2004年7Step第2講
人、神様のかたちに造られる
御言葉:創世記1:26?2:3
要 節:創世記1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
 神様が弟子修養会を祝福し、私たちをキリスト・イエスのりっぱな兵士として召してくださったことを悟らせてくださり感謝します。私たちが日々キリスト・イエスにある恵みによって強くなり、信仰と祈りによって圧倒的な勝利者の人生を生きるように祈ります。具体的に日本を愛したキリストのりっぱな兵士、ヘボン宣教師のように日本を愛し、愛の実践を通して神様を喜ばせることができるように祈ります。
 私たちはことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実を持って愛することによって神様の御心を行なることができます。神様に喜ばれ人生、自分も意味あり、価値ある人生、本当に幸せな人生を生きることができます。
ヨハネの手紙第一の2章16、17節は言います。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」そうです。本当に神様の御心を行なう者は永遠に価値ある人生を生きるのです。
私は先週、こんな話を読みました。ある金持ちが死にました。すると、彼の息子は父のお墓に短くて良い言葉を残すために一人の詩人に訪ねていきました。詩人は息子にお父さんがどんな人生を過ごしたのかを聞きました。彼は「僕の父は安らかな人生を過ごし、安らかに死にました。」と答えました。詩人は彼に三日後、来るように言いました。そして彼が再び訪ねてきたとき、彼に見せた詩はとても短いものでした。それは「生まれた。食べた。死んだ。」でした。何もしなかったから、それは間違っていませんでした。
人生はただ生まれたまま肉の欲を満たすだけで終わるなら本当に無意味な人生になってしまうことでしょう。ところが、神様は私たちをキリスト・イエスのりっぱな兵士として召してくださいました。本当に大きな恵みです。私たちはキリストのりっぱな兵士として創造的な人生を生きることができます。創造主神様は私たちをご自分のかたちに創造されたからです。では、神様が人をご自身のかたちに創造されたことの意味は何でしょうか。
?.人間創造(1:26?31)
神様の創造の中でクライマックスは人間創造です。神様は人を創造するためにあらゆる万物を先に創造されました。先々週、学んだように、神様はすべてのエネルギーの根源である光、太陽と月、夜空に輝く星、地と海と、水などすべてを創造されました。このようにすべての自然万物を創造してから最期に人を創造されました。それは人があまり大切ではなかったからではなく、人こそ最も重要な存在だからです。まるで、結婚式の時、すべての準備ができたところに美しい花嫁が登場することのようです。その時、司式者は「今日の主人公花嫁の登場です。」と言います。すると、みんなが立って「うわ!美しい。Wonderful! Wonderful!」と言いながら拍手します。このように、神様は宇宙万物と地球を創造し、人間が生きられるベストの環境を造ってからすべてのものに歓迎される創造の主人公人間を造られたのです。
 この地球は美しいものです。しかし、どんなに素晴らしい地球であってもここに人間がいなければ何の意味があるでしょうか。いくら良い建物があっても、そこに誰が住んでいるかが重要なことです。皇居が東京の中心にあるから意味があるのではなく、天皇陛下が住んでいる事実がもっと重要なことでしょう。建物より大切なのはそこに住んでいる人なのです。この地球よりもっと重要なのは、この地球の中に生きている人です。私たち人間が最も大切です。皆さんはこの世界の主人公です。創造の花であり、創造の完成、創造の栄光の冠です。最も大切な神様の傑作品なのです。このように大切な人間をどのように創造されましたか。
26節をご覧下さい。「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」とあります。この御言葉を見ると、第一日目から第五日目までの創造のし方とは違うことが分かります。他の被造物に対しては「仰せられた」、「するとそのようになった」となっています。たとえば、<「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。「大空よ。水の間にあれ。・・・」と仰せられた。するとそのようになった。>とあります。「光を造ろう」とか「大空を水の間に置こう」ということは記されてないのです。しかし、神様が人間をお造りになる前には「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と仰せられました。