2003年ルカの福音書第28講
12人を遣わされたイエス様
御言葉:ルカの福音書9:1‐9
要 節:ルカの福音書9:1,2「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」
先週、私たちは長血をわずらっていた女性とヤイロの娘を癒された出来事を学びました。特にイエス様は「恐れないでただ信じなさい。」という御言葉を与えてくださいました。この御言葉は、個人的に私の宣教師生活の中で大きな力になっていますが、先週も、やはり恐れないでただ信じるべきだということ深く体験できました。先週、二人の宣教師たちと私の同労者が病院で診察や精密検査を受けることで心配になりました。しかし、御言葉に頼って祈ったところ、検査の結果が良かったのです。神様が御言葉を持って導いてくださることを感謝します。
イエス様は「恐れないでただ信じなさい。」と言われてから3人の弟子も連れてヤイロの家に入られましたが、そこで死んでいる娘を生き返らせる出来事を見せられました。事実、今までイエス様はご自身が神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒されることを弟子たちに見せて来られました。しかし、これからはイエス様自身ではなく、弟子たちにそれをさせようとされます。弟子たちがイエス様と同じような働きを体験することによってイエス様の福音の働きが弟子たちを通して、続けられ、全世界に福音が宣べ伝えられるようになるからです。イエス様の弟子が福音を宣べ伝え、その弟子が、またその弟子が・・・と、どんどん広がっていった時に神の国の福音が全世界に宣べ伝えられて行くのです。そこで、イエス様は12弟子を選ばれ、彼らを遣わして訓練し、育てられました。
今日は、このイエス様の働きを学びます。ではイエス様は何のために十二人を選び、遣わされた目的は何でしょうか。また、遣われた弟子たちはどのような心構えを持つべきでしょうか。そして、弟子たちによってどれほどのみわざが起ったでしょうか。
この時間、御言葉を通してイエス様が私たちをこの地に遣わされた目的を学び、遣わされた者の心構えを学ぶことができるように祈ります。そうして、イエス様が十二弟子を立てられ、その十二弟子たちがまたその弟子を、またその弟子を・・・と、つながってきた小さなキリストの働きに私たちも貴く用いられるように祈ります。
?。十二人を遣わされる目的(1,2)
1節をご覧ください。「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。」とあります。今まで弟子たちは観察者としてイエス様が行なわれる働きを見てきました。彼ら自身が力と権威ある働きをしたことはありませんでした。しかし、今はイエス様が彼らに「すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けに」なりました。彼らに、このような素晴らしい力と権威を受け取られる資格があったからではありません。また彼らが求めたからでもありません。ただイエス様がご自分のご計画の中で一定期間ご自分の力と権威とをお授けになったのです。このキリストの働きによって弟子たちは医科大学を卒業しなかったたにもかかわらず、病気を直す力が与えられました。神の国の福音のために様々な人々に仕えることができる霊的な権威が与えられました。弟子たちは人間的に特別な能力があったのではありません。彼らは平凡な人たちでした。むしろ、この世の愚かな者、この世の弱い者、この世の取るに足りない者や見下されている者たちでした(?コリント1:27、28)。しかし、イエス様が彼らに力と権威をお授けになった時、彼らは力と権威ある働きに用いられるようになりました。イエス様は彼らに神様の御力を経験するように特権を与えられたのです。イエス様は彼らが神様の力を体験することによってキリストの立派な弟子として、偉大な牧者として成長する希望をご覧になりました。同様に、イエス様は私たちに対しても、ご計画の中で大きな希望を持ってご自分の力と権威とをお授けになります。そして私たちがそれを経験することを願っておられます。では、どういう働きを通してそれを経験することができるでしょうか。
2節をご一緒に読んでみましょう。「それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」弟子たちは神の国を宣べ伝え、病気を直すために、遣わされるイエス様の御言葉に従う時にイエス様から授けられた力と権威を体験することができます。イエス様は弟子たちを通して神の国が宣べ伝えられ、病人が癒されることを願われました。ご自分が働いておられるような働きを弟子たちに委ねられたのです。すなわち、彼らをいわば「Little Jesus」「小さなキリスト」となって、キリストご自身の業を担うように遣わされました。その伝道旅行に派遣されたのは、たった一二弟子です。しかし、この十二というのはイスラエルの一二部族になぞらえられる数字です。まさにイエス様は一二人によって「新しいイスラエル」を形成しようとされました。彼らをあらゆる国の人々に宣べ伝えられる神の国の福音によって形成される新しいイスラエルの土台として立てられたのです。ですから、遣わされた弟子たちの使命は第一に「神の国の福音」を宣べ伝えることです。そして、神の国のしるしとしての悪霊を追い出し、病人を直すことです。「神の国」とは、神様の支配、神様の現実の恵みと力が及ぼされる領域のことです。弟子たちはこの「神の国」を広げるために遣わされました。この世を支配している悪霊とそのしるしである病気や苦しみと戦い、それに打ち勝って神様の支配を広げることです。この神の国を広げていく戦い、それが福音の宣教です。悪霊と死と病の支配から、この世を勝ち取っていく戦い、それが福音宣教であり、弟子たちの使命なのです。この神の国を広げていくために私たちも遣わされています。
