2012年ルカの福音書第8講 

聞き、行なう人

御言葉:ルカの福音書6:20-49
要 節:ルカの福音書6:47-48 「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。」

先週、私たちは祈るために山に行かれ、神様に祈りながら夜を明かされたイエス様が弟子たちの中から12人を選び、使徒という名をつけられたことを学びました。その後、イエス様は彼らと共に山を下り、平らな所にお立ちになりましたが、大勢の民衆がそこにいました。そこで、イエス様は彼らに教え、大きな力で彼らを癒されました。そして、イエス様は目を上げて弟子たちを見つめながら話し出されました。大勢の民衆がいましたが、イエス様は弟子たちを見つめながら話し出されたのが今日の本文なのです。従ってイエス様を学び、イエス様に従おうとする弟子たちの生き方を学ぶことができます。それは人生を幸いに生きる生き方です。本文の御言葉を通して自分の生き方の方針を明確にして行くことができるように祈ります。

 第一に、常に謙遜である者は幸いです
20-23節をごいっしょに読んでみましょう。「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は、幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」
一般的に貧しい者に「あなたは幸いです」と言えません。今飢えている人にもそうです。食べ物だけではなく、愛情に飢えている人にも「あなたは幸いです。」と言えません。そのように言うなら怒られるでしょう。もし、近くの戸山公園にいるホームリスの方に「あなたは幸いです。」と言うなら怒られるのではないでしょうか。キリストの弟子ではない人にそんなことを言ってはいけないでしょう。事実、イエス様の弟子でもなく、ただ貧しく飢えているなら不幸せでしょう。さらに、貧しさのために無視され、辱められるなら本当に悲しいことです。しかし、キリストの弟子たちは違います。イエス様は弟子たちを見つめながら「貧しい者は幸いです。」とおっしゃいました。弟子たちは貧しい者が幸いなのです。なぜなら、「神の国」が自分のものだからです。「神の国」とは、『神様が支配する所』という意味です。つまり、全能の神様、愛と公平の神様が支配してくださる国です。自分は金持ちだ、富んでいるのだと思っている人は神の国を求めません。神様に頼り、神様に支配されることを願いません。ですから「神の国」を経験する事もない訳です。しかし、実際的な生活面においても、心の面において貧しい者、今飢えている者は本気で神様を追い求めていくでしょう。キリストの弟子なら神に祈りながら夜を明かされたイエス様のように神様に頼り、懇切に祈り求めるのです。すると、全能の神様が彼を助け、満ち足りるようにしてくださいます。それで夜通し働いても魚を一匹も取れなかった人がたくさんの魚で網が破れそうになる奇跡を体験します。海の中にいる魚たちも支配しておられる神の国を体験し、神様によって満ち足りるほどに祝福されるのです。偉大なが神様が大きな力で癒してくださることも体験します。だから幸いなのです。弟子なら、いま泣く者も幸いです。やがて笑うようになるからです。
この世の人々は良いことも悪いことも一緒にしながら親しくなります。時には酔っぱらっても付き合いをしなければ親しくなりません。それで弟子たちが敬虔に生きようとすると迫害を受ける時があります。お酒を飲まなかったことで、二次会、三次会に行かなかったことで憎まれ、辱められるのです。しかし、キリストのために憎まれ、辱められるなら、天での報いがあります。キリストのために迫害を受ける人が受ける報いは大きいです。それで、イエス様の弟子たちはキリストのために憎まれ、辱められ、自分の名が悪しざまにけなされる時はおどり上がって喜ぶほどに幸いな者であること知らなければなりません。ではどんな人が哀れな者なのでしょうか。
24-26節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、あながた富む者は、哀れです。慰めを、すでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れです。やがて、飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは、哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。みなの人にほめられるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。」
イエス・キリストは『あなたがた富む者は、哀れです』と言われました。それは『慰めを、すでに受けているからです。』地上で既に富みを得てしまったが為に、天国ではもうもらえないのです。また、いま食べ飽きている人も哀れです。やがて、飢えるようになるからです。
結局、イエス・キリストの貧しい者が幸いです。マタイの福音書によると心の貧しい者です。つまり、イエス様の弟子として自分の貧しさ、飢えている現実を認めて泣く者が幸いです。謙遜になって自分を貧しい者、飢えている者、泣く者として理解し、認識している人は幸いです。その人は神様に頼り、神様に祈ることによって神の国を体験します。神様の民として神様に愛され、助けられてこの世でも満ち足りるようになるからです。さらにキリストの弟子らしく生きるために憎まれ、辱められている人も幸いです。その人はおどり上がって喜びなさいと言われました。その人の天での報いは大きいからです。しかし、ちっぽけな自尊心のために今の自分は富む者だ、食べ飽きているから大丈夫だと思っている人は哀れです。さらに自分の失敗、自分の罪と咎のために人々から嫌われ、憎まれ、辱められているならなおさら哀れです。その人はやがて飢えるようになるからです。その人は地獄での報いが大きくなるでしょう。どうか、私たち一人一人がイエス・キリストの弟子として心の貧しい者として常に謙遜に生きることができるように祈ります。