つまり、神様は人間を創造するに当たって、他の被造物を造る時よりも、より深く考え、特別な御旨を置かれて創造されたのです。ここに、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」とあります。「われわれ」という複数形が使われています。父なる神様、子なる神様、聖霊の三位の神様が記されているのです。父なる神様、子なる神様、聖霊の働きがあります。それぞれの人格と機能を持っておられます。そうしながらも神様は唯一の神であってそこには交わりがあります。これは神様の社会と言われます。それで神様は人間にも人間社会をくださいました。人間は交わりの中で社会生活をする存在です。何よりも神様と交わる存在です。神様はわれわれ人間をある目的に使うために造られたのではなく、永遠に交わり、祝福を分かち合うパートナーとして造ってくださいました。神様社会の特徴は一つになることです。父なる神様、子なる神様、聖霊の三位一体の神は唯一の神様です。神様は一つになることを喜ばれます。夫婦が一つになり、家族が一つになることです。教会が一致することです。なぜなら、神様は本質が一つだからです。
27節をご一緒に読んでみましょう。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」神様は人をご自身のかたちに創造されました。ここで「神様のかたち」(=the image of God)とは何を意味するでしょうか。来週勉強する2章7節によると「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」とあります。ここで、興味深いことに「息」という言葉はヘブル語でも、ギリシャ語でも「霊」を意味しているそうです。つまり、「息を吹き込まれた」という表現は神様が「霊を入れられたと訳すことができるのです。これは人間がすべての生物の中で、唯一の霊的存在であることを教えてくれます。私たち人間には神様と交わることができる霊性を与えられているのです。人間は、これによってすべてのものを支配する力が与えられていました。神様がご自分のかたちにかたどって造られた時、人間はきよく、美しく、素晴らしい存在だったのです。ところが、人間は堕落して、この神様のかたちも聖なる聖さも、善も、美しさも失ってしまいました。今日、人間はまさに獣とさして変わりがなくなってしまいました。
人間は獣と 誕生日が同じで肉体を持ち、動物的な本能をもっていますが、もともと、獣ではなかったのです。ところが、多くの人々が獣のように生きています。人間の本能を獣のように使ってもいいと言います。人間にある倫理や道徳を捨てて、獣以上でも何もないと思っています。人間を獣のように扱い、利用価値があるかどうかを計ります。お金をたくさん儲けることができれば価値があり、そうでなければゴミに過ぎないと思います。勉強ができ、能力があれば尊敬される価値があり、良い環境の中で贅沢しても良い価値があると思います。このような考えが極端的になると、核ミサイルを発射し、戦争を起こして災いをもたらす原因となります。それは人間が神のかたちに造られたという事実、この大切な人間の本質を失ってしまったからです。私たちがありのままの自分を受容し、人に対してもありのままを受け入れることが大切ですが、動物的な本能のままで生きることは信仰ではありません。教会生活をいくら長くしたとしても、自分が聖なる神様のかたちにかたどって造られた事実を信じなければクリスチャンではありません。私たちは神様が人間に特別な御旨を置かれ、聖なる神様のかたちにかたどって造られた事実を信じなければなりません。 われわれ人間は神のかたちに造られたとても尊くて尊厳な存在です。一人一人がとても大切な存在です。 その事実をよく悟った詩篇の著者は次のように歌いました。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」(詩8:4ー8)。私たちは栄光と誉れの冠をかぶらせられていたのです。ところが、この素晴らしい神のかたちは、罪のために、ゆがんでしまいました。獣の生きる惨めな存在になってしまったのです。しかし、哀れみ深い神様は、こんな人間でも愛してくださいました。ご自分の御子を遣わしてくださいました。その方がまさにイエス・キリストです。私たちはイエス・キリストを通して神様のかたちを見ることができます。何よりも、私たちはイエス様を神の御子・キリストとして信じることによって罪を赦されて救われます。 そしてその信仰によって神様のかたちを回復して人間らしく、神様の子どもらしく生きるようになります。 神様はイエス様の十字架の死と復活によって私たちに神様のかたちを回復させてくださいました。