2023年支部長修養会 第2講
バビロン時代に勝利したダニエルの生き方
御言葉:ダニエル書6:1-28
要 節:ダニエル書 6:10 「ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。」

昨日私達は、「イエスから、目を離さないでいなさい」(ヘブル人への手紙12:2)という強いお勧めを頂きました。イエスから目を離さないことこそが主のものとしてのアイデンティティを保ち続け、この世で力強く生き、どんな時でも勝利を得る道であるからです。
この時間にはバビロン時代に生きながらも、神様から目を離さなかったダニエルの生き方について考えたいと思います。神様から目を離さなかったダニエル一人を神様がどれだけ大事にされ、用いられたのかを学ぶことができます。

1〜3節をご覧ください。ダレイオス王が他の大臣や太守よりも際立って秀でていたダニエルを立てて全国を治めさせようとしました。すぐれた霊が宿っていたダニエルは王からの絶対的な信頼を得ていました。大臣や太守たちは、ダニエルを妬みました。捕虜として連れられてきている者が、自分たちより高い位に就くのが嫌だったのでしょう。口実を見つけて、ダニエルを取り除こうとしました。しかし、国政に当たるダニエルの仕事ぶりは完璧なもので、何の口実も見つけられませんでした。すると、彼らはダニエルの「神の律法のことで見つけるしかない」(5)と考え、ダニエルを捉えるためにある法令を制定します。7節です。「今から30日間、王よ、いかなら神にでも人にでも、あなた以外に祈願をする者は、だれでも獅子の穴に投げ込まれる。」この法令は、王の署名によって変更も取り消しできないものになりました。

王がこの法令に署名したことを知ったダニエルは、どのように対応しましたか。10節を一度御覧ください。「ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。」とあります。ダニエルは、訴えられる何の口実も見つからないほど、誰よりも忠実に働いてきました。それを考えたら、バビロンの高官たちが自分を殺そうするのを見て、非常に悔しかったはずです。心は怒りに燃え上がっていたかもしれません。でも、ダニエルは彼らに向かって呪いの言葉をかけたり、喧嘩をしたりして、彼らを正そうとはしませんでした。ダニエルは死の危機に直面しましたが、慌てることなく、非常に落ち着いて、いつもと変わらない行動を取りました。彼は口を閉じていましたが、その行動は、彼の信仰について多くのことを語ってくれています。

ダニエルの使っていた屋上の部屋は、エルサレムの方角に窓が開いていたとあります。最初、家を建てる時に、窓がエルサレムの方向に向いて作られるように特別に設計したのでしょう。しかも、ダニエルは自分を訴えようとする政敵の存在を知っていたにも関わらず、しばらく窓を閉めておこうともしませんでした。なぜこれほどエルサレムに向かって祈ることにこだわったのでしょうか。

それは第1に、神の律法は政敵の作った法令よりも、絶対的な律法であることを、ダニエルがよく知っていたからです。政敵は自分たちの法令が変更されることのないように王の署名をもらいました。それは取り消すことのできないものになりました。王でさえ、それを変えることができず、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれることになります。不変で絶対的なものに見えます。それでは、神の律法は、政敵の法令の前にひれ伏すしかないのでしょうか。いいえ、神の律法に勝る法令はありません。神の律法こそが絶対的で、永遠に変わらないものです。このことを信じ切っていたダニエルにとって、この戦いは勝つに決まっている勝負でした。絶対的な神様の御言葉を信頼するなら、政敵を恐れることはありません。

第2に、ダニエルはその絶対的な神様の約束を信じて祈りました。では、神様のどのような約束を信じたのでしょうか。ダニエルは、祈る前に聖書を読み、列王記の御言葉を掴んだのではないでしょうか。そこには、エルサレムに神の宮を建てたソロモンの祈りが載っていました。「捕らわれて行った敵国で、心のすべて、たましいのすべてをもって、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖にお与えになった彼らの地、あなたがお選びになったこの都、私が御名のために建てたこの宮に向かって、あなたに祈るなら、あなたの御座が据えられた場所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの訴えをかなえて、あなたの前に罪ある者となったあなたの民を赦し、あなたに背いた、彼らのすべての背きを赦し、彼らを捕らえて行った者たちの前で彼らをあわれみ、その者たちがあなたの民をあわれむようにしてください。」(列王記第一8:48〜50)「捕らわれていった敵国で」と始まるこの祈りは、まさにダニエルの置かれていた状況そのものでした。イスラエルが繁栄を極めていた時代に、ソロモン王が将来敵国に捕虜として捕らえられる時のために祈ったことに、ダニエルは驚き、これはきっと神様が自分のために、あらかじめ備えて下さった祈りだと、確信したに違いありません。ダニエルは、15才の時に異邦の地に捕虜として連れられて来て以降、道を示してくれる先生も霊的なメンターもいませんでした。そんな中、この列王記の御言葉は、まるで進むべき道を示してくれる光のように見えたことでしょう。今なお政敵によって危機に直面してはいますが、この約束の御言葉はダニエルの心を支えました。神様がきっと救いの道を開いてくださると信じる確信を与えてくれました。日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈っているうちに、ダニエルの口からは、自然と感謝の言葉が出てきたはずです。全てを備えてくださる神様、足のともしび、行くべき道の光となる御言葉を与えてくださる神さまへの感謝の言葉があふれ出たでしょう。

