2013年ローマ人への手紙第16講  

主イエス・キリストを着なさい

御言葉:ローマ人への手紙13:1〜14
要 節:ローマ人への手紙13:14「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

 先週、私たちは朴エズラ宣教師を通して霊的礼拝、愛と善を行なうことについて学びました。かなり高いレベルの教えでもありましたが、あきらめることなく、神様に受け入れられる聖よい生きた供え物として自分をささげ、人に対して善を持って悪に打ち勝つ生活ができるように祈ります。
 今日は教会の外にいる人たちに対する態度について学ぶことができます。具体的に言うなら、上の権威に対する態度、隣人に対する態度、自分自身に対する態度を学ことができます

?.国家に対する態度‐上の権威に従うこと(1-7)
1節をご覧ください。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」とあります。ここで、パウロは上に立つ権威に対する大原則を明らかにしています。それは「上に立つ権威に従うべきである」と言うことです。
今の世界では「民主主義、平等、人権」と言うことで上に立つ権威を軽蔑する風潮があります。総理大臣の権威を無視し、政治家が嫌だと言いながら国家の権威に対しても無視する発言を言います。上の人の欠点や間違いを言うことを通して彼らの権威を無視しているのです。
今回、このメッセージを準備しながら私自身もそういう過ちを犯して来たことに気づいて悔い改めました。よくよく考えてみると、権威ある人たちに対して非難ばかりするのは聖書的な態度ではないことが分かりました。神様によらない権威はなく、存在している権威はすべて神様によって立てられたものだと信じているからです。
上に立つ権威を尊重しないで無視することは自分の国家や社会に悪い影響を与えています。「武士道」によると昔の日本人は上の権威によく従っていたと思われます。しかし、最近の若い子どもたちは親の権威を認めているでしょうか。先生の権威を認めるでしょうか。きよく正しく生きようとしている人々の権威さえも認めようとしない風潮が蔓延しています。
ある調査結果をご紹介します。日本とアメリカ、中国の高校生に規範意識の調査をしたものです。「してはいけないこと」について、「どう思うか」ということを聞いています。日本の高校生は「先生に反抗すること」に対しては79%、「親に反抗すること」に対しては84.7%が「本人の自由でよい」と答えています。反抗してもいいということです。先生や親の権威に逆らってはいけないと思っている人は20%に過ぎないのです。ところが、アメリカ、中国は「本人の自由でよい」というのは、だいたい15%です。85%ぐらいの人たちは、これは「してはいけない悪いことだ」と考えているのです。
子どもたちが大人の権威を認めないということは、大人の中に自分たちが学ぶべきものがないと思っていることです。こういう子どものまなざしがある以上、家庭でも学校でも地域社会全体でも教育というものが非常に難しくなるわけです。それだけではありません。「大人の権威を子どもたちが認めない」という風潮が蔓延していると、国家の秩序維持、社会生活においても大きな問題になります。ですから、私たちクリスチャンだけでも先に上に立つ権威に従う雰囲気を作り上げていかなければならないと思います。
こう言いますと、悪王の代名詞であるヘロデ大王やヒットラーのような者の権威にも従うべきかと言う問題もあります。これは非常に難しい問題です。使徒の働き5章を見ると、使徒たちは「人に従うより、神に従うべきです。」と言っています。ペテロをはじめ使徒たちは宮の中に立って御言葉を宣べ伝えることが禁じられる時は大祭司の権威に従わなかったのです。ですから、私たちは神様に従うために人の権威に逆らう場合もありうるのです。ノンクリスチャンだから従わないとか、権威への服従より、不服従が優先になってはいけません。
私たちは神様が許された権威に従い、命令に従い、善を行なうべきです。学生たちはよく自分の担当教授の悪口を言ったりしますが、クリスチャンの学生はそうした真似をしてはいけません。逆に、先生を心から尊敬し、その権威を重んじなければなりません。社会人であれば、上司の悪口を言ったり、安易に逆らったりするのではなく、かえって上司のために祈り、よく聞き従わなければなりません。
家庭においても同じことが言えます。子どもたちが自分の父と母の権威に従うとき、それは神に従うことになります。また、子どもたちが親に逆らうとき、それは神様に対して逆らうことになります。神様が親に権威を与えたので、子どもは親に従わなければならないのです。それが神様のみこころであり、神様が立てた秩序なのです。
3-5節をご覧ください。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」とあります。良いことをして怒られるというようなことはめったにありません。一般的には良いことをする人はほめられるでしょう。良いことをすればクリスチャンを迫害する指導者からも褒められるのです。ですから、クリスチャンはすべての権威に従い、善を行なうことに励むべきです。それこそクリスチャンとしてふさわしい態度です。そして、上の権威によって決まっている義務も果たさなければなりません。
6,7節をご覧ください。「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」とあります。ここで「みつぎ」とか「税」という言葉が出てきますが、当時の世界ではそれぞれ違った税を表わしていました。今日ではその両者を含めて税金全般のことです。つまり、納税の義務を果たしなさいるということです。私たち教会はこの教会堂を購入してから固定資産税という税金を払い、毎年確定申告をしてからそれに応じた税金を払っています。ところが、私の心の中ではこれに対する不満がありました。銀行からお金を借りていてそれの返済も大変なのに税金も払わなければならないと思われたからです。でも、納税の義務を果たさなければならないことを学びます。

