2014年イースター修養会主題講義第2講

よみがえりといのち

御言葉:ヨハネの福音書11:1−44
要 節:ヨハネの福音書11:25,26
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」

 私たちは、昨日の御言葉を通して、イエス・キリストの十字架の恵みについて、学びました。イエス様は、私たちの罪のために、十字架の上で死なれました。しかし、聖書に記されている通りに、三日目に死者の中からよみがえられました。イエス様のよみがえりによって、私たちの罪は赦されました。そして、長い間私たちを苦しめていた死の勢力から解放されました。セレブレイト ジーザス。主の御名を褒め称えます。

 今日学ぶ御言葉は、ヨハネの福音書に出て来る七つの奇跡の中で、一番最後の奇跡にあたります。イエス様は、死んだラザロをよみがえらせることによって、ご自分がよみがえりであり、いのちであることを明らかにされました。誰でも、このイエス様を信じるなら、イエス様のようによみがえる望みが与えられます。この時間、聖書の御言葉を通して、一人一人が、よみがえりであり、いのちであるイエス様を受け入れる中で、復活信仰の上に堅く立てられますように、お祈りします。

?.この病気は死で終わるだけのものではない(1―18)
 エルサレムから3km離れた所にベタニヤという町がありました。その町に、ラザロとマリヤ、その姉妹マルタが住んでいました(1)。このラザロが病気にかかりました。危篤状態にあり、生死の境をさまよっていました。一刻の猶予も許されない緊急事態でした。しかし近くには救急病院もありませんでした。その時、マリヤとマルタはどうしたのでしょうか。

 3節をご覧ください。「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』」彼女たちには、「イエス様ならきっと直してくださる」という確信がありました。それですぐにイエス様の所に使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
 
 では、イエス様はどのようにされたのでしょうか。4節をご覧ください。
「イエスはこれを聞いて、言われました。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」一般的に病気はつらく、悲しいものです。まして、愛する兄弟ラザロが病気にかかり、死んでいく姿をそばで見ているマリヤとマルタは、どれだけつらい思いをしているのでしょうか。もちろん、イエス様も彼女たちのつらい気持ちを理解してくださいました。彼らを愛しておられるからです(5)。しかし、イエス様は神様の観点からご覧になりました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」では、イエス様はどのようにして、神様の栄光を現わそうとされたのでしょうか。

 6節をご覧ください。「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」なぜイエス様は、すぐにラザロのもとに行かれず、そのおられた所になお二日とどまられたのでしょうか。3節に出てくる「愛」は、ギリシャ語では「フィレオ」(友情)となっています。マリヤやマルタは、イエス様との関係を、単なる友情としてとらえていました。ところが、5節に出て来る「愛」はそれとは違っていました。ギリシャ語で「アガぺ」、すなわち神様の絶対的な愛で表現されています。ラザロとマリヤ、その姉妹マルタに向けられたイエス様の愛は、条件のない、絶対的な愛、完全なものでした。イエス様は死んだラザロをよみがえらせることによって、彼女たちに「復活信仰」を植えようとされました。彼女たちがさらに一歩、霊的に深い世界に踏み出すことを願っておられました。そのことを通して、イエス様は神様の子の栄光を現わそうとされました。
 7節をご覧ください。イエス様は、弟子たちに言われました。「もう一度、ユダヤに行こう。」それを聞いた弟子たちは非常に驚きました。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」弟子たちは、死を恐れていました。死ぬと終わりだと考えているからです。弟子たちだけではなく、ほとんどの人が死を恐れていると思います。しかし、イエス様は違います。

 11節をご覧ください。イエス様は言われました。「わたしたちの友、ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」イエス様にとって、死は「眠り」です。それで、使徒パウロは、コリント人への手紙第一15章で、「死んだ」という言葉の代わりに、「眠っている」という単語が使っています。死は恐怖を与えますが、「眠り」は安らぎを与えます。どんなに疲れていても、一晩眠ると、心もからだもリフレッシュします。同様に死は、イエス様を信じる人にとっては、安息となります。