私達は様々な事情の中でイエス様を信じて救われました。私たちがサタンと死と病の支配から救われたことは、実に大きな恵みです。言うまでもなく、キリストによって救われたことだけでも大きな恵みであり、感謝です。しかし、神様は私達を救うだけが目的ではなかったのです。一人一人が救われるだけでなく、更にその一人一人が生かされて人々に遣われて行くことを願っておられます。神様は私達を救っただけでなく、神の国を広げるご計画の中で私たちの将来に対する希望を持っておられるのです。
エレミヤ書29章11節は言います。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。また、エペソ人への手紙2章10節も言います。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。
イエス様は私たちが神の国を広げる希望を持って、私たちの良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。イエス様はこのような目的と希望の中で、弟子達に力と権威を授けられました。弟子たちはまだ弱く、人数もたった十二人に過ぎませんでしたが、イエス様はこの十二人から神の国を広げていこうとされました。十二弟子によってガリラヤとユダヤ、全世界に神の国の福音を宣べ伝えられ、病人が癒されて行くことを願われたのです。実際に、12弟子はここで一定の期間、力と権威が与えられて素晴らしい神様の働きを経験しましたが、後では聖霊の力を受けて初代教会を築き上げました。また、彼らが弟子を立てた弟子たちが、弟子を立て、またその弟子たちが弟子を立てる働きが続き、今日私たちにまで神の国の福音が宣べ伝えられてきました。
そして同じように神様は、今の私たちにも、神の国の福音を宣べ伝えるように上からの力と権威が与えられています。実はとてつもない力が私たちに与えられているのです。神様が私たちの銀行の口座に大変な金額を振り込んでくださって私たちの銀行には数え切れない資金が預金されているのです。私達はそれをイエスの御名によって使う事を許されているのに、それが預金されている事を知らないので殆ど引きおろさない事が多いのです。
数年前、N宣教師は今まで知らなかった土地がお祖父さんから相続されていいたことが分かりました。それで、彼は通っていた会社を辞めて大学院に進学し、会社も作りました。彼に財産が与えられていてもそれを知らなかった時は何の意味もありませんでしたが、それを知り、それを使い始めた時、彼にとって価値あるものとなり、力となったのです。同様に私たちに神様から莫大な力と権威が与えられていてもそれを認識せず、知らなければ、何の意味も、価値もなくなってしまいます。しかし、自分に授けられた神様の力と権威を知り、信じる時、それが私たちのうちに働きます。私たちにとって大きな力と権威になります。イエス様のように力と権威ある御言葉のしもべになることも、病気を癒すこともできるようになります。ですから、私たちはイエス様から授けられた力と権威についてもっと知るべきです。イエス様は言われました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)」「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。(マルコ16:17,18)」イエス様は私達一人一人が自分に授けられた力と権威を知り、信じて小さなキリストとして、神の国の福音を宣べ伝えることを願っておられます。そして、私たちはそのような働きの中で大いなるイエス様の力と権威が自分に授けられていることをますます知り、体験できるようになります。では神の国の福音を宣べ伝える人にはどのような心構えが必要でしょうか
?。遣わされた者の心構え(3-6)
私たちは?パートで弟子たちに力と権威を与えられたこと、弟子たちは神の国の福音を宣べ伝え、病気を直すために遣わされたことを学びました。?パートでは神様の働きをする人々の心構えを学ぶことができます。
第一に神様だけに頼ることです。3節をご覧ください。「イエスは、こう言われた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。」ここで「旅には何も持っていってはならない」と命じられます。それは、どういう意味でしょうか。杖は疲れたときよりかかる旅に必要な品物です。袋は旅先で必要なものや食料をもらったとき、それを蓄えるためのものです。パンとお金は言うまでもなく、着替えの下着も必要です。ところが、イエス様はそれらを持って行かないように言われました。これは目に見えるものより、目に見えない、けれでも、生きて働いておられる神様だけに頼りなさいということです。すなわち、自分自身が神の国に生き、そこから遣わされて伝道する者は、自分自身の生活によって神様だけにたよることを表わすべきだといわれたのです。私たちの必要の一切を与え、備えてくださる神様を信じて、神様の配慮のうちに、神様への信頼のうちに生きるように命じられたのです。自分の生活のことを思い煩わないで生きる、神様に委ねきって生きることです。先行きの心配をしない、全てを備えてくださる神様に委ねて、心安らかに生きることです。神の国の民の生き方とは、既に神様の確かなご支配のうちに、神様の御手の中に生きているということを自覚して生きることです。「いつも下着二枚も持たない貧しさの中で生きなさい」ということではありません。22章35、36節を見るとイエス様と弟子たちとの会話があります。イエス様は弟子たちに言われました。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出した時、何か足りない物がありましたか。」弟子たちは言いました。「いいえ。何もありませんでした。」そこでイエス様は言われました。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」と。ですから、物を持っているかどうかということより、イエス様の御言葉へ従順と信仰が最も大切なのです。イエス様から遣わされた者は、先行きの心配を捨ててただ信じて、委ねて生きるのです。すると、神様が導いてくださいます。私は27歳の時、カバン一つ持って来ましたが、神様が必要なものをすべて満たしてくださいました。
