2013年マルコの福音書第19講

神様を愛し、隣人を愛する

御言葉:マルコの福音書12:28‐44
要 節:マルコの福音書12:30,31心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」。

 先週、私たちは詩篇40篇にある「ダビデの賛歌」を通して賛美にあふれた収穫感謝礼拝をささげました。李ヨシュア宣教師を始め、私たち皆が賛美の歌で神様への感謝ができたことを感謝します。聖書には「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。どうか、私たちが収穫感謝礼拝の時だけではなく、いつも、すべての事について神様に感謝する生活ができるように祈ります。
今日は聖書の中でも最も大事な戒めを学びますが、私は神様の不思議な導きを感じています。先週の日ごとの糧に記されたヨハネの手紙第一を通して神様の愛を学ぶことができたからです。日ごとの糧の編集者は寺崎アブラハム牧者であり、今日のメッセージの順番を決めたのは私です。ところが、神様は私たちが最も大切な戒めとして愛を学ぶ前にヨハネの手紙第一を通して神様の愛を悟らせ、学ばせてくださったのです。そこで、今週の御言葉は聖書の中で一番大事な戒めだから一週間前から私たちの心を整えさせてくださるなあと思ったのです。
 では、イエス様が教えてくださった最も大切な戒めは何でしょうか。この時間、イエス様の教えに耳を傾けて心から受け入れ、心に刻むことができるように祈ります。

