2013年マルコの福音書第18講  

生きている者の神様

御言葉:マルコ12:13-27
要 節:マルコ12:27「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

 先々週、私は韓国に行き、先週の月曜日に帰って来ました。学校の出張で行ったのですが、その間に、祖父の25周忌がありました。私はずっと日本にいたので、祖父の法事には初めて出席しました。久しぶり幼い時に一緒に住んでいた叔父たちと兄弟たちが集まって昔の思い出を語り合いながら楽しいひと時を過ごしました。しかし、祭壇を準備してお辞儀をすることには違和感がありました。叔父たちは亡くなった祖父の魂が来られるからと言っていましたが、本当に死んだ人の魂が年に一度は法事をする息子の家に戻って来るでしょうか。私は叔父たちと議論したかったけれども、家族の平和のために黙っていました。しかし、それは思い違いです。そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。
 昔、サドカイ人たちも死後の世界に対して思い違いをしていました。彼らは「復活はないと主張していた」からです。そんな彼らにイエス様は復活について、神様がどのようなお方かについて教えてくださいました。どうか、この時間、イエス様の教えに耳を傾けて復活の世界、聖書と神様の力について学ぶことができるように祈ります。何よりも私たちひとりひとりが生きている者の神様を深く学び、生きている者らしく生き生きと生きて行く者になりますように祈ります。

13節をご覧ください。「さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。」とあります。「彼ら」とはユダヤの指導者たちです。12章の前半部を見ると、イエス様はぶどう園のたとえ話を通して神様の恵み深さと共に彼らの罪深さを指摘し、警告されました。すると、彼らは自分たちの罪に気づかれましたが、悔い改めませんでした。むしろ、ますますイエス様に対する殺意に満ちてイエス様をとらえようとしました。その目的のために、彼らは「イエスに何か言わせて、わなに陥れよう」としてパリサイ人とヘロデ党の者数人をイエス様のところへ送りました。ところが、普段はパリサイ人とヘロデ党の人々は仲よくない関係でした。
パリサイ人は生粋のユダヤ人です。彼らは過激な行動はしませんが、親ローマ派のヘロデ堂に対してはとても批判的でした。一方、ヘロデ党はローマ政府に忠誠を尽くすという立場をとっていました。そんな彼らがイエス様を攻撃するためには一緒に行動しているのです。彼らはイエス様のところに来て何と言いましたか。
14節をご覧ください。彼らは「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」と言いました。彼らはイエス様を「真実な方で、「だれをもはばからない方だ」と評価した上で国民が嫌がる税金に関して質問しました。それは良くも考え出した質問です。税金問題は国民の間にいろいろな考え方があり、なかなか断言しにくいことです。今の日本で消費税増税問題は自民党と共産党の意見が全く違います。特に、彼らの質問はどちらに答えてもイエス様をわなに陥れることができるようになっていました。もし、「カイザルに税金を納めなさい」と答えるなら、パリサイ人から攻撃されるでしょう。国民感情の反発を受けるでしょう。ローマへの徴税に反対しているからです。だからと言って「納めるべきではない」と答えるなら、どうなりますか。そこにヘロデ党の人々がいました。彼らは親ローマ派だからイエス様をローマ当局に訴えるはずです。どちらに答えてもイエス様は訴えられるような仕組みになっているのです。ではイエス様は何と答えられましたか。
15‐17節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。するとイエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らはイエスに驚嘆した。」とあります。
 イエス様は彼らの擬装を見抜かれておられました。敵対関係のパリサイ人とヘロデ党の人が協力していること自体が擬装です。彼らは本音を隠していたのです。そこで、イエス様は「なぜ、わたしをためすのか。」と言われました。そして、彼らに「デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」と言われました。彼らが持って来て見せると、イエス様は「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と質問されました。当時のデナリ銀貨の一面にはアウグストの子、カイザルの肖像が刻まれていました。そして二面にはラテン語で「神として崇められるアウグストの子、カイザル・ティベリウス」と「銘」が入れられていました。だから、だれでもイエス様の質問に答えることができました。それで彼らはイエス様の質問に「カイザルのです」と答えました。すると、イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」と言われました。カイザルが嫌でも、納税は返さなければならないと言われたのです。
ここで、私たちは納税の義務を果たさなければならないことを学ぶことができます。後で使徒パウロも「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。(ローマ13:7)」と教えています。
