2023支部長修養会第一講
イエスから、目を離さないでいなさい

御言葉:ヘブル人への手紙12:1−29
要 節:ヘブル人への手紙12:2「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」

今年もウクライナの戦争を始め、様々な出来事がありました。戦争の影響によるエネルギー高、32年ぶりの円安ドル高は一時期、1ドル150円突破する場面もありました。物価高も進み、貧しい同労者達の生活を直撃しているのではないでしょうか。また、北朝鮮が異例の頻度でミサイル発射を繰り返し、北朝鮮の弾道ミサイルが青森県上空を通過して太平洋上に落下することもありました。少し、きな臭くなったのではないでしょうか。日本を取り巻く安保環境の悪化に対処すべく、防衛予算の増加は増税の議論を呼び起こしています。新型コロナの影響もまだ残っている中、物価高や増税は私たち、信仰人の生活にも暗い陰を落としているのではないでしょうか。ただ、大変なのは経済的な面だけではありません。福音伝播、そのものが壁にぶつかっているのではないでしょうか。安倍元首相が銃で撃たれて死亡した事件を発端とした旧統一教会の問題で、教会に対する誤った認識が広まり、福音伝播の環境がかなり悪くなったような気がします。新型コロナ感染症もここ数年、福音伝播の御業に深刻な悪影響を及ぼし続けております。年々福音伝播が難しくなっていく気がします。

今日、この場に集まった同労者の中にも、経済的な面に於いて、または、家族のことで、あるいは、健康の問題で苦しんでいる方がいるのではないでしょうか。また、われわれの使命である福音伝播の御業に於いても、大きな壁にぶつかって落胆している方が多いのではないでしょうか。今日の御言葉を通して、信仰人に於いての苦難の意味を正しく理解できればと思います。
この手紙を受け取った1世紀の信仰人たちは、イエス様を信じるだけで迫害を受け、苦しんでいました。苦難の意味を正しく分からないと背教して、ユダヤ教に戻る危険性がありました。このようなユダヤ人の信者達のために、著者は、信仰生活を競走にたとえて、忍耐をもって走り続けることを勧めています。

Ⅰ.信仰の競走(1ー3)

1節をご覧下さい。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」苦難の中にいると、信仰の道がさびしい道のように感じる時があります。しかし、決して、さびしい道ではありません。著者は「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」と言っています。多くの証人たちとは我々の手本となる信仰の先輩達のことで、どんな損害と苦しみと迫害があっても途中諦めず、最後まで信仰の競走をした人々です。ここで言っている競走とはその当時、一番代表的な競走であったマラソンを意味します。彼らは忍耐を持って最後まで信仰の競走をし、勝利の冠を得た人々です。私たちにこのような多くの証人達がいることは大変大きな力と励ましになります。

それでは私たちが自分の前に置かれている競走を走り続けるためには、どんな姿勢が必要でしょうか。
まずはマラソンですから、軽い服装が必要です。1bをご覧ください。「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて」と書いてあります。ここで、重荷とは、信仰生活に邪魔となるもの即ち、世の中の心配ことと読み取ることができます。衣食住に対する心配、お金に対する心配など、また、まとわりつく罪とは、兄弟に対する憎しみ、妬み、情欲、偽り、貪欲などがあるのではないでしょうか。このような世の中の心配や罪を脱ぎ捨てる時、最後まで走り続けることができます。心配だって、きりがないし、罪は喉の渇きのようなものです。私たちが信仰生活に邪魔になるいっさいの重荷と罪をイエス・キリストの十字架の前に降ろし、真実に悔い改める時、重荷が消え去り、罪が赦されます。その時には喜びと感謝の心で満たされ、力強く走り続けることができます。

次に、忍耐が必要です。「自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と書いてあります。私たちがクリスチャンだということで友達や家族から反対されたり、疎外される時があります。また、自分の負うべき十字架が重く感じられる時もあります。世の中の誘惑に負けてしまい、自分はもうだめだと思い、座り込んでいるときもあります。しかし、難しいからといって途中諦めると何もなりません。しかし、忍耐して走り続ける時、もっと深い信仰の世界に入ることができます。忍耐は私たちの魂の救いに於いて欠かせないものです。イエス様もルカ21:19で「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」と言われました。