それで、聖書は次のように言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント?5:17)。ですから、私たちは獣のように生きないように気をつけなければなりません。サタンは、私たちが聖なる神様のかたちを回復しようとする努力することより動物的に、本能的に生きる下品な人間に作り変えようとします。動物はどうですか。自分の肉の欲のとおりに生きていきます。祈りも、礼拝もなく、賛美もありません。着物も要りません。しかし、私たちは、ただ肉の欲だけを満たす存在ではありません。獣ではないのです。神様のかたちに造られた美しい存在です。宝石のように輝く存在です。神様は私たちを宝石の中の宝石として造ってくださいました。それなのに、豚小屋に捨てられた宝石のようになっていてもいいでしょうか。私たちは神のかたち、現代的に言いますと、神様の遺伝子を持っているのです。私は時々、同僚から自分の子どもたちが私とそっくりだと言われます。すると、私は「自分よりもっとハンサムな顔をしているよ。」と返事しながらもうれしく思います。神様も私たちがイエス様にそっくりと言われる者になるととてもうれしく思われるでしょう。しかし、人々が私の顔を見て「狼のようだ」と言われるなら、どんなに悲しいことでしょうか。私たちの顔が鬼や犬のように見えることがないように気をつけましょう。皆さんの顔を見るとイエス様の御姿が思い出され、聖なる国民の聖さを感じるほどに変えられていくように祈ります。そのようにさせてくださる方はイエス様です。私たちはイエス様の血によって神様の遺伝子を受けるようになった人たちなのです。ですから、私たちは歩く時も王である祭司のように歩く必要があります。王様が乞食のようになってはいけません。品格のある方は歩き方も違います。この世の重荷のすべてを自分だけが負っているかのように歩かないで、胸を張って微笑みながら歩きましょう。なぜなら、私たちは神のかたちに造られた尊い存在だからです。
28節をご覧下さい。「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」とあります。人間が神様のかたちに創造されてから最初に与えられた祝福と特権は、万物を治め、支配することでした。それは自然を人間の好き勝手に、どのように扱っても良いということではありません。この御言葉に対する誤解から地球の温暖化、環境破壊といったエコロジーの問題が起こったこともあるでしょう。確かに、人間は他の被造物とは違います。豚のいのちと私の命が同じなはずがありません。だからといって他の被造物をどのように扱っても良いということはではないのです。「地を従えよ。」「生きものを支配せよ」というのは「管理せよ」と理解するべきです。人間の天地万物の主人ではなく、管理人であるということです。この世界の主人は神様だけです。私たち人間は神様が祝福してくださったこの世界をよく管理しなければなりません。私たちが管理するのに必要なすべてのものは神様が与えてくださいます。
29、30節をご覧下さい。「ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。』すると、そのようになった。」とあります。神様は人に管理する使命を与えられた後、食べる問題を解決してくださいました。多くの人々は何を食べるか、何を飲むかなどの心配のために不安の中で生きています。イエス様の弟子たちもそうだったようです。イエス様は同じ問題で心配している弟子達に言われました。「空の鳥を見なさい。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。神様は使命人の食べるものを解決してくださいます。そして、その人生を祝福してくださいます。私たちはこの世のものに支配されるのではなく、支配する者、管理する者として立てられています。私たちがこの使命をよく担うことができるように祈ります。 神様がお造りになったすべてのものをご覧になった喜びはどうですか。
31節をご覧下さい。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。」神様は創造するたびに「それをよしとされた」と所感を発表されました。ところが、第六日に人間をお造りになってからは「見よ。それは非常によかった。」「It was very good」と所感を発表されました。人が造られてからすべてのものが非常によく見えました。そこで、神様は私たちを見て極めて良かったと大満足されたのです。神様が人を造られると、すべてのものも傑作品になりました。ですから、もし人間が造られなかったなら万物は未完成の作品だとも言えるでしょう。それほど人間の存在は神様の御前で絶対的な価値と存在意味があります。ですから、私たちを造られた神様を悲しませる歩みはしてはなりません。神様にかたどって造られた新しい人を身に着けた者として、強く、雄々しくありたいと思います。
