2014年マタイの福音書11講

生ける神の御子キリスト

御言葉:マタイの福音書16:13―28
要 節:マタイの福音書16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

先週、弟子修養会を通して私たちのうちに御言葉が早く広がり、またあがめられるように導いてくださった神様に心から感謝します。私たちの教会にxx牧者、xx牧者が立てられ、新しい出発ができたことも感謝します。
今日は、ペテロの信仰告白を通してイエス様はどんな方なのか、イエス様について行きたいと思う者が持つべき姿勢は何かについて学びたいと思います。この学びを通して私たちもイエス様がどんな方を知って信仰告白ができるように祈ります。またイエス様について行く弟子としての姿勢を新たにすることができるように祈ります。

?.ペテロの信仰告白(13−20)
13節をご覧ください。「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」」とあります。ピリポ・カイザリヤにはローマ皇帝カイザルの銅像が置かれていたそうです。人々はその銅像の前を通る時に「カイザルこそ生ける神の子キリストだ」と告白していました。そのようなところで、イエス様は、弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」と尋ねられました。すると、彼らは「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えました。ユダヤ人にとってバプテスマのヨハネも、エリヤも、エレミヤもとっても偉い人たちです。彼らはイエス様を実に偉大な方として思っていたようです。日本社会の中にも広く見られる考え方です。人々は偉大な宗教者のひとりがイエス・キリストだと思っています。日本で急激に広がっている「幸福の科学」という新興宗教も全く同じ考え方をしています。神によって遣わされた人の一人がイエス・キリストで、他にもギリシャ神話の神々や釈迦や日本の偉大な僧侶なども同列だと考えています。しかし、弟子たちはどう思っていたでしょうか。イエス様は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられました。弟子たち自身の主体的・個人的な見解を問われたのです。では、イエス様の質問に対するペテロの答えはどうでしたか。
16節もご一緒に読んでみましょう。「シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」ペテロの答えは百点満点です。ペテロは「ローマ皇帝カイザルが生ける神の子ではありません。イエス様!あなたこそ、生ける神の御子キリストです」という告白をしたのです。キリストとは、「油そそがれた者」という意味です。ユダヤでは油注がれた者が王であり、預言者であり、祭司なのです。だから、ペテロは当時のローマ皇帝がキリストではなく、イエス様が皇帝の上に立つ王の王、主の主であるキリストであると告白しました。さらに、霊的にもイエス様こそ真の預言者、大祭司であると告白したのです。ローマ皇帝の銅像がある地域でそれは非常に危険な告白でもありました。ローマ当局に知らされると処刑されるようなことでした。ところが、ペテロは大胆にも真実な信仰告白をしたのです。イエス様は大変喜ばれました。
17節をご覧ください。「するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」とあります。「バルヨナ」というのは「ヨナの子」と言う意味です。それは罪深い人間の子どもに過ぎないヨナの子であることを教えてくれます。そんな彼が百点満点の答えをしたことは神様の働きによるものです。神様はすでに人類の救いのために働いておられました。私たちを罪と永遠の滅亡から救うために「生ける神の御子イエス・キリスト」をこの地に遣わしてくださいました。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質を持って現われ、ご自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました(ピリピ2:6-9)。ですから、イエス様こそ、生ける神の御子キリストです。ところが、父なる神様はペテロの心に働きかけてイエス様が生ける神の御子・キリストであることを示してくださいました。イエス様がだれであるか、生ける神の御子キリストであるという真理、最も大切な事実をお示しになったのです。だからこそ、恵みであり、幸いなことなのです。自分の知恵や努力によるのではなく、神様が明らかに示してくださったからです。
では、皆さんはイエス様をどんな方だと思っていますか。恐縮ですが、私がイエス様の代わりに質問しますので答えてください。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」…「あなたは生ける神の御子キリストです。」。ありがとうございます。これは人間の研究や経験や思索などを通してできるものではありません。聖書勉強や祈りの生活を通して神様が親しく示してくださったからできたことです。そう言う意味で私たちもほんとうに幸いな者です。