第二に、積極的に愛を実践する人は幸いです。
27,28節をご覧ください。「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」イエス様は弟子たちが自分の存在をどのように理解し、認識するべきかを教えてから四つのことを命令しておられます。それは愛すること、善を行なうこと、祝福すること、祈ることです。一つにまとめると愛することです。
イエス様は弟子たちを見つめながら「あなたの敵を愛しなさい。」と言われました。自分の敵とはどういう人でしょうか。人柄が優しくて「自分には敵なんかいないよ。」と言える方もいるでしょう。でも、本文の御言葉から考えてみると、敵とは自分を憎み、辱め、自分の名を悪しざまにけなす者たちのことでしょう。また、自分を侮辱し、頬を打つ者、上着を奪い取る者、人の前で自分のことを言いふらしさばいている人たちのことでしょう。一般的にこのような人を憎むことは当たり前のように思っています。彼らの酷い仕打ちに対して我慢し、非難しないことだけでも難しいでしょう。普通はバカにされたり、いじめられたりすると、「いつか必ず復讐してやるぞ、仕返ししてやるぞと思うでしょう。しかし、キリストの弟子たちはそうであってはなりません。ノンクリスチャンが「やられると必ずやり返す。」という価値観を持っていてもキリストの弟子である私たちクリスチャンはそのように考えていてはいけないのです。
イエス様は弟子たちを見つめながら「あなたの敵を愛しなさい。」と言われたからです。ではどうやって敵を愛することができるでしょうか。それは私たちを愛するイエス・キリストの愛によってです。イエス様は私たちが神様に敵対し、罪人であった時に愛してくださいました。私たちが神様によくしたから愛してくださったのではありません。私たちがまだ罪人であった時に私たちを愛してくださいました。聖書にこう書いてあります。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:6−8)。イエス様はご自分を憎み、妬み、十字架につけて殺す人々のために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。」イエス様は敵であった私たちをも愛してくださいました。そして、イエス様が私たちを愛したように、そのように、私達も互いに愛し合うことを命じられました(ヨハネ13:34)。つまり、人が自分を愛したようにではなく、親が自分を愛したようにでもなく、イエス様が愛したように愛するのです。具体的に言えば私の片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けることです。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えるのです。
31節をご覧ください。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」とあります。イエス様は自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさいと教えておられます。皆さん。自分の家族が自分にしてもらいたいことは何でしょうか。怒られたいですか。怒ってください。優しくしてもらいたいでしょうか。優しくしてあげてください。友達に、先生に、上司に、部下にしてもらいたいことがあるでしょうか。自分にしてもらいたいと望むとおり、彼らにもそのようにしてください。自分にしてもらった通りではなく、自分にしてもらいたいと望むとおりにするのです。
32-34節をご覧ください。「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。」とあります。自分を愛する者を愛することは当たり前のことです。誇れるものではありません。神様の愛は、正しい者にも正しくない者にも同じように包み込む愛です。神様は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます。そのような愛で敵をも愛する人たちがキリストの弟子です。この間、紹介しましたがイエス・キリストの弟子ウォンソンオ宣教師は62年間の宣教師生活の中で一番記憶に残る実績は何かと聞かれる記者に言いました。「ただ、幸せでした。何もありません。」。少しでも宣教師の活動を知っているだけに私の心の深くまで響いて来ました。本当にそうでしょう。イエス様の愛を実践する人は幸いです。人生の最後に残るのも愛、天国に行っても誇れるのは愛であるからです。愛の実践が私たちに幸せをもたらします。人々にも幸せをもたらし、良い影響を及ぼすことができます。ですから、イエス様は愛することを繰り返して教えられました。
35,36節をご一緒に読んでみましょう。「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」もし、自分が貸してあげた資金で栄えて行く敵がいるなら、どう思うでしょうか。イエス様はそういうことがあっても返してもらうことを考えずに貸しなさいと言われました。敵であっても彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸してあげるのです。

