらす状態になってしまいました。そこで、ハバククは彼らの回復のために祈ったのですが、ハバクク自身は御言葉を通して信仰を持ち続け、喜び勇むのです。御言葉を通して紅海を渡らせた神様、カナンを征服させられた神様、太陽も、月の動きも留まらせた神様を知り、神様の大いなる力とあわれみを信じたのです。このように、私たちが御言葉を通して神様を信じるなら、神様は私たちを雌鹿のように飛び回る自由と平和の世界に導いてくださいます。そして、これこそ私たちが信じて伝えてゆくべきことです。本当の喜び、本当の希望は私の救いの神様にあるからです。そういうわけで私たちはいちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらなくても喜ぶことができます。オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さなくても喜び勇むことができます。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなっても絶望することなく、希望を持ち続けることができます。
 それはハバククだけができたことではありません。ハバククが神様の前にとった祈りと信仰の行動は私たちもできます。今年、私たちは聖書通読リレーをして来ましたが、聖書に記されている神様の栄光と力を信じるなら、私たちも主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぶ生活ができます。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する生活ができるのです。事実、そのように生きる人々がクリスチャンです。私たちクリスチャンはすべてのことを働かせて益としてくださることを信じているからすべてのことについて感謝することができます。私たちにとって、楽しいときも、嬉しいときも、また悲しいときも、寂しいときも神様はともにいて下さって、良いことをして下さるからです。私たちが収穫感謝祭を向かえて、今年一年間を主にあって振り替えて見ましょう。
今、静に両手を胸に置いて目を閉じて思い出してみましょう。さまざまなことが思い浮かぶでしょう。でも、主にあって喜び勇み、私の救いの神様にあって喜びましょう。さらに、大いなる神様の力とあわれみを信じて祈るハバククのように生きることができるように祈ります。