 ヨハネ5:24節で、イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」誰でも、イエス様の御声を聞くなら、その人はいのちを受けます。そして死からいのちへ移されます。さばきから永遠のいのちへ移されるのです。それで、私たちは主にあって、死を恐れる必要はありません。

?.「よみがえり」と「いのち」(19-44)
19節をご覧ください。ラザロの死によって、ベタニヤはひどい悲しみにつつまれていました。愛する人、頼るべき人を失ったマルタとマリヤの心はどうだったのでしょうか。大勢のユダヤ人たちが、彼女たちを慰めるために集まっていました。故人を偲んで、涙を流し、大声を上げて泣いていました。日本では「香典」(お花代)を包みますが、灰色の筆ペンを使います。これは、「悲しみのあまり、涙で墨が薄れてしまった。」という意味があります。生前、あまり親しい間ではなくても、その人が死んでしまうと、悲しむことがエチケットとされています。ところが、マルタとマリヤは違いました。彼女たちは心の底からラザロの死を悲しんでいました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21,32)。彼女たちはイエス様に助けを求めたのに、なぜイエス様はすぐに来てくださらなかったのか、と不満をもらしました。私たちも、イエス様に祈ったのに、すぐに祈りを聞いてもらえず、以前よりも状態が悪くなった時に、彼女たちと同じような気持ちになることがあるのではないかと思います。「あなたがいてくれたら、こんなことにはならなかったのに。」
では、イエス様は何と言われたのでしょうか。

23節をご覧ください。「あなたの兄弟はよみがえります。」深い悲しみと失意の中にいるマルタにとって、イエス様のこの御言葉は、なかなか受け入れがたいものでした。理解できないことでした。それでも、マルタは答えて言いました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」(24)。彼女にとって、ラザロが生き返るのは、遠い未来のことのように思えました。彼女は聖書を通して、「復活」を信じていましたが、それが今起こることを知りませんでした。そこで、イエス様は彼女の抱いている復活信仰が確かなものになるように、助けてくださいました。

 25,26節を皆さんと一緒に読んで見たいと思います。
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。このことを信じますか。』」イエス様は、ご自分がよみがえりであり、いのちであることをはっきりと現わされました。そして、このイエス様を信じる者はみな、誰でもその力を受けると約束されています。

 第一に、肉体の復活があります。25b節をご覧ください。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とあります。私たち人間は肉体のからだを持った弱い存在です。けがをしたり、病気にかかったりします。不慮の事故にあって、尊い命を失ったりもします。何気ない言葉によって傷ついたり、相手を傷つけてしまったりもします。何よりも、罪の誘惑を受けて、心ならず罪を犯してしまうこともあります。時には、このような自分のことを考えると、自分が自分で嫌になってくることもあります。しかし、イエス様のよみがえりによって、私たちクリスチャンたちに希望が与えられています。使徒パウロは言いました。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(?コリ15:20)。私たちが主なるイエス様と共に歩む時、主と共に死にます。主と共に墓に葬られます。そして、主とともに、死者の中からよみがえるようになります。私たちは初穂であるイエス様を仰ぎ見る時に、イエス様のように死者の中からよみがえる望みを持つことができます。そして永遠の都、天の御国に入る望みを持つことができます。私たちが天の御国に入るその日、卑しい、朽ちる弱い体を脱ぎ捨て、栄光ある朽ちることのない、強いものに変えられていくのです。肉体の体を脱ぎ捨て、御霊に属するからだによみがえります(?コリ15:42-44)。

 第二に、霊的な復活が起こります。26a節をご覧ください。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。」とあります。もちろん主にあって、死は眠りです。いつかイエス様が起こしてくださるでしょう。それだけではありません。根本的に私たちのからだの中にあるたましいは決して死ぬことはありません。私たちがイエス様と共に歩む生活をする時、多くの苦難、迫害を受けることがあります。イエス様を信じているのに、なぜ苦しみを受けなければならないのか、と疑問に思うことがあります。それは、悪魔が私たちをイエス様から引き離すために妨害しているからです。しかしどんなに迫害されても、苦しめられても、私たちの主に対する思いは決してなくなることはありません。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ロマ8:38,39)。私たちが主につながっている生活をしている限り、私たちのたましいは滅びることがありません。

