2003年ルカの福音書第30講                   
神のキリスト
御言葉:ルカの福音書9:18-27
要 節:ルカの福音書9:20「イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」

先週、私たちはイエス様が五つのパンと二匹の魚を祝福して男だけで五千人も食べさせられたことを学びました。イエス様はこのようなメシヤ活動を通して弟子たちにご自分のことを啓示し、キリストの働きを体験するように助けられました。
そして、今日の御言葉では、弟子たちにご自分に対する信仰告白を求められました。ペテロは弟子たちを代表して「神のキリストです。」と告白しました。それは素晴らしい告白でした。そこで、イエス様はキリストとしてご自分の道、キリストに従う弟子の道について教えてくださいました。 この時間、聖霊の働きによって私たちもイエス様に真実に信仰告白をし、イエス様について行く弟子としての心構えを新たにすることができるように祈ります。

?。ペテロの信仰告白(18-22)
18節をご覧ください。「さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。『群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。』」とあります。イエス様はひとりで祈っておられました。著者ルカはイエス様がひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいたことも記しています。隣の人々は祈っていないのにひとりで祈ることはやさしくありません。しかし、イエス様はひとりで祈られました。イエス様は静かなところに行ってひとりで祈ることに励んでおられました。特に重要なことが目先にある時はますます祈りに励まれました。イエス様は祈りを通して福音のみわざに仕える力と知恵を受けて神様とともに働かれました。
では、イエス様は何のために祈られたのでしょうか。よく分かりません。具体的な内容が記されていないからです。しかし、イエス様の質問から考えてみると、弟子たちがイエス様のことを正しく知ること、信仰告白のために祈られたと思います。イエス様について正しく知ることはとても大切なことです。ヨハネの福音書17:3節を見ると「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあります。イエス・キリストを知ることは永遠のいのちとかかわっているのです。ところが、イエス様について正しく知ることは学校の勉強によって得られる知識ではありません。神様の助けがなければ悟ることも、知ることも、告白することもできません。イエス様は人間の知恵と知識によって知ることができないのです。上から神様を知るための知恵と啓示の御霊が臨まれなければなりません。それゆえ、イエス様は弟子たちの霊的な目が開かれるように切に祈られました。おそらくエペソ人への手紙1章17節にあるように「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」と祈られたことでしょう。ここで、私たちも聖書勉強が単なる知識的な勉強にならず、イエス様を正しく悟り、正しく知るために祈らなければならないことを学びます。どうか、神様が神様を知るための知恵と啓示の御霊を、私たちの上に与えてくださるように祈ります。
イエス様は祈られた後、弟子たちに『群衆はわたしのことをだれだと言っていますか』と質問されました。群衆はイエス様をどんな方として知っていましたか。19節をご覧ください。「彼らは、答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」」とあります。ある者たちは、イエス様をバプテスマのヨハネと言っていました。確かにヨハネは立派な人物でした。しかし、彼はメシヤの先駆者にすぎませんでした。ある者はエリヤどと言いました。エリヤは旧約の偉大な預言者であり、マラキ書においてはメシヤの先駆者として再び現われると言われていました(マラキ4:5)。しかし、彼もメシヤではありませんでした。またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだと言っていました。つまり、彼らはイエス様を偉大な人物であると考えていましたが、メシヤとしては考えていなかったのです。
 現代でも人々はイエス様を偉大な人物として考えています。イエス様を偉大な宗教的指導者のひとりと見る人々もいます。不治の病を癒した偉大な医者であり、卑しい漁師たちを人類の大先生として育て上げられた偉大な教育家であると見る人々もいます。確かにイエス様は歴史上、最も偉大な人物であることは間違いありません。しかし、そのような観点からイエス様を見ている限り、イエス様の真の姿はつかめません。イエス様を単なる偉大な人物として尊敬される対象ではなく、心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして愛するべき礼拝の対象であられるからです。そこで、イエス様は同じ質問を今度は弟子たちに向けられました。