第三に、イエス様を仰ぎ見なければなりません。2節をご覧下さい。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」神様は信仰と恵みによる救いの道をご計画なさいました。そして、ご自分の一人子の従順、即ち、十字架の上の死と復活によって完成なさいました。このイエス様こそが、信仰の完全な手本を示してくださいました。よって、信仰の競走において目標はイエス様です。イエス様が十字架を忍ばれたのはご自分の前に置かれた喜びのゆえです。イエス様は十字架の後に来る復活と神の御座の右に着座される栄光をご覧になりました。イエス様は復活の信仰によって十字架の苦しみを耐え忍ばれました。私たちも復活の信仰がある時、十字架を耐え忍ぶことができます。ですから私たちはイエス様から目を離してはなりません。イエス様から目を離さないで、イエス様を見習うことがすべての問題を解決する鍵であり、勝利の人生を過ごせる秘訣です。

3節をご覧下さい。「あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」イエス様ほど忍ばれた方はほかにいません。私たちはこの世の悪者の故に、疲れたり、落胆しやすくなるとき、イエス様の苦難と忍耐を思い出さなければ、なりません。その時に私たちは新しい力を受けます。

Ⅱ.神様の訓練(4ー13)

4節をご覧下さい。「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。」イエス様は偽善的なユダヤの宗教指導者達から憎まれ、十字架に掛けられ、血を流して死なれました。教会の歴史を考えると血を流すまで抵抗した即ち、殉教なさった方たちも多くいることを考えると私たちの信仰の競争と苦難はまだ小さいものではないでしょうか。

5節から13節までをみると、信仰の競争には主の懲らしめがあることが分かります。12:5、6 「そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」ここで、懲らしめは神の裁きではありません。主はその愛する者を訓練します。懲らしめは神様があなたがたを子として扱っておられる証です。過去私たちはサタンの奴隷でしたがイエス・キリストの十字架の贖いによってサタンから解放され神様の子供となりました。ところが、身分は変わりましたが、内面は神様の子供らしくありません。罪の奴隷の根性が残っているのです。それで私たちには神様の訓練が必要です。このような訓練は私たちに対する神様の大きな愛の表現です。

それでは私たちが神様の訓練を受ける時、どんな姿勢を持つべきでしょうか。懲らしめを軽んじたり、弱り果ててはなりません。また、神様の愛を確信しなければなりません。神様に服従する姿勢を持つべきです。

それでは神様の訓練の目的は何でしょうか。それは、救いの完成のためです。10b節をご覧下さい。「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」霊の父親は私たちの人生全体をご覧になって完璧な計画の中で私たちの益のため、訓練されます。霊の父である神様は罪によって病んでいる内面を癒し、神様の聖さにあずからせうとして、私たちを懲らしめるのです。神様は私たちが神様の子供らしい品性を持つことを願っておられるのです。しかし、私たちの内面はいかかでしょうか。自己中心的で、一人も愛せない狭い心を持っているので神様はそのまま用いることができません。それで神様は訓練を通して私たちに神様の品性を持つようにしてくださるのです。

11節から13節をご覧下さい。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。」信仰人はイエス・キリストを信じる信仰によってすでに義と認められました。しかし、私たちの足りなさは教訓と訓練と懲らしめを通して、実際に正しく生きるようになっていくのです。義は平安をもたらします。神様の懲らしめを受けると心身ともに弱まります。例えば、受験に失敗したり、経済的に、大変な苦しみにあったりすると心身共に弱まります。しかし、イエス様を信じてから受ける苦難は意味があります。苦難を通して得るものは実に多いからです。良い性格になったのも、人の苦しみが理解できるのも、苦難から掴めたものではないでしょうか。なんだか、人間味豊かになったのも苦難のおかげではないでしょうか。ですから、苦難のとき、苦難の意味を悟り、力を失うことなく、弱った手を強くし主への奉仕に務め、祈りのために膝を真っ直ぐにすべきです。このようにすることで、自分自身だけではなくあとにつづく人々にも励ましと癒しを与えることができます。

Ⅲ.すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい(14ー29)

