2014年マタイの福音書第15講 

良い忠実なしもべ

御言葉:マタイの福音書25:1−30
要 節:マタイの福音書25:21「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」

 先週、私たちは「大能と輝かしい栄光を帯びて来られるイエス様」について学びました。イエス・キリストの再臨を待ち望む者は目を覚ましていて忠実な思慮深い者として生きなければならないことも学びました。
今日は二つのたとえを通して忠実な思慮深い者の生き方について学びたいと思います。イエス様の再臨を待っている者としてどのように準備し、どのように生きるかということを学びます。

?.だから、目をさましていなさい(1-13)
1,2節をご覧ください。「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。」とあります。ユダヤの結婚披露宴は、ほとんどが夜、花婿の家で行われました。花婿は、友人の家か親族の家で身なりを整えてから披露宴会場である自分の家に行きますが、その間に花嫁の家によって花嫁と一緒に行きました。その時、花嫁の友人たちは夜行われる結婚披露宴のためにともしびを用意しました。そして花婿を迎えてからはにぎやかに「ともしび」を掲げて花婿、花嫁と一緒に花婿の家に行くのです。ともしびは今のようなランプではなく、棒に布を巻きつけ、火をつけるたいまつのようなものでした。だから、当時の人々は長く使い時のために油の入れ物を持っていました。
イエス様は、このような背景で行われる結婚披露宴をたとえて天の御国は、それぞれがともしびを持って、花婿を迎える10人の娘のようだと言われました。そして「そのうち、五人は愚かで、五人は賢かった」と言われました。ここで、見ると、「五人は愚かで」が「五人は賢かった」よりも先にイエス様のお口から出ています。このイエス様の話し方にある牧師先生はまったく頭が下がり感激したそうです。なぜなら、あの先生は自分が愚かな息子であることを誇ることはできませんが、イエス様が愚かな者、劣った者にことさらにお心を配り優先的に取り上げてくださったからです。私も愚かな者であるから、聖書を読みながらイエス様の配慮、イエス様の哀れみに気づかされると本当に慰められて感激する次第です。では、このたとえにどんな意味があるでしょうか。
イエス様のたとえで、愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意して置きませんでした。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていました。ところが、花婿が来るのが遅れました。みな、うとうとして眠り始めました。眠っているうちに夜中になりましたが花婿の一行が花嫁の家の近くに来たでしょうか。眠っている娘たちに『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声が聞こえました。すると、娘たちは、みな起きて自分のともし火を整えました。ところが、愚かな娘たちのともし火はすぐにでも消えそうになりました。彼女たち、賢い娘たちに『油を少し私たちに分けてください。私たちのともし火は消えそうです』と言いました。しかし、賢い娘たちは答えて『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』と言いました。そこで、彼女たちは買いに行ったのですが、その間に花婿が来ました。入れ物に油を用意していた賢い娘たちは花婿と一緒に婚礼の祝宴に行きました。その後、戸が閉められました。その後で愚かな娘たちが来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と頼みました。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言いました。
結局、彼女たちは婚礼の祝宴が参加できなくなりました。残念ながら愚かな娘たちはともしびを持っていながらも喜びと幸せの祝宴に参加することができなかったのです。このたとえがイエス・キリストの再臨を待ち望んでいるクリスチャンに与える教訓は何でしょうか。