 20節をご一緒に読んでみましょう。<イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」> イエス様は弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられました。これは個人的な答えを求める質問です。伝道する時、宗教について聞いてみると「うちが仏教だから、ぼくも仏教かな。」という人が多くいます。しかし、親がクリスチャンだから自分もクリスチャンになるようなものではありません。イエス様は、私たちに、人々がどのように考えていようか、あなたはわたしをだれだと言っているかを問われるのです。イエス様は、私たちがイエス様に対して個人信仰を持つことを願っておられます。イエス様は今日でも、私たち一人一人に対して、「あなたは、わたしをだれだと言いますか。」と問い掛けておられるのです。そして、この福音書全体が語っていることも、すべてはこの質問によって要約することができます。皆さんはこの質問に対して、何と答えるでしょうか。
 イエス様の質問に対してペテロはいち早く口を開き、「神のキリストです。」と答えました。これはまことに明快な答えです。イエス様が弟子たちを選び、訓練した目的は、彼らがイエス様を「キリスト」として知り、信じて、その信仰を広めるためでした。ですから、ペテロが弟子たちを代表してこの信仰告白をしたことはイエス様の目的の第一段階が達成されたということになります。では「神のキリスト」という告白が意味することは何でしょうか。
「キリスト」とは、もとの言葉では「油注がれた者」という意味です。旧約聖書では王、預言者、祭司の職に就く時に油を注ぎました。ですから、「神のキリスト」とは神様が油を注いで立てられた王であり、預言者であり、祭司であるという意味です。当時ユダヤには、「王・預言者・祭司」であるメシヤ(キリスト)が来られるという考えが定着していました。ですから、ペテロはユダヤ人が待っていた「キリスト(メシヤ)」として、王の王、主の主として告白したわけです。弟子達は人々が考えている偉大な自分として考えに留まらず、「神様が油を注がれ方」と知り、信じなければなりません。弟子には「神様の全ての権威と権限を持った方」、「私達が永遠に従うべきお方」としての認識が求められています。つまり、イエス様は弟子たちに王の王・主の主として認識して欲しいと願っておられるのです。それに、ペテロは、「あなたがその方であると信じます」と告白した訳です。イエス様はその告白に満足されました。
この信仰告白は、救いとかかわる大切なことです。ローマ10:9節は言います。<なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。>イエス様をキリストとして告白したことは、どんなことがあってもイエス様に従うと言う決断です。キリスト教はこの信仰告白を土台としています。二千年のキリスト教の歴史をささえてきたものは何でしょうか。イエス様を「神のキリスト」であると告白する信仰以外の何ものでもないのです。数多いクリスチャンが自分の国から追放され、殉教したのはなぜでしょうか。イエス様がキリストであるという信仰を固く守るためです。今日でもイスラム教の国々ではイエス様を「キリスト」として信仰告白したことだけで追放され、処刑されています。殉教しているのです。
今日、日本では信仰告白のゆえに、追放され、殉教することはありませんが、多くの殉教者たちの信仰告白があったことを忘れてはならないと思います。1549年、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられてから数多い信仰の先祖たちが殉教しました。徳川家康は1612年に禁教令を発表しましたが、当時数多い宣教師と信者たちが逮捕され、追放され、殺されました。徳川時代300年間も「寺請制度」、「踏絵」「五人組制度」「キリシタン遺族調査」などを通して徹底に弾圧されました。このような徹底した弾圧と迫害の中でも私たちの信仰の先輩たちは信仰告白したために30万人のクリスチャンが殉教されました。このように信仰告白する時、迫害と損害、痛みが伴われます。今は江戸時代のように酷くなくても、未信者の社会生活の中で信仰告白することはやさしくないことでしょう。それで、寺田祐一牧師によると「今でも数多い日本のクリスチャンは教会に出席しながらも家には仏壇か神棚を置いているし、自分たちが所属している集団に対して罪意識を持っているまま教会生活をしている」そうです。しかし、人を恐れて信仰告白ができなければ、その人は決して救われることがなく永遠の破滅に至ります。信仰告白のために殉教した多くの先祖たちの前でも恥ずかしいことです。私たちは信仰告白を通して救いを得ることができます。ですから、私たちの信仰の先輩たちは徳川時代の激しい迫害の中でも信仰告白をしました。そして、そのような信仰は人間が考え出したものではありません。神様から与えられるものです。聖書は、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」(?コリント12:3)と述べています。もちろん、聖霊はご自分の主権的に働かれますが、弟子たちを通して考えてみると、イエス様を学び、御言葉に従うところに聖霊の働きがあったことを学ぶことができます。弟子たちは病気が癒され、パンを食べて満足する群衆とは違いました。彼らがイエス様と寝食を共にしながらイエス様を人格的に学び、御言葉に従う生活をする時、聖霊によってキリストを正しく知り、正しく悟って信仰告白ができました。彼らは個人的であり、人格的に、また体験的にイエス様を学び、聖霊によってイエス様が神のキリストであると告白するに至ったのです。ところが、イエス様は「このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられ」ました。それには、幾つかの理由があったと思います。一つは弟子達がまだイエス様に対しての理解を十分にしていなかったことがあると思います。弟子たちはイエス様を神のキリストとして告白しましたが、イエス様が十字架と復活によるキリストとしては、まだ十分に認識していなかったのです。そこで、イエス様はキリストの道を教えてくださいました。
