2010年箴言第4講 寺崎アブラハム
正しい者の結ぶ実
御言葉:箴言10,11章
要 節:箴言11:30
「正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。」
箴言8:17節で、ソロモンは言いました。「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」誰でも、熱心に知恵を捜し出す者は、知恵を見出すことができます。私たちが神様を愛する時、神様は私たちを愛してくださいます。それで時間をかけて、財産を投資し、力の限り、知恵を求める生活をすべきであることを学びました。
本文の御言葉には、「正しい者」と「悪者」が対照的に出ています。彼らはそれぞれ異なった価値観を持っています。当然ライフ・スタイルも違って来ます。その実も違います。では、「正しい者」が結ぶ実とは一体どんなものなのでしょう。また、その実を結ぶためには、具体的にどのような生活をすればよいのでしょうか。
?.愛はすべてのものを覆う
2節をご覧ください。「不義によって得た財宝は役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。」ここで、「不義によって得た財宝」とは正当な方法で得ていない財産を意味しています。ガンジーの言葉を借りるとするなら、「労働なき富」(七つの社会的大罪より)です。民主党の小沢幹事長は「不透明な政治献金」のために検察庁から事情徴収を受けています。国会からも非難の声が上がっています。鳩山総理はこの政治献金のために、野党から非難され、頭を悩ましています。この報道を見て、世の人々は「不正なんか行なわずに、正しいことをすればよいのに」と思っています。しかし実際に目の前に大金を積まれるとどうでしょうか。テレビでは連日のように「宝くじ」の宣伝が流れています。一等賞金三億円を手に入れることを夢見て、購入します。中には、一等が当たったその場所まで足を運んで、宝くじを購入します。パチンコ、競馬、競輪、競艇とギャンブルも盛んに行われています。株式に手を染める人もいます。非合法の賭博店に出入りする者もいます。しかしその中で、大金を手に入れる人はほんの一握りに過ぎません。中には、あまりにも賭博にはまるあまり身を滅ぼした人もいます。運良く大金を手にしたとしても、快楽のために放蕩して財産を使い切る人も少なくありません。大金を手に入れると、人間関係がおかしくなります。それで著者は「不正によって得た財宝は役に立たない」と言っています。
一方、「正義」はどうでしょうか。「正義は人を死から救いだす。」とあります。では、「正義」とは何でしょうか。よくテレビでは「正義の味方」が登場します。仮面ライダー、ウルトラマン、シンケンジャーは子どもたちには大人気でよくまねをします。また「暴れん坊将軍」「水戸黄門」は長年に渡って根強い人気があります。「勧善必罰」の思想がしっかりしているため、内容は単純であっても、最後に悪者がさばかれる場面では爽快な気分になると言います。それで子どもの名前を「正義」とする人は少なくないでしょう。「真理」という名前もいます。イエス様は決して変わることのない真理です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハ14:6)このイエス様を信じる信仰によって、すべての罪が赦されました。またこのイエス様を受け入れることによって、神様の子どもとなり、永遠の天の御国に入る恵みを受けました。
6節以下で、ソロモンは「正しい者」の口について言及しています。「正しい者の口はいのちの泉」(11)、「悟りのある者のくちびるには知恵があり」(13)、「自分のくちびるを制する者は思慮がある」(19)、「正しい者の舌はえり抜きの銀」(20)、「正しい者のくちびるは多くの人を養う」(21)など、です。「ことば」とは実に不思議なものです。同じ人の口から出るものなのに、その時の状況によって出てくる言葉が違ってきます。ある時には「ありがとう」と感謝のことばが出てきます。しかし別の時には「もう嫌だ」と不平不満が出ます。そのつもりはないのに、ちょっと言葉が足りなかったために、相手を傷つけてしまう場合もあります。また、同じ言葉であっても、言い方によっては、全く別の意味として伝わってしまうこともあります。「良いです」ということは、本来「イエス」という意味があります。「聖書勉強しませんか」と聞いて、「良いですね」と答えが返ってくると、同意になります。ところが語調変えて「もういい」と言うと、それは拒絶の意味になってしまいます。そのため同じ日本人同士であっても、なかなか心が通じずジレンマを感じる場合があります。まして言葉も文化も習慣も違う人同士が会話をすればなおさらのことです。