2013年マルコの福音書第12講メッセージ

あなたはキリストです

御言葉:マルコ8:27-38
要 節:マルコ8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」

先週は、スロ・フェニキヤの女性の信仰を通してイエス様を感動させる信仰について学びました。私たちの祈りが答えられないように見える絶望的な状況の中でも、彼女のように諦めずチャレンジする信仰を学べるように祈りたいと思います。
今日は、私たちが不思議な世界を体験できるかどうか、その境目の秘密について学びたいと思います。この世の中では、なかなか理解難いことがあります。先月のNHK大河ドラマ、八重の桜では、お兄さんの山本覚馬の勧めによって、八重がゴードン宣教師のもとで耶蘇教(キリスト教)の聖書を学ぶ場面が出ます。彼女は、「悲しむ人は幸い」、「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」、「敵を憎むな、敵のために祈れ」、「自分の十字架を背負え」という聖書の教えがなかなか理解できず、悩む姿が描かれました。とくに、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められる」(マタイ5:4)という聖書箇所を読んだ八重はこう質問します。「悲しむ人がなぜ幸いなのでしょう。逆ではないですか?」。一緒に学ぶ女たちもまた、「ほんまやな。悲しんでいる人はかわいそうや。」「ヤソ(イエスキリスト)様は薄情なお方なんやろうか…。」と続きます。ゴードン宣教師は「いいえ、人は悲しみ、絶望したときにこそ、主の愛の深さにふれることができるのです。それこそが真の慰めです。」と説明します。八重はボソッと「それでも、悲しい事なんか無い方がいいに決まってる…」とひとりごとを言うシーンが出ます。
こうした八重がいずれ同志社大学を設立した新島襄に出会い、理解できなかった聖書の不思議な世界に入り込み、真のクリスチャンになります。今日の本文の御言葉は、私たちの人生がその不思議な世界に入れるその秘密について教えてくださいます。私たちが、イエス様の前で「あなたは、キリストです」と告白することで、その不思議を体験する人生、さらに深い不思議な世界に入れるきっかけとなるように祈ります。

