2012年ルカの福音書第6講

イエス様の心

御言葉:ルカの福音書5:12−32
要 節:ルカの福音書5:13 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。

先週、私たちはシモン・ペテロに「あなたは人間をとるようになる」と約束されたイエス様のお言葉を学びました。ペテロは「深み漕ぎ出して、網を降ろして魚をとりなさい。」と言われたイエス様のお言葉に従い、深い意味においてイエス様がどんなお方であるかを知りました。
今日は、私たち人間に対するイエス様のお心、この地に来られた目的を学びます。ここで、イエス様のお心に対する人々の姿勢も学ぶことができます。どうか、私たちが御言葉を通してイエス・キリストの心、私たちが持つべき信仰の姿を深く学ばせていただくことができるように祈ります。

第一にイエス様のお心は私たちがきよくなることです。
12節をご覧ください。「 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」」とあります。「ツァラアト」と言うのは、「らい病」とか「重い皮膚病」と訳されています。しかし、それは皮膚病だけを意味するのではありません。聖書によると人間の皮膚だけではなく、衣服、動物の皮、家の壁にも生じるものです。つまり、「らい病」とか「重い皮膚病」ではその意味を十分に表すことができないのです。そこで、新改訳で原語の発音から「ツァラアト」に訳したのです。このツァラアトが発病すると、その人は愛する家族や友人から離れ、町の外に住まなければなりませんでした。ツァラアトの人は「汚れた者」とされて心身ともに悩み、苦しむ生活を続けなければならなかったのです。
また、律法によると、ツァラアトの人だけではなく、ツァラアトの人に触れる人も、汚れた者とされました。だから、誰も全身ツァラアトの人に触ろうとしませんでした。彼自身も健康の人にふれることを避けていたでしょう。ところが、このツァラアトの人はイエス様を見ると、ひれ伏してお願いしました。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」と言っています。彼はイエス様が自分に触れなくても、お心一つで自分をきよくしてくださると信じています。また、彼はイエス様が自分に触ることによって汚されることがないようにお心一つだけに頼っているようにも思われます。ところが、イエス様はどうなさいましたか。
13節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。」イエス様は手を伸ばして、彼にさわりました。それがイエス様はお心です。人々の心はツァラアトの人に触らないことです。ツァラアトの人にさわると、自分も汚れた者とされてしまうからです。だから、人々は心からツァラアトの人のように汚れた人にさわるどころか遠ざけようとします。ところが、イエス様はツァラアトの人にさわり、ご自分も汚れた者とされました。ツァラアトの人の悩みと苦しみをご自分のものとしてくだいました。イエス様は彼の罪と咎を担い、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言っておられます。すると、すぐに、そのツァラアトが消えました。ツァラアトの人はイエス様のお心の通りにきよくなったのです。
イエス様はツァラアトの人の人も、私たちもきよくなることを願っておられます。私たちをきよくしてくださることがイエス様のお心です。イエス様は私たちをきよくするために、ご自分が汚れた者とされて罪の代価を贖うために十字架にかけられました。人間の罪と咎による汚れをきよめるためにご自分の血を流されたのです。結局ツァラアトの人も、その十字架による癒しときよめを信じる人もイエス・キリストの十字架によってきよめられます。
そして今もイエス様は霊的にツァラアトの人のようになっている私たちに触ることを望んでおられます。憐れむ深い主は私たちに触れようとしておられます。皆さん、イエス様に触れられましょう。では、イエス様にふれることは何でしょう。それは汚れたまま、ありのままの姿でイエス様の御前にひれ伏すことです。隠すことも偽ることもなく、私にさわってくださるイエス様に告白するなら、私たちはきよめられます。心も、体も癒されます。聖書「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と約束しています(?ヨハネ1:9)。それはイエス様のお心です。イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。
私たちは生きているうちに厳しい状況や現実にぶつかる時があります。そのうちに心の中には汚れも生じます。それは、身体に垢が生じ、床にほこりが溜まっていくように、とても自然なことなのです。大切なのは、その汚れを落とし、きれいな状態を保っておくことです。毎日身体の汚れを洗い落とすように、心の汚れも落としていく必要があるのです。人に思いを告白することでも少しはできます。心に溜まっているものを人に言ってしまうとスッキリするでしょう。そのように、思っていることを日記や所感に書き出したり、祈りの中で自分の中の濁ったものをイエス様に言い表したりするなら主は心をきれいにしてくださいます。主は私たちがどんな問題を持っていても、それに対して「わたしの心だ。きよくなれ。」と語って下っておられるのです。私たちの罪と咎を担われるイエス様は私たちをきよくしてくださいます。新聖歌210番に「罪咎を担う/友なるイエスに打ち明けるとは/いかなる幸ぞ/安きのなき者/悩み負う者/友なるイエスをば/訪れよかし。〜〜気疲れせし者/重荷負う者/隠れ家なる主に/すがれ直ちに/なが友は笑い/迫害すとも/主はなれを抱き/慰め給わん。」とあります(一緒に歌ってみましょう)。
どうか、私たちが自分にあるどんな問題でもイエス様に打ち明けしてきよくしていただく生活ができるように祈ります。私たちの罪咎を担われたイエス様は私たちをきよくし、癒してくださることだけではなく、社会生活も助けてくださいます。
14節をご覧ください。「イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」」とあります。イエス様はツァラアトの人が祭司のところに行って自分を見せるように言われました。それは彼の社会生活を助けるためです。レビ記14章によると、ツァラアトから癒された人は祭司のとこへ行って自分を見せることになっています。祭司から「きよい」と宣言してもらうことによって、正常な社会生活ができるようになります。町から離れた生活ではなく、町の中で誰にでも触れ合うこともできるようになるのです。
これはイエス様のお心です。イエス様は私たちがきよめられて、人々と触れ合う健康な社会生活をすることを願っておられます。そして人々の中に入り、正常な生活をするように助けてくださいます。私たちが寂しく生きることは望んでおられません。汚れた心のまま、ゆがんだ心のまま、つぶやきあい、妬み合う生活ではなく、きよめられてお互いに愛し合う社会生活をする、それがイエス様のお心なのです。それで、イエス様はツァラアトの人をきよくしてあげることだけではなく、彼が触れ合いの中で正常な社会生活ができるように助けてくださいました。
ところが、イエス様がツァラアトの人に「誰にも話してはいけない」命じたにもかかわらず、イエス様のうわさがますます広まりました。恐らく、ツァラアトの人が言い広げたことでしょう。多くの人の群れが、話を聞き、また、病気を直してもらいに集まって来ました。それで、イエス様はご自分が目的にしている福音伝道が計画通りにできなくなってしまいました。しかし、イエス様はツァラアトの人を叱られませんでした。それを人のせいにしませんでした。また、人々の要求に振り回されることもありませんでした。ではどうなさいましたか。
16節をご覧ください。「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」とあります。多くの人の群れがイエス様の助けを求めて集まって来たのに、なぜ、彼らをそのままにして置いたでしょうか。集まって来た人々にとって悲しいことです。誰か私の話を聞くために、この三階に来たのに、彼をそのままにして私が4階の祈り室に行くなら、彼は私に対してどう思うでしょうか。失礼なことでしょう。それで、聖書勉強や祈りの時に人が来るのではなく、電話がかかって来てもすぐに対応します。ところが、イエス様は多くの人の群れが集まって来たにもかかわらず、荒野に退いて祈っておられたのです。人間的にはなかなか理解しがたいことでしょう。しかし、よく考えてみると、それほど祈りを大切に思っておられたことでしょう。イエス様は人間の横関係も大切にされます。だからツァラアトの人の人を修道院に生かせず、正常の社会生活ができるように案内してあげました。しかし、それよりも神様との縦関係をもっと大切にしておられました。神様との交わる祈りを第一にしておられたのです。ここで私たちは祈りに対するイエス様のお心も学ぶことができます。本当の意味で大きな事を行なう人はよく祈ります。私たちもそのように祈る姿勢を身につけて行く必要があると思います。私たちも神様との交わる祈りを大切にし、イエス様のように祈る習慣を身につけていくように祈ります。

