2014年マタイの福音書第10講 

正しい者たちは、太陽のように輝きます

御言葉:マタイの福音書13:24-52
要 節:マタイの福音書13:43「そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」

先週、私たちは13章に記されている七つのたとえ話の中で種まきのたとえを学びました。良い地に蒔かれた種は実を結び、百倍、六十倍、三十倍の実を結びました。今日も、イエス様のたとえ話を学びます。良い麦と毒麦、からし種とパン種、畑の宝と真珠、地引き綱のたとえについて学びます。ここで、私たちは神の国の性格、私たちに対する神様の御心を学ぶことができます。イエス・キリストを信じて救われている私たちは神様にとって素晴らしい値打ちのある真珠のように尊い存在です。ですから、私たちがからしのように成長し、パン種のように膨張して行くようになります。そして、太陽のように輝く人生を生きるようになります。神様の御言葉が私たちのうちに働いてくださるからです。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル)。どうか、本文の御言葉を深く悟り、受け入れることによって日々御言葉の力を体験し、成長して輝く人生を生きるように祈ります。

24-30節を見ると、自分の畑に良い種を蒔きましたが人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行ったことが記されてあります。皆さんにとって人の畑にわざと毒麦を蒔くというのは納得できないかも知れません。一般的にはそうしないでしょう。しかし、彼の敵が夜の間にこっそりやって来て、毒麦を蒔いて行くことはあり得ることです。インドにおいて最も恐い言葉は、「お前の田んぼに、お前の畑に、悪い種を夜の間に蒔いてやる。」だそうです。農家において毒麦を蒔くことは敵が最大の憎しみと恨みを晴らすやり方なのです。適である相手が一生懸命種を蒔いて育てようとしている畑に悪い種を持って来て、夜の間に憎しみを込めて、パーッパーッと蒔いてしまうのです。すると、一週間たち、一か月たち、そのうち芽を出して来るわけです。やがて実ったとき、毒麦も現われるので分かります。それで主人のしもべたちはそれを抜き集めようとします。しかし、主人は『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」と言いました。
一般的に農夫は毒麦が見えるとすぐに抜いてしまうと思います。私は子どもの時にお米の生産地で育ちましたが、稲とひえのことを話してみたいと思います。小学校の高学年、中学生の時の夏休みには田んぼに稲と一緒に出て来るひえを抜く仕事をしたことがあります。私は田んぼに出てひえを抜くのがつらくてよくサボったのですが、ひえと言うのは稲とそっくりで区別が難しいものでした。それでひえだけではなく、稲も抜いてしまいました。ところが熟練したプロが見ると、稲とひえとははっきり区別がつきます。だから、農家では少しでも早く、稲の中からそのひえを抜いてしまいます。
ですから、イエス様が弟子たちに良い麦と毒麦に対して「収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言われた時はびっくりしたのです。「え、なんでイエス様はそんなことを言うのだろう。」と思ったことでしょう。そこで、イエス様はたとえの意味を教えてくださいました。
37−43節にあります。「良い種をまく者」は人の子です。畑はこの世界、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたち、毒麦を蒔いた敵は悪魔、収穫とは、この世の終わりのことです。イエス・キリストは良い種である御国の子どもたちを保護し、守るために、毒麦である悪い者の子どもたちを終わりの日の審判まで待っておられることを教えてくださいました。ここに、イエス・キリストの御心がよく表われています。イエス様は寛容な心で、ギリギリまで裁きを遅らせくださいます。悔い改めを待つキリストのお心です。最後の最後待ってくださる愛です。これこそ、私たちに対する神様のお心であり、言い尽くせない愛でしょう。
だからと言って、私たちがいつまでも神様に甘えていていいということはでありません。自分の中に芽生えてくる毒麦は、一日も早く抜き取る必要があります。速やかな、裁きが必要なのは、自分の中に芽生えてくる毒麦です。私たちがちょっと油断している間に、あるいは、この世の人に合わせている間に、悪い種が蒔かれている可能性があります。また、「信仰的に、また、霊的に、少し眠っていたかな」と思うような時に、巧みに悪魔が私たちの内側に様々な「悪い種」を蒔いている可能性があります。それを最後まで、放っておいてはいけません。自分に対しては厳しくしなければなりません。悔い改める生活を通して毒麦を取り除く必要があるのです。やがて終わりの日にさばかれるからです。しかし、他人に対しては寛容でなければなりません。私たちは、他人をさばくということにおいては「神の裁き」にそれをゆだねる必要があります。イエス様のたとえで、主人のしもべたちはそれを抜き集めようとしました。しかし、主人は『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。』と言われました。他人に対しては極めて寛容な主人の心がよく現われています。