?。あなたはキリストです(27-29)
8章27節をご覧ください。「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」」
8章前半では、イエス様が7つのパンで四千人を食べさせたこと、その後のイエス様の教え(8:1-21)、それから盲人の目をいやされること(22−26)が記されています。今日の8章後半部では、多くの群衆に仕えてきた弟子たちだけを連れて、ピリポ・カイザリヤというところで弟子修養会を開催する場面が出てきます。ピリポ・カイザリヤは、ガリラヤ湖の北40キロにある町であり、ヘロデ大王の息子ピリポが拡張補修し、カイザルに敬意を表してカイザリヤと改めたところです。ピリポ・カイザリヤは現在も、バニヤスという遺跡が残っており、有名な観光地となっています。イエス様は、美しい渓谷と川に囲まれた場所で、弟子たちに質問をかけました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
28節をご一緒に読んでみましょう。「彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」」
ここにあげられている「バプテスマのヨハネ」「エリヤ」「預言者のひとり」は、すべて預言者という共通性があります。つまりイエス様は、旧約に登場した預言者のイメージとして人々の目に映っていたのです。預言者とは神のメッセージを民に伝える神の代弁者のことです。エリヤはアハブ王の時代の預言者でした(?列王記17,18)。北イスラエルの王、アハブはシリアの王女イゼベルを妻に迎えて、イゼベルが持ってきたシリアのバアル崇拝をイスラエルに導入させた人物です。エリヤはそういったアハブとイゼベルのバアル崇拝がどれほど虚しいかを明らかにするために、数多くの奇蹟を行い、最後は火の戦車に乗って天に引き上げられた旧約の代表的な預言者です。また、旧約聖書のマラキ書で、メシヤの先駆者としてエリヤが再び現れると預言されており(マラキ4:5)、バプテスマのヨハネがそのエリヤではないかと言われたことがあります(ヨハネ1:21)。人々はイエス様の数多くの奇跡を体験することで、イエス様をこうしたエリヤのように力ある働きをする「バプテスマのヨハネ」だと思ったかもしれません(マタイ14:1−12)。しかし、彼らは神様の偉大な預言者ですが、人という共通的な特徴があります。イエス様のことを、現代でも社会科の授業の中で「世界三大聖人」と言うような言い方で教えています。すなわち、イエス様は偉大な、素晴らしい人だと教えているのです。日本の有名な小説家である太宰治(1909年6月19日 – 1948年6月13日)氏も、聖書には親しんでいて、イエス様の事も良く勉強していましたが、イエス様が罪の赦しのために来られた方、神のひとり子だとは信じられず、人生に絶望し、38歳の若さで玉川上水で自殺しました。彼の家には聖書があったと言われていますが、イエス・キリストを偉大な人としか受け入れられず、惨めな人生で終わってしまったと思われます。
弟子たちに、人々の意見を聞いたイエス様は、続いて弟子たちの意見を尋ねました。29節をご一緒に読んでみましょう。「するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」」
私たちが人々の意見を客観的に知ることも大事ですが、私の個人の考えがはっきりしていないといけません。大学で先生が学生たちにレポートや論文などの書き方を教える時も、最初はその分野で人々がどんな理論を展開したかを調べるように教えますが、その後、自分の考えをはっきりと持たせるように指導しています。イエス様も弟子たちにそのバランスを教えたかったかもしれません。とにかく、イエス様の質問に対して、リーダーになりたがったペテロが素早く反応しました。「あなたは、キリストです。」
キリストとは、古典ギリシャ語「クリストス(Khristos)」の慣用的日本語表記であり、「油を注がれた者」を意味するヘブライ語「メシヤ」の訳語です。つまり、旧約聖書で預言者たちが登場を預言した救い主を意味します。ペテロの告白は、「あなたは、私の救い主です」と言い換えることができます。彼の告白の中には、キリスト、すなわち救い主として来られたイエス様を明らかにしています。言い換えれば、イエスキリストを通さないと、救いにつながらないことを示しています。イエス様ご自身もヨハネ14:6でそれを明らかにされました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
先ほど説明したように、ピリポ・カイザリヤは、ヘロデの息子ピリポがローマ皇帝カイザルに捧げたところであり、当時はそこにカイザルを祭る神殿があり、その前を歩く時、人々は「生ける神の子キリスト」と言って、礼拝しなければなりませんでした。つまり、ローマ皇帝が、当時、神として礼拝されていたのです。そういった状況の中で、ペテロは「あなたはキリストです」と告白したのです。したがって、ペテロの告白は、公に告白すれば反逆罪に問われる危険が伴われる言葉でした。マタイ福音書16:17を見ると、イエス様はペテロのこの告白を受けて、「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」と言われました。そして、この信仰の上に教会を建てると約束されました。
ここで明らかになっているように、私たちクリスチャンが聖書を読み、イエス様をキリストとして告白することがどれほど大切であるかを学びます。また、その告白は、人間の理性と知性で出来るものではなく、神様の助けによるものであることも分かります。イエス様を自分の救い主として告白するためには、まず自分が罪人だという自覚が必要です。しかし、その自覚は神様の前で自分を省みる時はじめて、生まれるのです。同じく聖書を読んで、同じく教会に通っても、神様の前で自分を省みて、自分が救われないといけない罪人としての告白が出来ない人にとって、イエス様はその人のキリストとなれず、単なるすばらしい教訓を教えてくれる偉大な思想家にすぎません。そのため、イエス様をキリストとして告白することは、すごい理解力と知識を持っている賢い人でも、できるものではありません。上記で挙げた太宰治氏は、東大の仏文科に入った秀才でしたが、その能力でもイエス様を救い主として受け入れることができず、惨めな最後を遂げました。
一方、同じ東京大学医学部出身の加賀乙彦(1929年4月22日-)氏は、聖書を読みながら、キリスト教関連の小説を書いたりしましたが、聖書を繰り返し読みながら、彼は、あるところまでで理解が止まってしまう感じがして、戸惑っていたのです。そんなある日、遠藤周作氏から、「君はキリスト教を無免許運転しているね」と言われたのです。この言葉に触発された加賀氏は、「よし、それならば免許を取ってやろう」という思いに至り、1987年のクリスマス(58歳)に洗礼を受けるようになります。洗礼の決心をしてみると、大きな変化を感じたそうです。その時の心境を次のように言っています。「聖書の読み方がすっかり変わってしまった。読んでいて渇く人が水を与えられたような喜びが起こってきたのだ。福音書がこんなに楽しい文書だとは、今までついぞ知らなかった。おそらくわずかな一歩なのである。…このわずかな一歩は、しかし、無限に大きな一歩でもあった」と。
「あなたはキリストです」と告白したペテロの信仰告白は、加賀氏が踏み出した「わずかな一歩」かもしれませんが、それが新しい人生の出発になり、深い神の世界を味わうきっかけになるのです。以上を通して、私たちが聖書を読むだけではなく、個人的な信仰告白がどれほど大事であるかを新たに学ぶことができます。ローマ10:10によると、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」となっています。他人がどう言うかが重要ではありません。神様の前で、イエス様をキリストとして信じることによって義と認められ、私の口で告白することによって、救われることになります。私たちがいつも神様の助けによってイエス様をキリストとして告白する人生を生きることが出来るように祈ります。

