1999年ルカの福音書第18講
キリスト教の歴史観
御言葉:ルカの福音書21:1?38
要 節:ルカの福音書21:27
「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」
多くの人々は東洋の思想の影響を受けて輪廻と因果応報に基づいた歴史観を持っています。私は先週ある兄弟をSBCに導くために食事をしながら5時間近く話し合いましたが、彼の中に深く根づいている因果応報的な考え方のために話がうまく進みませんでした。しかし、聖書は人類の歴史には初めがあり、終わりがあることを明らかにしています。人類の歴史はくるくる回るのではなく、始めがあったから終りがあるのです。私たちはこの歴史を正しく認識し、終末を備えていかなければなりません。現在の位置を知り、未来に向けてはっきりした方向を持って行かなければならないのです。本文の御言葉を通して人類の歴史の流れを知り、現在の自分の位置を悟って正しい歴史観を持って生きることができるように祈ります。
?.エルサレムの滅亡(1-24)
貧しいやもめの献金
1、2節をご覧ください。イエス様が目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていました。それは有り余る富の中からの献金でした。一方そこに一人の貧しいやもめがいましたが、彼女はレプタ銀貨二つを投げ入れました。それはわずかなもので労働者が一日に働いてもらう労賃の64分の一に相当する金額にすぎませんでした。しかし、イエス様は言われました。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」
ここで私たちは献金に対する姿勢を学ぶことができます。イエス様はどれだけのお金を献金しているのかをご覧になるのではありません。イエス様は金持ちの献金に対して「有り余る中から」投げ入れたと評価されました。しかし、やもめの献金を「乏しい中から、持っていた生活費の全部」であると評価されました。これはイエス様が献金する人の心の姿勢と信仰をどんなに重要視しておられるかを明らかにしてくれます。金持ちは有り余る財産から一部分をささげました。しかし、やもめは金持ちから見るとちっぽけなものであっても真心と感謝を込めてをささげました。「生活費」の全部ということは彼女にとっていのちのようなものです。ですから、彼女は自ら進んで自分自身を捧げたのです。イエス様はまさにこのような犠牲的な心の中心をご覧になりました。イエス様は私たちが少ない金額でも心から捧げる献金、主の御業に仕える犠牲を尊く思われ、認めてくださいます。
エルサレムの滅亡
5節をご覧ください。人々は宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していました。マルコの福音書によると弟子たちも言いました。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何と素晴らしい建物でしょう。」この神殿は誰が見てもこのように感動するものでした。神殿に立ち並んでいた白い大理石の円柱、光り輝く純金で飾られた屋根と窓などは本当に素晴らしいものでした。しかし、イエス様は、ユダヤ人の誇るこの宮にも終わりがくることを予告されました。6節をご覧ください。「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」とあります。これはイエス様が宮をご覧になった観点と人々の観点がどんなに違うかを教えてくれます。人々は宮の外側を見て感動を受けました。しかし、イエス様は宮の内側、霊的な腐敗の状況をご覧になりました。腐敗の結果、やがて避けられないエルサレム崩壊をご覧になりました。神殿は神様のおられることを象徴する所です。神様と交わる所です。ですから、この神殿には神様の御言葉が生きていなければなりません。指導者は福音的でなければなりません。世界に神様の存在を知らせる、つまり宣教する所でなければなりません。ところが、エルサレムの神殿はこのような役割の一つも果たしていませんでした。指導者たちは腐敗し、礼拝は形式的になりました。神の子であられるイエス様を排斥する所になっていました。真理がなく、聖霊がおられない神殿の美しさや荘厳さはイエス様にとって何の意味もありませんでした。むしろ、霊的な観点からご覧になったとき、あらゆる罪のためにやがて破壊される神殿のために悲しみ、心を痛めざるを得ませんでした。私たちもイエス様のような観点から現実を見分ける霊的な力を持たなければなりません。そうするときこそ、現実の華やかさに誘惑されることなく、この時代を深く哀れむ牧者の心を持って人々に仕えることをできます。
イエス様のみことばを聞いていた人々はイエス様の尋ねました。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう」(7)当時、イスラエルの人々や弟子たちはみな「エルサレムの滅亡=人類の終末」だと考えていたそうです。しかし、イエス様は終末の時期や前兆よりもまず警戒すべきことが何かを教えてくださいました。
第一に、.惑わされないように気をつけなさい。
