1999年ルカの福音書第6講

 

人生の突風とイエス様

 

御言葉:ルカの福音書8:22?39

要 節:ルカの福音書8:25

イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。

弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、

いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 

 今日の本文にはイエス様が突風を静められた事件と悪霊につかれた一人の青年を癒された事件が出ています。この二つの事件はイエス様が自然の世界と霊的な世界を支配する方であることを示しています。人生はよく航海に例えられます。私達が人生の航海をする間、思いがけない突風に遭う時があります。人は一生懸命に自然、悪霊、病気、死などの突風から逃れようとしています。しかし、私達はそれから逃げ切れず、いつか、つかまらなければなりません。その時、大抵の人々は恐れ、悩み、絶望します。ただ泣くよりほかにありません。それでは私達はどのようにして人生の突風を乗り越えることができるでしょうか。今日の御言葉を通して人生の突風の意味を悟り、突風を乗り越える秘訣を学ぶことができるように祈ります。

 

?.突風を静められたイエス様(22-25)

 

 22節をご覧下さい。ある日、イエス様は弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われました。それで弟子たちは舟を出しました。弟子達の中には漁師出身が何人もいたので彼らは上手に漕ぎ出して行ったでしょう。舟は気持ち良く湖の上を走りました。すると、暖かい春風が顔に当たりました。弟子達はまるで遠足に行く子供のような心になり、笑ったり、歌ったりしました。

 弟子達がこのように楽しく舟で渡っている間にイエス様はぐっすり眠ってしまわれました。イエス様は一日中御言葉を教え、病人を癒し、人々に仕えるために休む時間がなかったので、このように舟の中でぐっすり眠ってしまわれました。ところがその時、いきなりどんなことが起こりましたか。23節をご覧下さい。突風が湖に吹きおろして来たのです。ガリラヤ湖は地中海よりおよそ200メートルも低く、また、高い山に囲まれています。地中海から吹いて来る冷たい空気がガリラヤ湖の蒸し暑い空気とぶつかると、いきなりに突風が起こるそうです。この突風は全く予測することができません。急に空が暗くなり、突風が湖に吹き降ろして来るのです。弟子達は水をかぶって危険になりました。彼らの大多数は今まで何回も風と波と戦って来たベテラン漁師でした。しかし、彼らの上手な技術や豊かな経験、航海に対する専門的な知識も突風の前では無力でした。彼らは知恵をしぼっても、一生懸命になっても、どうすることもできませんでした。

 人々はいつも明るい楽しい生活を送ることを願っています。しかし、人生はいつも順調であるわけではありません。全く予測できない突風に遭う時があるのです。病気にしても、薬が発見されるとまた新しい病気が増えて行きます。こんなに医学が発達しても、病人はふえるだけで病気はなくなりません。世界では、毎日16,000人ずつエイズ感染者が出ており、感染者総数は3000万人を超えるそうです。今後、エイズによる幼児の死亡率が大幅に増加し、2010年までに平均寿命が40歳以下になる国が、9カ国もあると予測されています。人々は健康のために一生懸命になっていても、病の突風に遭う時があります。また、地震などもそうです。日本では地震に対していろいろ対策を立てていますが、阪神大地震のような自然の力の前には、人間の力はまことに小さいものであることを思い知らされました。また、死という問題もそうです。死がやって来たら、人間はどんな偉そうなことを言っていても、どんな権力を持っていても、全くどうすることもできません。その他にも事業が破産したり、リストラされたりすることもあります。ある青年は俳優になる夢を持って田舎から東京に来ました。彼はアルバイトをしながら一生懸命に俳優養成学校で勉強していました。ところが、ある日、友達と町を歩く時、いきなりに若者達に殴られて死んでしまいました。彼を死なせた若者達は警察に捕まえられて調べた結果、その青年とは全く見知らぬ人々でした。このように人々にはいつ突風が吹いて来るか分かりません。

 信仰のある人と信仰のない人は、普段はあまり差がなさそうに見えます。しかし、突風が吹いて来ると、信仰がある人とない人の差がはっきり現れます。信仰がない人は突風の前で絶望し、倒れますが、信仰がある人は絶望の中でも主に頼って立ち上がります。ですから、信仰がある人には、突風は意味があります。その突風を通してこの世の望みが偽りの望みであることを悟り、神の国に対する生ける望みを持つようになるからです。また、突風によってその人の信仰は不純物が取り除かれ、純粋な信仰を持つようになります。自分の弱さを悟り、神様に頼るようになります。突風は私達を深い信仰の世界に導き入れます。突風を通して私達は理論的な信仰ではなく、生きて働いておられる神様を信じる実質的な信仰を持つようになります。また、どんな逆境の中でも屈することがない強い信仰の勇士として成長することができます。