私たちは生活の中で一度悪い人だと思うと、その人を受け入れることがなかなか難しくなるでしょう。速やかにさばかれることを望みます。あの人さえいなければいいのにと思われる人がいるかも知れません。しかし、さばきは神様にゆだねましょう。自分の敵のように思えるほど悪く思われる人であっても切り捨ててしまうのではなく、神様にゆだねるのです。他人に対しては限りなく寛大な心を持って仕えて行くのです。家族、隣人、友人、職場の同僚や上司などの心のうちに芽生えてくる毒麦に対しては慎重でなければならないのです。自分の毒麦には厳しく、人にはやさしくしていくのです。罪深い私を赦すために十字架に架かって死んでくださったイエス・キリストの愛が無駄にならないように自分には厳しくしていきます。また、自分の注がれる神様の限りない愛のゆえに、人々にはやさしくし、毒麦のすべてのさばきは神様にゆだねて生きるのです。そうすると、まずは自分自身が成長します。自分が属している教会も、日々成長して行きます。やがてこの世に大きな影響力を及ぼすようになります。その時、私たちは私たちの父なる神様の御国で太陽のように輝く者になります。
43節をご一緒に読んでみましょう。「その時、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」「彼ら父の御国」とは、明確に天国での話です。そこにあって彼らは太陽のように輝きます。栄光の体をいただいた信者はますます神様の栄光を現わし続けて行くわけです。そういった祝福に与るのだという話がここにされています。そして「耳のある者は聞きなさい。」とは大切なメッセージだから聞きなさいと言うことです。ではどうやって私たちは世の中に毒麦が芽生えて成長しているにも関わらず、霊的に成長し、影響力を及ぼすことができるでしょうか。そして、終わりの日に、私たちの父なる神の御国で太陽のように輝く者になれるでしょうか。
第一に、天の御国は、からし種のようなものだからです。からし種を取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。このからし種は一グラムを量って調べてみると、百粒ぐらい入っているそうです。指で一粒をつかめないほどに小さいものなのです。そんな小さな種が畑に蒔かれると、やがて三メートル、四メートル、この天井の高さよりも大きく生長して、空の鳥がやって来て巣を作って、卵を生んでヒナを育てるほどになるということなのです。それほどに生長して行くのです。
第二に、天の御国は、パン種のようなものだからです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」」とあります。三サトンは、約36リットルです。1.5リットルのファミリーサイズのペットボトルにして24本の分量です。一般の家庭で日常のパンを焼く分量の20倍ほどです。しかも、パン種は粉を変質させ、しなやかで芳しい香りのパンを作り上げます。このように、天の御国は膨張し、拡張されていきます。キリストの芳しい香りを放ち、良い影響を及ぼしていきます。しかも、キリストにある命のゆえに人々は新しい創造を実現していくのです。
イエス様はこのたとえ話を12弟子を中心にする小さなグループに向けて語られました。それにはどんな意味があるでしょうか。私が神学校で勉強している時に教えて下さって岸義弘先生の解説を紹介します。「この世には毒麦も芽生えて来ます。しかし、これが毒麦だと、あなたがたの間で厳しいさばき合いをして分裂を起こしてはなりません。毒麦に手をつけてはいけません。放って置きなさい。そんなことで私の神の国は滅んでしまうようなものではないのだ。教会と言うものは、どんな毒麦があろうが、反対迫害の勢力が来ようが、からし種一粒のようなものです。キリストのいのちがあるから必ず生長し、その枝を張って、大きい木のようになり、世界の国々がその陰に巣を作って、その祝福にあずかる時が来るのだ。」と言うことです。さらに、反対があっても、迫害があっても、ふくらんで来て最後は実においしいパンが焼き上がって来ます。世界中のキリストの香りを放つようになります。だから、今は小さなグループであっても、私の教会がからし種のように小さく思われても希望を失わないで忍耐を失わないで、終わりの日まで信じて進んで来なさい。」と言うことです。そうです。私はクリスチャンの人生に対して小さく出発しても成長し、膨張し、輝くようになると思っています。この世に毒麦も芽生えているから、混乱もあり、試練もありますが最後は勝利者になります。圧倒的な勝利者、太陽のように輝く勝利者になるのです。
