2013年マルコの福音書第3講  

罪人を招くために来られたイエス様

御言葉:マルコの福音書2:1-17
要 節:マルコの福音書2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 先週、私たちはイエス様が福音を知らせるためにどのようなことをなさったかについて学びました。イエス様は律法学者たちのようでなく、権威ある者のように教えられました。シモンとアンデレの兄弟、ヤコブとその兄弟ヨハネ召され、彼らを「人間をとる漁師」にしてあげると約束してくださいました。彼らはイエス様と共に伝道活動をし、祈りながらイエス様の権威と力を体験して行きます。
今日学ぶ2章の御言葉にはイエス様が罪人の罪を赦し、病人を癒されたこと、取税人レビを召され、ご自分が罪人を招くために来られたことなどが記されてあります。私たちは目に見える信仰、イエス様にある罪を赦す権威、そして主権的なイエス様の召されに関して学ぶことができます。

第一に、目に見える信仰
1、2節をご覧ください。「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。」」とあります。先週の御言葉でイエス様は「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。」とおっしゃいました。その通りにイエス様はガリラヤ全地にわたり、その会堂に入って福音を知らせる伝道活動を続けられました。そのうわさは以前より早くカペナウムにも伝えられたでしょう。数日たってイエス様がカペナウムにまた来られると、多くの人が集まって来ました。あまりにも多かったために戸口のところまですきまもないほどになりました。そこでイエス様は彼らに御言葉を話しておられましたが、その時のことです。
3節をご覧ください。「そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた」とあります。この四人の人がさまざまの病気にかかっている多くの人を癒しておられるイエス様を目撃したのか、うわさだけを聞いたのかは分かりません。とにかく彼らはイエス様が中風の人を癒すことができるし、癒してくださると確信していたようです。ですから、彼らは何とかして中風の人をイエス様のところに連れて来たでしょう。ところが、彼らは家の戸口のところまですきまもないほどに集まっている群衆のためにイエス様に近づくことが出来ませんでした。四人だとしても中風の人を連れて来ることは決してやさしくなかったでしょう。ところが家まで来たのに先に来ている多くの人々が大きな障害物になっていたのです。その時、彼らはどうしましたか。
4節をご覧ください。「群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。」とあります。「群衆のためにイエス様に近づくことができなかったので…」という所まで読むと四人は「もう、あきらめたのか」と思われます。一般的にこの辺りで「どうしよう。もう遅い」と思ったら、それでおしまいです。ところが、この四人の友人はあきらめませんでした。彼らには「決して、決して、決してあきらめない、屈服しない」という強い意志、不屈の精神がありました。だから、彼らは道のない所に道を作りました。イエス様のおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を降ろしたのです。
ここでこの四人の友人から絶対に揺らぐことのない不屈の精神、イエス様に連れて行けば必ず癒してくださるという信仰を学ことができます。本当はイエス様に対する信仰があれば人はなかなかあきらめない、不屈の精神を持つようになります。
私たちが良い仕事をすればするほど、摩擦や障害があります。良いことをするからと言って何の摩擦もなく、障害もなく、すべてがうまく行くのではありません。身動きができない中風の人を助けることは本当に素晴らしいことです。ところが、群衆は中風の人をかわいそうに思って道を開いてくれるようなことをしませんでした。だからと言ってその群衆をさばくことはできません。彼らなりに急いでいる問題を持っていたはずだからです。
人にはだれでも生きている限り、何かの仕事をしている限りさまざまなトラブルがあり、障害があります。そういう時にどのように解決して行くことが大切ですが、ここで一つの解決方法を学ことができるのです。
もし、トラブルが発生し、障害がる時、「どうしよう。しようがない、「もう遅い」と思ってしまうなら、何もできなくなります。しかし、「決して決して決して諦めないという不屈の精神、イエス様が助けてくださるという信仰があればチャレンジすることができます。道のない所に道をつくることができます。すると、神様がその信仰を見て助けてくださいます。

