2014年マタイの福音書第8講

安息日の主であるイエスキリスト

御言葉:マタイの福音書12:1−21
要 節:マタイの福音書12:8 「人の子は安息日の主です。」

先週、私たちはイエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」をご自分のところに招かれ、休ませてくださることを学びました。そして月曜日には金サムエル宣教師を通して備えられた秋ヶ瀬公園で素晴らしい休みの時間を過ごすこともできました。神様が私たちを憩いの場に導かれ、休ませてくださったことを感謝します。
今日は「安息日の主であるイエス・キリスト」を学びます。安息日とはユダヤ教で一週の七日目の土曜日です。キリスト教では日曜日を意味します。これは、イエス様が金曜日に処刑され、三日目の日曜日に復活したことに由来しています。イエス様が復活した日曜日を主日、安息日として守っているのです。イエス様はこの安息日の主であることを宣布されました。その意味は何でしょうか。イエス様の教えを通して安息日の意味、その精神を深く学ぶことができるように祈ります。また、安息日の主であるイエス・キリストはどのようなお方なのかについても学ぶことができるように祈ります。

?.安息日の主であるイエス・キリスト(1−8)
1、2節をご覧ください。そのころ、イエス様は、安息日に麦畑を通られました。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めました。農村では普通にあることでした。私も友達と一緒に麦の穂を摘んで食べたことがあります。惜しかったのですが、私の田舎でもそれ位は許されました。特に聖書には「貧しい人や旅人は、麦畑に入って麦を摘んで食べても良い(レビ記19:9-10)という教えがあります。弟子たちは麦畑から穂を摘んで麦を食べることは普通にあることだったのです。でもパリサイ人たちは、その日が安息日であったことに注目してイエス様を攻撃しました。ユダヤ人にとって安息日の戒めは非常に厳しいものであって、いっさいの労働が禁じられます。たとえば、麦の穂を取ったことは収穫です。麦の殻を取ったことは脱穀です。殻を落としたことは振り分けた仕事をしたことになります。弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことは安息日の戒めを何個も破ったことになるのです。そこで、パリサイ人たちはイエス様に「あなたの弟子が安息日にしてはならないことをしています。」と言ってイエス様を非難し、攻撃しました。それに対してイエス様は二つのことを指摘されました。    
第一に、イエス様は彼らが最も尊敬しているダビデの場合もひもじくなった時に祭司のほかは食べてはならない供えのパンを食べたことを指摘されました。
3、4節をご覧ください。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者達も食べてはならない供えのパンを食べました。」とあります。これは?サムエル21:1−6にあります。ダビデが青年時代にサウルに追われ逃げて行きました。その間にダビデと供の者は食糧がなくて、飢え死に一歩寸前まで迫られました。すると、ダビデは祭司の家に逃げ込み、食べ物を求めました。すると、この祭司は大胆なことをしました。今手元にパンがないから宮に供えたパンをあげましょうと言いました。それでダビデは神の家に入って、祭司のほか、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたのです。それは供えのパンに関する律法を破ったことになります。それでもダビデは咎められませんでした。彼を罪に定めたことは聖書のどこにも記されてありません。そこで、イエス様はパリサイ人たちに「ダビデが何をしたかを知らないのですか。読んだことがないのですか。」と問い詰めたわけです。イエス様はダビデの事を通して弟子たちを弁護してくださいました。それによって戒めよりいのちが大切であることも教えてくださいました。
第二に、イエス様は祭司たちが宮にいる間に安息日の戒めを犯しても罪にならないことを指摘されました。それによって祭司よりも大きい弟子たちの霊的な身分も示唆してくださいました。