教会には愚かな娘も、賢い娘もいるということでしょうか。50%の愚かな人、50%の賢い人がいるということでしょうか。つまり、天国も偏差値の高いクリスチャンは入れるけれども、偏差値の低い人は入れないところなのでしょうか。 もし、たとえから数字的な意味だけを考えるなら十人の娘のうち五人は愚かで、五人は賢いということになります。ここに40名ほど座っておられますが、20人は賢く、20人は愚かであると言うことになります。しかし、決して、そんなことはありません。聖書はイエス・キリストの十字架による贖いと赦しを信じるだけで私たちの罪が赦されて救われると教えています。私たちは神様のひとり子イエス様の十字架と復活による救いを信じることによって救われて神様の子どもとされ、永遠のいのちを得ます。それで私たちは「ただ信ぜよ。ただ信ぜよ。信じる者はみな救われます。」と教えています。「イエス・キリストだけが唯一の救い主、ただ信仰によって救われる」と言うことが福音であり、キリスト教の信仰の原理なのです。賢いか愚かかということによって救われるか救われないかが決まるのではないのです。そこでイエス様はたとえの結論として言われました。
13節をご一緒に読んでみましょう。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」イエス様はたとえの結論として「目を覚ましていなさい」と言われました。それは私たちがその日、その時を知らないからです。終末に、世の終わりに、イエス様が再び来られる時にも同じようなことが言えるということです。私たちクリスチャンが待ち切れないほどにキリストの再臨が遅くなることもあり得るということです。もう再臨はないだろうと思われるほどに遅くなることもあり得るのです。しかし、確かなことはキリストが再び来られるということです。今晩、来られるかも知れません。明日来られるかも知れません。だから、私たちはいつも目を覚ましていなければならないのです。では、眠っていてはいけないでしょうか。
礼拝の時にメッセージを始めると、眠り始めているように見える方もいますがイエス様のたとえでも5節を見ると10人の娘たちはみな、うとうとして眠り始めました。この娘たちもコックリコックリして眠り始めました。ただ、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声が聞こえると起きました。礼拝の時も「叫ぶ声」が聞こえた時に起きてもいいでしょう。大切なのは油の用意をしているかどうかということです。ともしびを持っていても油の用意をしていなければなりません。「油断大敵」という諺があります。「油断」という言葉の語源を調べてみると「ともしび」などの油の準備を怠けったため夜中に油が切れ、敵に襲われ命を落とすことから「油断」になったという説がありました。そのようなことが5人の娘たちに起こりました。5人の娘たちは間に合わないで戸の外に締め出されたのです。では、このたとえで「油」とは何を意味するでしょうか。油とは聖霊のことであり、キリストを信じる人に与えられます。つまり油を用意しておくということは信仰を保ち、信仰によって聖霊に満たされていることです。
信仰は心の中の問題ですから外からは見えません。しかし、行ないは形の上に現れて人々から見えます。それゆえ、人はとにかく外側の行ないには気を配ります。偽善の律法学者、パリサイ人もそうでした。ところが、私たちクリスチャンでさえ、心の中のことはおろそかにしやすいです。しかし外側の行ないが輝くともしびのように立派に見えても心の中に信仰がなければ聖霊との交わりはできません。信仰がなければ外側の行ないも長続きしません。それで外側の行ないがどのように立派に輝いていてもそれだけで主の御前に立つことはできません。「油」本当の信仰、聖霊を「入れ物」、すなわち外からは見えない心の中に入れて置かなければならないのです。
そして、この信仰はとは、個人的、主体的なものです。賢い娘たち「いいえ。あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」と言いました。冷たく感じますが、これはやむを得ないことです。なぜなら信仰は仲間入りとかおつきあいとかではなく、一人一人「それぞれ」「神様と私」との直接のかかわりです。おのおの自分のを買わなければなりません。イエス様を信じて自分の口でキリストとして告白するなら、その人のうちに聖霊が臨まれます。聖霊の油が注がれて「入れ物に油を持っている」クリスチャンになるのです。それでいつキリストが来られても喜んでキリストを迎え入れることができます。婚礼の祝宴に象徴される喜びと幸せの天国にはいるのです。ではその日、キリストが再び来られるその日までクリスチャンはどのような生活をしなければならないでしょうか。

