2010年箴言第7講
主の名は堅固なやぐら
御言葉:箴言17-19章
要 節:箴言 18:10「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」
先週、私たちは言葉遣い、家族愛、神様の摂理に委ねて生きることについて学びました。午後は映画「ワールド・トレード・センター」もを見ました。この映画は不思議にも、家族愛の素晴らしさを悟らせてくれました。私は神様がセッティングしてくださった映画上映だなあと思われました。映画を見ると、主人公は人命救助のために世界貿易センターに駆けつけ、崩落に巻き込まれてしまいました。希望を持てない状況になってしまいました。私はそんな中で妻や子どもたちとの思い出にすがる主人公、その建物の暗やみの中に現れたイエス様の御姿を通して家族愛の素晴らしさ、信仰の大切さを深く悟り、感動しました。それで、私は、家でも教会でももっともっと良い思い出を作って行こうと思いました。今つくれる小さな思い出が危機の時には大きな力になるからです。
このような家族愛については先週も学んだので、今日は「主の名は堅固なやぐら」であることを中心に学びたいと思います。皆さん、名前にはどんな意味があるでしょうか。もし、「幸子」なら「自分の子どもが幸せになることを願う親の心が込められているでしょう。「直美」という名前には「直に美しい人、顔も、心も、人生そのものが直に美しい人」になるようにという願いが込められているのでしょう。私の父は私に「台棟」という名前をづけてくれましたが韓国語では「星と柱」の意味があります。父は長男である私が家門の星、兄弟たちの柱となることを期待していたようです。このように、名前には、それぞれ親の思いや状況が見え隠れています。神様のお名前には、それ以上の意味があり、神様のご性格やその心が表明されているのです。聖書の中には、神様がいろいろな方法を用いて、人々にご自分がどのような神であるかを現わしておられる様子が記されています。人々が神様と出会い神様を知るようになったとき、その都度彼らは神様に新しい名前をつけたのです。箴言の著者は神様に「堅固なやぐら」とう名前をつけています。
18章10節をご一緒に読んでみましょう。「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である」やぐらは人々の安全のために、敵の攻撃から民を守るために城門や城壁の上に造った力の塔、a strong tower(新共同訳、NIV)です。やぐらの上に見張りたちが立っていて彼らは敵の状態を偵察して敵が現れると、攻撃される前に彼らを攻撃して民を守ってくれました(列王記9:17)。先週の日ごとの糧の御言葉を通してもやぐらについて学びましたが、ウジヤ王は民の安全のためにやぐらを建てています。彼がまだ主を求めていた間、神様は彼を栄えさせましたが、聖書に「ウジヤはエルサレムの隅の門、谷の門及び曲がり角の上にやぐらを建て、これを強固にし、荒野にやぐらを建て、多くの水ためを掘った。(?歴代誌26:9,10a)」とあります。つまり、やぐらは人々を敵から守り、保護してくれるところです。人々は自分の町に、自分の地域に堅固なやぐらがあればいつも安全でした。敵の襲撃がある時にもやぐらに避難すればいのちが守られました。やぐらは一番安全な避難場所であったのです。それで、ウジヤ王は神様が彼を助けてくださった時に多くのやぐらを建て、それを強固にしたのです。ところが「主の名は堅固なやぐら」とあります。主は私たちを安全に守ってくださる堅固なやぐらなのです。それで正しい者はその中に走って行って安全を得ます。私たちを安全に保護してくれる避け所はこの世の財産でもなく、知識や名誉でもありません。ただ神様だけが私たちを安全に守ってくださいます。私たちは堅固なやぐらである主の御名の中に走って行って安全です。苦しい時、疑いの中にいる時、不安な時、恐れのある時、私たちはどこに走って行けばよいでしょうか。主のやぐらの中に走っていって、そこに平安を得ることができます。そこで勝利を見ることが出来ます。
昔、イスラエルがペリシテ人と戦う時、ゴリヤテという巨人がイスラエルを脅かしていました。イスラエル人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れました。しかし、ダビデはまだ若くて、紅顔の美少年だったにもかかわらず恐れることなく、ゴリヤテに言いました。「お前は剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、お前がなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によってお前に立ち向かうのだ。」と。結局、万軍の主の御名によって立ち向かってダビデはゴリヤテを倒して勝ちました。その後も、ダビデは主の御名に頼って連戦連勝するようになります。このように、私たちも主の御名の中にいて御名によって戦うなら、ダビデのように勝ち続けることができます。患難があっても、苦しみ、迫害、危険があっても、結局は、圧倒的な勝利者の人生を生きるようになるのです。ですから、私たちは何をしても主の御名の中にいることが大切です。ヨハネの福音書17章を見るとイエス様は「あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。」と祈っておられます。この祈りは、今日私たちのためにも祈られていることです。つまり、イエス様は私たちが堅固なやぐらである御名の中に保たれていることを望んでおられます。主のお名前が現わしている神様の素晴しさを個人的に体験し、知るようになり、そこに平安を得るようになることを願っておられるのです。では、私たちはどのようにして堅固なやぐらである主の御名の中にいることができるでしょうか。どうすれば「主の名は堅固なやぐらです」と言える体験ができるでしょうか。
