2013年マルコの福音書第9講

行って見て来なさい。

御言葉:マルコの福音書6:30−44
要 節:マルコの福音書6:38「するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」」

 先々週、私は琵琶湖の近くにある浜大津駅で吹田UBFの姜バルナバ宣教師の車に乗って金沢UBFに行ってみて来ました。そこで、土曜日に「親密な夫婦生活」という聖書勉強を導き、主日にはローマ人への手紙8章の御言葉でメッセージを伝えましたが、本当に恵み深い時間を過ごすことができました。金沢の同労者たちは今の自分たちにふさわしい勉強会であり、メッセージであったと何度も感謝の言葉を言ってくださいました。私にとって翌日の朝から学校の行事もあったので迷いもありましたが帰りに電車の中で振り返ってみると行ってみて良かったのです。地方で寂しく孤軍奮闘している同労者たちの試練と痛みに少しでも深く共感し、理解して祈ることができたからです。
 今日はイエス様が弟子たちに「行ってみて来なさい。」と言われた御言葉を学びたいと思います。本文の御言葉は「五つのパンと二匹の王で五千人を食べさせられた出来事」として聖書の中でも有名な個所です。ですから、皆さんも耳になれていると思います。でも、聖霊の働きによって聞く耳を持って御言葉を傾聴することができるように祈ります。

