2014年創世記第5講 

神様の哀れみと祝福

御言葉:創世記4:1〜5:32
要 節:創世記4:25,26「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」

先週、私たちは人間が神様の愛を拒み、罪を犯してしまったにもかかわらず、その人間を捜し求め、救いの道を約束してくださった神様の愛を学びました。神様はその愛のゆえにアダムの子孫皆が救われることを望んでおられます。ところがアダムの二人の子どもは二つの道に分かれて行きました。彼らはどのような道を歩んで行ったでしょうか。
皆さんと共にカインの道、アベルの道について学びたいと思います。そして「私たちは、はたしてどちらの道を歩み続けているのか」を考え、自分を省みてみることができるように祈ります。その中で、神様は私たちに望んでおられる道を知り、神様の御前で信仰の決断ができるように祈ります。

?.カインとアベル(4:1-15)
1節をご覧ください。「人は、その妻を知った。彼女はみごもってカインを、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。」とあります。アダムとエバに最初の子が与えられました。アダム夫妻の喜びはどんなに大きかったでしょうか。エバは「私は、主によってひとりの男子を得た。」と告白しています。それからまたエバは弟アベルを産みました。子宝と言いますが、子どもたちに恵まれるのは幸せです。兄弟が互いに助け合い、愛し合う時、それを見ている親はとても幸せになります。
先週、私の長女は誕生に兄から「誕生日おめでとう」という一行のメールが届いたことだけでも非常に喜んでいました。妹からの手紙を読む時は顔が赤くなるほど嬉しがっていました。そんな姿を見るだけでも私は幸せを感じました。おそらく、カインとアベルも仲良し兄弟だったでしょう。ところが、親から独立して大人になり、それぞれの職業を持つと、お互いに助け合い、協力し合う協力関係は崩れてしまいました。兄のカインは農業を営む者となりました。弟のアベルは羊の群れを飼う者となりました。そして、ある時期になると、カインとアベルはそれぞれ主への「ささげ物」を持って来ました。カインは、地の作物から持って来ました。アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。主はこのアベルとそのささげ物とに目を留められました。しかし、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。それに対するカインの反応はどうですか。
「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とあります。このカインの気持ちはわかるでしょう。
私も長男のひとりとして彼の気持ちが理解できます。弟のアベルが神様に顧みられ、長男である自分は完全に無視されてしまったと思うと気持ち良くないでしょう。後から来て、自分よりも劣っていると思う者がちやほやされ、早くから来てずっと苦労してきた自分が認められないと思われる時、皆さんはどうしますか。
大抵の人は、それに耐えられず、嫉妬や憎しみの情を募らせて行きます。ところで、聖書には意外にも、後から来た者が先にいる者を追い越す例がたくさんあります。創世記を通してみると神様は長男より次男が好きなのかなあと思われます。イシュマエルとイサク、エサウとヤコブもそうです。ヤコブがヨセフの子どもを祝福する時も、長男のマナセではなく、弟エフライムを祝福するのです。後に、イスラエル民族が出エジプトをする時、神様はエジプトの初子をことごとく撃ちます。長男ばかりが死ぬのです。ですから、カインのような人は神様を非難します。なんとかして神様の不条理を発見して怒り、自分の正当性を主張しようとします。カインだけではなく、世間一般の人も、自分なりの価値観を持ち、人々も自分の価値観で自分を判断してくれることを願います。たとえば、うちの学校では父兄が先生を評価しますが、自分が低く評価されると、それは父兄の価値観が間違っているからだと考える人もいます。何でもかんでも人のせいにします。神様に対してもそうです。自分なりに「長男が先に生まれたから自分より優先でなければならない。次男のものは受け入れられたのに、長男のものが受け入れられないようなことがあってはいけない。」と言うような自分の考え方を神様にも要求するのです。しかし、ささげ物を受け入れるかどうかは神様の判断基準に従わなければなりません。それは神様の一方的なあわれみの自由です。
新約聖書を見ると、世間では無視されている放蕩息子や収税人や異邦人が神様には招かれています。ぶどう園に朝から来て働いた人にも、夕方5時に来てたった一時間しか働かなかった労働者にも同じ1デナリオンの賃金が払われています。神様はご自分の計画と哀れみの自由によって哀れむべき者を哀れまれ、受け入れるべき者を受け入れてくださるのです。だから私たち人間は、その良し悪しを言う立場にはないのです。どうして神様がそうなさったかと言うのではなく、神様がなさったから正しいのです。ところが、カインは神様がなさったことが不公平だと思いました。自分の思いとは違っていたからです。このように自分を中心に思うその思いにサタンが働きます。感謝するところに聖霊の働きがありますが、自分の思いから不平不満を抱き、つぶやく人の心の中にはサタンが働くのです。結局、アベルと比較して妬みと憎しみの奴隷になってしまいました。
8節をご覧ください。カインは弟アベルに語りかけました。「野に行こうではないか。」心の中にある怒りや妬み、殺意を押し隠して、一見散歩に誘うかのように優しげに語りかけたのです。そして、ふたりが野にいた時、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。ここに、自分の思いが100%正しいとしたため、自分の弟さえ殺してしまったひとりの人間が描かれています。そしてこの姿は、まさにカインからの遺伝子を受け続けている人間、私たちひとりひとりの姿でもあります。自分の思いだけが正しいと主張し続ける人は多くの人々を傷つけ、殺して行きます。謙遜に神様の御声に耳を傾けず、悔い改めなければカインのように、人を殺すことまでもしてしまうのが人間なのです。惨めな人間の姿です。ところが、それでも神様は人間を捨ててしまわれませんでした。
主は再びカインとお会いになりました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われました。神様はもちろん、カインが殺人の罪を犯したことを知っておられました。ですから、この質問は、決してカインを尋問するためのものではありません。神様は彼の父にアダムが罪を犯した時も同じような語りかけをしておられます。「あなたは、どこにいるのか。」という言葉です。その時のように、神様はカインに悔い改めの機会を与えたのです。本来なら二人はかけがえのない絆で結ばれた兄弟です。切っても切れない血の繋がりがあります。互いに愛し合う務めがありました。だから神様はわざと「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問いかけられたのです。ところが、カインのことは全く期待はずれでした。彼は「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」と答えています。これに対し、主はついにカインの罪を直接指摘されました。
10節をご覧ください。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」次いで主は、カインの罪に対するさばきを宣告されました。
11、12節をご覧ください。「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」彼は一つ所に安住して安定した生活を送ることができなくなりました。家と土地を捨て、慣れ親しんだ故郷を離れ、さすらいの人となります。
15節をご覧ください。主は彼に仰せられました。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さいました。主は殺人者であり、嘘吐きであり、神様の主権に逆らったカインでさえ見捨てることなく、保護してくださいました。主は罪を犯したカイン、悔い改めないカインでさえもなお見捨てることなく、守ってくださるのです。それは、彼が「さすらい人」として地上をさまよい歩く中で自分の弱さを認め、主にこそ、本当の安息があることを認めて、主に立ち返るためでした。神様は罪に対しては厳しく裁かれますが、罪人は本当に愛してくださいます。神様は今も一人でも滅びることを望まず、すべての人々が悔い改めに進むことを望んでおられます(ペテロ第二3:9)。

