2015年使徒の働き10講

異邦人に福音を宣べ伝えたペテロ

御言葉:使徒の働き9:32―11:18
要 節:使徒の働き10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。

先週、私たちは神様がキリストの御名を異邦人に運ぶ器として選ばれたパウロがどのようにしてイエス・キリストに出会い、回心したかを学びました。ところが、エルサレム教会は、まだ異邦人にキリストの福音を宣べ伝える用意ができていませんでした。最高指導者であるペテロを始め、ユダヤ人は、旧約聖書に記された割礼、安息日、食べ物や暦に関する規定などを守っていました。それが彼らの民族的な優越意識となり、他民族を卑下する高慢にもなっていました。ペテロにもこのようなユダヤ人の選民意識、人種的・文化的偏見がありました。ペンテコステの聖霊体験をしたペテロでさえ、異邦人への偏見がありました。そこで、神様はペテロが異邦人に福音を伸べ伝えるように導かれました。
本文の御言葉を通して神様の御心を学び、異邦人に福音を宣べ伝える世界宣教のみわざに用いられる器として成長して行きますように祈ります。

9:32-35節をご覧ください。ペテロはルダで、8年の間も床に着いているアイネヤという人に出会いました。彼は中風でした。ペテロは彼に「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」と言いました。ペテロは「イエス・キリストがあなたを癒してくださるのです。」と言っています。すでに十字架につけられて死なれ、よみがえられて今は天におられるイエス・キリストが癒してくださると言うことです。ここにイエス・キリストに対するペテロの信仰が表われています。ペテロはイエス様が癒してくださると信じていました。そして、中風の人であるアイネヤにも立ち上がる勇気と信仰を求めていました。中風で8年間も床に着いていたアイネヤにとって立ち上がることは難しくなっていたでしょう。癒されたいという願いさえも消えうせる状態だったでしょう。私も経験していますが、病気が長く続くと癒されたい意欲さえも失って行きます。私は10年ほど前から毎年冬には腰が痛くなります。3年ほど前から花粉症を患っています。すると、私の心の中ではしようがない気持ちになって来ました。アイネヤもそういう気持ちになっていたのではないでしょうか。しかし、そのような時にも、私たちはイエス様が癒してくださると信じなければなりません。そして、自分の方から寝床を整え、自分で立ち上がろうとする勇気、積極的な姿勢が必要です。幸いに、アイネヤはペテロの言葉を聞いて勇気を得たでしょうか。彼はただちに立ち上がりました。アイネヤは信仰と勇気があったことでしょう。この時間、私もペテロか見倣って病んでいる方たちに言います。「ダニエル!イエス・キリストがあなたを癒してくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」どうか。私たち一人一人が信仰を持ってイエス・キリストの癒しを体験して行きますように祈ります。アイネヤが癒されると、ルダとサロンに住む人々はみな、アイネヤを見て、主に立ち返りました。さらに、ペテロは死んだ人にもチャレンジするようになりました。
36〜39節をご覧ください。ペテロがヨッパで死んだタビタという女の弟子を生き返らせた出来事が記されてあります。彼女は、多くの良いわざと施しをしていました。ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈りました。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言いました。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がりました。このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じました。しかし、ペテロの働きはユダヤ人に留まっていました。神様はそんなペテロを異邦人に福音を伝えることができるように導かれます。
10章1節をご覧ください。カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長でした。彼はどういう生活をしていましたか。
2節をご覧ください。彼は敬虔な人で、全家族とともに神様を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神様に祈りをしていました。彼は神様を恐れる人でした。また、彼は植民地の人々を愛し、多くの施しをしました。特に彼はいつも祈る人でした。道徳的にも、霊的にも素晴らしい人だったことが分かります。しかし、残念ながら彼はイエス・キリストの福音を知りませんでした。神様はそんな彼を深く哀れんでくださいました。彼にキリストの福音を知らせようとされました。神様は彼に御使いを遣わしてくださいました。御使いは幻の中で、ヨッパに人をやって、シモン・ペテロを招くように言われました。コルネリオは言われた通りにしました。そのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わしました。神様はペテロに働いておられました。
