2014年マタイの福音書第6講 

十二弟子をお遣わしになったイエス様

御言葉:マタイの福音書10:1−33
要 節:マタイの福音書10:1「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」

 先週、私たちはイエス様がツァラアトに冒された人、中風やみの人、熱病の人を癒してくださったことを学びました。また、御言葉を持って悪霊どもを追い出し、病人の人々をみな癒されたことも学びました。イエス様には病人を癒し、悪霊どもを制する権威があったのです。今日の本文にはイエス様がその権威を12弟子にお授けになったことが記されてあります。それは12弟子たちを通しても悪霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すためです。結局、イエス様が遣わされた12使徒を通してイスラエルに神の国が伝えられ、やがて世界に伝えられて行きました。そして、今日も、神様は私たちにその権威をお授けになり、私たちを通してこの日本の47都道府県、アジア47か国、世界に神の御国が宣べ伝えられて行くことを望んでおられます。

 そこで、今日は御言葉を通して12弟子に与えられた権威と力が自分に与えられているという認識をし、信じて行きたいと思います。また、12弟子のように、私たちもこのように遣わされていることを認識し、遣わされた者としての心構えと信仰を学びたいと思います。どうか、本文の御言葉を通してイエス様の弟子としての自分のアイデンティティと信仰を新たにすることができるように祈ります。

 ?.12弟子に権威をお授けになったイエス様
1節をご覧ください。「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」とあります。イエス様は宣教のために、十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。12弟子とは、すでに神様に選ばれている人たちです。彼らには霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すための権威が授けられたのです。従って神様に選ばれた人々は神様からの権威、力があると信じていなければなりません。
「自分に力がある」と思って働く人と、「私にはそんなものはないからできない」という人の働きに違いがあります。私がイエス・キリストを信じる前は、自分にはなんの力もないと思っていました。今も信仰が弱くなると「自分に力量が足りない」と思ってしまう時があります。するとあれもこれもできないという人として生きるしかありませんでした。何もかも否定的に考えてしまいます。しかし、私に信仰がある時は違います。何でも神様から与えられると思います。自分には力があると思うのです。たまに、その思いが強すぎて高ぶり、注意されて高慢を悔い改める時もあります。ただ、確かに言えることは自分たちが持ってあると思うならば大胆に働くことができるということです。
私は職場でも私にはできないと言わないで何でもやろうと思って来ました。すると、ほんとうにいろんなことができるようになりました。病人のために祈ることもできます。悪霊どもを追い出そうとします。すると悪霊は出て行きます。私は宣教師生活を始めた時、悪霊によって苦しめられる時がしばしばありました。なかなか眠れず体は衰えて行きました。耳からも黄門からも血が出る時もありました。でも聖書から教えられたとおりに、イエス・キリストの御名によって悪霊どもを追い出すことができました。ほんとうに神様から権威が与えられていると信じているといろんなことができるようになるのです。
12弟子も最初から力ある人たちではありませんでした。もちろん、今日は、彼らが世界で20億を超えるクリスチャンだけではなく、一般の人々にも知られた有名人になっています。実際に彼らは力あるわざと不思議と奇跡を行ないました。でも、イエス様に選ばれる当時は、とても平凡な人たちだったのです。
2-4節をご覧ください。「さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」とあります。この12人はほとんどが漁師出身です。学校に行ったことがない田舎者です。ひとりとして立派な経歴や地位がある人は誰もいません。この世の取るに足りない者や見下されている者です。イエス様は、この十二人をイスラエルに遣わしました。「遣わす」とはギリシャ語で「アポステロー(αποστελλω)」です。「ある特殊な任務を与えて権限を委ねる」という意味があります。国の特殊な任務を与えられ、大統領の権限が委ねられている大使のことです。イエス様は12弟子に汚れた霊どもを制する権威を授けて大使として遣わされたのです。そこで、弟子たちはイエス様から授けられた権威と力を受けとって行きます。彼らは「自分には神様からの力がある」と信じて働くようになります。実際に彼らが遣わされて行くと、ほんとうに偉大な働きができました。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられるようになったのです(11:5)
かつて、彼らは平凡な人、無学の人たちでした。しかし彼らがイエス様から権威が授けられていることを信じた時、イエス様のような働きができたのです。使徒の働きに記されている通りに、彼らは今日までも続けられている世界宣教の土台を築き上げる歴史の主役として働くことができました。では、イエス様が12人を使徒として遣わされる時に何を教えてくださいましたか。