私たちはこの日本に住んでいる限り、外国人であっても税金を納めなければなりません。時々、私は税金が多く取られていると思います。ほとんど見てないNHK視聴料は払いたくありません。消費税も現在5%の消費税率は、2014年4月に8%、2015年10月には10%へと、2段階で 引き上げられることになりますが嫌だなあと思います。しかし、よく考えてみると、今日の私たちは、国や東京都から数々の恩恵を受けています。公共施設、上下水道、教育、医療、治安維持、児童手当、ゴミ処理、などなどがあります。それらに対して適正に定められた税金があります。私たちはそれを国や東京都のものとして返さなければならないのです。
そして、イエス様はく「神のものは神に返しなさい。」と言われました。このことばの背景には、人が神のかたちに創造されたて(創世記1:27、神のかたち(肖像)を帯びていると知らされていることに基づいていると思われます。デナリ銀貨にカイザルの肖像が刻まれているように、人には神様の肖像が刻印されているのです。だから、パリサイ人だけではなく、親ローマ派のヘロデ党の人々も神様のものは神様に返さなければなりません。ヘロデ党の人はヘロデ王に忠誠するだけではなく、神様にも忠誠しなければならないのです。
それは私たちも同じです。私そのものが「神様のもの」なのですから、私そのものを丸ごと神様にささげて生きることです。これに対してパウロはもっと具体的に説明しています。ローマ人への手紙12章1節を見ると「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」とあります。私たちは、まず自分の体を神様に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげた上で、カイザルのものをカイザルに返して行く生活をしなければならないのです。結局、ユダヤの指導者たちから使われた人たちは、この明快なイエス様の答えに、驚嘆しました。しかし、イエス様に対する彼らの攻撃はやめませんでした。
18節をご覧ください。「また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。」とあります。サドカイ人たちは聖書に書いてある通りに「復活がない」と主張していました。彼らはイエス様の時代より1000年前のソロモン王の時代から神殿に仕えた祭司ザドクの子孫です。彼らは貴族階級で政治的にはローマ人と親しく、現世的、物質的な生活をしていました。豊かな生活をしていたので現世の生活に満足し、復活、天使や霊魂があることを否定しました。メシアが来る事も望みませんでした。彼らはそういう自分たちの信仰と主張が正しいことを証明して復活を教えるイエス様をわなにかけようと思いました。そこで、彼らが質問したのは復活信仰の矛盾です。彼らは死後の世界を認めなかったのですが、イエス様を攻撃するために死後に起こりうるようなことを話してイエス様を攻撃しています。
19−23節を一緒に読んでみましょう。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」とあります。
 彼らは、この世で次々に死んだ7人の兄弟の妻となった女性が復活したならば、あの世でだれの妻になるかと質問しました。七人兄弟はありうることですが、次々に死んでひとりの女性が七人の兄弟の妻になることはあり得ないことでしょう。それに彼らはあの世など信じていません。それなのに、ただ復活があるという馬鹿げた話だという矛盾点を証明するために作り話を話したのです。そんな彼らにイエス様は何と言われましたか。
24節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」とあります。イエス様の答えは二つです。一つ目は彼らが聖書を知らないことであり、二つ目は神の力を知らないことです。このイエス様のお答えには、私たちのすべての質問に対する答えでもあると思います。私たちは生活の中で様々な問題にぶつかります。それらに対する答えが見つからないのは悩み、苦しむ時があります。しかし、それは聖書をよく知らないからです。また、神様の力を知らないからです。事実、私たちが聖書を知り、神様の力を知るなら、すべての問題が解決されます。?テモテ3:15b節を見ると「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」とあります。そして創世記から黙示録まで、聖書が繰り返して力説していることがあります。それは、私たちが祈りを通して語る時、神様が御言葉と聖霊のささやきを通して語ってくださるし、救ってくださるということです。ですから、私たちが聖書を知り、神様の力を知るならどんな問題でも神様に祈り、神様から知恵を得て解決して行くことができます。大いなる神様の力を体験して行くことができます。まだ経験していない復活の世界、天国の世界も信じることができます。では、復活に対する聖書の教えは何でしょうか。
25節をご覧ください。「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」とあります。聖書は復活後の世界がこの地上での世界とは違うということを教えています。この地所ではめとることも、とつぐこともありますが、天の御使いはめとることも、とつぐこともありません。