 静かなガリラヤ湖に突風が吹き降ろして来ると、静かな弟子達の心にも突風が吹き降ろして来ました。そこで、彼らは近寄って行ってイエス様を起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言いました。それは彼らのイエス様への祈りでした。それではイエス様は突風の問題をどのように解決されましたか。

 第一に、イエス様は、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられました。イエス様は風と荒波に向かって「黙れ。静まれ。」としかりつけられました。すると風も波も治まり、なぎになりました。イエス様の御言葉には突風も静める力があります。イエス様は突風も静められる天地万物の創造主です。ですから、私達は人生の航海の中で突風に遭うと、突風を見て恐れたりせず、神様の御言葉に頼らなければなりません。私達が神様の御言葉に頼る時、私達の心の突風は静まります。

 第二に、イエス様は弟子達をとがめられ、彼らに信仰を持つように助けて下さいました。25節をご覧下さい。イエス様は彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われました。イエス様は弟子達が突風も恐れず、信仰によって乗り越える信仰の勇士になることを願われました。弟子達は将来イエス様の後を継いで、人類の救いのみわざに仕えなければなりません。彼らが神様のみわざに仕える時、多くの突風に会うことが予想されます。彼らがこのように予想される突風を信仰によって乗り越えることができなければ、彼らは人類の救いのみわざに仕えるどころか、自分一人の信仰さえ守ることが難しくなるでしょう。イエス様は彼らがイエス様を信じる信仰によって突風をも乗り越える大胆な信仰の勇士になることを願われました。

 ジョン・ウェスレーが船でアメリカの宣教師として行く途中でした。いきなりにすさまじい嵐に遭いました。軽い船は木の葉のように翻弄され、彼はひどく取り乱されました。乗客達は生きた心地がせず、乗組員達も恐怖におののきました。ところが、モラビア派の人達は、静かに賛美歌を歌っていました。波が高くなればなるほど、いっそう落ち着いて歌いました。ジョン・ウェスレーは彼らから大きなショックを受けて新しく生まれるきっかけになりました。その後、彼は信仰によって18世紀のイギリスの道徳的な腐敗と戦いながら多くの人々を主に導くことができました。突風の訓練を通して弟子達はイエス様がこの世に来られた全能の神様であることを悟り、恐れ敬うようになりました。彼らは突風の訓練を通してイエス様の新しい姿を発見しました。弟子たちは驚き恐れて互いに言いました。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 

?.何という名か(26-39)

 

 こうしてイエス様と弟子たちは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着きました。その地方にはローマ第14軍団が駐屯していました。イエス様が陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエス様に出会いました。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいました。彼はなぜ着物を着けなかったのでしょうか。着物は人間の文化の象徴として人間を人間らしくします。人間は着物を着ることによって人間としての品格を維持することができます。反面着物は人間の行動を規制し、身分や貧富の差を表します。本文の青年は人間の文化に対する反発で着物を着けなかったかも知れません。彼は自由を願って自分を拘束していると思われるすべてのものを脱ぎ捨てました。

 また、彼は家には住まないで、墓場に住んでいました。墓場は死体が腐る匂いがし、気持ちが悪くなるところです。しかし、彼は墓場に住んでいました。彼はすべての人々との関係性を切って自分だけの世界を作って住んでいました。彼が墓場に住んでいることを見ると、彼の内面は墓場のように暗くて否定的で、運命的で、死の要素で満たされていたに違いありません。彼は光よりもやみを愛し、きよいものより汚れたものが好きでした。韓国のある先輩牧者はイエス様を信じる前に、人生が虚しくなると墓場によく行ったそうです。彼は墓場に行って自分の靴の中にお酒を入れて飲みました。そして、墓場におじぎをしながら「先輩、私もすぐついて行きます。」と言ったそうです。本文の人はなぜ家や社会から離れて一人で墓場に住んでいるでしょうか。彼は家庭や社会が自分を束縛する監獄のように思われてそこから飛び出たかもしれません。学校から帰って来ると、誰もいない家にはいたくありませんでした。父親が酔っ払って来て自分を殴ったり、母親と喧嘩することで家は憩いの場所ではありませんでした。彼は父親を憎んだあまり、家から出たかもしれません。破壊された家庭で育てられた多くの子供達が深く傷つけられ、苦しんでいます。彼らにとって家は憩いの場所ではなく、監獄のように感じられるでしょう。