?.深くあわれみ、教えられたイエス様
30節をご覧ください。「さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。」とあります。この間、夏修養会の時、私はUBF国際修養会に行って来て私たちの見たこと、聞いたことを皆さんに報告しました。それは私たちのしたこと、教えたことではありませんでした。ところが、使徒たちは自分たちが身を持って経験したことを報告したのです。このような報告を通して私たちは神様の働きを確かめ、神様に対する信仰もますます強くすることができます。私は日本のSBCが終わってからは神様のみわざを世界のUBFに報告しましたが、もう一度SBCを顧みながら神様が私たちに「神様を信じる信仰」を求めておられることを深く悟りました。また、私が送った報告に対する返事を読みながら五つのパンと二匹の魚のような私を用いてくださる神様の恵みに感動しました。もっと積極的に主のみわざに励みたくなりました。
おそらく、使徒たちも報告を通して神様に対する信仰がますます強くなったでしょう。足りない自分たちをいのちのみわざに用いてくださった神様の働きに感動し、ますますやる気が生じたと思います。では、そんな弟子たちにイエス様は何と言われましたか。
31節をご一緒に読んでみましょう。「そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」イエス様は寂しい所へ行って休むように勧められました。「寂しい所」とは疲れた体と心を休ませる場所です。イエス様はしばしばこの寂しい所で時を過ごされました。聖書に「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた(1:35)。」とあります。イエス様は弟子たちにも休息と祈りの場を体験させようとしました。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事をする時間さえなくても働き続けようとする弟子たちに寂しい所で休み、神様と交わりを疲れた体も心も霊も力づけられる寂しい所を体験するように助けられたのです。
この寂しい所はすべてのクリスチャンに必要です。特に弟子たちのように使命人として生きる人はゆっくり食事をする時間さえないほど忙しいからこそ、寂しい所が必要なのです。その場所は教会の祈り室、家の奥まった部屋、近くの公園なども寂しい所にすることができます。時には近くの山に登って休み神様との交わりをいただくこともできるでしょう。皆さんはこういう寂しい所をお持ちでしょうか。
私は教会が自分の住まいになっていた時は、近くの公園を寂しい所として用いました。今は私の家から離れているこの教会堂が寂しい所です。職場では時々地下にあるシャワー室が神様と交わる寂しい所となります。こういうところで神様との交わり、心を新たにすることができます。そういうわけで皆さんにも「寂しい所」を持つようにお勧めします。イエス様は私たちの疲れた霊と心と体の状態をよく知っておられます。だからこそ、イエス様は私たちにも「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われると思います。暇さえあれば家でも、外でもスマートフォンを持っているとついついネット サーフィンしてしまいがちですが、それよりも神様と交わる休みと取りましょう。女性の場合はテレビでドラマや映画を見、ショッピングを楽しむかも知れません。それはそれでいいでしょう。でも、イエス・キリストの弟子として生きる人は寂しい所で神様に出会い、神様と交わる時間を大切にしなければならないでしょう。それこそ、本当の休みになるからです。では使徒たちが寂しい所で休むために出かけた時にどんなことが起こりましたか。
32、33節をご覧ください。使徒たちは舟に乗って自分たちだけで寂しい所へ行きました。ところが、多くの人々が、弟子たちの出て行くのを見、それと気づきました。それで、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、弟子たちよりも先に着いてしまいました。結局、弟子たちは休めなくなりました。ある意味で、それこそ弟子生活であるでしょう。私たちも安息を得るために、礼拝をささげるために教会に来ますが、弟子たちのように休めなくなる場合が多いでしょう。CBF礼拝に仕えることがあります。1:1聖書勉強があります。オーケストラの個人指導や全体練習もあります。週報作り、伴奏、特別賛美などの奉仕があります。代表祈り、司会が回って来ます。礼拝が終わると食事の当番が回って来ます。礼拝に来たけれどもいろいろな活動で主日があっという間に過ぎて行くのです。でも、あの弟子たちのように、「忙しい、忙しい」と言って愚痴をこぼすようなことはしません。なぜでしょう。弟子たちも、今日の私たちも主の御言葉を通して真の安息を得ているからです。イエス様の愛によって救われている人はイエス様が教えてくださる御言葉によって養われ、安息といのちのパンを得ているのです。しかし、まだ救われていない人々の状態はどうですか。また、彼らに対するイエス様の御心はどうでしょうか。
34節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」まだ救われていない多くの群衆は羊飼いのいない羊の状態になっていました。彼らをご覧になったイエス様は彼らが羊飼いのいない羊のようであることを深くあわれみ、いろいろ教え始められました。「羊飼いのいない羊」は、日本ではあまり見られません。でもあのユダヤ地方ではよく見られる光景でありました。羊飼いを見失って、野原をさまよい、誰からも見放された、いわゆる「迷える羊」のことです。それは親のいない子どものようであると言えるでしょう。愛されて育つべき子どもなのに、愛されることなく、彷徨っている状態です。そういう子どもほどかわいそうで哀れな人もいないでしょう。
「君は愛されるために生まれた」という歌(「きみは愛されるため生まれた/きみの人生は愛で満ちている/きみは愛されるため生まれた/今もその愛受けている/永遠の神の愛はわれらの/出会いの中で実を結ぶ/きみの存在が私には/なにより大きな喜びです/きみは愛されるため生まれた/きみの人生は愛で満ちている/きみは愛されるため生まれた/今もその愛受けている。」)がありますが、私たち人間は愛されて愛する存在として造られています。英語で「So loved, So Love」です。従って親は子どもにその愛を示し、国の指導者は民にその愛を示さなければなりません。ところが、イエス様がご覧になると、この群衆には彼らを守り、愛する羊飼いの指導者が見えませんでした。もちろん、名目上の指導者はいました。国王ヘロデがいます。政治家たちがいます。神殿には祭司がいます。会堂には律法学者やパリサイ人がいます。町や村には長老と呼ばれるシニアたちがいます。しかし、これら指導者たちは誰も群衆に神様の愛を示しませんでした。上渇いている彼らの魂を潤すような御言葉を教えてくれませんでした。それで群衆は羊飼いのいない羊のようになっていたのです。そのまま放っておくとどうなりますか。羊はめいめい好き勝手なところに散りじりばらばらになります。結局、人々は彷徨いながら罪を犯し続け、自分の咎のために滅んで行きます。かつてイザヤ預言者は「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53:6)と預言しました。
人々は良い牧者、羊飼いがいないために自分勝手な道に向かって行って彷徨い、飢え渇いて死んでしまうのです。だからイエス様は、そのような群衆の有様を見て深くあわれまれずにおれませんでした。ここで「あわれむ」という言葉の語源は、内臓を揺り動かされるという意味から来ています。イエス様は羊飼いの羊のような群衆を見てご自分の内臓が揺り動かされるほどに可哀そうに思ってくださったのです。それほどイエス様は群衆を深く愛されました。その愛のゆえにどうなさいましたか。
もう一度34節をご覧ください。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」とあります。イエス様は、先ずいろいろと教え始められました。豊かな命の言葉をもって彼らの魂の飢えを満たして下さいました。人はパンだけでは生きていけません。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてあるとおりです(マタイ4:4)。深いあわれみのゆえにイエス様がなさったことはいろいろと教えることでした。イエス様が群衆を愛してまず第一になさったことはいろいろと教え始められました。小麦粉で作ったパンではなく、魚でもなく、聖書の御言葉を教えられたのです。イエス様が夢中になっていろいろ教えていると、いつの間にか時刻もおそくなりました。すると、イエス様は御言葉を教えることだけではなく、パンの問題を助けてくださいます。

