2012年ルカの福音書第32講

生きている者の神様

御言葉:ルカの福音書20:1-47
要 節:ルカの福音書20:38 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」

Merry Christmas! 先週も話しましたが、今年のクリスマスには「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であられるイエス様を学びたいと思っています。先週は御名によって来られる王、イエス・キリストは平和の王であられることを学びました。
今日も力ある神、永遠の父であられるイエス様の御姿を学ぶことができます。特に、死んだ者の神ではなく、生きている者の神様について学びたいと思います。第一に神の権威によって働かれるイエス・キリスト。第二に生きている者の神の御子イエス・キリストについてです。どうか、生きている者の神様がクリスマスを迎える私たちの心に力強く働いてくださるように祈ります。

?.神様の権威によって働かれるイエス・キリスト(1-19)
1,2節をご覧ください。先週学んだように、強盗の巣になってしまった宮をきよめられたイエス様は宮で教え、福音を宣べ伝えておられました。ところが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエス様に立ち向かって来ました。彼らは、今日の衆議院選挙で選ばれる国会議員のように、イスラエルでは宗教的にも政治的権威と権力が与えられている人たちです。彼らがイエス様に「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」と言いました。そこでイエス様は答えて言われました。
3,4節をご覧ください。「そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」」とあります。ヨハネがバプテスマを授ける時、多くの人々が罪を悔い改め、水のパプテスマを受けました。ただ、祭司長をはじめ、律法学者、長老たちは受けようとしませんでした。従って彼らがヨハネを天から遣わされた預言者であると認めるなら、どうしてそのバプテスマを受けなかったのかということになります。また、ヨハネなんか人間的な思いでそうしただけだと答えるなら、ヨハネからバプテスマを受けた民衆は黙っていないでしょう。イエス様の見事なお答えに彼らは困ってしまいました。そこで、彼らは「どこからか知りません。」と答えました。するとイエス様は、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われました。では、ここで、宗教指導者たちが問題にしていた権威について考えてみましょう。
ヤフー辞書によると、権威とは第一に「他の者を服従させる威力。」と書いてありました。そして第二に「ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。また、その人。オーソリティー。」とありました。ここで、第一の意味は権力と同じ意味でもあります。権威だけの意味を言うなら、第二の意味になります。つまり、人を納得させるだけの信頼性があるものが権威なのです。イエス様にはそういう権威がありました。聖書に「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである(マルコ1:22)。」とあります。イエス様の律法解釈、理解による教えには中身がありました。内容がありました。他の律法学者以上に人々を納得させるだけの深いものを持っておられたのです。それだけではありません。イエス様には病を癒す権威も、罪を赦す権威もありました。ある時、中風の人が連れられて来ました。そこで、イエス様は「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。すると、彼の病は癒され、起きて歩きました。イエス様にはその病を癒すことのできる力、罪を赦す神様の力があったのです。
祭司長たち政治的に、宗教的には最高の権威が与えられていてそれを主張していました。しかし、彼らには人々から信頼される何の力も、中身もありませんでした。神様の御前にひれ伏し、服従し、神様を礼拝している生活をしなかったからです。ただ、彼らは祭司長だ、学者だというタイトルによって人々を強制に服従させようとしていました。それは不信仰者たちが人間的なタイトルを傘にして権力を振る舞うようなことです。
信仰の人は神様の権威に従うことによって神様から与えられる権威によって働きます。昨日、職場で私は上司から管理監督ができなかったことで注意されました。担当者の間違いでしたがそれは部長が優し過ぎて権威がないからだと言われました。私は宣教師としても、牧師としても強制に服従させるようなことはしませんが、そのことでリーダーとしての威厳がないと言われる時もあります。しかし、本当の権威とはイエス様のように神様に従うことにあります。私に権威がないのは強制的に指導しなかったからではなく、神様に服従し、御言葉に従う生活に徹することが足りなかったからでしょう。イエス様は徹底に神様に従うことによってまことによって神様から天においても、地においても一切の権威をいただきました。