第二に、そこにとどまることです。4節をご覧ください。「どんな家にはいっても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。」とあります。私たち人間は、本性的に自分の置かれたの状態や環境を改善しようとしていると思います。常にもっと良いものに変わること、新しくなることを望むのです。弟子たちにも村や町に行って福音を伝える時、もっと良い家に入りたい、もっと親切な方に出会うと、彼の家に行って留まりたいという誘惑が生じるわけです。また、留まっている家で夫婦喧嘩でもあったら、他の家に移したくなるでしょう。また、同じ人と長くいると飽きてしまうこともあります。それで、人々は自分を救いに導いてくれた教会であっても、教会で喧嘩のようなことが起ったり、飽きてしまったりすると、他のところに移していきます。そして、周りの人々が変わらないことが問題だと思います。そうなるのが人間の自然的な心であるかも知れません。私自身もそのように思う時が多くありました。しかし、イエス様は私たちが次の旅に出かけるまでは、すなわち他の地域に移して行くまでは、そこに留まるように命じておられます。自分のいる所で問題が起ったら、それを乗り越えるように、ちょっと難しいことがあってもそれを乗り越えて神の国の福音を宣べ伝えるように願っておられるのです。
第三に、この世と調子を合わせていけません。大切な福音を安っぽく売るような妥協をしてはならないのです。5節をご覧ください。「人々があなたがたを受け入れないばあいは、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」 これは人々に不親切にすることを許したことではありません。しかし、明確な教えは絶対的な福音のメッセージを曲げてはいけないということです。イエス様の福音には永遠のいのちと永遠の破滅がかかる権威があります。マルコ16;16をみると「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」とあります。ですから、もし、人々が歓迎しなくても、福音を伝える人は福音のメッセージを適当に変えたり、世的な方法を使ったりしてはなりません。丁寧に伝えても受け入れないなら足のちりを払い落とすべきです。しかし、これは、席をけ立てて怒ってその町を飛び出すことではありません。あくまでも彼らの悔い改めを求めての行動でなければなりません。私たちが福音を伝えても福音を受け入れないなら、その責任は受け入れない彼らにあります。
6節をご覧ください。「十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。」とあります。弟子たちは計算してみたり、ためらったりしませんでした。彼らは単純にイエス様の御言葉に従って出かけて行ってただイエス様の力と権威に頼りました。その時、神様は彼らを通して力強く働かれました。神の国の福音がガリラヤの多くの人々に伝えられて、人々は神の国の民となり、悪霊が追い出され、病気を癒されることも経験するようになりました。弟子たちは人々に福音の伝えながら神様の力を体験し、実際的な牧者生活を始めるようになりました。では弟子たちがイエス様の御言葉に従って伝道を始めた結果はどうなりましたか。
?。弟子たちによって宮殿までに広がった福音(6-9)
7-9節をご覧ください。国主ヘロデは、このすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していました。それは、ある人々が、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。」と言い、ほかの人々は、「エリヤが現われたのだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ。」と言っていたからです。ヘロデは言いました。「ヨハネなら、私が首をはねたのだ。そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」かたくななヘロデでさえイエス様に会ってみようと思うほどになりました。ここで、遣わされた弟子たちによる福音の働きがいかに力強く起っていたのかが分かります。たった十二人の小さなキリスト(Little Jesuses)たちの働きがガリラヤを始め、宮殿にいるヘロデ王までも広がっていったのです。ヘロデ王がそれらを聞いた時は戸惑い、死を恐れるようになりました。彼は義人ヨハネを殺した時は、死ですべてが終わったと思っていました。しかし、イエス様の復活の力が弟子たちを通して働いた時、ヘロデは死がすべての終わりではないことを悟り、ヨハネがよみがえったかも知らないと思うようになりました。彼は王座に座っていても罪を悔い改めなかった時、恐れと不安にさいなまれていることがわかります。神様の裁きは正しいです。悪に対しては必ずさばかれます。ですから、悪魔と悔い改めないヘロデ王にとって神の国が近づいてくることは良い知らせではありませんでした。しかし、神の国の福音を受け入れる人たちには良い知らせです。福音を受け入れて信じる者は平安と喜びの中で生きるようになるからです。
以上で、私たちはイエス様が弟子たちに力と権威とをお授けになったことを学びました。そしてイエス様は神の国の福音を宣べ伝え、病気を直すために彼らを遣わされました。単純に従順によって彼らは出て行って神の国の福音を宣べ伝えました。そして、神様は彼らを通して力強く働かれました。短い期間に神の国の福音がガリラヤ全地域に広がるようになったのです。私たちは明日バイブルアカデミーを用意していますが、力強い神様の働きがありますように祈ります。どうか、私たちひとりひとりが1:1聖書勉強を通して最優先的に神の国の福音を宣べ伝える生活に励むことができるように祈ります。どうか、神の国が広がり、日本が祭司の王国、聖なる国民となるように祈ります。