14節をご覧下さい。「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」平和が聖さと結びついているのを見ると、すべての人との平和は正しい事柄の範疇で求めるべきであることが分かります。正しい主義主張だとしても時には、激しい対立をもたらす場合があります。このような場合、相手が憎くたらしくなります。正しいかどうか以前に感情的になります。このようになったら、積極的に平和に解決する方法を求めるべきです。すべての人との平和を追い求めながらも、聖さを追い求める必要があるのは、神、ご自身が聖く、汚れを忌み嫌うからです。ですので、私たちが聖くなることで、主を見るということができます。即ち、主と交わることができるようになるのです。

15から17節をご覧ください。ここには背教者にならないように避けるべき3つのことが書かれております。1つ目、15a節「だれも神の恵みから落ちないように、」神の恵みから落ちる者は、信仰と悔い改めと従順を拒む者のことです。私たちはこのような者がいないように気を付ける必要があります。2つ目は、苦い根です。私たちは苦い根が生えないように気を付ける必要があります。苦い根は不平不満の根を指すのではないでしょうか。苦さは、どこにでも存在します。苦い根が生え出ると悩まされたり、不平不満を漏らすことで、その影響力を拡大します。ですから、苦い根が生えないように話しやすい、風通しの良い環境を作るべきです。3つ目は、淫らな者や俗悪な者にならないように気を付けるべきです。淫行は人の代表的な罪です。また、俗悪なものは、霊的な価値が認識できない者のことです。 一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、長子の権利はアブラハム契約の相続者になる大変な霊的な祝福です。しかし、エサウは、この霊的な権利を軽んじました。霊的な価値が認識できなかったのです。後に後悔はしましたが、真の悔い改めに至る機会が彼には与えられなかったのです。世の楽しみを愛する人は、「死ぬ前に悔い改めればいいじゃない」と考えます。はたして、世を愛する者に悔い改めに至る機会が与えられるでしょうか。

18から21節をご覧ください。「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。」神様はご自身の契約をイスラエルの民と立てるためにシナイ山に降臨しました。神様の臨在するシナイ山は恐れ多く、近づきがたい山でした。シナイ山から頂いた律法は罪人を罪に定めるものです。罪に対する神様の厳しい態度、神の裁きに対する恐れがシナイ山のもろもろの雰囲気からもよく伝わります。

22から24節をご覧ください。「しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」しかし、私たちが近づいているのは、シナイ山の恐怖より、はるかにまさった方法、即ち、新しい契約の仲介者イエス様を通して神様のみもとに近づいているのです。シオンの山と呼ばれる生ける神の都は神様とその民である新しい契約の中にいる私たちが住む永遠に揺り動かされない国です。無数の御使いたちは神様がそのしもべたちに囲まれていることを表し、神様は礼拝する群れの中に住んでおられることが読み取れます。シナイ山の恐怖と対照的に喜びの集いとなっております。長子たちの教会、ここで長子というのは信仰人は相続者であることを意味します。たとえ苦難の多いこの世に生きていてもわれわれの名前は天に登録されています。さばき主である神、この表現は終末的側面を表し、背教者と罪人への避けられない裁きを感じさせる表現です。完全な者とされた義人たちの霊とは注ぎかけられたイエス様の血によって神様との関係性が完全に回復されたことを意味します。新しい契約の仲介者イエス様に感謝します。この素晴らしい恵みに感謝いたします。

しかし、この素晴らしい救いの恵みを捨て、神様を拒む者はどうなるでしょうか。25節ごご覧ください。「あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。」神の恵みを捨て、ユダヤ教に後戻りすることは神の救いの恵みを捨て、神の御怒りを招くほかありません。新約の聖徒たちは旧約の聖徒たちよりも、もっと大きい恵みを受けています。ですから、信仰から離れないようにもっと気を付けて生活をすべきです。

26、27節をご覧ください。「あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。」シナイ山での地震は、神様の尊厳と地の不安定さを表しています。揺り動かされるものが取り除かれて揺り動かされないものが残ることは、不安定さがなくなり安定することを意味します。即ち、モーセの律法の時代とは異なり、絶対的な安定、揺り動かされる余地のない御国を意味します。

28、29節「このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。私たちの神は焼き尽くす火なのです。」アーメン。主よ。全くその通りです。人の言葉では言い表すことのできない大きな恵を与えてくださった神様に感謝いたします。永遠に変わることのない主の言葉を私たちが信じ、愛します。永遠に変わることのない御国の市民としてくださった神様の御恵みに感謝と賛美をささげます。