ある人が道を歩いていて、頭をぶつけた場合、何と言って声をかけるでしょうか。「頭、大丈夫」と言えば、誤解が生じます。「大丈夫ですか」と心配そうに話かけるのではないでしょうか。私たちの教会に信仰の幼い兄弟姉妹が訪ねて来た時、実際のクリスチャンのライフ・スタイルを見て、つまずいてしまうこともあります。それでイエス様は弟子たちに言われました。「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。」(マタ18:6,7)。それで「職場でも、教会でも、家庭でも、良い影響を与えよう」と祈りの課題をつかみ、血のにじむような闘争をする方は少なくないと思います。最初のうちはうまく行っても、次第にまた罪の本性が出て来ます。何気ない一言、ちょっとした行ないによって、知らず知らずのうちに、周りの人を傷つけてしまいます。一緒に住む同労者に対して、つい気がゆるみ、ついポロリと言ってしまいます。気がつけば、そばにいた同労者の心に傷ができ、「言わなきゃ良かった」と後悔する日々が少なくありません。一体どうすればよいのでしょうか。すぐに謝って和解することです。更に進んですべきことがあります。
12節を一緒に読みたいと思います。「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」ここで、「感情に振り回されてはいけない」ことが学べます。もちろん「罪」に対して、「正しくないこと」に対しては、積極的に戦う必要もあります。しかし感情によって生じた「憎しみ」はすぐに抑える必要があります。そのためにはどのようにしたら良いのでしょうか。十字架の上のイエス様を仰ぎ見ることを通して、です。イエス様は、私の罪ととがを背負って、十字架につけられました。十字架の上で尊い血を流されました。このイエス様の十字架の血によって、私のすべての罪が洗い流されました。すべてのとがが赦されました。この愛は条件のない「アガペ」の愛です。私たちがありのままの姿でイエス様の御前に出て行くなら、イエス様は私たちをありのままの姿で受け入れてくださいます。罪の奴隷から解放してくださり、神様の尊い子どもとして変えてくださいます。このイエス様の愛を覚える時、私たちも周りの人のあやまちを赦す力を得るようになります。「愛の章」と言われる?コリント13章で、使徒パウロは次のように言っています。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。」(4-6)。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13)。この教会には、多くの兄弟姉妹たちが訪問しています。しかし最初から真理の御言葉に興味を持って訪問する人はそんなに多くないと思います。心に何か問題を生じて来る人もいます。あるいは韓国語を学ぶために、訪問する人もいます。私も最初は聖書勉強にあまり関心がありませんでした。大学一年の時には、神様の愛よりも、マンツーマン牧者の愛を求めて聖書勉強を始めました。最初は聖書に対して、あまりよく理解できませんでした。またなぜマンツーマン牧者があいさつをし、毎週食べ物を用意してくれるのか、が理解できず反発もしました。しかしある日その理由を知るようになりました。聖書勉強を通して、私たち人間に向けられた神様の大きな愛と、豊かな恵みについて、理解するようになりました。その神様の愛と恵みに基づいて、この私をも受け入れてくれるマンツーマン牧者の愛を悟るようになりました。そして私のために、とりなしの祈りをささげてくれた愛を知るようになりました。周りにいた他の牧者たちは、私が聖書勉強を始めた当初から、「あなたは日本のアブラハムだ。」と声をかけて来ました。「なぜならあなたの苗字がテラサキだから、テラの子どもでアブラハム」とその理由を説明してくれました。私に向けられた神様の大きな愛と、豊かな恵みを悟る中で、私もこのイエス様の愛を証し、実践したいと思いました。大学卒業後には、東京に来ました。ところが長い間、具体的に聖書勉強する学生たちがいませんでした。その中で、神様は、今カナダで主の御業に仕えている李カレブ宣教候補を遣わしてくださいました。当時高校生だった彼に二年間聖書を教えていました。今考えると、特別彼にしてあげたことは何もありませんでした。ただ毎週聖書勉強と主日礼拝参加のために教会にやってくる彼に聖書を教え、祈るだけでした。彼が特別聖書の御言葉に関心があるようにも、思えませんでしたが、それでも聖書を教え続けました。その彼がカナダに渡りました。そして昨年には「カナダで永住権を取り、牧者として生きる」と決断しました。それで宣教候補となり、カナダの御業において、なくてはならない存在に変えられていきました。それを通して、私は一つのことを学びました。