9節をご覧ください。コルネリオが側近の部下をヨッパへ遣わしたその翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころです。ペテロは祈りをするために屋上に上りました。昼の十二時頃でした。すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなりました。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになりました。たいてい、お腹が空いている時に夢見ると何が見えますか。私の場合だと食べ物ですね。ところがペテロが夢の中で見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来ました。ペテロは入れ物の中に食べ物が入っていると思ったでしょう。神様は空腹の自分にガリラヤの海辺で食べていた新鮮な魚、焼き魚などを送ってくださるかなと思って中を覗いて見たかも知れません。ところが、これは何と言うことでしょうか。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいたのです。その中には、ユダヤ人が禁じている豚、こうもり、とかげ、カメレオンのようなものがいっぱい入っていました。ペテロはこのようなものは見るだけでも吐き気が出るほどでした。ペテロは空腹であることも忘れ、もう食欲もなくってしまいました。ところが、そんなペテロに御使いからの声が聞こえました。
13節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼に「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。」ペテロは驚いて言いました。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」これはユダヤ人として当然な答えでした。ユダヤ人は律法によって徹底的に訓練された民族です。幼い時から厳しい律法を守るように教えられました。レビ記11章に記されている汚れたものには触れたり、食べたりしないように教えられました。ペテロにはその教えを守って来たプライドがありました。異邦人たちはユダヤ人が汚れていると指定しているお肉やお魚も食べていましたがペテロは全く食べなかったからです。彼は犬や豚のような物を食べないし、汚れているものも食べている異邦人を蔑視し、異邦人とつき合うこともしませんでした。
だから神様が食べなさいと言われた物を絶対的に食べるまいと思いました。そこで、彼は。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」と答えたのです。そんな彼に、再び声がありました。
15節をご覧ください。「すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」」とあります。こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられました。神様が三回もそのようになさったのはそれが非常に大切なことだったことを言ってくれます。
福音は全世界的な性格を持っています。神様はアブラハムを召される時にも「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創12:3)と言われました。イエス様は弟子達に「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)と命じられました。福音が全世界的なものですから福音を伝える人も全世界的な人にならなければなりません。グローバル人材が求められます。インドに行けば、インド人が食べている物を食べなければなりません。タイに行けば、タイ料理を食べなければなりません。そのためにはまず世界のどんな国の人々でも受け入れる広い心を持たなければなりません。ところがペテロはユダヤニズムという狭い世界に閉じ込められていました。ユダヤ人は優秀な民族だというプライドのために外国人を無視し、自分と違う異邦人を受け入れることができませんでした。神様は彼に幻を見せてくださり、彼が世界の人々を受け入れる世界的な主の働き人となるように助けてくださいました。
 ここで、入れ物の中にある汚れた動物は異邦人を象徴しています。異邦人の神様の民、聖なる国民に入れられるということです。神様は異邦人もきよめてくださいます。異邦人も信仰によって義と認められるのです。神様の義はユダヤ人でも異邦人でも差別なしにただイエス・キリストを信じる信仰による義です。神様はユダヤ人だけではなく、誰でもイエス・キリストを信じるなら、その人を汚れた罪からきよめてくださいます。それにはユダヤ人と異邦人に差別がありません。誰でも自分の罪を言い表すなら神様はその人の罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。ですから神様がきよめた人を、きよくないと判断したり、罪に定めたりすることができません。ペテロも異邦人は汚れていると思っていてはいけません。神様はペテロがそのことを悟って受け入れるように入れ物の中に異邦人を象徴する動物を入れて見せられたのです。こうしてペテロも異邦人コルネリオに福音を伝える心の用意ができるように助けられました。その後、どんなことが起こりましたか。
17節をご覧ください。ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、訪ねてきました。その時御霊から彼に「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」という指示がありました。そこでペテロは、その指示に従ってコルネリオの家に行くようになりました。それによってユダヤ人の代表としてのペテロと異邦人の代表としてのコルネリオの歴史的な出会いが成し遂げられました。彼らの置かれていた状況は全く異なっていました。ペテロはガリラヤ湖の一漁師にすぎず、あの憎むべき十字架で死んだイエス・キリストの弟子です。今やそのイエス・キリストを宣べ伝えてローマ帝国の人々を惑わしている弟子たちのリーダーです。一方、コルネリオはユダヤを支配するローマ帝国の百人隊長です。そこには何の接点も見いだせず、彼らの本来の生き方からすれば、一つの共通点も見いだすことがも不可能です。しかし、そんなペテロに聖霊は「下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。」と促されたのです。そうしてこの二人の出会いが成り立ち、歴史的な出来事になります。この出来事を通してペテロの心は広くなり、どんな異邦人も受け入れられるようになりました。