第二にイエス様のお心は私たちの罪が赦されることです。
17−19節をご覧ください。ある日のことです。イエス様が教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていました。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていました。そこで、イエス様は、主の御力をもって、病気を直しておられました。するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来ました。そして、何とかして家の中に運び込み、イエス様の前に置こうとしていました。しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つかりませんでした。すると、彼らは非常手段をとりました。すなわち、「屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした」のです。何と無礼なことでしょうか。ひれ伏してお願いしたツァラアトの人とは全く違う行動です。決しては紳士的な行動ではありませんでした。ところが、イエス様は何と言われましたか。
20節をご覧ください。「彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。」とあります。イエス様は彼らの信仰を高く評価してくださいました。彼らの行動を道徳に見て罪に定め、さばくのではなく、罪の赦しを宣言なさったのです。つまり癒しを求めてきた人たちに罪の赦しを宣言されたのです。それはイエス様にとって肉体の癒しよりも、罪の赦しが大切であったということです。確かに肉体の癒しは必要です。イエス様もいろいろな病を患っている人々を癒してくださいました。しかし、イエス様が心から願っておられることは罪の赦しです。罪が赦されなければ神様との関係性を回復することができないからです。ところが、罪を赦す権威は神様にしかありません。神様との関係性を回復するためには神様から赦していただけなければならないのです。そこで、罪の赦しを宣言なさったイエス様に対して聖書に精通している律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めました。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」と言ったのです。しかし、イエス様の言葉には病気を直す力も、罪を赦す力も、そのいずれの力も持っておられます。そこで、イエス様は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われました。すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神様をあがめながら自分の家に帰りました。イエス様に罪を赦す権威があることが現れたのです。そこで人々はみな、ひどく驚き、神様をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言いました。結局、イエス様には病気を癒す力も、罪を赦す権威もあることが明らかにされました。
この時間も、イエス様は私たちのところに来てくださっています。私たちが信仰によってイエス様のところに出て行くなら、私たちの罪が赦され、病も癒されて健康に生きることができます。

