1999年 創世記第8講

アブラムの信仰を、彼の義と認められた神様

御言葉:創世記13:5-15:21

要 節:創世記15:6

「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

 先週私達はアブラムを召された神様について学びました。アブラハムの信仰は五つの段階に分けて考えて見ることができます。神様の召されを受けて信仰生活を出発した初期信仰生活と(12‐14章)信仰のおくぎを悟り、信仰によって義と認められた段階(15章)、小市民的な者から多くの国の父として変わる段階(16、17章)、神様の同労者としてとりなしの祈りをする段階(18、19章)、最終テストに合格して祝福のもととして認められる段階です。アブラハムは神様から召されてまじめに信仰生活をしていましたが、信仰のおくぎを知りませんでした。彼が信仰のおくぎを知らなかった時、彼は見える現実の世界に縛られていました。しかし、彼は神様の助けによって信仰のおくぎを悟り、信仰によって義と認められるようになりました。私達もアブラハムのように信仰のおくぎを悟り、信仰によって義と認められるように祈ります。

?.アブラムとロト(13:5-18)

 ロトはアブラハムの弟ハランの息子です。ハランが死んだ後、アブラハムは自分の息子のように思っていました。神様がアブラムを祝福して下さった時、ロトも祝福され豊かになりました。貧しい時には互いに助け合っていたのに、互いが豊かになって来ると争いが起こることがあります。そしてついに事件が起こりました。アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こったのです。恐らく牧草が少なかったので、互いに権利を主張して争そったでしょう。アブラムは、牧者たちの間の争いがやがて自分とロトの争いに発展する危険性があると思いました。彼は何とかこの争いを避けたいと考えました。そこで、アブラムはロトに言いました。8、9節をご覧下さい。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」本来ならばこの言葉は、ロトのほうから語るべきでした。アブラムはおじであり、年長者であり、アブラムの故にロトも豊かになったからです。しかし、アブラムは自分の権利を捨ててロトに優先権を与えました。これはアブラムが謙遜であったためであり、また彼が自分の富に固執せず、神様の御心を行なうことを選び取ったからです。彼は人間的な計算によるのではなく、信仰によって行動しました。アブラムは神様の祝福を信じていたので所有欲から自由になることができました。

 10節をご覧下さい。ロトはアブラムの言葉に感動され、アブラムに優先権を譲るべきでした。しかし、彼の目はすでに物質的な欲望の故に曇っていました。そのような目で見ると、ヨルダンの低地は主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていて、作物や牧草が豊富にあるように思われました。ロトは謙遜さに欠けていました。彼はアブラムの提案に対して遠慮することなく、自分の利益を中心に行動したのです。しかし、ロトが選んだソドムはどんな所でしたか。13を見ると、「ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。」と記しています。彼らは道徳的にも霊的にも非常に堕落していました。表面的には物質的な繁栄を誇っていましたが、その底には非常に大きな問題がありました。物質的繁栄は多くの場合、神様に対する不信仰と道徳的な堕落をもたらすものです。ヤコブ1:15は次のように言っています。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

 私達一人一人の歩みにおいても、いつも選択を迫られています。自分の信仰の良心を犠牲にして世俗的な繁栄の道を選ぶか、それとも表面的には愚かに見えても信仰によって主に喜ばれる道を選び取るか、いずれかです。その選択の結果は重大なものとなります。

 ロトがアブラムと別れて後、アブラムの心情はどうだったのでしょう。彼は愛する息子を失ったような悲しみがあったでしょう。神様はこのような彼を慰めてくださいました。15、16節をご覧下さい。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。」主は「北と南、東と西を見渡し」ているアブラムに約束を与えられました。またその約束の地を受け継ぐべき子孫についても、「地のちりのように」数多くすると言われました。次に主はアブラムに「その地を縦と横に歩き回りなさい」と命令しました。神様は今すぐ現実の問題を解決してくださるよりビジョンを与えられ、狭くなった心を広げてくださいました。アブラムは主の命令に信仰によって従いました。彼はその時まで住んでいた地を離れ、ヘブロンに移住しました。アブラムは、その地に主のための祭壇を築きました。これは彼が天幕生活をする不安定な生活の中でもいつも主を中心として生活をしているのを現わしています。

?.アブラムに勝利をくださった神様(14:1-24)

 当時の国際状況は複雑であり、不安でした。当時カナンには中央政府がなく、ソドムとゴモラのような都市が王国でした。小王国は自分の王国の利益のために同盟を結んだり、裏切ったりしました。エラムの王ゲドルラオメルは主導権を握り、他の国々は彼に仕えていました。当時にも強国が弱小民族を支配し、搾取していました。ところが、ソドムの王を中心とした五つの王達は連合して、12年間仕えていたケドルラオメルにそむきました。すると、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、ソドム連合軍を打ち破り、ソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行きました。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去りました。ロトは全財産を失い、奴隷になりました。ひとりの逃亡者が、アブラムのところに来て、そのことを告げました。この知らせを聞いたアブラムは何をしましたか。 