28節をご覧ください。サドカイ人とイエス様との「議論を聞いていた」律法学者のひとりが来ました。ここで議論とは宗教指導者たちがイエス様の権威、税金、復活などの質問を通してイエス様をわなに陥れようとしたことです。しかし、イエス様は神様の御言葉に基づいて答えて彼らを黙らせました。それらを聞いていた律法学者のひとりがイエス様のみもとにやって来たのです。おそらく、彼は宗教指導者たちが選んだ律法学者たちよりも律法に詳しい学者だったでしょう。彼はイエス様が見事に答えられたのを知ってイエス様に「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」と尋ねました。そこでイエス様は何と答えられましたか。
29-31節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」ここで、イエス様が指摘された第一の命令は、申命記6:5節に記されているとおりに『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』であります。
聖書にはたくさんの戒め、約束、教え、教訓、勧めなどがあります。そして、数多くの戒めは「モーセの十戒」に要約することができます。出エジプト記20章にあります。「▸あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。▸あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。▸あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。▸安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。▸あなたの父と母を敬え。▸殺してはならない。▸姦淫してはならない。▸盗んではならない。▸あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。▸あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」です。イエス様はこれらの戒めを二つにまとめてくださいました。一つ目は申命記6章4、5節からの引用です。「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」とあります。まず、私たちが心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして愛するべき神様は唯一の主です。この方は天地万物を造られた創造主であり、私たちを罪とサタンの支配から救い出される唯一の救い主です。私たちが聖書の神様、天地万物を造られた創造主を唯一の神として信じていることは言いつくせない特権であり、祝福です。
内村鑑三のエピソードの中でこんな話を読んだことがあります。内村先生は小・中学校を京都で通っていましたが通学する道の両側に神社がありました。それぞれ違う神々を拝んでいる神社でした。人々は神社の前で手を合わせてお辞儀をしていますが、ある時、彼はどちらの神に先にお辞儀するべきだろうからと思うようになりました。もし先に右側の神にお辞儀をするなら、左側の神が怒るだろうと思われました。だからと言って左側の神に行って御辞儀をするなら右側の神から罰せられるだろうと思われました。その時からその道を通して学校に行くことが怖くなり、とても苦しかったそうです。ところが、聖書勉強を通して神様は唯一の方であり、自分が仕え、愛すべき唯一の主であるという事実に感激して喜びの涙を流したそうです。それもそうでしょう。もし私たちが愛するべき神様が唯一の方ではないならどうなるでしょう。いろいろな神々神を愛することで疲れるし、苦しむでしょう。その上、私たちが拝めなかった数多い神から憎まれ、罰せられることを考えると本当に苦しく怖くなるでしょう。しかし、聖書は私たちの神様は唯一の主であると宣言しているのです。私たちは唯一の主である神様を愛するのです。どのように愛しますか。
心(all your heart)、思い(all your soul)、知性(all your mind)、力(all your strength )を尽くして愛することです。神様は適当に愛することを願いません。神様はラオデキヤにある教会に言われました。「「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」神様は私たちが心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして愛することを願っておられるのです。では「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして愛する」ということは具体的にどうすることでしょうか。
35-44節の御言葉で著者は神様を愛することはイエス・キリストを愛することであり、ひとりの貧しいやもめのように実践することであることを教えてくれます。
 35-40節をご覧ください。イエス様が宮で教えておられたとき、こう言われました。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」この御言葉はキリストがダビデの子であると言うことを否定しておられるかのように聞こえるかも知れません。しかし、そうではありません。イエス様は律法学者たちの考えていたような意味でのダビデの子ではないと言うことです。律法学者たちは、キリストはダビデの直系の王として世に現れ、政治的に、武力的にイスラエルを外国の勢力から解放する方として考えていました。しかし、イエス様はそのようなキリストではありません。確かにダビデの子孫として生まれるお方ですが、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいました。というのはキリストがダビデの子である以前に「神の子」であると言うことです。マルコの福音書の初めに「神の子イエス・キリストの福音のはじめ(1:1)」とあったとおりです。
事実、イエス・キリストは、神の子、すなわち神様から遣わされた世界の救い主であり、また世界の支配者です。しかも私たちの隣人となってくださったお方です。したがって私たちは神であり、隣人であるイエス・キリストを愛しなければなりません。心を尽くし、思いを尽くして愛するのです。ところが、律法学者たちが考えているダビデの子は政治的、軍事的なキリストであったためにキリストを愛する生活よりも外見上の姿に力を入れていました。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きでした。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをしていました。彼らの愛は建前だけであって本音ではなかったのです。その結果、彼らは。人一倍きびしい罰を受けるのです。ですから、イエス様は律法学者たちが考えているダビデの子ではないことを明らかにし、「彼らには気をつけなさい。」と命じられました。それから、イエス様はひとりの貧しいやもめを通して生きている者の信仰、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛する人の信仰生活を教えてくださいます。
