2010年新年特別講義

福音は救いを得させる神の力

御言葉:ローマ1:8?17
要 節:ローマ1:16「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

神様が先週、行なわれた新年修養会を通してひとりひとりが祈り課題と目標を定め、志のある2010年を出発するようにしてくださり感謝します。東京UBFに、「回復、成長、実りある教会」としての方向を与えてくださったことも感謝します。 聖書に「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(ピリピ2:13)とあります。神様は私たちに与えてくださった志、祈り課題と目標を行なわせてくださるということです。それは私たち一人一人に神様の素晴らしい計画があるからです。「あなたには素晴らしい神様の計画があります!」とも宣言し合いましょう。私たちが、このような神様の計画を信じてすべてのことをつぶやかず、疑わずに行うことができるように祈ります。
ところが、私たちは何とかして心を新たにして新年を出発したのに、三日坊主になってしまい、つぶやき、疑ってしまいがちです。「聖書を読もう、祈ろう」としたのに、電話がかかって来る時もあるでしょう。今年は何と言われても傷つけられないと決断したのに、耐え忍ぶことの出来ないほどのことが起こる時もあるでしょう。そのような時につぶやき、疑うようになるのです。しかし、その思いに負けてはなりません。神様は「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」と言われます。今年はすべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないましょう。そうすると、私たちは回復、成長を経験し、豊かな実を結ぶようになると信じます。
私たちが疑わずに生きるためには福音に対する信仰を持たなければなりません。伝道するときも、1:1をするときも、どのような信仰を持って仕えるかによってその結果は違ってくるはずです。仕事も、子育ても、夫婦関係も、私の信仰によって状況が変わって来ます。使徒パウロは「福音は、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です」と断言しています。パウロはこの福音の力を自ら体験し、この福音をローマにいる人々にも宣べ伝えたいという志を持っていました。そして、切なる思いで祈りました。何とかしてローマに行けるようにと願っていたのです。それほどローマに行きたいと願わせる福音とはいったい何なのでしょうか。どうか、本文の御言葉を通して福音に対するパウロの信仰、その確信が私たちの確信となりますように祈ります。

?.パウロの祈りにおける切なる望み(8?15)
8節をご覧ください。「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」とあります。パウロはローマ聖徒たちのために神様に感謝します。彼らの信仰が世界中に言い広められているからです。当時ローマは世界の中でも物質的であり、快楽的な都市でした。そんな異文化のローマ社会で信仰を守ることはやさしくありませんでした。彼らに唯一の神様、創造主の神様を伝えることは難しいことでした。むしろ、先進国の彼らの前で萎縮され、弱い信仰が揺れる時もありました。しかし、そんな中でも、ローマのクリスチャンは信仰を守りつづけました。その信仰は世界中に言い広められていました。それゆえ、パウロは彼らすべてのために神様に感謝しています。
もし、パウロは今の私たちに「東京人への手紙」を書いたらなら、どうだったでしょうか。おそらく、パウロは、パウロ時代のローマのような東京で信仰の中心を守りつづけている私たちすべてのために感謝するでしょう。パウロの代わりに、「あなたのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。」と宣言し合いましょう。ではローマのクリスチャンの信仰に感謝するパウロは彼らのために何をしていましたか。
9,10節をご覧ください。「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。」とあります。パウロはローマに行って宣教することが神様のみこころであることを知り、そのみこころによってローマに行けるようにと願い、祈りつづけていました。ここで私たちはパウロが直接に出会って宣教する前、彼らのために祈っていたことを学ぶことが出来ます。しかも、パウロは継続的に祈っていました。