 彼はなぜこのようにひどくなったのでしょうか。私達はその正確な原因はよくわかりませんが、彼が住んでいたゲラサ人の地方の環境を通して考えられることがあります。ゲラサ人の地方は神様を知らない異邦の世界です。また、そこは人間よりも豚を尊く思うほど物質中心の社会です。また、彼が住んでいたところは都市でした。都市は個人主義が強く、快楽的で、激しい競争社会です。このようなところに住んでいるとストレスがたまって、情緒不安定になることがあります。特に、彼が住んでいたところには軍人達が駐屯していました。軍人たちが住んでいるところは淫乱や暴力が満たされるはずです。たぶんそこには遊女達も多くいたでしょう。彼はこのような淫乱な雰囲気の中で好奇心によって罪を犯し、罪意識によってさいなまれ、結局狂ってしまったかもしれません。狂ってしまった人々の大多数は罪意識のためだそうです。

 とにかく、この若者は着物を着けず、誰からの干渉を受けない墓場に住んでいたので自由になったと思われます。彼は監獄のように思われた家庭や社会から離れることができました。しかし、彼は自分からは離れることができませんでした。マルコ5:5節を見ると彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。彼は自由人になりたいと思いましたが、悪霊のために自由人になることができませんでした。彼は悪霊の勢力に支配され、完全に自我を失ってしまいました。彼の根本問題は悪霊につかれていることです。悪霊につかれていたので、彼は自分の力ではどうすることもできませんでした。

 彼はイエス様を見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言いました。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエス様が、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからです。イエス様の御言葉が彼に働くと彼は激しい葛藤を起こしました。聖書を学び始め、真理の御言葉が心の中で働くと、葛藤が生じます。その葛藤は聖書の御言葉に聞き従おうとする心と今までの通りに肉の欲のままに行なおうとする心が対立するからです。ある兄弟は、「どうか私を苦しめないでください。私を一人にして下さい。」と言います。それは御言葉がその兄弟の心の中で働き、葛藤が起こっているからです。

 人々は悪霊につかれた彼を理解できず、彼を鎖や足かせでつないで看視していましたが、彼はどこからそんな力が生じたか、それらを断ち切っては荒野に行きました。鎖や足かせは彼の問題を解決するどころか、悪くさせる一方でした。今日も人々は精神病院に監禁し、薬などで問題を解決しようとしますが、問題は全く解決されません。正しい治療のためには正しい診断をしなければなりません。人々は悪霊の存在を認めないので根本的に悪霊につかれた人を助けることができません。また、悪霊の存在を認めるとしても人間の知恵や力によっては解決できません。なぜなら悪霊は人間よりはるかに強いからです。悪霊を追い出すためには悪霊よりもっと強い力を持たなければなりません。悪霊を追い出すことができるのはイエス様だけです。 それではイエス様は彼をどのように助けてくださいましたか。

 第一に、イエス様は彼から悪霊を追い出してくださいました。人々は悪霊につかれた人を見るとその人自体がだめになったと思い、希望を捨ててしまいます。しかし、医者は患者を見る時、病とその人を別にして見ます。イエス様は彼をだめにした根本的な原因が悪霊だから悪霊だけ追い出せば、その人は本来の姿を回復できると思われました。

 彼は悪霊につかれ、気が狂っていたので彼の姿は醜くなっていたでしょう。髪の毛は乱れ、体からは悪臭を放っていたでしょう。石で自分の体を傷つけたため、体は傷だらけだったでしょう。このような人とは誰も付き合いたくありません。彼は見捨てられた人でした。しかし、イエス様は彼を見捨てられませんでした。イエス様は突風を乗り越えて来られ、積極的に彼を助けてくださいました。イエス様は彼を神様のかたちに似せて造られた尊い存在としてご覧になり、悪霊を追い出して下さいました。