第三に、イエス様のお心は私たちがイエス様について行くことです。
 27節をご一緒に読んでみましょう。「この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。」レビはクリスチャンネームで「マタイ」と呼ばれている人です。彼は取税人でしたが、当時のイスラエルでは「強盗」「盗人」「罪人」と同じような意味があったと言われています。なぜなら、当時ローマはイスラエル人から直接に税金を取り立てることをユダヤ人にユダヤ人の税金を取り立てさせました。その代わりに取税人たちが誤魔化しやインチキをすることには目をつぶってあげました。すると取税人たちは定まった税金の2倍も3倍も徴収するのが珍しくなかったそうです。それで、取税人は同族から嫌われ、強盗や盗人のように見下げていました。それにもかかわらず、取税人になっているというのは彼らがそれほどお金を大切に思ったからでしょう。「神様!神様!」と言ったって金がなければ何もできない。金がすべてだ」という人生哲学を持っていたと思われます。事実、お金があればいろんなことが便利になるでしょう。買い物も自由にできるし、おごりたい時はおごることもできます。でも、お金を第一とする取税人の生活は寂しいでしょう。取税人はツァラアトの人のように町の外に住まなくてもいいですが、人々との付き合いはできませんでした。誰も収税人が座っている所に近づきませんでした。目を留めてくれませんでした。ツァラアトの人ではなくても、ツァラアトの人のように見下げられていたのです。ですから、イエス様に従っていきたいと心から願ってもイエス様について行くとは言えませんでした。ところが、イエス様が取税人に目を留めて「わたしについて来なさい。」と言われました。「わたしについて来なさい」という言葉は短いですが、この表現の中にレビに対するイエス様の心が表れています。収税所は毎日のように人々から嫌な言葉を聞きながらそこから離れられないレビの生活の場です。人々はその前を嫌悪感と差別の心で通り過ぎていたでしょう。レビにとって孤独なところです。やめたくても辞めたくても生活があるし、家族があるから辞めることもできない職場です。そこで、レビは寂しい生活を続けていました。イエス様はそのレビの現実を直視しました。レビが本当に願っている事をイエス様は見抜いて、彼に目を留めて「わたしについて来なさい。」と言われたのです。イエス様は彼の本当に願いに目を向け、目を留めてくださったのです。
私の子どもの頃の夢は小さな島にある学校の教師になることでした。高校生の時は先週紹介した神父に出会い、聖職者になることも夢見ました。でも、それは私の憧れであって、現実的には無理だと思いました。ところが、今、考えてみるとイエス様は私の本当の願いに目を留めてくださいました。夢見たとおりの小さな島ではありませんが島国の日本で教師になったし、宣教師と牧師としても活動するようになったのです。本当にイエス様は私たちの本当の願いに答えることができるお方です。ではイエス様の招待に対するレビの反応はどうでしたか。
28節をご覧ください。「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」とあります。大きな決断をしました。今まで持っていたものがあったでしょう。豊かな家やさまざまなものがあったでしょう。それを全部捨ててイエス・キリストに従う決断をしました。素晴らしいです。また、彼は自分の家でイエス様のために大ぶるまいをしました。うらやましいです。ところが、それに対してつぶやく人々もいました。取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていましたがパリサイ人やその派の律法学者たちが、イエス様の弟子たちに向かって、つぶやいて言いました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」イエス様に直接に言えず、弟子たちにつぶやいています。そこで、イエス様は何と言われましたか。

結論的に31、32節をご一緒に読んでみましょう。そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」。もし、自分が全く正しい人だと思っている人は教会に来ないでしょう。自分が全く丈夫な人だと思っている人も教会に来ないでしょう。そういう人々は来なくてもいいです。しかし、自分は弱い、罪人だと思っている人はイエス様のところに来てくださいます。特に、聖書は、私たちは全て病人だと告げます。身体の病気ではなく、霊の病気です。いのちの源である真の神様から離れた私たちは、霊のいのちを失って「死に至る病」にかかっており、医者を必要としているのです。 イエス様は私たちを癒し、きよくしてくださる医者です。イエス様は私たちがどんな罪を犯したとしても、どんなに罪深い人間だとしてもその罪を赦して新しい人生を生きるようにしてくださいます。そのためにイエス様が来られました。ただ、私たちの方から悔い改めが必要です。悔い改めとは方向転換のことです。自分が喜べることだけを求めていた人が、神様に造られた存在であることを知り、神様が喜ぶことを求める人になることです。すると、イエス様の心の通りにきよめられ、癒されて健康な社会生活ができるようになります。取税人レビが聖なるマタイに変わったように、私たちも変わります。どうか、イエス様のお心の通りにきよくなり、イエス様の御姿にまで変えられて行きますように祈ります。