目に見えない、遠いところにいる人のために継続的に祈ることはやさしくないでしょう。直接的な関わりの無い人のために祈ることは決してやさしくありません。英語のことわざに「Out of sight, Out of mind」というのがあります。いくら愛していた人でも遠いところに離れて行って見えなくなると、心も遠くなってしまいます。しかし、パウロは遠く離れているローマ聖徒たちのために継続的に祈っていたのです。
私はこのことを去年のクリスマス礼拝を通して深く悟りました。礼拝に、〇〇牧者がほぼ一年ぶりに来ましたが、私は彼をみるやいなや抱きしめて泣いてしまいました。それは彼のために継続的に祈って来たからです。何だか彼のためには見えなくなっても継続的な祈りが出来ました。今まではだれでも一年ぐらい見えなくなると、その人は私の祈りの対象から消えていきました。しかし、〇〇牧者のことは消えていきませんでした。心から消えるどころか、何度も夢に見えました。それでいつものように彼のことを思い出して祈り、同労者たちにも祈りを頼んで来ました。クリスマスの前には、「〇〇牧者が去年のクリマスには仕事がありましたが、今年は仕事がないように、それでクリマス礼拝に参加するように」と祈りつづけました。ところが、そのとおりになりました。このことを通して継続的な祈りに力があることを深く悟りました。人が見えなくなっても愛を持って継続的に祈るなら、神様が人の心も動かしてくださることを悟ったのです。そこで、私は今年の方向も、もっぱら祈りに励むことを決断しました。そして、継続的に祈るなら、今は見えなくなっている牧者たちも、回復される日が来ると信じるようになりました。二階の階段にある掲示板を読んで見ると、中野雄一郎牧師は「日本人も一年に50回以上訪問すれば救われます。」と言いました。私たちが継続的に祈り、継続的に訪問して仕えるなら、この教会にも救われる人が加えられて行きます。どうか、私たちがパウロのように、継続的な祈りが出来るように祈ります。ではパウロの祈り課題は何ですか。
第一に、御霊の賜物を分け与えるために祈りました。11,12節をご覧ください。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」とあります。パウロはローマに行って自分が体験している御霊の賜物を分け与えるために祈りました。パウロは聖霊によって与えられる御霊の賜物を経験しました。人間の力によって宣教活動が実るのではなく、聖霊によって実が結ばれること体験したのです。そこで、パウロはローマの聖徒たちにも、御霊の賜物が与えられることを願い、祈ったのです。人を救う宣教は、ただ聖霊によってできるからです。実際に宣教の実は御霊が働かれるときに起こって来ます。
第二に、いくらかの実を得るために祈りました。13節をご覧ください。「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」とあります。パウロは、今までほかの国の人々の中で実を得ました。開拓のみわざに仕えながらも、多くの実を得ました。エペソのツラノの講堂で毎日1:1のみわざに励んだ時は、多くの1:1聖書先生、牧者、宣教師たちが立てられました。そうして、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主の言葉を聞く大きなみわざがありました。それを通して、パウロには地のはてにまで、全世界に福音を宣べ伝えるビジョンが与えられました。つまり、パウロには偉大な信仰と大きなビジョンがあったのです。しかし、彼は、まずいくらかの実を得るために祈りました。まず、信仰のアブラハム一人が立てられるように祈りました。ペテロ、ヨハネ、ヤコブのような3人でも得ようと思って祈りつづけたのです。ついに、彼がローマに着いた時は、いくらかの実を得るために励みました。先週学んだように、「借りた家」で1:1聖書勉強に励みました。 訪ねてくる人を迎えて大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えました。すると、聖霊はそれを土台にして働いてくださいました。借りた家で始めた1:1のみわざが広がり、313年ローマはキリスト教国家になりました。福音がヨーロッパに広がり、全世界に広がるようになりました。この福音は1549年ザビエル宣教師によってこの日本にも伝えられて来ました。ではパウロはこのような祈り課題を持って切実に祈った理由は何ですか。
14、15節をご覧ください。「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」とあります。パウロは、無差別に、どのような人に対しても福音を伝える義務を負っていると言っています。