?.新しいアダムの子孫セツとアベル(4:16-5:32)
 16-24節まではカインの子孫について記されています。16節をご覧ください。カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。カインは最初に神なき文化を始めました。また、カインの子孫の中には天幕に住む者、家畜を飼う者、立琴と笛を巧みに奏する者の先祖となった人々もいました。また、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋もいました。彼らは神様に頼るのではなく、神様を抜きにした文明に頼って自分の生活を豊かにし、自分の生活を守ろうとしました。彼らは物が先という思想を持っていました。しかし、このような生き方をする人々はいくら多くの富みを得たとしてもその生活には不安とあせりが絶えません。
カインの子孫の中で神なき文化の代表者としてレメクと言う人がいました。レメクの名は、「強い者」という意味です。まさに彼はその名の通りの人物で自分の力を誇り、神様なき文化の代表者のような存在です。彼は二人の妻をめとりました。神様の御心は「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2:24)ということでしたが、レメクは二人の妻をめとったのでそのどちらとも「一体となる」ことはできませんでした。だから彼にとって結婚は人格的な結びつきではなく、ただ欲望を満足させるだけのものでした。また、レメクは彼の妻たちの前で復讐の歌を歌いました。「レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。」彼は単に傷を受けたというだけで1人の人を殺しました。カインが犯した罪は彼の子孫によって段々広がり、世の中は戦争、殺人、姦淫、暴力などが絶えず起こりました。このようなカインの子孫だけを見ると、この世には希望が見えません。しかし、いつも神様には希望があります。私たち人間に対する神様の哀れみと祝福が消えませんでした。
25、26節をご一緒に読んでみましょう。「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」
あわれみ深い神様は死んだアベルの代わりにセツを子孫としてお与えになりました。神様はアベルの信仰を受け継ぎ、彼の使命を果たすべき者としてセツを授けてくださったのです。そして、彼によって新しい御業が始まりました。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めたのです。その結果、アダムの子孫の中からもカインだけではなくアベルの子孫として神様と共に歩む人、主の御心にかなった人々が現われてきます。ではまず神様と共に歩んだ人は誰でしょうか。
5章にはアダムの子孫の系図が出ています。この系図は信仰の人の系図です。セツの子孫の中から将来、人類を罪と死から救うキリストがお生まれになります。セツの子孫の中で代表的な信仰の人はエノクです。22-24節をご覧ください。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」21節を見ると、エノクは65年生きて、メトシェラを生んでいます。彼が生まれてからメトシェラを生むまで65年間はどのように生きていたでしょうか。私はよく分かりません。ただ、彼にカインの遺伝子はなかったとしても神様に罪を犯したアダムからの遺伝子は繋がっていたはずです。生まれながら完璧な人ではなかったのです。アダムが自分の犯罪をエバのせいにしたように、何でもかんでも人のせいにする、人間同士が憎み合うという原罪から離れていなかったと思われるのです。しかし、彼はメトシェラを生んだ時、信仰の決断をしたようです。アベルのように神様に最上のものを持って行く感謝の生活、セツの子どもが生まれた時から始まった祈りの生活をしようと決断し、神様と共に歩む生活を始めたのです。そして、その決断を300年間も守り通しました。三日坊主ではなく、300年間です。金ヨハネ宣教師は毎年「300日以上教会で夜明けの祈りを捧げる。」ことを祈りの課題にしていますがそれも簡単ではないでしょう。ところが、エノクは300年間神様とともに歩んだのです。そのおかげでしょうか。彼の子どもメトシェラは人類歴上最も長生きした人として彼の一生は969年でありました。彼のひ孫であるノアは神様の御心にかなった人、全き人として神様と共に歩みました。大洪水後は人類の新しい先祖となりました。
 以上で、私たちはアダム以後、カインとアベル、アベルの代わりに神様から授けられたセツとセツの子孫の歩みを学びました。