第二にイエス様にある罪を赦す権威
5節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。」ここで、二つのことを発見することができます。イエス様は彼らの信仰をみてくださったことです。どうやって信仰が見えるだろうと思う方がいらっしゃるかも知れませんが、信仰による行動は見えます。だから、私たちも「信仰がありますね。」と言います。ある人には賢いし、真面目だけれども信仰がないとも言います。信仰は見える形に表されるからです。四人の友人は中風の人を癒してあげたいという熱意から「決して決して決してあきらめない信仰が行動となって表れました。その信仰がイエス様の目に見えたのです。
では私たちは彼らほど真剣に人のことを思って祈り求め、行動しているでしょうか。果たして私の信仰はイエス様の目に見えているでしょうか。どうか、私たちの信仰が心の中で思うことだけではなく、目に見える形に現われますように祈ります。
二つ目は、まず病気の癒しより罪の赦しを宣布されたことです。おそらく、中風の人も、彼を担いできた四人の人も、肉体的な病が癒されることを望んでいたことでしょう。しかし、イエス様は中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。イエス様は彼に「罪が赦された確信」をお与えになったのです。これは本当に大きな恵みです。「人生最大の祝福」とは、罪が赦されることであると言えるでしょう。この中風の人にとって、その病気がいやされることは、人生の大きな課題でした。それは、今、生きる私たちにとっても同じだと思います。しかし、病気というのは、たとえ直ったとしても、それは、根本的な解決にはなりません。今度は、別の病気にかかるかもしれません。また、その病気が直ったとしても、いつかは、地上の生涯を閉じる時が来ます。しかし、罪が赦されてと、この世で安心して平安に生きることだけではなく、永遠に神様の子どもとして生きるようになります。永遠の祝福が与えられるのです。だからこそ、罪が赦されることは本当に、すばらしい恵み、人生最大の祝福だと言えるのです。
私たちは、日々の歩みの中で、自分がいやになることがあるでしょう。自分で自分を非難したりすることがあるでしょう。「自分はダメな人間だ。」そのように思ってしまうことがあると思います。また、人から非難されたりして、がっかりすることもあるでしょう。「あなたは、ダメな人間ですね。」そんなこと言われたら、がっかりします。このように、私たちは、多かれ少なかれ、自分の評価、また、人の評価で、気持ちが浮き沈みすることがあると思います。それで、平和がなく、不安な生活をします。ところが、この世界を造られ、すべてを御手のうちに握っておられる方が、私たちの罪を赦し、ご自分の子どもと認めて下さるのです。天国に入るべき者として、最終宣告して下さっているのです。現世的ないやしとは比較にならない永遠の祝福です。
どうか、この素晴らしい祝福に、私たちも与っていきたいと思います。また、すでに与えられている方は、この与えられている祝福に感謝していきましょう。
6,7節をご覧ください。「ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」とあります。その場にいた律法学者たちはイエス様の御言葉を素直に受け止めることが出来ませんでした。彼らは心の中で理屈を言いました。神様おひとりのほか、誰にも罪を赦す権威がないことを知っていたからです。ところが、イエス様は神の子です。神様おひとりの権限、権威をイエス様が持っておられるのです。そこで、イエス様は何と言われましたか。
8-9節をご覧ください。 「彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」とあります。イエス様は律法学者たちの心を見抜いておられました。彼らの理屈はイエス様に対する妬みから来ていることを見抜かれたのです。それで、イエス様は「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらが、やさしいか。」と聞かれました。では「どちらがやさしいでしょうか。」。「罪が赦された」と言うほうがやさしいでしょう。なぜなら、罪が赦されたこと自体は目に見えないからです。罪の赦しを信じた人だけが分かります。しかし、「起きて歩きなさい。」と言っても歩けなかったら、その人の言葉には権威がないことが明らかになりました。そこで、イエス様はわざと言われました。
10-12節をご一緒に読んでみましょう。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神をあがめた。」イエス様は人々の目の前で中風の人を立たせ、堂々と歩かせました。それによってご自分に罪を赦す神の権威があることを人々に知らせました。
今日も、このキリストの愛を信じて御言葉に従うなら、すべての罪が赦されます。中風の人のような状態から起き上がり、新しい人生を始めることが出来ます。イエス・キリストによって罪が赦されて神様の子どもとして、霊的にも肉体的にも健やかな人生を始めることが出来るのです。
第三に、イエス様の主権的な召され
