2013年マルコの福音書第10講

人を汚すものを取り除くためには

御言葉:マルコの福音書7:1〜23
要 節:マルコの福音書7:23「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

先週、私たちは「行ってみて来なさい。」と言われたイエス様の御言葉を学びました。何事もイエス様の御言葉に従って行ってみる行動はとても大切だと思います。行動することを通して神様の奇跡と愛を体験していくらからです。
今日の御言葉からは心について学ぶことができます。心にあるものが口から出ますが、それは言葉を通して表わされます。その言葉には不思議な力があります。何気ない一言に傷ついてしまう時もあります。もちろん何気ない一言で,とても勇気づけられたこともあります。その言葉は人の内側、すなわち、人の心から出て来ます。ルカの福音書を見ると、イエス様は「人の口は、心に満ちているものを話すからです。」と言われました(6:45b)。したがって、私たちは外側、外見上の姿よりも内側、心にある悪を取り除き、きよく保たなければなりません。本文の御言葉を通して神様がほんとうに求めておられることを知り、内側、すなわち心がきよめられたクリスチャンとして生きるように祈ります。

?.外側より心から神様の戒めを守りなさい
1、2節をご覧ください。「さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、」とあります。弟子たちのうちに誰が洗わない手でパンを食べたでしょうか。それはよく分かりません。著者であるマルコは個人情報保護のために名前を書かなかったようです。ただ、マルコはパリサイ人と律法学者が洗わない手でパンを食べている弟子を見ている理由について説明しています。それはユダヤ人社会をよく知らない異邦人の理解を助けるためです。
3,4節をご覧ください。「・・パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。・・」とあります。パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、手をよく洗ってから食事をしていました。
ですから、ユダヤ人の弟子たちはほとんど手を洗って食べたでしょう。ただ、彼らのうちに汚れた手でパンを食べている人もいたのです。パリサイ人と律法学者はその光景を見て「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」と言いました。彼らは正しいことを指摘していました。ところが、イエス様は弟子たちの問題を指摘するパリサイ人と律法学者たちに何と言われましたか。
6-9節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」
イエス様は、口先では神様を敬っていても、実はその心は神様から遠く離れている彼らの偽善を指摘されました。事実、彼らが口先では言い伝えを強調していることが問題ではありません。大きな問題は彼らの心が神様の戒めから遠く離れていることなのです。
では私たちはどうでしょうか。毎週、私たちの手、足、口は礼拝をささげ、賛美の歌を歌っています。祈りをささげ、聖書勉強と伝道もしています。ところが、私たちの心はどうなっているでしょうか。神様との親密な関係の中にいるでしょう。私はこのメッセージを準備しながら神様から遠く離れているような気がして悔い改めずにはいられませんでした。パリサイ人と律法学者は、言い伝えによって、「神の戒め」をないがしろにしました。口先では敬虔な言葉を言っていましたが、彼らが言っている言い伝えによって、神様の戒めをないがしろにしていました。それただけではなく、神の戒めに違反するようなことをしていました。
10-13節を読んでみましょう。「モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」