第三に、人をさばかない人は幸いです。
37節をご覧ください。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」イエス様は「さばいてはいけません。」と言われました。どういう時に私たちは人をさばくでしょうか。
一つ目に自分はできると思うからさばきます。会社で同僚がいるにもかかわらず、上司が退社しようとしている自分に仕事を持って来ると、あいつができないからまた私に持ってきたと人をさばきます。数学ができる人ができない人をさばきます。私の娘は私が歌う時、「楽譜の通りに高くしたり、低くしたりすれば良いのに…」と言います。夫婦関係もなかなかうまく人たちがいます。すると、その人はうまく行かない夫婦をさばきます。子育てもどんなにしても難しい場合がありますが、簡単にできる場合もあります。ところが簡単にできる人はできない人に対して何でできないかとさばくのです。
二つ目は自分と違うからさばきます。ある牧師先生はアメリカに行った時、何でこの国の人々は布団をたたまないのかとさばいたそうです。ベットのままに置くのが理解できなかったからです。「何で中国人はなかなかお風呂に入らないの。何で韓国人は声がでかいか。何でインド人は手で食べるのか」というふうに裁くのです。私たちクリスチャンでもそういうところがあります。なんであの教会は賛美ばかりか。ハリストス正教会はずっと立って礼拝をささげますが、それに対して律法的だという人もいますし、座って礼拝することは無礼なことだと思う人もいます。そういうわけで互いにさばくのです。しかし、人をさばく人の心に幸せはありません。イエス様はさばかないで赦すように教えておられます。私たちは人の長所は生かし、短所や弱さをになうべきです。そして人の過ちに対しては積極的に赦すべきです。私たちが他人を赦す時、私たちも赦されます。イエス様は主の祈りの中でそれを教えてくださいました。「私たちが私たちに罪を犯す者を赦すごとく、私たちの罪をも赦してください。」
私たちクリスチャンには人をさばかないで赦すことだけではなく、人に与える生活も求められています。与える時に神様は祝福してくださいます。「人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ただ、与える生活をすると、自分も知らずに自分を誇らしく思ってしまいがちです。高ぶってしまうのです。そこで、イエス様は自分を省みる生活をしなければならないことも教えています。
41,42節をご覧ください。「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」とあります。まず自分の目から梁を取りのけることが必要です。すなわち、私たちは他人の弱さや過ちを正そうとする前に神様の御前で自分を省みて悔い改める生活に励まなければなりません。私たちが自分を顧みて悔い改める生活をすると、それが生活に現われます。実を結ぶようになるのです。
43、44節を見ると「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。」とあります。私たちの考え、心が実として結ばれるのです。45節はもっと具体的に教えてくれます。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」とあります。イエス様は人の言葉や行ないはその人の心に何が入っているのかによって決まることを教えてくださいます。しかし、思っていることだけに留まっていてなりません。言葉でいうことだけでも足りません。行わなければならないのです。イエス様は弟子たちを見つめながら素晴らしいことを教えてくださいましたがそれを行なわなければ何の意味もなくなってしまうのです。そこでイエス様は岩の上に建てた家のことを教えてくださいました。
46-49節をご一緒に読んで見ましょう。「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」このたとえはよく知られています。皆さんも知っているでしょう。御言葉を聞いても実行しない人は土台なしで地面に家を建てた人に似ています。困難が襲ってくると信仰を失ってしまいます。しかし、ペテロのように、理解できなくても「でも、おことば、網をおろしてみましょう。」と言って行う人は数々の体験をして信仰がますます強くなります。どんなに大きな試練が来ても倒れることなく強くなって行きます。今日の御言葉の通りに謙遜になって愛を実践する人は幸いです。行うことを通して信仰は成長し、ますます深く、多く神の国を体験して行くからです。どうか、今週も御言葉を聞いて行う生活ができるように祈ります。