?.隣人社会に対する態度‐互いに愛し合うこと(8-10)。
この箇所ではパウロが何度も繰り返して教えている愛についてまた教えています。それで、皆さんの中には、「また、愛ですか」と言いたくなる方がいらっしゃるかも知れません。事実、私自身も同じテーマを繰り返して伝えることもやさしくありません。しかし、愛ほど重要なテーマもないでしょう。パウロは?コリント13:1、2で「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていていても、愛がないなら、何の値うもありません。」と言いました。ですから、「愛」は何度も何度も語り合い、実践して行くべきテーマだと思います。何よりも社会生活においてなくてならないものが愛です。
8節をご覧ください。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は律法を完全に守っているのです。」とあります。ここで「借り」と言うのは約束した日までに借金を返済していないことを意味しています。つまり、一円も借りてもいけないということよりも、借りたら約束のとおりに返しなさいという意味があるということです。しかし、ここでそれより強調されるのは愛です。新共同訳を見ると互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」とあります。そしてパウロは、「互いに愛し合うことについては借りがあっても良い」と言うことです。愛の借りは常にあるから、それを返さなければならないということです。
 事実、私たちは皆、測り知れない愛の負債を負っています。誕生の時から私たちは親に返すことのできない負債を負って生まれます。この間、パウロチームの勉強会の時、朴エステル宣教師は一番目の娘を産んだ時、生みの苦しみがあまりにも大きかったために二番目が考えられないと思ったと言いました。それほど苦しみは大きいということでしょう。私たちは生まれただけで、母から返すことのできない愛の負債を負っているのです。 親だけではなく私に関わった友達、親せき、先生や牧者たち、隣人たちの愛に支えられています。
何よりも私たちは神様の子どもとしてどんなに愛されていることでしょうか。?ヨハネ3:1節をみると「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」とあります。神様は一方的に私たちを愛してご自分のひとり子イエス・キリストを世に遣わされ、十字架にかけて死なせられました。その十字架の死によって私のような者も救われています。私たちには返すことのできない愛の負債があるのです。それに対してパウロは「あなたがたは、すでに返すことのできない愛の借りがあるのだ。それは無くすことができない。だから、あなたがたが愛されてきた、その愛によって互いに愛し合わなければならないのだ」と言っているのです。
 皆さん、負債を負っている人の気持ちを経験したことがあるでしょうか。私にありますがそれほど深刻には経験していません。しかし、私の父は何度も眠れない夜を過ごすほどに経験していました。私は高校生の時から父と離れて生活をしたので父が借金のために苦しんでいることを感じていませんでした。でも大人になって弟たちから父はいつも借金を返すことばかり考えていたと聞きました。また、夢の中でも「借金を返さなければならないという思いのために苦しめられていたそうです。
 ところが、私たちには返さなければならない愛の借りがあります。私たちが地上で経験する金銭的な負債とは比べることができない愛の負債を負っているのです。私の代わりにご自分のひとり子をこの世に遣わされ、十字架につけて死なせられた神様からの愛の負債です。私たちはどれだけこの愛の負債を返そうとしているでしょうか。夢の中でも愛するべき人々の顔が見えてくるほどに愛の借りを返そうとする気持ちがあるでしょうか。ちょっと寂しいことを言われてもそれは私の愛が足りなくてそうなんだ、もっともっと愛して行こう。」と思う気持ちがあるでしょうか。どうか、返さなければならない負債のために眠れない夜を過ごす人のように隣人を愛しようと決断することができるように祈ります。ではこの世に、こういう愛がなければこの社会はどうなるでしょうか。
9,10節をご一緒に読んでみましょう。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」この御言葉は愛がなければこの社会がどうなってしまうのかを教えてくれます。姦淫するようになります。それ性暴力です。最近、性暴力が増えています。性的犯罪は被害者の人格を破壊するだけではなく、家族にも言い尽くせない痛みと苦しみを与えます。隣人を自分自身のように愛するなら、相手の性的同具としてみません。本当に愛するなら、自分の利益も求めず、自制し、忍耐します。愛はいい感じの感情ではなく、意志的な行動です。