 ソドムが略奪され、ロトも捕虜とされて連れて行かれたことを聞いたアブラムは、戦いに参加することを決意しました。アブラムの戦いの動機は攻撃や侵略ではなく、自分の親類の者ロトを取り戻すことでした。彼は失われた一匹の羊を取り戻すためにいのちをかけました。アブラムは自分の家で生まれたしもべ、つまり信頼できる、よく訓練された者達三百十八人を引き連れて敵を追撃しました。彼らの戦いは奇襲作戦によるものでした。彼らは夜、敵に向かって展開し、打ち破りました。主は、主に従う少数者と共におられて戦いは勝利に終わりました。そしてアブラムはソドムとゴモラから奪われたすべてのものを取り戻しました。

 ロトは物質的であり、利己的な人でした。しかし、アブラムは彼を無条件に愛しました。ロトが危機に処せられた時、いのちをかけて戦いました。彼のために物質と時間と情熱を惜しみなく投資しました。心を尽くし、知恵を尽くしました。アブラムが少しでも自分の利益を考えていたならそのようなことは出来なかったはずです。しかし、アブラムは牧者の心情に満ちていました。神様はこのような彼を助けてくださり、アブラムに勝利を与えてくださいました。

 アブラムが戦いに勝って帰って来た時に、彼を迎えた人が二人いました。その一人はソドムの王でした。もう一人は、シャレムの王メルキゼデクでした。彼はいと高き神の祭司でした。またヘブル人への手紙によれば、彼は「平和の王」にして「義の王」です。つまり、彼は、王であると同時に祭司であって、まさに詩篇110:4にあるようにキリストの予表であると言えます。メルキゼデクはアブラムに「パンとぶどう酒」を持って来ましたが、ここにアブラムの肉体的な必要を満たすという配慮と、アブラムの労苦に対する感謝を見ることができます。彼はアブラムを祝福して言いました。19,20節をご覧下さい。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」メルキゼデクは、アブラムの今度の行動が神様の祝福されたものであったことを確信し、勝利が神様の助けによるものであることを知って、神様に栄光を帰しました。アブラムはこのメルキゼデクから肉体的な必要と霊的祝福を受けました。これに対してアブラムはすべての物の十分の一をメルキゼデクに与えました。アブラムは勝利が神様から来たことを認めて神様に栄光を帰したのです。

 アブラムは神様のしもべが言うことは聞き入れましたが、ソドムの王の提案は拒みました。ソドムの王が「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」と言いましたが、アブラムは「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」(22、23)と言いました。アブラムは、ソドムの王に誇る機会を与えるべきではないと考えました。それは、神様の栄光を汚すからです。それで彼はソドム王から「糸一本でも、くつひも一本でも」受けないことにしました。

?.アブラムに信仰を植えられた神様(15:1-21)

盾と報いである神様(1)

 15:1節をご覧下さい「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』」「これらの出来事」とは14章に記されている出来事です。アブラムは主によって大勝利を経験しました。しかし、この時、アブラムは恐れと不安の中にあったようです。なぜでしょうか。一つにはこのような戦いは霊的、肉的エネルギーを消耗します。その結果、極度の疲労を覚え、落ち込んでしまうのです。アブラムはケドルラオメルの連合軍の復讐を恐れました。また、アブラムの場合、主の恵みによって多くのしもべや財産が与えられていましたが、それが増えれば増えるほど、それを受け継ぐべき自分の子がいまだに与えられていないということが、彼に恐れや不安を与えることになったと思われます。彼は自分の信仰生活の限界を感じて天幕の中で横になっていました。

 恐れと不安の状態にあったアブラムに、主は「恐れるな」と仰せられました。この御言葉は、命令です。主の民は恐れなくてもよいというだけでなく、恐れてはならないのです。なぜなら、このような恐れや不安は不信仰から来るからです。主は恐れなくてもよい理由を語られます。「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」 

 第一に、盾である神様です。「盾」とは戦いにおける「守り」のことです。アブラムの知恵と力が彼の盾なのではなく、主御自身が彼の盾となって彼を守ってくださるので、決して恐れる必要はないのです。天地を創造された全能の神様がアブラムを守ってくださるのに誰がアブラムを害することができるでしょうか。ダビデは若い時にイスラエルの王サウルから憎まれ追われる身になりました。サウルはダビデを殺すために何度もダビデに向かって槍を投げました。また、イスラエルをくまなく捜してダビデを殺そうとしました。しかし、神様はこのようなダビデの盾となられ、彼を守り、彼をイスラエルの王として立ててくださいました。ダビデは主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、次のように歌いました。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩18:2)。世の何物も、誰も私達の真の盾となることはできません。ただ神様だけが真の盾となられます。この神様に頼る時、一番安全です。だからこの盾である神様に頼る時、何も恐れる必要がありません。