 41、42節をご覧ください。それから、イエス様は献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられました。この献金箱は、神殿の婦人の庭と呼ばれる所に十三個置かれており、ラッパ型に上に向かって開いていました。日本の神社の前に小銭を入れるところがあります。そのように、人々が「投げ入れる」ことができるようになっていました。そこに、多くの金持ちが大金を投げ入れていました。このように多くを持つ者が多くを与えるのは、自然であり、良いことです。しかし、イエス様は「ひとりの貧しいやもめ」が「レプタ銅貨を二つ投げ入れた」のも見逃しはしませんでした。このレプタとは、当時の最小単位の銅貨でした。レプタ二枚は「一コドラントに当たる」と説明されていますが、それは当時労働者の一日分の賃金であった一デナリの六十四分の一に当たる金額でした。今日の日本で、一日の賃金を6,400円にすると、100円になります。この献金に対してイエス様は何と言われましたか。
43、44節をご一緒に読んでみましょう。「すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」 ここに、心を尽くい、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主を愛している人の者の姿があります。彼女は多くの金持ちに比べれば貧しい人でしたが、イエス様の前には決して貧しくありませんでした。人は多くを持っていると、胸を張って歩くことができます。しかし、財布に100円しか入っていないほどに貧しくなると、どうなりますか。何だから心が萎縮されるでしょう。
人々が集まる所に行くこともためらうようになるでしょう。「ありのまま」でいいじゃないと言われますが、財布にお金が少なければ同僚と食事に行くこともためらいます。ありのままで行動することさえ難しくなるのです。それで、教会に行くと献金の時間が嫌だから行かないと言っている人もいます。ところが、この貧しいやもめはほんとうにありのままで神殿に行きました。隣で多くの金持ちが献金箱に大金を投げ入れることを気にすることもしませんでした。ただ、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れました。ここに、ほんとうに、神様を愛している人の愛があります。
彼女は貧しい衣のままで静かにレプタ銅貨を投げ入れました。実に、彼女はことばや口先で愛することをせず、行いと真実を持って神様を愛していたのです。しかも、彼女はあるだけを全部、生活費の全部を投げ入れました。「全部」「全部」と繰り返されています。レプタ銅貨二つには彼女の心と思い、知性と力の全部が込められていたのです。つまり、彼女は心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神である主を愛していたのです。そこで、イエス様は弟子たちを呼び寄せて彼女の行動を教えられました。弟子たちも彼女のようになってほしいと願われたからです。彼女のように、自分の貧しさ、自分の足りなさを言い訳に何もかもあきらめることなく、教会に出て行く信仰、その生きた信仰を持っていてほしいと願われました。彼女のように、自分にあるだけを全部、生活費の全部を投げ入れることができるほどに神様を愛する者になってほしい、つまり心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして神様を愛する弟子になってほしいと願われたのです。だから、わざと弟子たちを呼び寄せてやもめのことを教えられたことでしょう。そして、イエス様は私たちにもやもめのような信仰を持っていてほしいと願っておられることでしょう。
ではどうしたら、私たちは神様を愛することができるようになるのでしょうか。それは、まず神に愛されることから始まります。まず、神様が私を愛してくださいました。その愛を受け入れた時、私たちのうちに、神様の愛が注ぎ込まれました。私たちは、その愛によって神様を愛し、隣人を愛するのです。私たちが神様を愛する愛もまた、神様から出たものなのです。ヨハネの手紙第一4:7に「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」とある通りです。 ヨハネの手紙第一4:9-10には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とあります。「ここに愛がある」と言って、聖書が指し示しているのは、イエス・キリストの十字架です。「親の愛は神の愛を表わす。」と言われ、私たちは、両親から受けた愛や、親しい人々から受けた愛によって、神様の愛を感じ取ることがあります。
何にも勝って神様の愛を表わしているのは、イエス・キリストの十字架です。ヨハネの手紙は「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。」と言っています。イエス・キリストは神のひとり子です。「ひとり子」という言葉は、イエス・キリストが神様にとってどんなにかけがえのないお方であるかを示しています。神の御子、ひとり子イエス・キリストのために全世界を、いや全宇宙を与えても不思議ではありません。ところが、神様は、イエス・キリストに全世界を与えたのでなく、イエス・キリストをこの世に与えたのです。神様は、御子のために人間を犠牲にしたのでなく、人間のために神の御子を犠牲にしたのです。そして、私たちの罪を贖い、永遠のいのちを与えるために十字架につけられたそのとき、イエス様はこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」。
そうです。イエス様は私たちの罪を赦すことを通してご自分の愛を表わされました。ここで、私たちは「愛は犠牲であり、赦しである」ことが分かります。愛は犠牲です。神様は私たちのためにご自分のひとり子を犠牲しました。愛のゆえに私たちのすべての罪と咎を赦して下さいました。私たちも神様を愛し、隣人を愛するなら、自分を犠牲にし、隣人を赦さなければなりません。以外に近くにいる人を赦すことが難しいです。でも私たちクリスチャンは人を赦す生活をしなければなりません。私が赦すとき、まず自分に平安がありますし、隣人も私を赦してくれます。それが愛し合うことでしょう。結局、神様を愛し、隣人を愛することは自分自身が祝福される道でもあります。神様を愛し、隣人を愛する人生に平安と幸せがあるからです。
 
父なる神様の無限に大きな愛、無条件の深い愛を心から感謝いたします。私たちも、今、その愛の前に、何の条件もつけずに立っています。神様を愛することをしなかった罪を悔い改め、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する生活ができますように祈ります。