イエス様はペテロのキリスト告白を非常に喜ばれ、「ペテロ」という岩の上に教会を建てるということまで約束してくださいました。その通りに、ペテロの信仰告白の上に教会を建てられるようになりました。パウロはローマ人への手紙の中で「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死人の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」と述べています。私たちは「イエスは主である」「イエスはキリストです」という信仰告白によって救われた人たちの集まりが教会です。そしてイエス様は、「わ(・)た(・)し(・)は、この岩の上にわ(・)た(・)し(・)の教会を建てます。」と言われました。教会は私たちが建てるのではなく、キリストが建ててくださるということです。イエス・キリストが集めた集会が教会であり、キリストによって運営されるのです。そしてイエス様は、「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と言われました。それは教会に地獄のような暗闇の勢力に打ち勝つ大きな力を授けられているということです。実際にキリストの十字架の死と復活によって、暗闇の力に決定的なダメージが与えられました。コロサイ人への手紙第2章には、「神は、十字架において、すべての支配の権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(15節)」とあります。したがって、キリストの教会は霊の戦いにおいて圧倒的な勝利者になります。天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられるキリストが教会を用いて働かれるからです。教会はキリストの権威を持っているだけでなく、その権威を行使することができます。ではどのようにして私たちはその権威を用いることができるでしょうか。
19節をご覧ください。「わたしはあなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」とあります。イエス様は信仰告白をしたペテロに天の御国のカギをあげると約束してくださいました。そして、「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と約束してくださいました。つまり、天をつなぎ、天を開くような、とてつもない天の御国のカギがペテロに与えられたのです。自動車のカギでも家のカギでも大切です。李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師がいらっしゃらない時にカギを会社に置いて来て困ったことを話してくださいました。ヨシュア宣教師の家の門を開くとどれだけの宝物があるかは知りませんがカギがなければ入ることができません。ところがペテロに与えられるカギは天の御国の門を開くカギです。そして、そのカギはイエス・キリストを信じて信仰告白したクリスチャンの祈りです。ペテロの祈りも、私たちクリスチャンの祈りも天の御国に繋がっているのです。それで、私たちが祈ると、すべての権威を持っておられる主がその祈りに答えてくださいます。ですから、私たちは祈りによって暗闇の勢力に打ち勝つことができます。祈りによって天の窓が開かれてあふれるばかりの祝福が注がれる恵みをいただくことができます。
私たちが祈ると、権威あるサタンも、イエス様に従うしかありません。私は弟子修養会の前にテサロニケの手紙を学びながらサタンの働きに気づかされたので一週間の特別祈りを提案しました。それで、私たちは毎晩弟子修養会のために毎日祈り会を開いて祈りました。神様は私たちの祈りに答えてサタンの妨害を退け、本当に素晴らしい弟子修養会を行なわせてくださいました。ですから、ペテロに天の御国のカギが与えられることはものすごく、大きな恵みです。ローマ帝国の皇帝よりも力ある働きができます。今まで、数々の奇跡を体験して来た弟子たちはイエス様がキリストであることを確認し、天の御国のカギももらえるということで思い上がったかも知れません。多くの人々に威張って伝えたかったでしょう。しかし、そのとき、イエス様は、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められました。このようにされた理由はイエス様が弟子たちを保護するためであり、弟子たちに十字架と復活による救いのみわざを教えるためでした。つまり、イエス様がキリストであることは間違いありませんが、十字架と復活による霊的な救い主、キリストであったからです。人々は誤った期待で、イエス様を王にしようとしましたが、イエス様はそのような目的で来られたのではなかったのです。そこで、イエス様は弟子たちに十字架の道を教えてくださいます。