5,6節をご覧ください。「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」」とあります。宮にいる祭司たちは安息日にも仕事をしました。供えのパンを替え、犠牲の小羊を殺すこともします。注ぎの捧げ物や、穀物の捧げ物をささげることもします。そのような仕事で神聖を冒しても罪になりません。同様に、宮より大きいイエス様と一緒にいる弟子たちが仕事をすることは罪にならないのです。ここで、イエス様は弟子たちが宮にいる祭司たちよりも大きい者であることも示唆してくれました。ところが、パリサイ人たちは、律法も、律法の精神もよく知りませんでした。それは、聖書の教えを表面的な意味だけで捉えていたからです。彼らは「あれはいけない。これもいけない。このようにしなければならない。あのようにしなければならない。」というようなことばかりを言っていました。イエス様は彼らに何と言われましたか。
7節をご一緒に読んでみましょう。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者達を罪に定めはしなかったでしょう。」イエス様はホセア書6章6節を通してパリサイ人たちの無知を指摘されました。いけにえは宗教的な熱心を意味します。パリサイ人たちは律法を破る人々を見つけために熱心な人たちでした。彼らは人々を憐れむことよりも罪に定めることに熱心でした。しかし、神様は宗教的な熱心よりも哀れみを好んでおられます。律法の知識を持って人をさばくのではなく、人の状態を理解し、哀れむことです。
私たちも人の状態、状況を把握する前に表面的なことで判断し、議論をしやすいです。先週、私たちの定期小会の時間はとても短くなりました。幸いなことです。ところが、教会も集まって教会のわざについて論ずるときにも評論家的議論をしやすいです。そして互いにさばき合い始めた時、教会は崩れます。家庭もさばき合うことによって崩れると、三浦綾子さんを言いました。家族が互いの評論家になった時、家庭の交わりは、もはや存在しないのです。教会も同じです。
どうか、私たち一人ひとりがパリサイ人のように人の過ちを見つけ出して批判し、攻撃するのではなく、イエス様のような哀れみの心を持って生きるように祈ります。特に安息日にはひもじくなっている人のことをよく理解し、哀れんでくださるイエス様の御心を学ぶことができるように祈ります。では、安息日とイエス様との関係はどうですか。
 8節をご一緒に読んでみましょう。「人の子は安息日の主です。」ここで「人の子」と言うのは二つの意味があります。一つはイエス様がご自分のことを言われる時に代名詞の場合があります。もう一つは人間一般です。ここの「人の子」は両方にとれます。イエス様は安息日よりも大きい、イエス様が上位を占めているという解釈です。ご自分が安息日の主であることを宣言されました。実際にイエス様は安息日を創設された神様です。また、安息日の戒めを与えられた神様です。そして、安息日を創設されたのも、安息日の戒めを与えられたのも人間のためです。そこで、もう一つの意味は、安息日が人の子である人間のためにあるのだということです。つまり、人間が安息日のためにあるのではなく、安息日が人間のためにあるのです。このことは安息日に片手のなえた人を癒されたことによって明らかになっています。どちらにしても安息日はイエス様中心、人間中心になります。
安息日は、六日間働いて一日休み、神様を礼拝する日です。もし、人間が六日間働いてから1日を休むことも、神様を礼拝することもしなければ、人間は人間らしさを失ってしまいます。ですから、六日間働いたら一日を休んで神様に礼拝をささげ、賛美をささげるようにしてくださったのです。それによって私たち人間が人間らしく過ごしていけるように安息日を創設し、安息日の戒めも与えられたのです。
私たちはよく「忙しい、忙しい。」と言いますが、一日も休まずに過ごしていけるでしょうか。自分を省みる余裕もなく、神様を思う時間もない生活を続けるならどうなるでしょうか。疲れた人、重荷を負っている人として生きるしかならなくなってしまいます。人間として生きることができなくなってしまうでしょう。だから「安息日」は神様が私たちを休ませ、安らぎを与える日であって人間の幸せのためにあるのです。つまり、人が安息日のためにあるのではなく、人のために安息日があるのです。安息日の戒めによって人間を縛るためではないのです。
従って私たちは安息日である主日は休み、安息日の主であるイエス・キリストを礼拝する日として過ごさなければなりません。「安息日を守りなさい。」という戒めに縛られるのではなく、「安息日」の意味を考え、心からイエス・キリストを礼拝するのです。そして、イエス様のようにひもじくなっているような人々を理解して哀れみ、助けることも大切です。パリサイ人のように人を攻撃し、責めるようなことを悔い改め、イエス様のように人を哀れみ、助けるのです。そう意味で霊的にひもじくなっている兄弟姉妹たちとの1:1聖書勉強はとても素晴らしいと思います。私たちが安息日の主であるイエス様と交わり、イエス様を中心に過ごして行きますように祈ります。