?.行ってみて来なさいと言われたイエス様
35,36節をご覧ください。「そのうち、もう時刻も遅くなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻も遅くなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」とあります。弟子たちは現実をよく把握した上でイエス様にお願いしました。それは集会を解散させることです。しかし、イエス様は弟子達に何と命じられましたか。
37a節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたで、あの人達に何か食べる物を上げなさい。」ここで、「あなたがた」とは弟子たちです。弟子たちは群衆とは違ってイエス様から任命されたリーダーです。リーダー求められる徳目の一つは責任感です。親に責任感がなければ、その子どもたちは羊飼いのいない羊のように彷徨います。無責任な親の子どもほど哀れな人もいないでしょう。責任感のある親は何とかして子どもたちを養い、教育します。イエス様は弟子たちにもそういう責任感を持っていてほしいと願っておられたのです。それは私たちにも求めておられると思います。特にUBFの牧者や宣教師たちには羊飼いのいない羊のような若者に対する責任感を自覚してほしいと願っておられるでしょう。さらに霊的に飢え乾いている47都道府県の民に対する責任感です。どうか、私たちは自分がリーダーになっているグループに対して、自分の子どもたちに対してフェローシップやキャンパスに対する責任感を新たにすることができるように祈ります。
では弟子達はイエス様が「あなたがたで、あの人達に何か食べる物を上げなさい。」と言われた時、どのように受け取りましたか。
37b節をご覧ください。「私達が出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人達に食べさせるように、ということでしょうか。」とあります。彼らは「何とか買って来ます。」と言いませんでした。彼らが「私たちが出かけて行って…」と言っていることを考えてみると、イエス様は彼らに「出かけて行くこと」を望んでいることが分かったようです。二百デナリのパンが必要であることも分かっていました。でも彼らは行動しませんでした。知識的に知っていて計算もできましたが行動しませんでした。そんな彼らにイエス様は何と言われましたか。
38節をご一緒に読んでみましょう。「するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」」イエス様は弟子たちに「行ってみて来なさい」と命じられました。つまり頭だけを回さないで行動しなさいということです。何事も行動することはとても大切です。アントニオ猪木さんのことばに「踏み出せば、その一歩が道となる。迷わず行けよ。」と言う言葉がありました。なるほどと思います。「行ってみると現場を見て感じ、助けようとする心も生じるものです。すると、小さいことから始めることができます。
バングラデシュで”貧者のための銀行”を開設した人がいます。ムハマド・ユヌスという人です。彼は大学教授でしたがある日貧しい多くの人々がなかなか仕事につけないでいたり、高利貸しへの借金で苦しんでいる人々の所に行ってみました。すると、ある老婆は、高利の借金のために首がまわらずにいました。しかしいろいろ計算してみると、数十万円のお金さえあれば、すべて返済できることがわかりました。そこで老婆のために、普通の銀行に相談してみると、その答えは、「アー・ユー・クレイジー?」でした。そのため彼は、自分で貧者のために、小額・低利の貸出しをする銀行を開設することを、思い立ったのです。銀行が開設されると、その前には、借りたい人々の列ができました。銀行といっても、りっぱな建物があるわけではありません。青空の下に机を一つおいて、その前に人々が並ぶ、といった簡単なものです。しかしある人は、そこから借りたお金をもとに、町で店を開き、一年後にはすべてを返済してしまいました。こうして多くの人々に、貧乏から抜け出すチャンスが提供されたのです。この銀行では、貸し出したお金の九八%を回収できており、黒字だそうです。貧乏な人を哀れむ心、行ってみる行動力によって開設された貧者のための銀行は、りっぱに成功をおさめたのです。
多くの人々は力がなければ行動できないと思うでしょう。エマ‐ソンは「行動しなさい。そうすれば力が湧いてきます。」といいました。不思議なことに行動すれば力が湧いてくるのです。弟子たちが行ってみると現場はどうでしたか。五つのパンと二匹の持って来ることができました。それはほんとうにみすぼらしいものですが、イエス様に持って来ると驚くべき奇蹟が起こりました。イエス様はそれを取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂いて、人々に配るように弟子達に与えられました。また、二匹の魚もみなに分けられました。その結果、どんな大きな御業が起こりましたか。42節をご覧ください。「人々はみな、食べて満腹した。」とあります。人々はパンを食べてお腹がパンパンになりました。それでも、食べた残りが十二かごにいっぱい取り集めたほどになりました。ことは神様がどんなに豊かに祝福してくださったかがわかります。

このイエス様は天と地を創造された全能なる神様です。私たちもキャンパスに行ってみましょう。行ってみて聖書の言葉を言ってみましょう。すると、過去、私たちのように彷徨っている兄弟姉妹たちがいます。彼らをイエス様に連れて来るなら、イエス様は彼らの人生を祝福してくださいます。御言葉を教え、パンを食べることができるようにしてくださいます。どうか、私たちがただ、考える、頭で計算することだけではなく、行ってみる行動を通して神様の力と祝福を体験することができるように祈ります。