?.救いを得させる神の力(16,17)
16節をご一緒に読んでみましょう。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」福音は御言葉です。神の御子であるイエス・キリストを知らせることばです。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことです。ローマのクリスチャンの中には、この福音を恥と思う人々がいたようです。当時、福音を信じる人々はユダヤ人から異端視され、ローマ人からは無視されていました。ローマには美しく巨大な建物が並んでいますが、教会には建物一つも持っていませんでした。ローマには素晴らしい図書館があるし、偉大な政治家、芸術家、学問をする人々がいましたが、教会にはミニー図書館さえありませんでした。宗教的に見ても、麗しい神殿に何万人の人々が訪れていましたが、福音を伝えている所は家の教会しかありませんでした。いろんな状況が福音を恥と思うようにしていたのです。しかし、パウロは、「私は福音を恥とは思いません。」と断言しています。なぜなら、福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。福音は神の力なのです。まあ教会ってあまり力あるように見えないかも知れません。むしろ、みすぼらしく見えるかも知れません。ローマの家の教会に来た人たちは「どこに力があるんだ」という方がいたかも知れません。そんな中でパウロは「福音は神の力だ」と言っています。神の力とはギリシャ語でデュナミス(Dunamis)ですが、ダイナマイトの語源になっています。ダイナマイトはいろんな形を変えてしまうものです。山すら移してしまいます。福音にはそのようなパワーがあるのです。福音には自然状況も、人の人格も、変えて行く力があるんです。その力はどのようにして現われるかというと、救いです。福音は救いをもたらす、救いを与える力です。
パウロは救いを与えるものは神様の力しかないと思っていました。それで彼は熱心に神の律法を学び、それを行なうことに熱中でした。人々から褒められ、落ち度なく踏み行なったと断言できるまでに律法を研究し、行いました。それなのに、そこに救いはありませんでした。心の平和も、自由も、喜びもありませんでした。愛を行なうことも出来ませんでした。その結果、いつも、いつも他人を裁いていました。人を罪に定めて殺すことまでしてしまいました。他人を裁いていたことは、結局、自分を裁いていたからです。それゆえに、自分も苦しかったでしょう。頑張っても、頑張っても、頑張っても心の中に平安も、喜びもなく、むしろ苦しかったのです。しかし、福音によって救われました。イエス・キリストの十字架の福音を信じて救われたのです。心の平和、自由、喜びを経験するようになりました。監獄に入れられても喜びに満ちていることができました。
アダムの子孫である私たちは罪と咎の中にあって死んだ者です。神様から切り離されています。それで、この世を支配する悪霊、サタンに翻弄されながら生きて行きます。自分は自分を赦せないとか、自分は自分が嫌いだとか、いつも他人がうらやましい、自分は愛されていない、という思いに苛まれて生きています。過去パウロがそうでした。真面目に、真面目に生きていて人々から褒められていても、彼は死の苦しみを経験していました。結局、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれが、この死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫ばざるを得ませんでした。アダムの子孫である人間は誰でも、パウロのような状態に陥っています。ただ、それに気づいている人もいれば、気づいていない人もいるといことです。ところが、イエス・キリストを信じて救われると、神様との関係が回復されます。神様に認められ、神様に愛されている自分を発見するようになります。自分のことが好きになります。他人のことをうらやまない、裁かないで尊敬ができるようになります。自分が自分のありのままを受け入れることによって他人を受け入れ、尊敬できるようになるのです。それが救われた状態、ノーマルな状態です。自分が自分として生きるようになるからです。その人の心に、喜びと平安、感謝があります。そのように、人を死の苦しみから救って正常に生きるようにしてくれる神の力、パワーが福音にあるのです。
では、福音はだれを救うでしょうか。福音の力はどのようにして効果が現われるでしょうか。信じる者に福音の力が働きます。福音の力は物理的な力ではなく、言葉によって働く霊的・人格的な力ですから、その言葉を信じて受け入れる者だけに働きます。電子レンジに使用されるマイクロ波は金属に当たると反射し、プラスチック・セラミクスなどは透過し、水などに当たると吸収されるという性質を持っています。つまり、電子レンジ加熱では、マイクロ波によって食材に含まれる水の分子がその周波数だけ動かされ、分子同士で摩擦熱を発せさせます。そのように福音が告げ知らされている場にあっても、その言葉を信じない者には何の変化も起きません。しかし、それを信じる者には、この神の力が働き、人の思いを超えた変化が起こります。
福音を信じていれば変えられていきます。皆さんが福音を信じてここに来ていることは大きな恵みです。
多くの人々が「信じよう、信じよう」としても信じられないと言っているのに、信じるようになったからです。信じるということはただ受け入れることです。イエス様は私の罪を贖うために十字架につけられて死なれました。「はい、そうです。その事実を受け入れます。「イエス様を信じると罪が赦されます」と言われる」と「はい、信じます」。「イエス様を信じると神様と和解して関係性が回復されます」と言われると「はい、信じます。私は神様の子どもです。」「イエス様を信じると聖霊の力が与えられることも、天国も信じます。」このように信じればよいのです。ただ受け入れるのです。聖書に示された神様の愛を信じる者に神様の愛が働きます。そういう人に福音は力を発揮します。ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、日本人にも、韓国人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。ですから、義人は信仰によって生きるのです。
17節もご一緒に読んでみましょう。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」神の義とは、神様が「義」と認めてくださる義です。その義は、「信仰に始まり信仰に進ませる」と書いてあります。この言葉はNIV聖書に「A righteousness that is by faith from first to last.」と訳されてあります。神の義は「初めから最後まで信仰によって得られる」と言うことです。ですから、旧約時代も、新約時代も義人は信仰によって生きました。信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。信仰によってイサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。信仰によってヤコブは死ぬとき、ヨセフの子供たちをひとりひとり祝福しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。・・・・これ以上、何を言いましょう。もし、ギデオン、バラく、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の人生を陥れました。(ヘブル11章参照)。彼らは信仰によって神にしか出来ないことを自分の目で見、体験したのです。このように、信じる者にはどんなことでも出来るのです。
ですから、私たちは個人生活も、日本宣教も信仰に始まり、信仰に進ませなければなりません。私たちは何をしても、ひたすら神様を信じて、神様を待ち望むのです。今年、私たちは自分のアイデンティティも、教会のみわざもを回復し、成長すること、実りある教会になることを期待し、信じています。私たちの知恵を遥かに越えること、神にしかできないことも見せてくださると信じます。今、病んでいる方がいらっしゃるでしょうか。癒し主の神様を信じてください。そうすれば癒されます。さまざまな問題で悩んでいる方がいらっしゃるでしょうか。神様の救いを信じて神様を待ち望んでください。神様のよしとする時に、その問題を解決してくださいます。
この手紙はパウロが「ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。」書き送ったものです。つまり、ローマにいるすべてのクリスチャンは神様に愛されている人なのです。同様に、私たちも神様に愛されています。「あなたは神に愛されています。」と宣言し合いましょう。神様は神様に愛されている私たちが「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力で」であると信じることを切に願っておられます。どうか、私たちがパウロのよう、福音は救いを得させる神の力」を信じて福音のために励むことが出来るように祈ります。