イエス様は、彼らが大事にしているモーセの律法から、父や母を敬うことについて話されました。十戒によると、私たち人間は父と母を敬わなければなりません。今のことばによると、親を扶養する義務があるのです。口先だけではなく、真実に心から行なうのです。
先々週の勉強会の時、ある宣教師は奥様が夫である自分にも知らせないでしゅうとめの通帳に仕送りしていることを告白しました。お母さんとの電話の中でそれが分かったそうです。いくらかは分かりませんがお母さんが非常に喜んでいらっしゃるし、ご自分も本当に感謝していると言いました。そのことをおっしゃっている宣教師の顔はとても幸せに見えました。申命記5:16に 「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。」とあるように、父と母を敬う人は長生きをし、幸せになるのです。
ところが、ユダヤ人の言い伝えの中には、「コルバン」というものがありました。自分の持っている物は神へのささげ物にすれば、父母に支払うお金がなくてもいいということです。今風に言えば、私は教会で献金をしているから父と母には仕送りなんかしなくてもいいということです。神様にささげているので扶養義務を放棄しているようなものです。ですから、言い伝えを守ることによって、結果的に『あなたの父と母を敬え。』という神様の戒めを破っていたのです。こうして彼らは、人の言い伝えによって、神様のみことばを空文にさせました。役に立たないものにしていたのです。そして、これと同じようなことを、たくさんしていました。その上、 自分たちは言い伝えを守っているので神様を敬う者であるという自信を持っていました。ところが、自分で自分を正しいという自己義認の心は、神様の御心とは全く反対の方向へと彼らを導きました。つまり、彼らは言い伝えを守らない人を常にさばいていたのです。ですから、人々は神様を愛し、隣人を愛する愛の中ではなく、いつもそのさばきの目を恐れていました。言い伝えを守り、戒めを行なうことに熱心であっても、神様の御心を求めることには無関心であったのです。もちろん、戒めも、言い伝えもそれ自体は尊いものです。しかし、それよりそれを与えられた神様の方がさらに尊いのは言うまでもありません。神様がなぜそのような戒めを与えられるのかと、御心を求めることなしに、言い伝えや戒めを守ることは無意味なことなのです。
私たちにも言い伝え、UBF教会の伝統などがあります。先輩から言い伝えられている1:1聖書勉強、所感、日ごとの糧などの伝統があります。一つ一つが素晴らしいことですし、これからも受け継がせていくべきだと思っています。しかし、神様の戒めよりも、それらを守ることを重んじる生き方は神様から離れたものです。1:1を何チームしたか、礼拝に遅刻しているかどうか、所感を書いているかどうかと言うことばかり気にしていてはなりません。そうすると、よくできている人は自己満足して高ぶったり、できなかった人を見てさばいたりしてしまいます。できない人はできなかった自分のことで心細くなり、劣等感に陥ったりしてしまいます。そういう考え方で教会に来ると、教会も居づらくなるでしょう。何よりもそういう生き方は神様から遠く離れたものなのです。
では、皆さんにお聞きしますが、神様が最も大切にしておられることは何でしょうか。それは愛です。父なる神様と交わる愛、私たちが互いに愛し合う愛です。ありのままで互いに赦しあい、愛し合うことです。
マタイの福音書22章を開いて37〜40節までをご一緒に読んでみましょう。「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」」とあります。律法(戒め)の中で何が大切ですかと問われた時、イエス様は神様を愛すること、そして隣人を愛することだと答えられました。愛を土台とした神様との関係、隣人との関係こそ、神様が最も大切にしておられることなのです。