この間、LAのIsaac Kim宣教師は、自分の証をしてくださいました。彼は小学校から成績が優秀で田舎から韓国の一番名門大学ソウル大学の法科大学に入学しました。しかし、人生の意味と目的を知らなかった時はさまようばかりで勉強がよくできませんでした。大学を卒業すると、同級生たちは司法試験に合格して判事や検事になっていくのに、自分は故郷にもどるしかありませんでした。しかし、UBFに来て1週間毎日創世記を勉強してから創造主である神様を受け入れました。すると、人生の虚しさが消えて人生の意味を知るようになり、彼の人生は全く新しくなりました。生きるの意味があり、勉強することにも意味があるようになりました。すると、難関の司法試験も一年で合格したと証しました。彼はその後、検事や弁護士の仕事をしましたが、今は、過去自分のように能力があっても創造主の神様を知らずにさまよっているアメリカの大学生たちのために働いています。今も、兄弟姉妹たちに創世記を征服する者は世界を征服することができると言って創世記の御言葉を教えていると言いました。本当に、私たちが神様の天地創造、神のかたちに造られた人間創造を信じると、人生が変わります。無意味、無感動、虚しい人生から救われて神のかたちを回復し、神の皇太子として力強く自分を治め、世界を征服する人生を生きることができます。創造主神様に非常に喜ばれた者として毎日「Very Good! Wonderful!」と告白できる人生になるのです。
?.安息日をお与えになった神様(2:1‐3)
 天と地とすべての万象を完成させた神様は何をされましたか。1、2節をご覧下さい。「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。」とあります。創造のみわざは第七日目になさっていたすべてのわざを休まれたことによって完成されました。神様は第七日目に休まれたのは、疲れたからではありません。神様は六日間造られたものを楽しまれたのです。これが祝福です。神様が創造された事実と偉大な神様の御力を鑑賞し、喜び楽しむ日が安息日だったのです。私たちも安息日には神様がなさった力あるわざを顧みて感謝し、神様の恵みを喜び楽しみ日として守るべきです。すると、神様の祝福と癒しが与えられます。
3節をご覧下さい。「神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」とあります。ここで見ると、神様は第七日目、つまり、安息日祝福されたことが分かります。第一日目から始めて第六日までの創造が終わった時は「見よ。それは非常に良かった」と言われました。でも、その日を祝福したことは記されていません。第七日目だけを祝福されたのです。したがって、私たちが祝福される秘訣は神様が祝福してくださった日を熱心に守ることです。祝福された日に献身すると祝福されるようになっています。人々は祝福されることを望みながらも安息日を軽く思っています。また、貧しい時よりも、生活に余裕があり、職場生活も安定的にあると安息日を大切にしない傾向があります。しかし、続けて祝福されることを望むなら、神様が祝福された安息日をよく守ることです。神様を礼拝する民族と国は滅びません。神様を礼拝する人には神様の祝福が与えられます。教会に来て礼拝することは単純な宗教生活ではありません。創造主神様を礼拝するために来るのです。人生において神様を礼拝することほどに重要なことはありません。私たちが安息日を愛し、誠意を尽くして礼拝するなら、神様が家族の健康にも、生活のすべてにも神様の祝福があります。十分の一をささげることが経済的に祝福される秘訣であるとするなら、安息日を守ることは生活全体的に祝福される秘訣です。また、神様はこの日を聖であるとされました。私たちはこの日を他の六日間とは区別して聖なる日として守らなければなりません。イエス様のように積極的に神様を愛し、人を愛することのために過ごさなければなりません。イエス様は病んでいる人を癒してくださいました。安息日に片手のなえた人を癒してくださいました。18年間も悪霊につかれていた娘を癒してくださいました。ですから、私たちも安息日には病んでいる方たちのために祈り、彼らを訪問して顧みる生活をする必要があるのです。、
以上で私たちご自分のかたちに人を造られた神様について学びました。神様は人間をご自身に似せて造られ、栄光と誉れの冠をかぶらせました。そして非常に喜ばれました。ですから、私達はこの神様の御前で自分を発見し、神様の栄光のために生きるべきです。私達が神様に非常に喜ばれる存在、神様を喜ばせる存在になるように祈ります。