第一に、常に謙遜であることです。18章11?13節をご一緒に読んでみましょう。「富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。」金持ちは多くの財産によって自分の安全を守る城壁にしようとします。自分の財産が大きな力になると思っています。それは高慢です。財産が大きな力になれると思いますが、それも空しい夢です。財産のために、夫婦が離婚し、相続財産のために兄弟たちが喧嘩して別れてしまう場合も数えきれません。自分の財産を城壁のように思う心の高慢は破滅に先立つのです。心の高慢は神様を無視し、秩序を破壊します。貧しい隣人を無視し、弱者を蔑みます。人の話をよく聞かないうちに返事をします。心の高慢のために人の話よりも自分が言いたいことばかり考えているからです。そういう人は神様の御言葉を読み、学ぶ時にも、自分のことを顧みて悔い改めようとしません。それよりも、人のこと、教えることだけを考えているから自分の心には何も吸収されません。御言葉を個人的に体験し、知ることが出来ません。神様に守られ、助けられることが出来ません。むしろ、よく聞かないうちに返事をしてしまったその言葉によって侮辱を受けるようになります。この間、私は土曜日、仕事から家に帰った時、家にいた次男の息子に何をしていたのかを聞いて見ました。息子はすぐに答えてくれませんでした。それで私は彼の返事を聞かないうちに「お前は何もしないで寝転んでいたでしょう。」と言いました。すると、息子は「パパは何を言っていますか。妹にピアノを教えたし、図書館で本を読んできたんですよ。」と言いました。「愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる」のに、私は自分の愚かさを子どもに見せてしまいました。よく聞かないうちに返事をしてしまい、子どもから侮辱を受けたのです。これは小さなたことですが、「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」ものです。私たちが常に謙遜になっている時、神様が守ってくださいます。謙遜に生きると、人々からも愛され、栄誉を受けるようになります。
第二に、誠実に歩むことです。19章1節をご覧ください。「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」とあります。やぐらから見ると、敵たちを偵察することもできますが、山地や果樹園で働いている農夫たちを見ることも出来ます。つまり、農夫たちが誠実に働いているかどうかを見ることが出来るのです。天のいと高き所のやぐらにおられる神様は私たちがどのように歩んでいるのかを見ておられます。父に乱暴し、母を追い出しているか、どうか、父の訓戒を聞いているかどうかを見ておられます。私たちが誠実に生きているかどうかが見られているのです。そして、19章15節に「怠惰は人を深い眠りに陥らせ、怠け者は飢える」とあります。ですから、私たちは勤勉に、誠実に歩む生活をしなければなりません。天のいと高き所にあるやぐらから私たちを見ておられる神様は貧しくても、誠実に歩む者を祝福してくださいます。イエス様もマタイの福音書25章で誠実に歩む者を祝福してくださることを教えてくださいました。天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡しました。すると、二人は誠実に歩み、忠実に働いて与えられたものの二倍にしていました。そこで、主人は「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と称賛してくださいました。ところが、一タラントを預けられた人は誠実に歩みませんでした。彼は一タラントのままを持っていました。そこで主人は「悪い怠け者のしもべだ。」と叱られました。神様は怠け者を叱られ、誠実な者を祝福してくださったのです。私たちが日々誠実に歩むなら、神様は私たちの安全を守り、「よくやった。良い忠実なしもべ」という称賛ともにもっと大きなことが出来るように助けてくださいます。
先週、大分のレイ・グロンディン宣教師は大分にあるO?Ridというコンピュータ会社の第三次面接にも合格して就職が決まりました。大学のシステムの研究及び開発が仕事の内容で祈っていたとおりに大学とかかわる仕事が出来るようになりました。私は彼のことを通して貧しくても誠実に歩んだ者を神様が守り、祝福してくださることを深く悟りました。去年の夏、彼は食べるにも苦しいほど貧しくなりました。シャワーをしたくても、水道料を節約するために我慢しました。それほどの貧しく、苦しい状況の中でも曲がったことを一度も言いませんでした。電話をすると、いつも明るく、アルバイトをしながら誠実に歩んでいました。きっとそのような彼の生活は天の堅固なやぐらからご覧になっていた神様に見られたでしょう。神様はこの不況の中でも彼をふさわしい会社に導いてくださいました。どうか、私たちがどんな時にも、曲がったことを言わないで誠実に歩む者であるように祈ります。