 第二に、イエス様は彼に名前を尋ねられました。30節をご覧下さい。イエス様が、「何という名か。」とお尋ねになりました。イエス様が彼の名前をお尋ねになったのには、二つの理由が考えられます。まずイエス様は、彼の名前を聞くことによって悪霊の正体を暴かれました。悪霊は狡猾で自分を偽装するのに天才的な才能を持っています。悪霊は人々が悪霊につかれたことを認識できないように巧妙に自分を偽装しています。イエス様はこのような悪霊の正体を暴かれるために名前を尋ねられたのです。もう一つは、彼に存在意味を悟らせようとされたことです。名前はその人の全存在を現わします。彼は悪霊につかれて自分がどんな存在であるかを知らず、自我を喪失していました。彼は自分の考えや判断によって動くのではなく、悪霊の力によって動いていました。イエス様はこのような彼に名前をお尋ねになり、神様の御前で本来の自我を発見するように助けて下さいました。人間が神様を裏切った結果の中で一番惨めなことは存在意味を失い、自我を喪失したことです。それで神様は罪を犯したアダムに訪ねて来られ、「あなたは、どこにいるのか」とお尋ねになりました(創3:9)。

 「何という名か」イエス様は彼と人格的な愛の関係性を結ぶことを願われました。彼は悪霊のため誰とも正しい関係性を結ぶことができませんでした。自分自身とも正しい関係性を持つことができませんでした。彼の関係性の問題は根本的に神様との関係性の断絶から来たものです。イエス様はこのような彼に名前をお尋ねになり、彼と正しい関係性を結ぼうとされたのです。

 イエス様が彼に名前をお尋ねになると、彼は「レギオンです。」と答えました。レギオンは六千人で構成されたローマ軍隊の一つの軍団です。それは彼の中に大勢の悪霊が入っていることを意味します。イエス様の御言葉のため悪霊どもはそれ以上彼の中にいることが出来なくなりました。それで悪霊どもはイエス様に、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願いました。ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚にはいることを許してくださいと願いました。イエス様はそれを許されたので悪霊どもは、その人から出て、豚にはいりました。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死にました。

 イエス様は一人の人間を正気に返すためになぜそれほどの犠牲を払われましたか。マルコの福音書には二千匹だと書いてありますが、それは当時の人にとって大きな財産でした。イエス様は一人のたましいを豚二千匹より尊く思われました。イエス様はいのちよりお金を愛するその時代の曲がった価値観に挑戦されました。イエス様は一人のいのちを全世界より尊く思われます。神の子イエス様が人間になられ、人の世界に住まわれたことがどんなに大きな犠牲だったのでしょうか。イエス様は悪霊につかれて苦しみ、永遠の滅亡に向かって行く私達をあわれみ、私達を救うためにご自分のいのちを犠牲にされました。罪によって死ぬべき私達のために尊い御血を流してくださいました。

 37節をご覧下さい。ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエス様に自分たちのところから離れていただきたいと願いました。彼らは豚を守るためにいのちの主を追い出してしまいました。彼らは犠牲を求めないイエス様のみを歓迎していたからです。イエス様は舟に乗って帰ろうとされた時、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願いました。しかし、イエス様は彼に使命を与えて下さいました。39節をご覧下さい。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めました。

 人は罪によってサタンの奴隷になりました。イエス様はサタンの奴隷になった人々を救うためにこの世に来られました。コロサイ人への手紙1:13節は言います。「神は、私達を暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。」イエス様は十字架と復活によって悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださいました(へブル2:14、15)。私達を悪魔の勢力から救い出し、栄光ある神様の子供にしてくださった主に感謝します。ここで私達は自分の心の家に誰を迎えるかということが、どんなに大事かがわかります。悪霊を迎える人と、イエス・キリストを迎える人とでは大きな違いが生まれます。「何と言う名か」とお尋ねになるイエス様の質問を通して、自分の名前を知り、イエス・キリストを迎え入れることができるように祈ります。

 結論、私達は人生の航海をする間、思いがけない突風に遭う時があります。そのような突風の前で恐れ、悩み、絶望するしかありません。しかし、自然も、悪霊も、病気も、死をも支配される方がおられます。その方はイエス・キリストです。イエス様はいつも私達とともにおられ、私達が天の御国の港に着くまで導いてくださいます。私達がこのイエス様を信じる信仰によって突風を乗り越え、喜びと希望がある人生を送ることができるように祈ります。