?.イエス様について行きたいと思う者が持つべき姿勢(21−28)
 21節をご覧ください。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」とあります。イエス様はご自分がキリストであることを確認された上で、十字架と復活のみわざを彼らに話されました。するとペテロは、「先生、とんでもございません。先生ともあろうお方にそんなことが起こってたまるものですか!」(リビングバイブル)と言ってイエス様をつかんで、いさめ始めました。彼は生ける神の御子キリストが殺されるはずがないと思ったことでしょう。もしそうなら自分の信仰告白の土台が崩れてしまいます。だから、彼は主への忠誠心からそんなはずが、そうしてはいけないと思い、イエス様の十字架の道を認めようとしなかったのです。ところが、主に対する忠誠心から出たはずのペテロ対してイエス様は何と言われましたか。
23節をご覧ください。「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とあります。ペテロは今さっき、天の父からの啓示を受けたのに、今はサタンの声を聞いてしまいました。私たちにもこのことが起こり得ます。修養会を通して、恵みを受けると、キリストのためなら何でもすると決心します。ところが、世の中で生活しているうちに、サタンの声も聞いてしまうのです。ですから誰かが素晴らしいことを主から示されたからといって、その人がいつも神様からの声を聞いているとは限りません。私たちは楽な道、快楽の道に誘う声に気をつけなければなりません。
キリストの道は十字架の十字架です。この十字架の道は、イエス様に従う者が歩むべき道です。それは、自分を捨てる道であり、自分の十字架を負って行く道です。
24節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
皆さん、イエス様について行きたいと思いますか。そう思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエス様について行ってください。ところが、それはやさしくないでしょう。それは自分を捨てる道ですから、世の価値観から見れば損をすることも多いでしょう。ここに書かれてあるとおり、文字通り自分のいのちを捨てて殉教する人もいます。しかし、殉教したからすべてが終わるのではありません。
26節をご覧ください。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とあります。もし、死なないで、すなわち殉教しないで全世界を手に入れても、まことのいのちである永遠のいのちを損じたら、何の得がありましょうといことです。キリストについて行かなければ、たとえ全世界を手に入れるような人が現れても、死んだら地獄に行ってしまいます。しかし、イエス様について行くならどうなりますか。
27、28節をご覧ください。イエス様は父なる神様の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしておられます。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。その時に、私たちは私たちが自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行くために経験した苦しみには比べられないほどの栄光を受けるようになります。輝かしい栄光の冠が私たちを待っているのです。
ですから、私たちは今日も、明日も自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様について行きます。もちろん、殉教しなくても、自分を捨てること、自分の十字架を負うことは決してやさしくありません。それは大変難しいことです。私たちには自我がありますし、もっと休みたい、もっと寝たい、もっと楽に生きたいという本性があります。私にもあります。私は毎朝もっと寝たい、もう少し寝たいという自分を捨てることが難しくてなかなか思った通りに起きられません。ほんとうに、毎日の夜明けに教会に来て祈ることは優しくありません。私には仕事以外に毎週のメッセージを伝える自分の十字架があります。月曜日から土曜日まで職場生活をしながら毎週メッセージを準備するこの十字架も決して軽くありません。しかし、自分を捨て、自分の十字架を負わなかったら今の自分はなかったはずです。本当に、今の自分の自分に感謝し、喜んでいることができるのは少しでも自分を捨て、自分の十字架を負う生活ができたからです。何よりも私にイエス様が生ける神の御子キリストであることをお示しになり、信仰告白できるように働いてくださった神様がいつもともにいて助けてくださったからです。だから、自分を捨て、自分の十字架を負う時は自分を損するかのように思ったけれども、そうではありませんでした。実はいのちを得、豊かに得ることができました。何よりも、自分の十字架による今のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと考えたパウロのように、自分にも報いがあることを信じます。

 結論的に、イエス様はキリストであると告白をした私たちが目指すべき内容であると思われる聖フランシスコの詩の一部を紹介します。
「慰められるよりも慰めることを
理解されるよりも理解することを
愛されるよりも愛することを
望ませてください。私たちは
与えることによって与えられ
すすんで許すことによって許され
人のために死ぬことによって
永遠に生きることができるからです。」
このようにして「小さな死を経験し、自分の十字架を負う」生活ができるように祈ります。それこそ復活の栄光に至る道です。必ず栄光ある神様の報いがあります。この世でも自分を捨て、自分の十字架を負っていく人には神様の報いによる勝利と祝福を体験することができます。どうか、聖霊の働きによって私たちも信仰告白をし、キリストの道、十字架の道に歩むことができるように祈ります。