?.良い忠実なしもべ(14-30)
イエス様は愚かな娘、賢い娘のたとえ話に続いて「良いしもべ」と「悪いしもべ」のことを教えてくださいました。天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。主人は自分の財産をしもべたちの能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけました。当時の労働者の一日分の賃金は一デナリでした。一タラントは6千デナリです。一デナリを1万円にすると、一タラントは6千万円に相当するということです。2タラントの人は1億2千万円、5タラントの人は3億円です。彼らがいかに莫大な資産を任されたかが分かります。しかも、おのおのその能力に応じて資産を預けました。それほど、主人はしもべたちを愛し、信頼していたことでしょう。では、主人が留守の間、三人のしもべたちはどう過ごしたでしょうか。
16‐18節をご覧ください。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけました。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけました。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠しました。彼は商売をして一タラントもうける能力を持っていました。しかし、彼は商売をしませんでした。彼は地を掘って、その主人の金を隠しました。では彼らに対する主人の評価はどうですか。
19節をご覧ください。「さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」とあります。清算をしてみれば、赤字か黒字かが明確に分かります。五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言いました。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」彼は二倍の利益を残したことを報告しました。その主人は彼に何と言いましたか。
21節をご一緒に読んで見ましょう。「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」主人はしもべを賞賛し、その喜びを分かち合おうとしました。22,23節を見ると、二タラント預かった者も同様に2倍の利益を残して来ましたがイエス様から同じく称賛されました。
彼らがほめられたのは、2倍の実績ではなく、わずかなものに忠実だった心の態度です。聖書の中で「忠実な人」というのは、真実な人、心変わりをしない人、途中で変わらない人、信仰の人を意味します。神様の御前に筋を通して生きている人のことです。主人は主人から預かった物に対する心のあり方、その態度を高く評価してくださったのです。そして、その態度に対して主人は非常に喜んでいることが分かります。主人は彼らにたくさんの物を任せることを約束し、「主人の喜びをともに喜んでくれ」と言いました。
ここで、私たちがわずかな物に忠実な者になると、たくさんの物が任され、神様に喜ばれることが分かります。ところが、多くの人々はたくさんの物が任されたら忠実に働けるけれども小さな物、わずかな物のために忠実になろうとしません。むしろ、小さなもの、小さなことはおろそかにしてしまいます。
私たちクリスチャンも教会生活において小さなことはおろそかにしてしまいがちです。1、2分の祈りには意味を感じません。祈るなら短くても1時間はしなければ・・・と思っている人もいます。メッセージを伝えること、賛美を導くことは大事に思うけれども、兄弟姉妹たちと話し合い、交わること、1分の祈り、1チームの1:1聖書勉強などは軽く思ってしまいがちです。しかし、わずかな1分の祈りができなければ1時間の祈りもできないでしょう。小さなことにも丁寧に生きる人は神様に喜ばれ、祝福されます。
私は自分にはあまり能力がないと思っています。一タラント預かったような者です。思慮深い、頭の良い、賢い人でもありません。ただ、小さなことでも忠実にやろうと心掛けています。自分のことで恐縮ですが、短くても毎日夜明けの祈り、日ごとの糧を書いて食べようとしています。聖書勉強会の時、1:1の時は5分でも早く着いて準備しようと心がけて来ました。毎週の家庭礼拝もほんとうに短い時間ですが変わらずにささげようとして来ました。ところが、振り替えてみると、私の小さなこと、本当にわずかなものに忠実にやろうとした心掛けを大きく祝福してくださいました。ほんとうにわずかなことでも長く忠実にやっていくうちに、成長しますし、大きなこともできるようになって行きます。それを通して大きな場面でも神様に用いられ、喜ばれるようになるのです。ところが、一タラントを預かった者はどうなりましたか。
24、25節をご覧ください。「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』」とあります。このしもべは自分に預けられたタラントが他の二人に比べて少ないことで内心面白くなかったかも知れません。あまりにも少ないから「蒔かない…、散らない…」と思っていたかも知れません。何よりも彼には主人に対する愛も信頼もなく、「ひどい方だ」と分かっていました。その恐れ、不信仰のために自分のものを少しも投資することができませんでした。それにもかかわらず、相手を悪者に仕立てて自分を正当化しようとしています。罪深い悪人根性をむき出しにしたのです。そこで、主人は彼のどんな点をとがめましたか。
26、27節をご覧ください。「ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけな者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。』」とあります。主人は彼が悪い怠けな者のしもべであることを明らかにしました。結局彼はどんな罰を受けるようになりましたか。
28-30節をご覧ください。「だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」一タラント預けられたしもべはその一タラントまで取り上げられます。役に立たぬしもべとして外の暗闇すなわち、永遠の滅亡に突き落とされてしまいます。
ここで、一タラント預けられたしもべの問題は怠けていたことです。その原因は不信仰です。主人は彼を愛し、彼を信頼していたからこそ、彼の能力に応じて一タラントを預けました。ところが彼は主人に対して「ひどい方だ」と思っていました。主人の愛と信頼を信じなかったのです。このように信仰がなければ人は不安になり、その不安から消極的になります。怠け者になります。
私は学校で生徒たちと話し合いの中で感じていることの一つは子どもに大人に対する信頼がなければ学習意欲も落ちてしまうということです。親に対する信頼、先生に対する信頼がある子どもは意欲的になり、積極的になります。しかし、家庭問題、両親の仲が良くないことに気づいている生徒は学習意欲を失ってしまいます。先生に対する信頼を失った時もその科目の勉強ができなくなってします。同様に神様に対する愛と信仰がなければ怠け者になってしまうでしょう。反対に、家庭問題があり、教師に対する不満があっても神様の愛、自分に対する神様の信頼を強ければその分積極的になります。勤勉な人にもなります。神様のために忠実な生活ができます。神様から愛されている、信頼されているという確信があるから恐れることなく挑戦し、利益を残すこともできます。五タラント、二タラント預かった人はとても主人を愛していました。だから、自分に与えられたタラントを生かして一生懸命に、忠実に働くことができます。神様を愛する人もそうなるのです。それによって有益を残して神様を喜ばせ、自分も喜べるようになります。
結局、終末が近づいているので人々の間で愛が冷たくなっていますが、それでも私たちクリスチャンは信仰を失っていけません。ますます信仰を強くして聖霊に満たされて行かなければなりません。神様が自分を愛し、信頼して自分の能力に応じて与えられたタラントを感謝して忠実に生きることが大切です。どうか、今週もご自分のひとり子さえも惜しまずにお与えになったほどに私を愛し、信頼してくださる神様へ愛と信仰によって良い忠実なしもべとして生きるように祈ります。