私は今年の「御業報告」を書きながら、過去の報告を振り返ってみました。昨年を含めて、何度か「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」(テモテへの手紙第二1:7)の御言葉をつかんでいたことが分かりました。8年間働きながら無茶な上司に対応しないといけなかった時や、専任の道が開かれなくて恐れが生じた時に、神様はこの御言葉を思い起こさせてくださり、心を神様に向けるように助けてくださいました。また、こちらに移ってからも、神様に心を向けることにもっと心がけるようになりました。新しいカリキュラムづくりを任されるようになるなど、良い評価を受ける一方で、まだ来たばかりの新参者なのに、何が分かってカリキュラムをいじっているのかと強く批判してくる人もいました。私の出身にまで触れて攻撃してくる人もいました。私は自分が否定されたと思い、憤りを覚えました。心が疲弊してくるのを感じました。でも、怒りと疲弊した心を人にぶつけるよりは、神様にすがり、哀れみを求めました。神様が既に力と愛と慎みの霊を与えてくださったことを口にして祈ると、すべてを担っていける力が与えられ、人に対する憎しみからも自由になることが出来ました。またここで新しいことを始められた神様を仰ぎ見るようになりました。神は、その約束を信じ、神に向かって心を開いて祈るものをあわれんでくださるお方です。必ず救いの道を用意してくださるお方です。私がどんな場合でも人に対しては、口は閉じて、神に向かって心の窓を開くものになりますように、日々その努力をし続けるように祈ります。

それでは、神様はこのダニエルをどのように助けられましたか。神様は、獅子の口からダニエルを救ってくださいました。ダニエルはこう告白しました。「私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。それは神の前に私が潔白であることが認められたからです。王よ、あなたに対しても、私は何も悪いことはしていません。」(22)これを聞いたダレイオス王は全土に次のように書き送りました。「私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震えおののけ。この方こそ生ける神、永遠におられる方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救い、助け出し、天においても、地においても、しるしと奇跡を行われる。実に、獅子の手からダニエルを救い出された。」(26、27) ダニエルの神様は、政敵の法令からダニエルを救い出されました。ダニエルの神様は、バビロンの法令より勝るお方です。バビロンがイスラエルを征服し、バビロンの神々がイスラエルの神様を征服したかのように見えました。イスラエルの人々と、彼らの神様は敗北者のように見えました。しかし、神様ご自身がダニエルを救い、神様ご自身が真の神であることをバビロンの中で示してくださいました。神様がこのような大きな御業をなさるのに、多くの人は必要ありませんでした。ダニエル一人で十分でした。神様はダニエル一人を信仰の影響を及ぼすものとして、用いてくださいました。

今年、息子とルカの福音書19章を勉強していたときのことです。イエス様が弟子たちに誰も乗ったことのない子ろばを、ほどいて連れてくるように命ずる場面です。イエス様に言われた通り、弟子たちが「主がご入り用なのです」と子ろばの持ち主に言うと、持ち主は子ろばをつれていくのを許しました。イエス様はすごいなと私は思いましたが、息子の反応は違いました。「当然でしょう。だってユダヤ社会だから」と言いました。なるほど、主と呼ぶだけで、皆が神様だと分かるほど、同質性を持った社会だからこそ、可能な話だったのでしょう。ユダヤ人は、こうした同質な社会の中で、神様に仕えていました。

しかし、ダニエルが捕らわれて行ったバビロンは、どうでしょうか。「主」という言葉が全く通用しない社会です。ユダヤという集団としてではなく、個人で信仰を守っていかなければならなりません。大祭司の教えがなくても、個人個人が御言葉を掴んで生きるのです。ダニエル書の本文には「イスラエルの神」という表現は一切登場しません。「私の神」「自分の神」「ダニエルの神」という言葉が出てきています。ダニエル個人の神様、ダニエル一人を救ってくださる神様、ダニエルの人生を影響力のある者として用いてくださる神様が現れています。バビロン時代は、バラバラになっていたので、ユダヤ人にとって辛い期間でしたが、その一方で、個人が神の御言葉を慕い求め、たとえ一人であっても神の御業に大きく用いられる期間でもありました。