8節ご覧ください。“ イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。”終末が近づいて来ると、何よりもサタンの惑わす働きが盛んになります。サタンは人を引っ張る力を持っています。気をつけず、見分けなければ自分も知らずにこのサタンの働きに惑わされます。実際に私たちは今までどんなに多くの人たちが自分こそメシヤだと言いながら惑わして来たのかを知っています。文鮮明が再臨主だと言っている統一協会のことはしばしばマスコミで話題になってその事例に合同結婚式、霊感商法(占いや霊感による宣託をあたえて、わざわいを逃れ、幸運を呼ぶ物品と称し、壷、多宝塔、印鑑などを原価の数十倍の高価で販売する商い)、難民救援と称する募金活動などがあります。これらのことが何度も何度も放送されて惑わされた人々はそこから脱出できないでいます。オウム真理教のこともそうです。彼らが引き起こした数々の犯罪は日本社会を不安と狂騒の中へ投げ入れました。サリンによる無差別殺人事件はいまだに解決されていない状態です。また、彼らが薬物投与によって洗脳を促進した事実も明らかになっています。それにもかかわらず、人々はそこから出ようとしないし、今も人々が彼らに引っ張られて加入しています。ですから、私たちはこの終末の時に惑わされないように気をつけなければなりません。また、この時代を見分ける霊的な分別力を与えてくださるように祈らなければなりません。
第二に、戦争や暴動のことが聞こえ、自然災害が伴われます。
終末が近づいて来る時現れるもう一つの現象は戦争や暴動のうわさです。9―11節をご覧ください。「戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。」とあります。この20世紀にどんなに多くの戦争が起こったことでしょう。一昨日は広島に原子爆弾が投下されて54年目になって日でした。式典には5万人の人々が集まり、原子爆弾によって死なれた人々を哀悼しました。特に戦争を経験した人たちは戦争の恐ろしさをよく知っているので、二度と戦争が起こってはならないと言っています。しかし、戦後この54年の間にも世界中で起こって戦争は数多くあります。つい最近ユーゴスラビアのコソボ戦争が終わりましたが、それから間もないとき、韓国と北朝鮮の間には休戦以来最も大きな接戦がありました。いつ起こる知らないこの戦争のために、先週は始めて日韓海軍合同訓練がありました。もし今度南北戦争が起こったら、ミサイルの射程距離の中にある日本も引き込まれるようになるからです。日本に住んでいる私たちにとって地震のことは言わなくても実感していることです。明治以来、1948年福井地震まで死者が1000名を超えた地震(津波も含む)は10回ありましたが、学者たちによるとその地域の断層はおおむね1000年に一回程度の割合で大地震を引き起こす恐れがある活断層として認定されていました。しかし、50年も経たないうちに死者約6000名の被害を受けた大地震が起こってしまったのです。当時、マスコミは地震の安全神話は崩れたと報道しました。それはいつのこの東京にも大地震が起こるか知らないということです。戦争のことも、地震のことも聞けば聞くほど恐ろしくなります。しかし、主は「戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。」と言われました。それは、初めに必ず起こることですが、終わりは、すぐには来ないからです。これらのことは終末の前にしている私たちに警告的な意味があります。人々はこのような出来事を通して神様のさばきを感じて終末を実際に備えることができます。ですから、私たちクリスチャンは恐がる必要がありません。人類に起こっているすべての出来事は神様の主権の中にあることを信じて神様からいただいた使命に忠実であればいいです。
第三に、弟子たちが迫害を受けるようになります。
12節をご覧ください。「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。」とあります。この預言は中国やイスラム教の国だけではなく私たちのうちにも起こっています。私は先週MSU修養会のメッセージの一つを日本語に訳す恵みをいただきましたが、その中に私を驚かせた内容がありました。シカゴのDr.Joseph Chung、Dr.John Lee宣教師たちは、ただ学生たちを聖書勉強に招いたことで逮捕され、手錠をかけれられたのです。彼らは拘置所で一晩寝たそうです。キリスト教の国と言われているアメリカでこんなことが起こっているのです。この日本でもビラ配りオウム信者を逮捕していますが、クリスチャン新聞によると、彼らがマンションの郵便受けにチラシを入れただけで逮捕されるとするなら、キリスト教会が行なうトラクト配布でも逮捕される恐れがあるのではないかーという疑問が読者から寄せられているそうです。さらに、今国会では「国旗・国家」法案が成立に向かいつつありますが、「日の丸・君が代」を拒否するキリスト教会が「法律に従わない団体」と見られ、微罪でもあげつらわれて取り締まりの対象とされる可能性がないとは言えないことも記されていました。しかし、このような時であっても恐れる必要がありません。18節をご覧ください。「しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。」とあります。これは弟子たちが迫害を受けますが、徹底に神様が保護しておられることを明らかにしてくれます。神様が許されないことが弟子たちに起こることは何もないからです。ですから弟子たちは迫害の中でも耐え忍ばなければなりません。忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