「マンツーマン牧者は羊に対して、決して望みを捨ててはならない」ことでした。たとえ他の宣教師、牧者がどのように評価したとしても、少なくともマンツーマン牧者は自分の羊に望みを置いて、いつも肯定的な言葉で接する必要があります。御言葉の種を蒔いて、すぐに実を結ぶことがなくても、失望する必要はありません。時になると、種は成長し、豊かな実を結ぶようになります。これは子どもの教育においても同じことが言えます。子どもは親の信仰どおりに育っていきます。だから「お前はだめな子だ」と言う代わりに、「お前はできる」といつも話しかえる必要があります。今ここにいる兄弟姉妹たちもイエス様の大きな愛によって救われます。変わらない愛によって変えられます。歴史を変える、偉大な人生を歩むようになります。日本の国を動かす偉大な人物に変えられていきます。イエス様が私たちに置かれたビジョンは何でしょうか。どのような望みの中で、私たちを召され、導いておられるのでしょうか。イエス様は、今この時間も、同じ望みの中で私たちを導いておられます。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブ13:8)。私たちがこのイエス様にとどまる生活ができるように祈ります。更に進んで、キャンパスの学生たち、自分の近くにいる同労者、自分の周りにいる人々に、このイエス様の愛を証し、実践することができるように、祈ります。
?.正しい者が結ぶ実
私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、神様から義と認められました。またイエス様の十字架の恵みによって神様の子どもへと身分が変わりました。ところがこの地上で生活をしている限り、私たちの目の前には常に衣食住の問題がついて回ります。教会から一歩外に出ると、私たちの周りにはノン・クリスチャンたちがいます。彼らの生活を見ていると、なんだか彼らのほうが自分たちよりも豊かで、余裕があり、成功した人生を歩んでいるように思える時があります。子どもの養育、自分たちの老後の問題、経営不振による倒産、会社統合によるリストラを考えると、どうしていいのか、分からなくなる時があります。そのような現実の中で、ソロモンは正しい者が受ける実について、言及しています。
「主は正しい者を飢えさせない。」(10:3)。「正しい者の報酬はいのち。」(10:16)。「主の祝福そのものが人を富ませる」(22)、「主を恐れることは日をふやし。」(10:29)神様は信仰によって生きる人々を喜ばれます。それで私たちがこの地上で、主と福音のために熱心に生きる時、神様は私たちに必要なすべてのものを備えてくださいます。それも豊かに与えてくださいます。イエス様は弟子たちに言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタ6:33)それだけではありません。神様は私たちのとりでになってくださいます。「主の道は、潔白な人にはとりでである。」(10:29)。さらに進んで、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。それで私たちはどんなものでも積極的に神様に祈り求める生活ができるのです。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(?ヨハ5:14)仕事のために、進学のために、健康のために、家族の福音化のために、子どもの成長のために、私の霊的な成長のために、きよい生活ができるように、更に進んで、今仕えている方々が救われるように。祈りを聞いてくださる神様を信じ、豊かに施してくださる神様に期待し、祈りが聞かれるまで、積極的に祈るのです。すると神様は必ず私の祈りを聞いてくださいます。創世記には、信仰の先祖アブラハムが出て来ます。彼は子どものいない75歳の老人でした。彼の父テラは偶像を作って生計を立てていました。このようなアブラハムに神様は現れて言われました。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創12:1)。神様はアブラハムをカナンの地に導かれましたが、そこには先住民がいて、アブラハムのいる場所はありませんでした。その時、ききんが起こりました。アブラハムはカナンの地を離れ、エジプトに行きました。そして恐怖のあまり、妻サラが妹であると、偽りました。しかし神様はこのアブラハムを保護してくださいました。パロの手から保護されただけではなく、多くの家畜を持つようになりました。生涯の中で、アブラハムが行なったことは、神様の約束の御言葉を信じ続けたことでした。もちろん多くのあやまちを犯しました。しかし神様はアブラハムの罪ととがを覆ってくださいました。