?.内側、すなわち心をきよくしなさい
14、15節をご覧ください。「イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」」とあります。イエス様は、「わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい、」と言われました。この御言葉から皆さんは何を悟りますか。どうやら、イエス様のそばで聞いていた人々は悟らなかったようです。群衆どころか、弟子たちも悟らなかったようです。というのは、17節を見ると、イエス様が群衆を離れて家にはいられてから弟子たちは、このたとえについて尋ねたからです。
私たちはイエス様の御言葉を聞くことも大切です。聞くことから始まるからです。それで私は教師として生徒たちに勉強も聞くことが大切だとよく言います。ところが、5時間目の授業は眠っている生徒が目立つので「目を覚ましてよく聞きなさい。」とよく言います。すると、ある生徒は「目は閉じていてもちゃんと聞いていますよ。」と言います。それで確かめる質問をすると意外に答える子もいます。目を閉じていても聞くことはできます。礼拝の時に目を閉じている方も聞いていることでしょう。でもイエス様は「みな、わたしの言うことをく聞いて、悟るようになりなさい」と言われました。イエス様の言うことは「外側から人にはいって、人を汚すことのできい」ということです。イエス様は皆がこのことを聞いて悟ってほしいと願われたのです。ところが、弟子たちでさせ、よく分からなかったのです。そこで、イエス様はもっと具体的に説明してくださいました。
18、19節をご覧ください。「イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」とあります。
一般的に、人は何を食べても、汚いものを食べないでしょう。イチゴやリンゴなどは洗って食べるでしょう。賞味期限が過ぎて腐っているものを食べません。ところが、もし、汚れたものを食べてそれが腹に入っても人を汚すことはできません。もし、私がリンゴを洗わないで汚いものを食べたとしても、それによって汚い人間になるのではないのです。きれいなものも、汚いものも人の心には入らないで腹にはいります。そして腹の中で栄養分だけを取り、要らないもの、必要以上のものは排泄物になります。トイレに出されてしまうのです。では何が私たちを汚すものなのでしょうか。
20-23節をご一緒に読んでみましょう。「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」」
ここでは「人の心から悪い考え」として12の罪が記されています。「殺人」にしても「姦淫」にしても、心の内側で恨みや欲情がマグマのようにたまってしまったことの結果です。心にある悪い考えが言葉や行動に現れたものなのです。心が神様への愛と隣人への愛から離れて行った結果として、目に見える様々な罪が現れるのです。
パリサイ人は言い伝えや戒めを厳しく守り、厳しく守らせようと思うあまり、神様のあわれみが見えなくなっていました。彼らは道徳的であり、冗談や無駄話もしませんでしたが、神様のあわれみに感動したり、罪の赦しの恵みに涙を流すこともありませんでした。外側を整えていても内側が神様の愛も、人の愛を感じていない生活をしていたのです。しかし、大切なのは神様の愛と人の愛を受けて守られることです。祈りは責任であるよりも特権として思い、聖書を読むことも義務であるよりもいのちの源であると思う心が大切です。ところが、生まれながらの人間の内側には、罪の性質が住みついています。私たちはテレビや新聞を見て、なんて酷いことをするものだろう、と考えます。それだけではなく、「なんであの人はいつも偉そうなこと言うだろうか。あの人は自分のことしか考えていないね。」と考えます。しかし、全く同じような悪が、実は自分の心の奥に潜んでいることに気づかされます。
私は誰かの自慢話を聞いていると耳が痛くなるほど嫌な時があります。自分より年上の人とか、地位の高い人が偉そうな話をすると、仕方なく聞いているけれども心の中では「高慢な人間だなあ」と思う時があります。しかし、よく考えてみると、自分も同じ人間です。私もそんな人間なのです。時々、家族から言われます。「自慢話をやめなさい。何度も聞いているよ。」と。本当に私も罪深い人間です。では、どうやって罪深い人間の心がきよめられるでしょうか。パリパイ人のパリサイ人として律法を守り通す生活をしていたパウロは言いました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)。だれも私たちを汚れ、腐っていく死のからだから私たちを救い出すことはできないのです。しかし、神様にはできます。イエス様は言われました。「それは、人にはできないことですが、神は、そうではありません。(マルコ10:27)」神様にはできるのです。
神様は御言葉によって私たちをきよめてくださいます。詩編の記者は言いました。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるのでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(119:9)」心を守らないと心に、人の話、雑誌、インターネットのサイトなどからつまらない情報、汚い情報が積み上げていきます。すると、私たちはどうなりますか。心から腐っているものが出てくるしかありません。しかし、心に御言葉を積み上げていくなら、ますますきよめられ、信仰の言葉、肯定的な言葉、愛の言葉が出てきます。汚れから身を避けることよりも、自分の心に響いてきた御言葉を思い巡らす生活をするとき、御言葉によって私たちの姿は変えられて行きます。顔もきよく輝くようになって行きます。
何よりも私たちはイエス・キリストが十字架上で流された血によって聖霊によってきよめられます。ヘブル書9:14にこう言っています。「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」私たちは傷のない神の子羊として十字架にかかって御血を流し、死んでくださったイエス・キリストの血潮によってきよめられるのです。イエス・キリストの十字架による赦し、贖いを信じて罪を告白し、悔い改めることによってきよめられます。
ヨハネの手紙第一1:7‐9節に「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。またパウロは、ガラテヤ5:16節でこう言いました。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」

どうか、私たちが日々神様の御言葉を読み、学んで心を満たしますように、その御言葉を思い巡らす生活をし、キリストの御血よる贖いを信じて十字架にすがる生活ができるように祈ります。そのときに、私たちの心はきよめられます。そして、聖霊が私たちのうちに働かれ、良い実を結ばせてくださいます。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22)