皆さんはカインの末裔でしょうか。アベルの末裔でしょうか。
カインは自分の行動が認められない時、ひどく怒り、憤っていました。自己中心の人生、不信仰の人生を生きて神様も自分のように評価するだろうと思ったからです。年上が先に認められるべきだと思ったようです。だから、正しく行っていないと神様から指摘されるとそれを受け入れることができませんでした。それは弟のせいだと思って自分の弟を憎しみ、殺してしまいました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問いかけて悔い改める機会を与えましたが、悔い改めませんでした。むしろ、知らないふりをしていました。その結果彼が耕す土地は呪われてしまいました。彼はその土地から追い出され、神様の御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となってしまいました。しかも、弟を殺した彼は殺される不安と恐れの中で生きるしかありませんでした。彼は「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」と言っています。神様はご自分の哀れみのゆえに「一つのしるしを下さった」ので生き残りましたが、祝福された人生になりませんでした。
しかし、アベルはどうでしたか。神様の御前で謙遜でした。彼が神様にささげ物をささげる時「初子の中から、それも最上のものを持って来た」と言う言葉に彼の心が表れています。彼の心は神様への感謝がいっぱいになっているのです。このことに対してヘブル人への手紙は「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(11:4)」と解説しています。神様は心をご覧になるお方です。アベルの人生は短かったけれども信仰によって生きたのです。神様は彼の人生を祝福してくださいました。信仰によって生きた彼の人生を受け継がせるセツを授けてくださったのです。そして、彼の子孫から人々は主の御名によって祈ることを始めました。さらに、その子孫の中からエノクが生まれ、彼は神様とともに歩みました。そして、その子孫からノアが生まれ、ノアを通して人類の歴史は新しく始まりました。何よりもその子孫から信仰の先祖アブラハムが生まれ、アブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれました。
 したがって私たちは自分の力によって自分中心に生きたカインの末裔ではなく、信仰によって生きたアベルの末裔です。一般的に、人々は自分がカインの末裔だと思っています。自分が本性的に行動し、罪を犯してしまうのはカインの末裔だからしようがないと思います。夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩も当たり前だと思います。しかし、この世にもアベルの末裔がいます。最近、私がインターネットから研修を受けていますが、講師の崔博士はアメリカのカートマン博士が35年間3,000組以上の夫婦と調べ、追跡してみると夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩もない家庭も多かったと言いました。崔博士自身も両親が夫婦喧嘩するような場面を見たことがなかったと言いました。意外にそういう家庭も多くあるのです。すべては神様から与えられたと信じて神様に最上のものをささげようと思うほどに神様に感謝する人はアベルの末裔として生きていることです。アベルの末裔は自分の思い通りにならないことで不平不満を抱き、つぶやくのではありません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい(箴言3:11)」と信じてすべてのことにおいて神様に感謝し、祈る人です。神様と交わりながら神様とともに歩む人です。祝福そのものだった信仰の先祖アブラハムのように祝福された人生を生きて行く人です。

どうか、私たちがアベルの末裔である自覚を持って信仰によって生きることができるように祈ります。300年間神様と共に歩んだエノクのように信仰の決断をしましょう。今まではどのように生きて来たとしてもこれから神様と共に歩もうと決断すれば、神様に喜ばれるでしょう。共に歩むということは完璧に生きるということではありません。それよりも神様に感謝し、祈りながら神様と交わる生活ができるということです。300年ではなくても、金ヨハネ宣教師のように毎年300日でも信仰の決断をして守って行くことができますように祈ります。