?。自分を捨て、自分の十字架を負いなさい(30-38)
30節をご覧ください。「するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。」
おそらくイエス様は、まだ神の時ではないのに、反逆罪に訴えられ、弟子たちが捕えられることを懸念されたか、「自分のことをだれにも言わないように」と、彼らを戒められました。31,32節をご一緒に読んでみましょう。「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。/しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」
イエス様当時のメシヤ観は、政治的・軍事的なパワーを持つメシヤがイスラエルの民をローマの植民地から救い出すと考えられていました。イエス様は、当時のメシヤ観を改め、弟子たちが正しいメシヤ観を持つように、ご自身の十字架の死と三日目によみがえられることを教えられました。すると、今度も、気の短いペテロが、イエス様をわきに連れて行って、いさめ始めました。「イエス様、とんでもございません。断じて、こんなことはあってはいけません」と興奮して、イエス様を諭したでしょう。
そのようなペテロに対して、イエス様は何と言われますか。33節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」」
前では、イエス様に褒められたペテロが、いきなり「サタン」と言われました。私たち以上に、「下がれ。サタン」と言われたペテロ本人が驚いたことでしょう。それでは、ペテロの何が問題でしょうか。「あなたはキリストです」と告白したペテロと、イエス様を戒めたペテロは、違う人物ですか。いや!二つの場面のペテロは同一人物です。なぜ、それが起きたでしょうか。それは、「神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われたイエス様の言葉にその答えがあります。私たちも、ペテロのように、だれでもその奥底には二重性が潜んでいるわけです。ペテロが神のことを思っている時は、聖霊の助けによって、イエス様を「キリスト」として告白できましたが、人のこと、すなわち自分の夢と野望を考えた時、自分の計画通りに行かないイエス様を止めようとしたのです。私たちも全く同じです。イエス様をキリストとして受け入れた私たちでも、毎日、聖書を読み、祈る時は、神様の御心に従うように決断ができますが、自分の思いと計画が強くなると、「神様の導きは理解できない。到底私は従うことができない」と、主張するのです。こうした姿が私たちの実状です。
イエス様はペテロの問題を受けて、群衆と弟子たち全員に正しくイエス様について行く道を教えてくださいます。34節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
ここで「自分を捨てる」ことは、自己中心的に考える思いを捨てることを意味します。人々は、イエス様について行くときに、自分の思いに基づき、自分の必要と欲望も満たそうとします。ペテロが、人のことを思って、イエス様をいさめた時の自然体の本能的な彼の状態も全く同じです。私たちがイエス様をキリストとして認めて告白しても、その神の力を自分の思う通りに使おうとした時、神様の力を体験することが全くできません。イエス様はそのような私たちの自己中心的な思いを捨てて、ご自身についてくるように言われたのです。それと同時に、「自分の十字架を背負う」生活を目指すべきです。イエス様は、神様から与えられた使命の道に従うために十字架への道を進まれ、結局人類を救うための十字架を背負いました。イエス様にも、神様から与えられた十字架があったように、私たちにもそれぞれ神様から与えられた十字架があります。学生は勉強の十字架、社会人は仕事の十字架、主婦には家事と子育ての十字架があります。その上で、私たちはイエス様のように人々に救いの道を伝えないといけない十字架があります。とても忙しい生活を強いられている私たちにとって、時にはその十字架が重く感じられる時があります。しかし、自分を捨てるために祈る時、その十字架から逃れず、背負うことができるようになります。イエス様のゲツセマネの祈りにその答えがあります。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)このイエス様を見習い、私たち一人一人が、「自分を捨てて、自分の十字架を背負う」生活に励むことができるように祈ります。
最後に、35−37節をご一緒に読んでみましょう。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。/人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。/自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」
いのちをもって生きているわたしたちの人生には、逆説(paradox)の真理に出会う時が多くあります。冒頭で紹介した、ドラマの主人公、八重もその逆説の不思議がなかなか理解できませんでした。しかし、イエス様はいのちの世界の不思議な逆説の真理を教えてくださいます。
ここで、「自分を救おうと思う者」とは、命を与えられて生きている人生にもかかわらず、自分中心に生きる生き方です。自分を捨てず、自分を中心にして、人々を自分の回りに回転させている人を意味します。言い換えれば、自分が太陽になって、他の人々を惑星にして、自分の回りを回らせている「私動説」を主張する人のことです。そういった人は、褒められることを望み、名誉や権力を求めます。人々に仕えるより、仕えられることに多大な努力をします。
ところが、イエス様の言われるいのちの大きな逆説は、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、イエス様と福音とのためにいのちを失う者は命を得る」ということです。この逆説は、毎日の生活の中でいつでもどこでも見ることが出来ます。人から与えられることばかり求めている人が、より貧しくなるケースが多いです。自分の幸福ばかり考えている人は、他人の幸せに関心がなく、結局自分も不幸になります。自分がいつでも、人々の中で中心にいたいと願っていても、人々から嫌われ、中に入れず、外側の人生で終わってしまうケースもあります。しかしその反対に、人々から認められることに関心を置かず、日々自分を死なせる人は、いつの間にかその人の周りに人々が集まり、重んじられることを見ることが多くあります。
イエス様は、わたしたちに自分の命や人生を軽んじたり、憎んだりしなさい、と言っているのではありません。そうではなく、自分の人生の目的、目標、その運命を、自分で左右できるかのように思わず、すべてのことを知り尽くしておられる神様に委ね、その真理に従って、その真理の福音のために生きるように勧めておられるのです。
しかし、姦淫と罪の時代、つまりいのちの逆説の真理に従って生きることを好まない時代では、イエス様とイエス様のことばを恥じる人が多くいますが、イエス様の再臨の時、イエス様もそのような人たちを恥じるようになります(8:38)。聖書の中では、このようにたくさんの不思議の逆説の真理が記されてあります。私たちが、「イエス様をキリスト」として告白し、十字架の道の不思議を体験する人生を生きることができるように祈ります。