第四に、エルサレム崩壊の予告。
20―22節をご覧ください。「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。」。23、24節をみるとイエス様はその時の悲惨さを思って、身重の女と乳飲み子を持つ女の苦しみを語られました。数日後には御自分が受けなければならない十字架の苦難を知りながら、むしろ信仰者たちの将来の苦しみを思っておられるイエス様を考え時、その深い愛を感動します。その時、人々は剣に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れ去られ、エルサレムは異邦人の時が終わるまで、異邦人に踏み荒されるからです。これらの預言は、実際に紀元70年ティトゥスに指揮されたローマ軍によって実現されました。ヨセフォスの『ユダヤ戦没』によると捕虜として連れ去れたイスラエル人の数は9万七千人、死者の数は百十万人に達しました。しかし、イエス様の預言の御言葉を信じたクリスチャンたちはヨルダン川を渡って行ったので救われたそうです。このエルサレム崩壊は終末に生きている私たちに二つの教訓を与えてくれます。一つは神様の刑罰は罪の結果来るものであってだれも避けれられないということです。もう一つは、神様が定められた終末の時に救われるのは絶対的にイエス様の御言葉を信じて従うことしかないということです。人々はどうして終末が来るのか、疑い、教訓を受入れようとしません。しかし、それは自己破滅を待っていることです。今こそ私たちはますます御言葉に従う生活をしなければなりません。
?.歴史の終末とイエス様の再臨(25-38)
1)頭を上に上げなさい
25節からは全人類に臨まれる歴史の終末とイエス様の再臨について記しています。この時に日と月と星には、前兆が現われます。地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩みます。人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。具体的にこれらのことを説明することは難しいですが、「天の万象が揺り動かされる」という表現を考えて見ると宇宙的な破壊現象が起こるのが分かります。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光りを放たない、全ての電気も切れている、通信もできないその日を想像して見てください。どんなに恐ろしいことでしょうか。その時、人々はそれ以上地球で住むことができなくなるでしょう。しかし、27節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」イエス様がこの世に最初に来られたのは、馬小屋に救い主として誕生したときでした。それと全く対照的に、再び来られる時は大きな権威を持ち、恐るべき審判者として来られます。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きをうちに、ご自身天から下って来られます(テサ4:16)。この来臨は世界中が認めざるを得ない明らかな形で起こります。イエス様を信じていない人々もいやおうなく再臨のイエス・キリストを見なければなりません。それでは宇宙秩序の破壊とともにイエス様が再臨されるのは何を示唆してくれますか。
28節をご覧ください。「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」とあります。終末と再臨は世の人々には審判であり恐れの時でありますが、クリスチャンたちには新しい世界、新しい秩序の創造を意味します。クリスチャンはこの世で曖昧に苦難を受け、迫害を受けました。さまざまな試練の中で頭を上げることができませんでした。しかし、イエス様は王の王として来られ、すべてのクリスチャンの頭を上げさせてくださいます。「頭を上に上げなさい」「頭を上に上げなさい」というのはどんな意味ですか。胸を張って希望を持ちなさいという意味です。世の人々はさばかれますが、クリスチャンには贖いが近づいたからです。これはさまざまな肉体の苦難を経験したクリスチャンたちがたましい贖いだけではなく、体も贖われて栄光ある自由の世界にはいるということです。苦難の中でも信仰の中心を守ったクリスチャンはイエス様の再臨とともに頭を上に上げます。永遠の世界、復活の栄光の世界に移されるのです。どんなに素晴らしいことでしょうか。この世に生きている間はしばらく苦難を受けます。弱い体のために苦しみ、悲しむときもあります。しかし、最後まで信仰によって生きたクリスチャンは必ずこのような栄光を受けるようになることを信じます。
2)いちじくの木のたとえ