マルタはイエス様に信仰告白をしました。27節をご覧ください。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」イエス様はマルタが復活信仰を持つように助けてくださった後、ラザロが眠っている墓に行かれました。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました(38)。

そこで、イエス様は言われました。「その石を取りのけなさい。」(39a)。
 イエス様の御言葉を聞いて、マルタはすぐに現実の世界に連れ戻されてしまいました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」(40b)。常識で考えると、それは不可能なことのように思えました。しかしイエス様は、マルタの信仰が確かなものになるように助けてくださいました。

40節をご覧ください。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(40)。イエス様の御言葉を信じて、マルタは信仰によって、墓をふさいでいた重い石を取りのけました。その時、イエス様は神様に祈られました。
「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」(42,43)。そして墓に向かって、大声で呼ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」(43)。ラザロは、イエス様の御声を聞いてすぐに手と足を長い布で巻かれたままで出て来ました。彼の顔は布切れで包まれていました。イエス様はマルタとマリヤの姉妹のもとに、ラザロを帰らせてくださいました。悲しみと絶望が喜びと希望に変えられた瞬間でした。この日、ユダヤ中に賛美が満ち溢れました。

この時間も、イエス様は言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 私は、一昨年前の会社での健康診断で「逆流性胃炎」と診断されました。ちょうどそのころから右目の様子がおかしく、パソコンの画面がかすんで見える日が続きました。そして毎年、この時期になると、ひどい花粉症に悩まされていました。このような状態の中で、イースター礼拝のメッセージを準備して証しすることに、少しためらう気持ちもありました。その頃、パソコンの画面がかすんで見え、仕事に支障をきたし始めました。その時、マリヤ宣教師から医者に行くようにと言われました。それで、意を決して、眼科で受診した結果、右目は末期の白内障で手術が必要であり、左目も初期の白内障であると診断されました。最初状況がうまく飲み込めず、放心状態になりました。あまり実感がわきませんでした。ところが、「手術」という言葉に、絶望するしかありませんでした。自分がそんな深刻な病気にかかっていたなんて、到底信じられませんでした。し、状況をうまく説明できませんでした。それでも、神様の憐れみが私の上に臨まれました。この2−3年の間、私は左目だけで生活したことになりますが、特に、これといった支障もありませんでした。それで私が白内障の手術を受けるようになったことを会社に話した時、会社の人々はみな驚いていました。「よく仕事ができるね。」「大丈夫」
 また、神様はヤコブの手紙5:15節の御言葉で、私を力づけてくださいました。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」そして今この時間も、神様は私の祈りを聞いてくださることを信じ、確信するようになりました。すると、神様は私の心を強くしてくださいました。どんな時にも、心から神様を賛美できるように助けてくださいました。6月の中旬には、手術を受ける予定ですが、そのことを通して、メッセージを証しするのに、支障がないように助けてくださいました。
 よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今この時間も私と共にいてくださいます。イエス様の奇跡は今でも起きると信じています。このイエス様に頼る時、恐れや不安がありません。今よりもよく見えるようになるという望みがあるだけです。そのことを思うと喜びで満たされるようになります。イエス様はまず、閉ざされていた私の霊的な目を開いてくださいました。そして肉体の目も開いてくださることを信じ感謝します。私によくしてくださったイエス様の御業を証しで来ますように、お祈りします。

もう一度、25、26節の御言葉を皆さんと一緒に読んでみたいと思います。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今も私たちのうちに、語りかけてくださいます。そしてこのイエス様を信じる者は、だれであっても、死の勢力から抜け出し、永遠のいのちへと移って行きます。死の勢力に打ち勝ち、喜びで満たされる人生を過ごすことができます。この時間、一人一人が復活信仰の上に堅く立ち、喜びに満ち溢れる人生を歩んでいくことができるように祈ります。

「唄おう声を合わせてイエスを祝うために勝利に胸躍らせイエスの誉れを見よイエスは よみがえられた輝くその姿喜び賛美しようとこしえまで共におられる主イエスを.」