むしろ信仰によって生きたアブラハムをあらゆる面で祝福してくださいました(創46:1)。多くの奴隷、多くの財産が与えられました。アブラハムが井戸を掘ると、水が出て来ました。強大国の王を相手に戦いで勝利を収めました。神様のしもべとして、当時の有力者たちから一目置かれていました。時になると、後継者イサクが生まれました。子宝に恵まれました。彼の子孫からイスラエルの王ダビデが生まれました。またダビデの子孫から救い主イエス・キリストがお生まれになりました。神様の約束どおり(創12:2,3)、アブラハムは祝福の代名詞となりました。アブラハムの霊的な子孫が世界中にいます。また、アブラハムの祝福にあやかりたいと、私のように、名前を「アブラハム」とつける人もいます。誰でも信仰によって歩むなら、アブラハムの子孫です。アブラハムに臨まれた神様の約束を、そのまま私たちは引き継ぐことができます。
「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創15:1)神様は私たちの盾になってくださいます。また私たちの祈りを聞いてくださいます。私たちが神様に叫ぶ祈りをする時、神様は私たちの抱いているすべての思い、わずらい、恐れ不安、悲しみを取り除いてくださいます。その代わりに、平安、希望、確信を植えてくださいます。
11:13節をご覧ください。「歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める。」秘密を守ることは人間関係を維持して行く上で大切なことです。特に、医者、弁護士、介護福祉士などの職業についている人は「守秘義務」が法律で定められています。業務上知り得た情報はすべて外部にもらすことはできません。その仕事を離れてからも生涯守秘義務がついて回ります。破ると法律で罰せられます。正しい目的であっても、悪い目的であっても、信頼関係を維持して行く上で、私たちは知恵を持って対処していく必要があります。そうしなければ人間関係が崩れ、相手に深い傷を与えてしまうからです。一方、神様はアブラハムを友として受け入れてくださいました。イエス様も、弟子たちを友として向かえてくださいました。この弟子たちに、御旨を明かされました。霊的な世界、信仰の世界を明らかに示してくださいます(ヨハ15:14,15)。
30節を皆さんと一緒に読みたいと思います。「正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。」正しい者が結ぶ実は「いのちの木」です。ヨハネの黙示録22:1,2節では、いのちの木について、次のような記録があります。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」イエス・キリストを信じる者は、誰でも天の御国で「いのちの木」の実を取って食べることができます。
さて、日本の民家には大抵柿の木が植えられています。地震の多いこの国では、地の深いところまで根をはって、地震から守ってくれるからです。毎年夏には青い葉が生い茂ります。秋になると、青い実がなり、だいだい色に熟していきます。しかしその頃になると葉が落ち始めます。熟した実が落ちて地面はべたべたになります。それで毎日掃除をしなければなりません。熟した実が渋柿の時にはがっかりします。甘柿であっても、実が小さく、種があり、果物屋で売っているものに比べればあまり甘くありません。それでも収穫し、近所の人たちに配って喜びを共にします。(時々、私もバケツ一杯に柿の実をもらうことがあります。渋柿は干し柿にし、甘柿は皮をむいて丸かじりにします。本当に何日かけても食べきれないほどです。)
正しい者が結ぶ実は「極上のもの」です。この実を食べるものはたましいが生かされます。すべての病が癒されます。傷ついた心もいやされます。誰でも来て、自由に取って食べることができます。私一人の信仰によって、周りにいる人々が良い影響を受けます。いのちの御言葉を得て、救いを受けるようになります。更にその人も実を結び、救いの御業が継承されるようになります。国を超え、言葉を超え、文化と習慣の壁を乗り越えます。いつでも、どこでも、誰にでも、イエス様の救いの御手が臨まれます。それで多くの人の心をとられるようになります。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださいます(使2:46,47)。その教会は栄えて行きます。
結論的に、正しい者は「いのちの木」を実として得ます。知恵ある者は「人の心」を得ます。この時代、私たちが主と共に歩む中で、いのちの実を結び、多くの人々を救いに導く御業に尊く用いられますように、祈ります。私たちがどこにいても、何をしても神様から喜ばれ、栄えるように、心からお祈りします。