29―31節をご覧ください。「それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。」」とあります。人々ははたして終末はあるのか、イエス様の再臨は本当にあるのかと疑っています。ある人々は「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」(?ペテロ3:4)とからかっています。しかし、イエス様の言われた前兆が現れたら、神の国は近いと確信しなければなりません。イエス様の言われたことが今日現れていることを見ると、主の御言葉は少しも間違っていないことがわります。イエス様は終末をいちじくの木にたとえましたが、それはパレスチナ地方にいちじくの木が多くあって、だれでもいちじくの木の芽が出ると、夏が近づいたことが分かったからです。もし日本でイエス様が弟子たちにたとえを話されたなら、「西瓜をご覧なさい。おいしい西瓜が八百屋にたくさん見えて来ると夏が近づいたことを知りなさい。」と言われたことでしょう。とりあえず、私たちは今日起こっているさまざまな出来事を通してイエス様が言われた歴史的な事実を確信することができます。ですから、この歴史の流れを知っているクリスチャンはどのような生き方をもって生きるべきでしょうか。
34節をご覧ください。「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」とあります。イエス様は終末論の全体的な結論として「よく気をつけていなさい。」と言われました。何よりも気をつけるべきことは私たちの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込まないように気をつけなければなりません。終末の時にしっかりした価値観と人生の方向がなければ肉体の快楽に従ってしまいます。深酒や麻薬に沈み込んでしまう場合もあります。就職や健康、厳しい生活などが心配になると心がこの世の煩いのために沈み込んでしまいがちです。心配が多くなると、霊的な分別力を失ってしまいます。しかし、その日は、全地の表に住むすべての人に臨むから避けることはできません。ですからイエス様は「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」と言われました。私たちクリスチャンの究極的な目標は終末の起こるすべての災いから逃れ、イエス様の御前に立つことです。すなわち、主の御前に立った時、恥じることがなく、忠実な良いしもべとして認められることです。そのためにはいつも油断せずに祈り、目を覚ましていなければなりません。どうやってそのような生活ができますか。
38節をご覧ください。「さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。」とあります。イエス様は昼は宮で教え、夜はオリーブという山で過ごされました。イエス様の生活は早い朝から御言葉を教えることから始まります。そして一日中一生懸命に教えてから夜は祈り、休まれました。このようなイエス様の生活は物質主義、快楽主義に逆らった生活です。イエス様の生活は神様の御前で油断せずに祈る生活でした。イエス様がこのように生きられたのは「はっきりした歴史観」があったからです。イエス様は現在を直視するだけではなく、未来をご覧になりました。弟子たちが神殿の美しさを見ている時、やがて臨まれる破滅の悲惨さを見て泣かれました。人々がこの世に望みを置いて快楽を求めている時、イエス様はやがて襲って来る人類の終末をご覧になりました。そして、このような時代に最も必要なのが御言葉であることを知り、朝早くから熱心に御言葉を教えられました。正しい歴史観を持っておられたイエス様は現在、今、まず、第一に何をするべきかを知り、そのために働かれたのです。
私たちも心が世の流れに沈み込まれることなく、油断せずに生きるためには歴史観を持って生活をしなければなりません。キリスト教は歴史的な宗教だと言えます。キリスト教の歴史は初めがあり、必ず終わりがあります。そして、この歴史は偶然に流れていく漠然歴史ではなく、神様の絶対主権の中で決算の時があるのです。そして、私たちが召されことも、やはり偶然ではなく、神様が救いの歴史の中で私を召されたのです。これに対する確信を持つその時、私たちは過去と未来の歴史の中で私の現在の位置を知り、未来のために正しい人生の方向を決めることができます。しかし、はっきりした歴史観がなければ現実主義者になり、利己的になります。世の快楽に心が沈み込み、将来の心配と恐れに心が沈み込んでしまいます。「何で私がここにいるのか。」「どうして、お盆休みSBCに参加しなければならないか。」と思います。また、宣教師は「アルバイトのために来たのか、羊を飼うために来たのか」「宣教のために来たのか、勉強のために来たのか」と言うようなことに心が沈み込むと心が暗くなり、虚しくなります。UBFの宣教師として召されことさえ揺れます。しかし、ピリピ1:6節をご覧ください。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」クリスチャンの人生には偶然がありません。「初めと終わり」というはっきりした歴史があるのです。神様はその中で私達一人一人を導いておられます。
結論的に私たちは御言葉を通して今日神様のみわざにおいて私たちがどの位置に立っているかを悟るようになりました。私たちは終末に向かって行く歴史の終わりの時に御言葉を伝える重大な使命を預かっています。私たちがこの使命を最後まで忠実に担い、神様の御前に勝利者として立つために、私たちの心が世のものに沈み込むことなく目を覚まして祈る人たちになりますように祈ります