イエス様はぶどう園のたとえを通してご自分に神の御子としての権威が与えられていること、神様のみ心に従ったことを示唆してくださいました。
9-12節をご覧ください。「また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。」とあります。このたとえで、ぶどう園は、イスラエルを指しています。農夫たちは、イスラエルの宗教指導者たちです。しもべとは預言者たちのことです。神様はイスラエルと契約を結び、宝なる約束の御言葉をくださいました。預言者たちを遣わして、ご自分のところに戻って来るように声をかけてくださいました。しかし、イスラエルの指導者たちは、その預言者をまっさきに迫害しました。神様の恵みと祝福を裏切ったのです。それでも、忍耐深い神様は、あきらめずに預言者を続けて送られました。彼らが悔い改めて帰って来る日を待ち望んでおられたのです。ところが、イスラエルは神様が遣わされた預言者を最後まで受け入れませんでした。そこで、神様はどうなさいましたか。
 13節をご一緒に読んでみましょう。「ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』とあります。ここで「愛する息子」とは紛れもないイエス・キリストご自身のことです。イエス様は弱々しいひとりのみどりごとしてお生まれになりましたが、神様のひとり子としての権威を持っておられたのです。また、この御言葉には私たち人間に対する神様の愛とイエス様の犠牲が表われています。何度もご自分の預言者たちを殺してしまったところに愛する息子を遣わされました。イエス様は先に遣わされた預言者たちが殺されたことを知っていながらも神様に従ってこの地に来てくださいました。ここに限りない愛と犠牲があります。どころが、農夫たちは送られた息子をどのように扱いましたか。
14、15a節をご覧ください。「ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。」とあります。彼らは取り返しのできない罪を犯してしまいました。彼らは、神のひとり子イエス様を殺す罪まで犯してしまうのです。では、ここまで罪を犯してしまう動機は何でしょうか。「あれはあと取りだ。あれを殺せば、財産はこちらのものだ。」とあります。貪欲です。貸してくださったことに感謝するどころか、その所有権までも奪い取ろうとしたのです。その結果、どうなりましたか。
15b、16a節をご覧ください。「こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」とあります。借りていたものまでも奪われるようになりました。農夫どもは打ち滅ぼされてしまうようになりました。ヤコブ1:15に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とありますが、そのとおりです。私たちも神様の権威を認めず、従わず、神様の愛する息子さえを受け入れずに自分の欲望を満たことだけを求めて生きるなら、滅ぼされます。
16b節をご覧ください。「これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言いました。滅ぼされるのは自分たちであることに気付いたからです。彼はそれが分かったら悔い改めるべきでした。しかし、イエス様のたとえを聞いて分かっても悔い改めませんでした。そこでイエス様は、彼らを見つめて言われました。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」とあります。これは詩篇118:22節の引用ですが、彼らが神様から遣わされた神様の愛する息子、ひとり子を見捨ててしまうことを教えてくれます。また、神様は十字架につけて殺してしまうイエス様をよみがえらせて礎の石にしてくださるということです。実際に、イエス様は見捨てられた石として死なれたことによって私たちの罪を負われました。そして復活によってイエス様が神の御子キリストであることを明らかにしてくださいました。
従ってこのイエス様の十字架の死による贖いを信じる者は救われます。今まで金を愛し、自分の欲望を満たすことだけを求めて来たとしてもその罪を背負ってくださったイエス・キリストを信じることによって赦され、救われます。しかし、神様が最後に遣わされた、愛する息子イエス様の権威を認めず、信じなかった者たちには神様のさばきがあります。イエス・キリストを受け入れず、信じない人たちは、皆が粉みじんになれるのです。そういうわけでイエス様の権威を認めず、むしろ殺そうとしている宗教指導者たちは一刻も早く悔い改めなければなりませんでした。しかし、彼らの反応はどうでしたか。
19節をご覧ください。律法学者、祭司長たちは、イエス様が自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づきました。それで、この際イエス様に手をかけて捕えようとしましたが、やはり民衆を恐れました。彼らは、民衆を恐れてその場でイエス様を捕らえることはできませんでしたが、悔い改めもしませんでした。そのような彼らに、イエス様はさらに、神様のこと、ご自分のことについて教えてくださいます。