?. 使徒派遣の時に教えられたイエス様の命令(5-33)
5a節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。」とあります。イエス様は12使徒を遣わす時、彼らに命じられたほどに強調して教えてくださったことは何でしょうか。ここで、私たちはイエス・キリストの弟子、伝道者として使命と信仰を学ぶことができます。

第一に、近い所から遠くに、継続的に伝道すること(5b-23)。
5b-8節をご覧ください。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。 病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者を清め、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とあります。異邦人はユダヤ人以外の人々をさす言葉です。サマリヤ人と言うのはユダヤ人ですけれども、狭い意味ではユダヤ人とは区別されています。外国までは言えませんが、ほぼ外国に近い扱いをされていました。ですから、イエス様はまず異邦人の所に行くな、サマリヤ人の所にも行くなと言われたわけです。ただ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさいと命じられました。このようにサマリヤ人とイスラエル人を分けることはイエス様の全体的な教えからも、キリスト教精神全体から言っても矛盾しています。どうしてイエス様はこういうことを言われたでしょうか。それは伝道の原則を言ったのではなく、むしろ具体的な伝道方策を示したものだと思います。具体的な伝道対策です。「近きより遠きに及ぼす」という言い方があります。初めから近い所も遠い所も平等に考えるというのは、方法としては具体性を欠きます。近い所から始めて、遠くへ及ぼさなければなりません。そう言うわけでイエス様は使徒たちを派遣する時に、かなり具体的な方策のことを教えてくださったのです。
私たちも、まずは自分の身近にいる人々に伝道する方策を持つことは大事だと思います。○○牧者は息子から始め、家族の救いのために祈って来ました。私が知っている限り、誰よりも家族のために熱心に祈っておられますが、それはイエス様が教えてくださる伝道方策なのです。もちろん、私たちは家族だけではなく、近い親戚、友人、日本人、世界の人々に伝道しなければなりません。宣教師たちは全く知らなかった人々を救うために地の果てにまで行きます。ただ、伝道方策としてはまず近くにいる人から伝道するということです。主にキャンパス宣教を使命にしている私たちは近くにある早稲田大学を始め、東京都内のすべての大学、日本の四十七都道府県、アジア47カ国、そして全世界の大学へ出て行くことを望んでいます。私たちが26年前に日本宣教を始めるとき、教会の近くに東京外国語大学がありました。それで、東京外大に行って伝道しましたが、外大出身のマリ・ロペス宣教師がアメリカに遣わされて行きました。私たちが家族を始め、近くにいる人々から伝道して行くうちに福音が世界に広がることを信じます。
遣わされた弟子たちが伝道する内容は「神の国」です。まず、「行って、『神の御国が近づいた。』と宣べ伝える」ことです。私たちが神の御国の福音を宣べ伝えると、受け入れず、迫害する人々もいますが、素直に受け入れる人々がいます。神様は私たちに権威を授けてくださったからです。そして福音を心から受け入れさえすれば神様の支配を受けるようになります。神の御国の民になるのです。そうすると、病人が癒され、死人が生き返らされ、ツァラアトに冒された者がきよめられます。従って、イエス様から遣わされた弟子たちは大胆に『神の国が近づいた。』と宣べ伝えなければなりません。しかも、ただで受けたのだから、ただ与える生活をしなければなりません。宣教はイエス様から受けた無償の愛をイエス様のように伝えていくことです。ただで、神の国を宣べ伝え、人々を助けるなら、 その人に必要なものは神様が満たしてくださいます。「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」神様は宣教する人を迎え入れ、仕える人も備えてくださいます。
この間、ドイツの国際修養会に参加した時に、宣教師たちとの交わりの中で印象的に残っている言葉があります。アジア人が伝道することを無視し、迫害する人々が多いですが、心の優しい人々もいたということです。アジア人にも優しく、受け入れてくれる良きサマリヤ人のような人々がいるのです。だから、金曜日にアブラハム李宣教師が報告したようにケルンUBFでは主日礼拝に斬新な学生たちが50名も超えるみわざが起こっているでしょう。
 ですから、伝道者はどんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまらなければなりません。ここでの「適当な人」は、神の国の福音を受け入れそうな人のことです。その人の家にはいる時には平安を祈るあいさつをしなければなりません。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家にきます。しかし、もしふさわしい家でないなら、その平安は平安を祈る人のところに返ってきます。では迫害をする人たちに対してはどうすればいいでしょうか。
16節をご一緒に読んでみましょう。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」この世の人々は狼のようであり、12弟子たちは羊のようであることが分かります。弟子たちは狼の群れの中に投げ込まれた羊のように弱い存在なのです。とても厳しく、絶望的な状況です。私たちも弱くて狼のように強い人々に伝道することはやさしくありません。だからこそ、私たちには「蛇の賢さ、知恵」と「鳩の素直さ」を上手に使い分ける能力が必要です。ではどのようにして蛇の賢さ、鳩の素直さを身につけることができるでしょうか。
19、20節をご覧ください。「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」とあります。聖霊が私たちを助けてくださるということです。聖霊によって私たちは知恵を賢明に用いることができます。聖霊に従うことによって鳩のような素直さを保つことができます。聖霊は、私たちに知恵を与えられ、私たちを助け、守ってくださいます。聖霊は狼の群れの中にいる羊のような弱い私たちに知恵と素直さを与えられます。聖霊は私たちが迫害を恐れることなく、宣教を続けることができるようにしてくださるのです。ですから、私たちはどんなに迫害されても宣教を続けることが大切です。
先週、金曜日に私たちはアブラハム李宣教師の所感発表の後に長男結婚式のビデオも見ました。ほんとうに祝福されているんだなあと思いましたが、サラ李宣教師の一言が心にちんと伝わって来ました。サラ李宣教師はあまりにも小さい時にお父さんが亡くなられたのでお父さんの存在すら知らずに育ちました。中学生になってからお父さんとお祖父さんが共産党の人によって同じ日に殺されたことが分かりました。どんなに悲しかったでしょうか。暗くて運命的な人生を生きるしかありませんでした。しかし、聖書勉強を通してイエス様に出会い、救われて笑う人に変えられました。ドイツの宣教師になりました。看護師としての働きながらドイツの学生たちに伝道し、弟子養成をすることは決してやさしくありませんでした。多くの方が離れて行きました。でも、困難があっても信仰の中心を守り、宣教を続けたときに、大いに祝福されました。宣教の実が結ばれ、二人の子どもたちも大いに祝福されました。サラ宣教師は神様が信仰の中心を守らせてくださったと言いましたが私たちの宣教活動が継続すると、そのうちに神様の愛を体験し、神様の報いを受けるようになります。