34,35節をご覧ください。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」彼は神様が人の心をご覧になる方であることを悟りました。ユダヤ人の神様だけではなく異邦人の神様でもあることを悟りました。グローバル化された世界に住んでいる私たちにとっては当たり前な話のように聞こえるかも知れません。しかし、2,000年前のユダヤ人であるペテロにとっては驚くべきことでした。では、どうやってユダヤ人と異邦人が平和を保ち、仲間になることができるでしょうか。
36節をご覧ください。で「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。」とあります。ペテロはイエス・キリストによって和解され、平和になることを分かったでしょう。イエス・キリストの福音は神様と人間、人間と人間の間を和解させる福音であることも悟ったことが分かります。人間は罪を犯して神様と不和の状態になりました。しかし、罪の赦しによって神様との隔たり、敵意、そして恐怖は過ぎ去りました。それだけではありません。人と人の間には不信感と反目、ねたみと憎しみがあって絶えず争っています。この世は民族と民族の争い、人種との争い、身分間の争い、地域間の争いなどでいつも緊張しています。その中には真の平和がありません。福音はこのようなすべての争いをなくして一つにならせる力があります。福音の中ではすべての壁が取り壊され、真に一つになることができます。ほんとうに、私たちが敵をも愛しておられたイエス・キリストの愛によって人々を愛することができます。私の罪のために十字架にかかって死なれたイエス・キリストによって私たちはへりくだることができます。そうして、人々との平和を保つことができるようになります。
 ペテロはコルネリオに福音を伝え始めました。彼はまずイエス様の美しい生涯を話しました。イエス様はガリラヤから始まって、ユダヤ全土を巡り歩いて良いわざをなさいました。また悪魔に縛れているすべての者をいやされました。それにもかかわらず、ユダヤ人はこのイエス様を十字架にかけて殺しました。しかし、神様はこのイエス様を三日目によみがえらせてくださいました。復活されたイエス様は前もって選ばれた弟子達を復活の証人として立てられました。そして彼らに命じて、このイエス様こそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神様によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われました。このイエス様を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けることができます。イエス・キリストによって病人が癒され、死んだ人が生き返らせられるのです。8年間も中風だったアイネヤが癒され、死んでいたタビタ生き返りました。
だからペテロが確信を持ってなおもこれらのことばを話し続けました。そのとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになりました。これは使徒の働きに現れている現状です。聖霊は祈っている人々に、御言葉に耳を傾けている人々に下って来られることが分かります。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚きました。
11章1-18節にはエルサレムのクリスチャン達が異邦人の間に起こった聖霊のみわざを認める場面が出ています。使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神様のみことばを受け入れた、ということを耳にしました。彼らは、ペテロがエルサレムに上ったとき、彼を非難して、「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言いました。そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言いました。
17,18節をご覧ください。「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。」とあります。

結局、ペテロとコルネリオとの出会いによってユダヤ人が異邦人を受け入れられるようになりました。神様はエルサレム教会の使徒達や聖徒達のユダイズムを取り壊してこれから起こる異邦人宣教を用意されたことが分かります。特に、神様は指導者ペテロを世界的な福音のしもべとして、グローバル人材として用いようとされました。同様に、神様は私たちにも世界宣教への期待をしておられると思います。私たちが狭い心から広い心、自己中心からグローバル的な考えを持つ主のしもべになることを期待しておられるのです。自分の中に染みついるこれまで培われてきた価値観や宗教性、民族性などを無視することはなかなか難しいでしょう。しかし、福音によって必ず乗り越えられるのだという確信を持っていなければならないと思います。ペテロとコルネリオのように、お互いに受け入れることが難しい関係であってもキリストの平和の福音によって互いに愛し合う関係を築き上げて行くように祈ります。天に国籍を持つ日本人、韓国人、アメリカ人、台湾人としての心を持って民族主義を乗り越えて行くように祈ります。常に、「イエス様ならどうなさるのか」を考えながら、世界の人々を受け入れて大胆に信仰告白をし、イエス・キリストを伝えることができるように祈ります。