日本のキリスト教徒の人口は、決して多くありません。しかし、御言葉を中心に生きようとするクリスチャン文化があることに感謝致します。私たちも、今日のように一年に一度集まる機会を除けば、日本全国に散らばって、それぞれの場で神様の助けを体験しながら、生きています。職場や家族、御業の問題で心痛みながら、常に心の窓を神に向けて開き、祈り求めながら生きています。目には見えないけれども、絶対的な神の約束を信じて生きています。大きな集団ではありませんが、神様が用いるのには、これで十分でしょう。一人一人を影響力のある者として神様は用いてくださいます。それを期待して、2023年を出発できることは大きな恵みです。

私たちは、現在ダニエルのようにバビロンに住んでいるわけでありませんが、デジタル時代の今、意識的に神様に心を向ける努力をしなければ、時代の風潮に流されてしまうことに気づかされます。この3年間、コロナパンデミックの中で、社会は急速にデジタル社会へと転換しました。私たちは既にYouTube, facebook, instergram, LineなどのSNSでつながる世界の中に住んでいます。また、24時間つながるモバイルと様々なアプリ、検索アルゴリズムは、私たちの生活全般に影響を与える新しい環境を作り出しています。そして、このような新しい世界への入り口となっている私たちの小さなスマートフォンが、私たちの信仰にも影響を与えています。若者は、なんでもかんでも検索サイトに聞きに行きます。親や牧者に聞きに行くことは面倒なことのように見える時代です。検索サイトが私たちのメンターとなり、カウンセラーとなり、下手すると牧者の役割さえ果たしてしまう時代に生きています。

今年9月の支部長集まりで私のほうで紹介させていただいた『デジタルバビロン時代のクリスチャン』という本では、この時代を「デジタルバビロン」と定義していました。「デジタルバビロン」とは実際の場所のことではなく、インターネットを通して刺激的で、異教徒的で、人間の欲望が偶像になっている文化を指しています。過去バビロンに生きていたユダヤの捕虜たちのように、今日のクリスチャンは、デジタルバビロンの文化の中でどのように生きるべきかを悩み、葛藤を抱えていると、著者は分析しています。著者は、21世紀に入って以降、米国の若者の多くが教会から離れるようになったことに問題意識を持ちました。と同時に、デジタルバビロン時代においても、“強い信仰”を持ち続けている弟子たちが教会内にいることにも、気付かされました。そしてそんな“強い信仰”の持ち主たちから、行動原理を見つけ出します。
その行動原理を簡単に紹介しますと、❶クリスチャンとしてのアイデンティティを明確に確立している、❷複雑で不安定な時代の中で文化的な分別力を育てている、❸孤立と不信の時代に世代間の関係を緊密に形成している、❹自分がやっている仕事と職業に対する確固たる使命を持っている、です。若者をイエス様の弟子として育てようとしている私たちが担うべきことは、若者がこのような行動原理を身につけるように、霊的メンターの役割を担うことではないでしょうか。バビロン時代に生きながら、神のものとしてのアイデンティティを持ち続け、バビロンの文化を変える働きをしたダニエルやエズラ、モルデカイ、エステル、ネヘミヤのように、今の時代の若者がデジタルバビロンの風潮に流されることなく、神の御業に参加し、用いられるように、彼らを立てていかなければなりません。

今年は、東京だけでなく、地方の次世代も霊的につながり、成長していけるように勉強チームをつくりました。まだ小さな6人だけの集まりですが、これから他にもチームが作られ、日本全国の次世代がつながり、ともに“強い信仰”を持った同労者として成長していけるように祈ります。彼らが、ダニエルのように用いられ、デシタルバビロン文化の中でも、時代を変える霊的主人公となるように、私たちシニアが意識して環境を作り、助けていけるようにも祈ります。

今日の御言葉を通して、バビロン時代に勝利したダニエルの生き方について学ぶことができました。それは、絶対的に見える世の法令よりは、もっと絶対的で永遠に変わらない神様の約束の御言葉を信頼して生きることです。こうした信仰をもとに、どんな時でも、心の窓を常に神様に向けて開いておく生き方です。そこから出てくる確信と安心感、感謝を持って生きることです。

私は今回メッセージを準備しながら、バビロンの捕虜としてではなく、主人として生きていたダニエルの生き方に感動を覚えました。私がいるところの文化を変える主人としての働きができることを心より願います。目に見えないけれども、神の約束に根ざして生きる者として、どういう場合でも慌てることなく、いつものように神様に向かって心の窓を開いておく生き方を通して、神様がくださる勝利を得る1年を過ごせるように祈ります。