第三に、主を恐れることです。19章23節をご一緒に読んでみましょう。「主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。」1章7節には「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」とありました。では「主を恐れる」ということは何を意味するでしょうか。それは主であられる神様を恐れ敬うことです。いつでも、どこでも、主が見張っておられることを意識して生きることでもあります。主の御前で心を守り、話をし、行動することです。まず、心を守ることです。
17章22節に「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨をからす。」とあります。また、18章14節を見ると「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」とあります。心の状態は身体の状態にも影響することが分かります。それで、箴言は「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(4:23)」と語っています。私たちが心を守って主を恐れ、心を尽くし、誠意を持って主に仕えるなら、神様が私たちに偉大なことをなさってくださいます。次に心から出る言葉も守らなければなりません。
18章20,21節をご覧ください。「人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」とあります。先週も言葉の重要性を学びましたが、ほんとうに言葉には力があります。「死と生は舌に支配される」とあります。「死」という言葉を愛して否定的な言葉を言い続けるなら、その人がその実を食べるようになります。どんな人でも、否定的な言葉を言われ続けると、モティベーションが下がります。最初にどんなに「やる気」があったにしても、否定的な言葉が横行するとマイナス思考になります。死に支配されるようになるのです。しかし、生を愛して人を生かすことば、やる気の出る言葉、前向きになる言葉、肯定的な言葉を言われ続けると、どうなるでしょうか。人はその実を食べるようになります。言われた通りになります。
私は子どもの時、否定的な言葉も、肯定的な言葉も聞きながら成長しました。一緒に住んでいた父の兄弟たちからは否定的な言葉をよく聞きました。「お前はノロノロとしていて何ができるか。頭だけが大きくてカボチャのように転がっているようだ。」と言われました。ところが、母の兄弟に会うと、母方のおばたちはいつも肯定的な言葉を言ってくれました。「福耳できっとあなたは祝福される。」と。また、母には「あなたは祝福された女だ。長男が真面目な人だから、あなたの老年は祝福されるよ。」と言っていたのです。おそらく、姑とその家族に仕えながら苦労している母を慰めるために言っていたと思いますが、そのような言葉が私に肯定的に考え、肯定的言葉、プラス思考の言葉、ポジティブな言葉を使うようにしてくれたと思います。何よりも、私が宣教師になって良かったと思うのは、主を恐れ敬う言葉をよく言えるようになったことです。また、人々を祝福するようになったことです。祝福の言葉を言う時に、主がともにいてくださり、私も祝福してくださるからです。私たちが主にあって人々を祝福すると、私たちはその言葉の実を食べるのです。結局、私たちは言葉を通して主の御名の中にいることができるのです。
私たちが神様をどんな方として知っているかということは大切なことです。今、ベンキューバーでは冬季オリンピックが行なわれていますが、浅田真央という名前を聞くだけで、何となく期待が持てるような気分になりますね。神様の名前はすべての場面で、そういう期待以上の何かを提供してくださっているのです。主の名は堅固なやぐらであると知り、そのように信じているなら、ほんとうに神様は私たちにとって堅固なやぐらになってくださいます。出エジプト記にはこういう記述があります。私が好きな箇所ですが、紹介します。「主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰するべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」(出エジプト34:5?7)つまり、神様の名前を口にするとき、この神様は、憐れみ深く、恵みに富み、忍耐深く、慈しみとまことに満ち、赦してくださるお方だなということを認識できるはずなのです。そして、新約聖書では、そのお名前はイエスという名前の中に集約されているのだと教えているのです。御名をたたえる、とか、御名を喜ぶという表現は、その名前の中に神様の本質的な心がはっきりわかって、安心や希望をそこに見出し、心が躍るというような意味があるのです。どうか、今週も堅固なやぐらである主の御名によって平安と恵みに満ちた日々をすごすように祈ります。