?.生きている者の神の御子イエス・キリスト(20-47)
20-22節をご覧ください。民衆を恐れたのでイエス様を捕まえなかった宗教指導者たちは間者(スパイ)を送り、イエス様のことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエス様を引き渡そうとしました。間者は義人を装ってイエス様に質問して言いました。「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」とあります。当時、イスラエルはローマの植民地でした。従ってイエス様が「カイザルに税金を納めるべきだ」とお答えになれば、民たちはイエス様を取税人のように思うでしょう。イエス様の間に隙間が生じてしまいます。だからと言ってイエス様が「税金を納めてはならない」とお答えになると、ローマに反逆することになります。すると、宗教指導者たちはイエス様をローマに訴えて処刑させることができます。イエス様がどっちに答えても、イエス様を罠に陥れることができるのです。そこで、彼らは微笑んでいたでしょう。ところが、イエス様のお答えはどうですか。 
23-25節をご覧ください。イエス様はそのたくらみを見抜いて、デナリ銀貨を持って来させ、「だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」と質問されました。彼らが「カイザルのです。」と答えると、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と言われました。見事なお答えでした。宗教指導者たちは民衆の前で、イエス様のことばじりをつかむことができず、驚嘆しました。イエス様は私たちが二つの国籍を持っていることを教えてくださいました。すなわち地上での国籍と天の御国での市民権です。私たちの地上の国で税金を払わなければなりません。
先週、私は永住権を申請する宣教師の保証人の書類として課税証明書と納税証明書を頼まれました。どちらか一つ取れば同じじゃないかと思っていたのですが、頼まれたので区役所に行って申請しました。そして取ってみると両方とも数字が全く同じものでした。それで係員の方に全く同じですねと聞きました。すると、彼は「そうです。あなたが税金を全部払ったことです。」と答えました。そこで、私は「なるほど、課税と納税が一致しなければ滞納者となり、保証人になれないんだ」ということが分かりました。私は外国人であっても日本に住んでいる以上、税金を払わなければならないのです。同時に、私たちはクリスチャンとして神様に選ばれた神の国の国民です。神様に対する義務も果たさなければなりません。今日、主日礼拝をささげていることも神様への義務を果たしていることです。特に私たちは、私たちのからだを、神様に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげる義務があるのです(ロマ12:1)。イエス様のお答えに驚嘆した彼らは次に来世の問題を持ってイエス様に質問しました。
28-33節をご覧ください。七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、七人とも同じようにして、子どもを残さずに死にました。あとで、その女も死にました。すると復活の際、その女はだれの妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。という質問です。これは申命記25:5-10節の御言葉に基づいていますがずいぶん残酷な質問です。実際には起こりえないことでしょう。それでも、イエス様はその質問を無視せずにサドカイ人たちの霊的な無知を悟らせてくださいました。
34-36節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。『この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。』」私たちがこの世で生活している間はめとったり、とついだりしますが、これは生きて行く上で必要なことです。ところが死人の中から復活する時にはめとることも、とつぐこともありません。私たちが御使いのように霊的な存在になるからです。もし、もし天国でも結婚するなら、今のままが良いという方もいれば、絶対に新しい人に出会いたいと思う人もいるでしょう。天国でも同じ夫婦なら行きたくないと思う方もいるかも知れません。しかし、私たちが神の御国に入るためには私たちのからだが変わらなければならないのです。使徒パウロは、私たちの体が将来栄光あるものに変わることを証ししました。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」 (?コリ15:42-44)。その時にはもう罪の誘惑に支配される必要もありません。将来のこと、結婚のことで悩む必要もありません。栄光ある神様の子どもとなり、栄光ある私たちの主とともに、神様の御国で永遠に栄光を受けるようになるのです。神様は全能なる神様なのでそのようにすることができるのです。
 37,38節を皆さんと一緒に読みたいと思います。「それに、死人がよみがえることについては、モーセも柴の個所で、主を、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」神様はモーセに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(I am the God of Abraham, the God of Issac, the God of Jacob)と言われました。実はモーセの時、アブラハムも、イサクも、ヤコブもみな死んでしまいました。しかし肉体的には死んでいますが、霊的にはみな生きているのです。彼らは全能なる神様の力によって生かされました。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神様が今ここにいる私と皆さんの神様です。私たちが生きている限り、私の神様です。ところが、イエス様を信じる者は死んでも生きるのです。ですから、神様は永遠の父、永遠に私の神様です。永遠に私たちを導いてくださる人格的な方です。ただ、宗教指導者たちのように信じない者は死んでいます。彼らの神になれません。彼らは生きておられる神様の力を体験することもできません。イエス様を信じている者だけが永遠に生きておられる神様の権威と力を体験することができます。
どうか。私たちが私のためにひとりのみどりごとしてお生まれになったイエス・キリストを心から受け入れ、信じますように祈ります。信じると、私たちは救われて神様の子どもとなり、永遠に生きている者として神様と交わり、神様の愛に包まれた生活ができます。
「苦しい時に神頼み」という言葉があります。これは信仰を批判する言葉として用いられています。しかし、この言葉は私たちの信仰の真実を示す言葉でもあるでしょう。今、苦しんでいることがあるでしょうか。悩んでいることがあるでしょうか。それは生きている証拠でもあります。どうか、生きている者の神様にすがりましょう。神様に祈り、生きている者の神様を体験して行きたいと思います。