?.あわれみ深いイエス様(9ー21)
 9,10節をご覧ください。イエス様は麦畑を去って、会堂にはいられました。そこに片手のなえた人がいました。片手が使えないことは深刻な問題です。片手が全く使えない時の不便さは大きいでしょう。哀れみ深い人なら、「片手が萎えて大変だなあ、どんなに苦労して来ただろうかなあ。」と思うでしょう。ほんとうは、パリサイ人たちも宗教指導者として片手のなえた人深く哀れみ、助けてあげようとしなければなりませんでした。ところが、彼らは片手のなえた人を憐れむどころか、イエス様を訴え、攻撃する道具にしか見ませんでした。そこで、彼らはイエス様に質問して「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言いました。彼らの質問に対するイエス様のお答えはどうですか。
 11、12節をご覧ください。「あなたがたのうち、誰かが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値打ちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」とあります。昔も、今も人は自分のものを大切にします。もし、自分の羊が穴に落ちたら、その日が安息日であってもそれを引き上げるのです。人々は誰でも自分の羊は尊く思います。しかし、羊よりも人間のいのちが大切です。人間は羊と比べられない尊い存在です。人間は神様の形に似せて造られた尊い存在です。イエス様は片手のなえた人も、全世界よりも貴く思ってくださいました。だから、ご自分が訴えられる危険があったにもかかわらず、彼をあわれんでくださいました。
 13節をご覧ください。イエス様はその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われました。彼が手を伸ばすと、手は直りました。もう一方の手と同じようになりました。イエス様のあわれみによって彼は癒されて新しい人生を送ることができるようになりました。両手をあげて「ハレルヤ!ハレルヤ!」と賛美することもできるようになりました。ところがパリサイ人たちの反応はどうですか。
14節をご覧ください。「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」とあります。高慢なパリサイ人の心に変化は起こりませんでした。むしろ、彼らの心は以前よりもっとかたくなになってしまいました。パリサイ人たちは片手のなえた人の苦しみ、悲しみに同情することも、そのいやしを喜ぶこともできませんでした。むしろ、どのようにしてイエス様を滅ぼそうかと相談しました。イエス様はそれを知って、そこを立ち去られました。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやしました。そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められました。心優しくへりくだっておられるイエス様の姿です。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためでした。
18,19節をご覧ください。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」神様はイエス様の上に神の霊を置き、神の霊によって異邦人に公義を宣べ伝えるようにされました。ですから、イエス様は義務感や事業的な動機から福音を宣べ伝えられたのではなく、神の霊によって福音を宣べ伝えられました。一度も感情的になることがなく、聖霊に満たされて伝道活動をなさいました。争うこともなく、叫ぶこともされませんでした。ではこのようなイエス様はどんな方でしょうか。
20、21節をご一緒に読んでみましょう。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」葦は弱いものの象徴です。いたんだ葦はさらに弱いものです。私たち人間の弱さを象徴的に表しているのが、この「葦」なのです。また、私たちの心はロウソクや石油ランプの「燈心」のように弱いです。ちょっとした風が吹いて来ると消えてしまいます。三日坊主と言われていますが、強く決心してもちょっとした風が吹いて来るとその決断は崩れてしまいます。
 時々、私たちの信仰の炎も、揺らいで弱くなります。その光は、燃え盛る炎ではなく、試練の大きいときなどは、微(かす)かに点(とも)る灯(ともしび)となる場合があります。しかし、イエス様は、そのような私たちを打ち拉(ひし)ぐことなく、力づけてくださるのです。イエス様は、弱い者を無視したり、見捨てたりはなさいません。弱い私たちをあしらうことなく、理解して支えてくださるのです。
この20節の御言葉に、私たちは、イエス様の愛と労りの思いを感じることが出来ます。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とは、何という恵みでしょうか。私たちのように、肉体的にも人間的にも信仰の面から霊的にも、弱さを持っている者たちです。ところが、憐れみ深いイエス様「いたんだ葦」のような弱い私たちを折れないように労り、強くして下さいます。消えそうになって「くすぶる燈心」のような私たちにも、信仰の炎が燃え上がるようにしてくださいます。そのおかげで私たちは成長して行きます。そして、私たちがそのようなイエス様を見習って行くうちにあわれみ深い人として成長して行きます。できる人ではなくも、できた人として成長して行きます。

 ここで、渡辺和子さんの言葉を紹介します。「いつも、いつも、勝っていて負けを知らない人を、私たちは、『あの人は出来る人だ』と評価します。それに対して、私たちが、『あの人は出来た人だ』と言うとき、それは、人間的に円熟した人、包容力のある人、ある意味で負けることの大切さを知り、時に応じて、進んで相手の人に勝ちを、勝利を譲ることが出来る人を言う」と言うことです。そうですね。人格的にすばらしい人を指して、「できた人」というのではないでしょうか。
 皆さん!「できる人」になりたいでしょうか。「できた人」になりたいでしょうか。私は、「出来る人」にならなくてもいいと思います。できれば、「出来た人」になって行きたいと思います。そして、「できた人」とはイエス・キリストを学ぶことを通してなれると思います。
イエス様は「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」、愛と労りの思いに満ちた御方です。痛んだところに手を差し伸べ、必要ならば触れて下さいます。なえているところを癒して下さいます。 私たち自身の罪のために暗くなり傷ついている魂に触れて下さいます。私たちの罪と咎を赦して下さいます。そうして、いたんだ葦のように弱い人でも神様の子どもとして下さることによって、新しい存在に生かして下さいます。また、限りない哀れみと愛によって私たちを導かれ、成長させてくださいます。
どうか、今週も、このようなイエス様との交わりをもっともっと深めていきたいと思います。私たちが安息日の主であるイエス・キリストのあわれみ深さを学び、それを実践することができるように祈ります。