ですから、偶然のように、イエス・キリストに出会った人も、必死に捜し求めてキリストに出会った人も、神の国の価値が分かると、すべてを投資して神の国のために働きます。そこで、イエス様はたとえをとして最高の価値についても教えてくださいます。
44−46節をご覧ください。イエス様は天の御国は、畑に隠された宝のようなものだと言われました。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。彼は何も努力しなかったのに、自分の畑に隠された宝を見つけた時、その価値が分かったので自分の持ち物を全部売り払ってその畑を買うのです。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。この人の場合は賢い人で最も価値あるものを捜し求めていました。だからこそ、良い真珠を見つけた時の喜びも大きかったでしょう。それほど価値があるからです。偶然に宝を見つけた人でも、必死に努力して真珠を見つかった人でも最高の価値が分かった時は自分のものを犠牲にしました。
弟子たちはイエス・キリストに出会ってから大切な家族も、舟も、網も、商売道具も、税理事務所も放棄してキリストに従いました。彼らは最初からキリストの価値が分かっていたのかは分かりません。もちろん、彼らに聖霊の働きかけがあったでしょう。しかし、確かなことは、彼らが天の御国の民として生活しながら天の御国、キリストに最高価値があることが分かったことです。キリストを信じ、キリストに従うことが出来たのは、本当に大きな恵み、一方的な恵みだったのです。特にこの福音書の記録者マタイもそのような経験をしました。キリストの弟子として御言葉を悟る喜び、癒される力と愛を経験しながらやはりイエス様を信じて良かった、何もかも捨ててイエス様に従って良かったと思ったのです。
ですから、12弟子のひとりであるマタイもすべての人々がイエス様のたとえ話に示された天の御国をよく悟り、信じてほしいと思いました。天の御国は成長し、拡張されていくこと、彼らの父の御国では太陽のように輝くことを信じてほしいと切実に願ったのです。そこで、彼はたとえの引き続き、イエス様が信仰を促されたことを記しています。
UBF教会も1961年、今から52年前はからし種のように小さな群れでした。その小さな群れにもイエス・キリストのいのち、いのちの御言葉があったから成長し膨張して来ました。今は世界の98か国に影響するほどに成長し、影響を及ぼしているのです。
日本UBF教会も26年前四畳半の部屋で出発する時はからし種ほどに小さかったのです。今は長崎から仙台まで、世界宣教においてもPNG、アメリカ、タイまでに広がりました。これから、さらに成長し続け、日本とアジア、世界に広がって行きます。私たちの期待を超えて神様が働いてくださるからです。しかし、毒麦、悪い者、不信仰の者であり続けると、どうなりますか。神様のさばきがあります。
47-50節には地引き網のたとえを通して御使いたちによるさばきのことが記されてあります。このたとえが教えていることも明白です。私の父は農村でも夜は魚をとる漁をしていましたので、このたとえもよく理解できます。地引き網で魚を捕った時に、いろいろな魚が網の中に入っています。そこで漁師は魚を見て、良いものと悪いものに分ける、その光景です。恐らく多くの人々がガリラヤ湖で見ていたのでしょう。その彼らがよく知っていることを用いてイエス様は御使いによるさばきがあるという大切なメッセージを与えられました。「正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。」と書いてあります。ちょうどよい麦と毒麦とが分けられるように、この時人々が悪い者と正しい者の二つに分けられるのです。悪い者とは、主を、またそのとうとい救いを拒み続けた未信者の話です。神様の救いがあるということを聞いていながらその救いを拒んだ者たちです。彼らには永遠のさばき、地獄が望みどおり与えられます。望んでいるように与えられます。正しい者とはクリスチャンたちです。彼らは約束どおりに永遠のいのちが与えられます。彼らの父の御国で永遠に輝くのようになります。

どうか、その日を待ち望みながら私のうちに蒔かれたいのちの御言葉を大切にし、御言葉に従う生活ができるように祈ります。何事も毒麦の活動のせいにしないで、彼らのことをさばくこともなく、良い麦として神様に守られ、愛されて行きますように祈ります。どんなに苦しい現実があっても、希望を失うことなく、自分を救ってくださった神様の愛と恵みに感謝しながら素晴らしい宝、最高価値ある神の国の救いを宣べ伝えて行くことができるように祈ります。