 第二に、神様は非常に大きい報いです。「あなたの受ける報いは非常に大きい」この言葉は、「主御自身こそがアブラムに与えられる大いなる報いである」と訳すことができます。アブラムは自分の姿を見て、子どもが与えられることは不可能と思われた故に不安と恐れを感じたかもしれません。しかし、何がなくとも、主御自身こそが彼の報いなのです。信仰生活をするのにおいて報いの問題は深刻な問題です。誰も損することを願いません。私達は信仰生活をしながら神様に願うことが多くあります。物質を願い、進学を願い、良い住まいを願います。信仰がある良い同労者を願い、良い羊を願い、子供を願います。自分の人生の問題を解決してくださることを願います。ところが、目に見える報いが与えられてないと思われた故に不安と恐れを感じる時があります。自分は今まで何のために信仰生活をして来たのかと思います。しかし、神様は私達の非常に大きい報いです。モーセはこの神様を信じたのでエジプトの王として受ける報いを捨てて神の民とともに苦しむことを選び取りました。ヘブル11:26にモーセについて次のように記されています。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」使徒パウロは「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)と言いました。私達に神様御自身を報いとして与えてくださったことを感謝します。

アブラムを義と認められた神様(2‐6)

 主が「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言われても現実に自分の子がいないのだから、アブラムは「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。」と不満を言いました。そして、彼は当時の習慣に従って自分の家の奴隷を相続人とすると言いました。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられました。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」(4)。主は、アブラムが家の奴隷を跡取りにしようとしているのを禁止されました。主はアブラムに「あなたの子孫」とは、「あなた自身から生まれ出て来る者」であることを確認されました。そして、彼を外に連れ出しました。アブラムは自分の中に閉じこもっていて、主のみわざを信じることができませんでした。天幕の中に閉じこもって年老いた自分を見、サライを見、そこに子供がいないという現実を見ていては、この不信仰から抜け出すことはできませんでした。それで主は彼を外に連れ出されたのです。外は涼しくて夜空には星がきらきらと輝いていました。主はアブラムに仰せられました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられました。「あなたの子孫はこのようになる。」それでは主はアブラムに何を知らせようとしたでしょうか。

 第一は、全能者にして創造主なる神様の偉大さです。主は「さあ、天を見上げなさい。」と言われましたが、これは天を創造された神様の偉大さを知るようにとの招きです。第二は、人間の無力さです。「星を数えることができるなら、それを数えなさい。」と言われましたが、これは人間の能力の限界を知らせるためです。人は神様の偉大さ、神様の計画の偉大さを究めることができません。(詩8:34)。第三は、約束を守られる主の力です。無から天を創造され、星を造られた主は、年老いたアブラムから、この星のように多くの子孫を生み出すことが出来ます。外に連れ出され、主の創造のみわざを見せられ、そしてもう一度主の言葉を聞かされた時、アブラムの思いは自分自身から離れて主御自身に向けられて行きました。絶望していたアブラムは主の言葉に従って星を数えました。夜空にきらきらと輝く星を見上げて数えるうちにアブラムの狭くなっていた心は段々広くなり、星を造られた神様の世界に入るようになりました。そして神様が天の星のように数多くの子孫を与えてくださることを信じるようになりました。

 6節をご一緒に読んで見ましょう。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」「信じた」とは「信頼した。頼った」という意味です。彼は神様を信頼し、神様に頼りました。彼は信仰のおくぎを悟ったのです。彼が神様を信じた時、内面に変化が起こりました。今まで彼の心を支配していた恐れや不安がなくなったのです。彼に実際的には何も解決されていませんでしたが、彼の心に驚くべき変化が起こったのです。

 神様はその信仰を尊く思われ、彼の義と認められました。義と認めるとは、全き者、罪なき者と認めるということです。アブラムは神様の約束を信じ切ることができない者であり、自分の信仰に絶望しました。しかし彼は、そのような者をも受け入れて下さり、御自身の約束を実行して下さる神様を見上げて信じました。パウロはこのアブラムの記事を例にとり、信仰による義について次のように言いました。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(ロマ4:5)。アブラムには咎と誤りが多くありました。私達と同じく弱くて恐れや不安に陥りました。彼の行ないのことを考えて見ると、彼は主の前で何も誇ることができません。しかし、彼は信仰の人でした。彼は信仰によって神様に喜ばれる人でした。

 (3)地に対して契約を結ばれた神様(7‐21)

 神様はアブラムの信仰を祝福され、「この地をあなたの所有としてあなたに与える」と仰せられました。しかし、現実にはカナン人たちがその地を所有しており、彼自身は、この時点ではまだ一坪の土地も手に入れていませんでした。それで彼は主に「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」(8)と主の約束の確証を求めました。すると神様は彼と契約を結ばれました。アブラムは主の命令に従い、持って来た動物を真っ二つに裂き、その半分を互いに向かい合わせにしました。これは契約の当事者がこの裂かれた動物の間を通り、もし契約に違反したならば、この動物のようにされることを承認するものでした。

 結論、神様は私達に何よりも信仰を願われます。私達が信仰の人となることを願われます。信仰の人となる時、私達は神様に喜ばれることができます。また、どんな状況の中でも勝利の人生を過ごすことができます。私達がアブラムのような信仰の人となり、義と認められるように祈ります。