皆さん、天国でも結婚したいですか。結婚はこの地上だけに存在します。もちろん、私が天国に行けば、私たちの父も母も私が自分の息子であると分かります。私よりも先に行っている弟も私を迎えてくれるはずです。私の祖父の法事の時に集まっていた家族が先に亡くなった家族と会えるのです。そこで、互いに抱き合って喜ぶことができるでしょう。しかし、天国では結婚しなくても良いのです。なぜなら天国には死がないからです。天国では私たちの罪の本性が全くないのですべてが美しく、すべてが素晴らしいです。ヨハネの黙示録21:3,4節には「「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあります。この世では、いろんな悩みや悲しみがあります。先週、私は韓国で友だちや親戚の悩み、悲しみを多く聞いて来ました。しかし、天使のようになった霊のからだの世界では、死もなく、夜もなく、嘆きや悲しみのない世界です。そして、イエス様を中心にして絶えず主を礼拝し賛美するのです。そこで、イエス様は復活も天使も霊も信じないサドカイ人たちに復活後の世界、天使と霊の世界について教えてくださいます。しかも、モーセ五書のみ受け入れている彼らにモーセ五書の御言葉に基づいて復活があることを証明しました。
26節をご覧ください。「それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。イエス様は神様がシナイ山でモーセに燃える芝から語られた有名な言葉を引用してサドカイ人を論駁しました。もし、父アブラハム、ヤコブ、イサクが死んだなら、神様は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神だったと言うべきでした。彼らが400年前に葬られたのは事実だからです。しかし彼らはまだ生きています。だから、神様はモーセに現われて『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』と言われたのです。このように、過去形ではなく、現在形で言われているから、永遠不滅の神様とのつながりにおいて、死んだ先祖たちはみな生きているのです。その意味で神様はどんなお方ですか。
結論として27節をご一緒に読んでみましょう。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」サドカイ人たちが知らなかったもう一つは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と言うことです。事実、神様は死んだ者の神ではなく、生きている者の神様です。したがって、私たちも生きている者の神様の御前で生きている者として生きていなければなりません。
エペソ2:1‐6節を開いて読んでみましょう。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」とあります。
私と皆さんはイエス様を信じる前に自分の罪過と罪との中に死んでいました。私たちの霊魂は死んでいたのです。死んでいたから神様を神として崇めず、感謝もせず、かえってその思いがむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。罪の中にあってこの世の流れに従っていました。ところが、今は生きている者になりました。いつ生きている者になりましたか。イエス・キリストを受け入れて信じた瞬間です。あわれみ豊かな神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かしてくださいました。その時に、私たちは聖霊によって生まれ変わりました。霊的に新しく生まれたのです。それで、聖書を知り、神様のいのちを所有して神様の力も知り、体験できるようになりました。だったら、私たちはどのように生きるべきでしょうか。生きている者らしく生きなければならないと思います。死んでいる者は何も言わないし、動きません。しかし、生きている者は違います。話ができるし、立ち上がって歩きます。礼拝をささげ、賛美することができます。礼拝の時間を喜び楽しむこともできます。その霊が生きている人は聖霊と交わり、祈ることもできます。喜んで賛美します。この世の流れに従うのではなく、世の誘惑に打ち勝つ生活をします。
この間、韓国に行ったとき、私は故郷の小川にも行ってみました。子どもの時に魚をつかんだり、つかんだ魚を投げたりして遊んでいました。その時に見たのですが、死んでいる魚は川の流れに流されて行きました。また、生きている魚でも川魚(淡水魚)が流れに従って海まで行ってしまうと死んでしまいました。海水には塩分が多いからです。それで海に近い川ではさかのぼる魚たちもよく見えました。今、考えてみると川をさかのぼる魚たちは生き残るために闘争していたと思われます。そして、霊的にも私たちがこの世の流れに従うなら塩分の多い海に溺れて死んでしまうのではないかと思います。しかし、生きている者は違います。川をさかのぼる魚のように、世の流れをさかのぼって行くでしょう。堂々と生きて行きます。何事にも肯定的に考えて挑戦し、生き生きと生きて行きます。この世の流れに流されることなく、今も生きておられる主と共に歩む生活をします。そのうちに、聖書をますます深く知り、神様の力を体験して行きます。私たちの神様は過去の神様はではありません。今生きておられる神様です。今日も私たちのうちに働いておられる神様です。新聖歌257番をご一緒に歌いましょう。どうか、この神様とともに生きている者らしく生きて行くことができるように祈ります。