また愛がなければ人を殺すようになります。殺すことは心から人を憎しみ、腹を立てることから初めて人をバカにすることまでも含まれています。人に害を与えるすべての行為です。昔は殺人ほどの大きな犯罪にはなんだかの恨みとか、被害を受けたことに対する原因がありました。しかし、最近の犯罪はただムカつくから殴ったり、殺したりしてしまう時もあります。この社会に隣人愛がなく、冷たくなっているからです。本当に隣人を愛するなら殺すことも盗むことも、むさぼることもしないのです。それゆえ、愛は律法を全うするのです。イエス様ご自身も律法の中でもっとも大切な戒めは、「主なる神を愛する」ことと、「自分自身のように隣人を愛する」ことであると言われました。もし、本当に隣人を愛しているなら、その人の妻と姦淫の関係に入ることは考えもしないでしょう。もちろん殺しません。その人のことを愛しているなら、盗むこともしません。むさぼりもしません。本当に隣人を愛していれば、たくさんある律法をすべて守っているのです。だから、愛によって律法を全うしているとパウロは言っているのです。ですから、私たちクリスチャンは社会生活において神様を愛し、隣人を愛する愛の使徒として生きなければなりません。
イエス様も言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 ?.自分自身に対する態度‐主イエス・キリストを着ること(11-14)
11節をご覧ください。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」とあります。パウロは、「救いは近づいている」と記しています。主の再臨の時が近い、ということです。そして、確かなことは、パウロがこの手紙を書いた時よりも今がキリストの再臨に近づいているということです。私たちは霊的に無感覚で鈍感になっているなら悔い改め、霊的に眠っている状態から目覚める必要があるのです。
 12節をご覧ください。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」とあります。ここでパウロは決断を促しています。私たちが愛を実践するためには決断をしなければなりません。私たちが決断しなくても、夜はふけて、昼が近づいて来ます。しかし、私たちが心から決断をしなければ、昼になってもやみのわざを続けます。姦淫、殺人、盗み、むさぼりのような夜のわざを続けるのです。ですから、心から決断して闇のわざを打ち捨てて、光の武具を着けなければならないのです。光の武具を着けることはどのようにすることでしょうか。
 13、14節をご一緒に読んでみましょう。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」パウロは、私たち自身に対して果たさなければいけない責任について話し始めます。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。と強く決断を促しているのです。そして、「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」と命じています。私たちが心からパウロの勧めを受け入れて新たな決断をして行きましょう。
 最近の世の中は闇のわざが発達し、インターネットによる淫乱、好色、不健全なゲームなどがはびこっています。自分も知らずに誘惑を受けます。昨日、子どもの学校のPTA交流会に出席して来ましたが、携帯やスマートフォンから守ることが大変だとよく言われました。それは子どもたちも自覚していましてあるクラスでは生徒たちが自ら中間考査の間はお互いに電源を切って連絡しないことにした話も聞きました。どうか、私たちもやみのわざを打ち捨てて主イエス・キリストを身に着ける決断をして行きます。私たちが心から決断すると、神様の力ある働きによって決断を守ることができるようになります。神様の力ある働きによって私たちは主イエス・キリストを着てイエス・キリストの御姿にまで成長して行くことができます。
どうか、謙遜になって上の権威に従い、隣人を自分自身のように愛する生活ができるように祈ります。特に自分自身に対して厳しくなって聖なる決断をし、主イエス・キリストを着て生きるように祈ります。