13、14節をご覧ください。イエス様はまた湖のほとりに出て行かれました。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられました。イエス様は、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われました。
「レビ」という名前には親であるアルパヨさんの願いが込められていたでしょう。私たちの教会でも子どもに聖書に出てくる人の名前つけています。ヨハネとかダビデとか、サラさんなど、さすがに、イエス君という名前は聞いたことはありませんが、マルコという名前もあります。そのような名前には、やはり親の信仰的な思いがこめられているわけです。それと同じように、このレビという人は、親のそういう信仰的な願いや思いをいっぱいに受けて、名づけられ、育っていった人ではないかと思うのです。両親はこの子に、将来はぜひ、エルサレム大学の教授、律法学者になってほしい。そういう願いをこめて「レビ」という名前をつけたのではないかと思われるのです。ところが、そういう熱い親の期待は裏切られてしまいました。レビが今や、イスラエルでは、もっとも卑しい職業とされ、嫌われている取税人になっています。
イエス様はそんな「レビ」を召してくださいました。レビには人生をやり直すチャンスが与えられたのです。罪が赦されて安心して生きる本当の人生、もともと親が願っていたレビ人としての聖なる祭司の人生を新しく出発するのです。それで、彼は取税人の時とは違う生きがいと喜びがある人生を生きるようになります。素晴らしい福音を知らせ、隣の人にやさしくし、愛する人生を歩むようになります。そこで、「レビ」はイエス様の呼びかけに、なんのためらいもなく、その場ですぐに立ち上がりました。取税人としての生活の基盤を捨てて、イエス様に従っていったのです。そして、この「レビ」はその大きな喜びを手に入れ、嬉しくて、嬉しくて、そし て、その喜びを多くの友とイエス様と分かち合いたくなりました。そこで、彼は、イエス様と弟子たち、そして多くの友人を自分の家に食事に招待しました。彼は貧しい漁師たちとは違って経済的には余裕があったのですぐにも大きなパーティを開いたのです。ところが、そこにいた律法学者たちは、イエス様にこう詰め寄るのであります。
16節をご覧ください。「 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。」とあります。律法学者たちは、楽しくてうれしいパーティの席で、ずいぶんしらけたことを口走ったものです。そんな彼らにイエス様は何と答えられましたか。
17節をご一緒に読んでみましょう。「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
イエス様が地上に来られた目的は、罪人を招くためだ、と宣言なさいました。ここの「罪人」というのは、刑法上の罪を犯した犯罪人という意味ではありません。神様の愛を知らず、神様を忘れ、神様に背を向けて生活をしている人、という意味です。その意味で、すべての人のことです。ところが、パリサイ派の人々は、自分が罪人の中に入るとは考えておりません。むしろ、自分たちこそ、正しい、真っ先に救われる人間だと考えて、救われないはずの、駄目な人々を見下して安心しています。ところが、主イエスに言わせれば、彼らこそ、実は終わりの日には、救われない危険性が非常に大きいのです。なぜなら、たしかに、彼らは律法のことはよく知っています。何が神に喜ばれることかもよく知っています。しかし、本当は神様をも隣人をも少しも愛しませんでした。知っているはずの律法を、守っていませんでした。そして、人を裁きます。しかし、だからこそ彼らは、終わりの日の審きの日には、他人を裁くその秤で、自分自身が裁かれることになるのです。
 反対に、徴税人や罪人として彼らから蔑まれている人々はどうでしょうか。彼らもまた、別に内心では神様を愛し、隣人を愛する生活をしているとは、とても言えません。しかし、彼らはそういう自分の罪を、薄々自覚していて、そのことを悩み苦しんでいるのです。だからこそ、取税人レビは、イエス様に召されたとき、イエス様に従いました。

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」これは、正しい人は招かれていない、という意味ではありません。正しい人、罪を犯していない人は、世の中に一人もいないわけですから、すべての人は招かれています。ただ、自分は罪を犯したことがない、自分は正しい人だ、と錯覚している人は、主イエスの呼びかけを平気で聞き流してしまいます。パウロは「わたしは、その罪人のかしらなのである」と告白しています。要するに、キリストは罪人を招くために、天から降ってこられた。だとすれば、わたしこそまさにその罪人の頭だ。わたしが真っ先にその恵みに与りたいと言う、偽りのないパウロの気持ちでしょう。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」ほんとうありがたい言葉です。このイエス様のお言葉によって癒され、元気付けられて健やかに過ごすことができますように祈ります。イエス様こそ、真の人生の医者です。このレビを始め、多くの罪人といわれている人々の人生を変えていった人生の医者です。イエス様によって、私たちの人生も変えていただきましたし、またこれからも変え続けていただきたいです。多くの人にこのイエス様の福音を知らせたいと思います。