第二に、人を恐れず、神様を恐れること(24-33)。
24節をご覧ください。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」とあります。このことばは当時のことわざです。意味は、弟子が教師に勝ることは無いというものです。イエス様はこのことばによって、師である私と同じ働きをする者は、私以上の扱いを迫害者から受けることがないと明言されたのです。これを言い替えるなら、弟子たちはその師であるイエス様ほどには憎まれることはない、またイエス様と同じ苦しみを経験することはあっても、それ以上に苦しむことはないということになります。だから、迫害されても迫害する彼らを恐れてはいけません。すべての真理は神様が必ず明らかにされます。私たちがまことに恐れなければならないのは人ではありません。28節をご覧ください。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあります。私たちが神様を恐れると、神様が私たちを守ってくださいます。
29-31節をご覧ください。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」とあります。当時は、雀が最も安く売られている食物でした。神様はその雀の一羽をも守ってくださいます。その神様が、必ず私たちを顧み守ってくださいます。

以上を通してイエス様が12弟子たちにお授けになった権威、遣わされる弟子たちに命じられたイエス様の教えを学びました。12弟子たちに授けられた権威はイエス・キリストを信じて救われた私たちにも授けられています。どうか、今日、私たち一人一人がその権威を信じて受け取りましょう。神様がその権威を「使いなさい」と言われるときに、病人を癒し、悪霊どもを追い出すために使いましょう。そのために日々の生活の中で神様から授けられた権威について意識することは大切だと思います。それから、日々主の御前で祈り、御言葉をいただいて信じることです。すると、私たちにその権威が授けられていることを感じ、上からの権威と力を体験することができます。どうか、人を恐れることなく、神様を恐れる人として生きるように祈ります。さらに、私たちの髪の毛さえも数えられている神様の愛と守りを堅く信じて神の御国を宣べ伝える生活ができるように祈ります。