22節をご覧ください。<そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」>
イエス様は必ず多くの苦しみを受け、宗教指導者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないと言われました。イエス様は「必ず」と言って十字架の道は必ず通らなければならないキリストの道であることを明らかにしてくださいました。イエス様は人々から嘲られ、尋問され、鞭に打たれます。イエス様は私たちの罪のために一時的であっても神様にまで捨てられる経験をします。ついに、十字架にかかって、死なれます。しかし、苦しみと死によってイエス様のご生涯が終わったのではありません。死後には輝かしい復活の栄光が待っています。イエス様は苦難を通して栄光に至る道を歩まれるのです。これがキリストの道です。このキリストの道こそまことに命と栄光を得る道です。
キリストがこの苦しみの道を歩まなければならなかったのは、人間の罪のせいです。罪は恐ろしいものであってその代価として死を要求します(ローマ6:23a)。人間は罪のために多くの苦しみを受け、辱められ、ついには血を流しながら死ななければなりませんでした。神様はこんな人間を哀れんでくださり、イエス様を贖いの代価として遣わしてくださいました。そしてイエス様は私たちの身代わりとなって重い十字架を背負われました。十字架上で御血を流してくださいました。それによって私たち人間の罪を贖ってくださいました。そしてイエス様は死者の中からよみがえられて死の問題を解決されました。イエス様はご自身の苦難と死、そして復活を通して私たちを暗闇の世界から救い出してくださったのです。これは私たちを愛される大いなる愛のゆえです。イエス様はご自分の道を教えてキリストに従う弟子の道も教えてくださいました。

?。弟子の道(23-27)
 23節をご覧ください。「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。イエス様はみなの者がイエス様に従うように強制的に言われませんでした。また、特別な人たちだけに弟子の道を教えられたのではありません。イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら・・・」と言われました。ですから、私たちがイエス様について行くか、行かないかは私たちの自由です。しかし、イエス様について行きたいと思うなら、「自分を捨てなさい。そして日々自分の十字架を背負って、従いなさい。」。「もしあなたが、神様の愛に応えて、神のキリストに従いたいなら、自分を捨てて、日々自分の十字架を背負って従って来なさい。」と言われたのです。自分を捨てるとは、何でしょう。生れながらの私たちにとって、最も難しいことは、「自分を捨てる」ことですが、それは自分に死ぬことです。しかしそれは単に、自己を否定する、自分のしたいことをやめて自己を抑圧する、自分をいやしめるということではありません。自分の主張や願望を捨てて、神様の言葉と、自分に対する神様の期待を、第1に優先するということです。私達は自分のやりたい事、自分の願いではなくて、まず「神様あなたは何を願っておられますか?何をなさろうとしていますか?」と祈って、神様を第一に求めなければなりません。そして私達は自分のプライドや、ねたみ、嫉妬、憎しみや恨みなど色々なものに日々死んでいくことです。
 また「日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とあります。では、十字架とはなんでしょう。ここで、イエス・キリストの十字架を考えてみたいと思います。キリストの十字架は、私たちのためのものでした。キリストはご自分のために十字架にかかられたのではなく、私たちのため、つまり他者のためでした。十字架とは他者のためにかけられるものです。自分のためではありません。自分のための苦しみではなく、他者のための苦しみ、他者のために労苦することです。他者の労苦を共に背負い、苦しみを分かちあうことです。しかもそれが「自分の」と言われるように、一人一人に与えられています。キリストは私たちのための十字架を、神様から与えられて背負われました。神様から「私のもの」として与えられた十字架があります。人のために苦しみ、悩み、その労苦を共に背負うこと、それがこの十字架なのです。
神様が私たちそれぞれにふさわしい「自分の十字架」を与えてくださいます。もちろんそれは「日々」と言われるように、日々の労苦です。イエス様には人類の罪を背負う十字架が与えられていましたが、私たちにはまず家族のための思いやりや励ましであり、困っている隣人のための親切さのようなものがあります。助けと励ましを必要とする兄弟姉妹のための祈りです。これらはクリスチャンとして当たり前のことのように思うかもしれません。しかし、十字架と言いうる重荷であり、犠牲であり、労苦です。人のために十字架を負う事はやさしくありません。しかし、キリストが私たちのために身代わりとなって、私たちの苦しみを苦しまれたのです。ですから、私たちも隣人のためにその人の身代わりとして、その人の苦しみを自分の苦しみとし、代理の苦しみを背負います。それはその人以上に苦しむことであるかもしれません。それを日毎に背負っていくのです。その十字架が、神様から来たものであることを忘れてはなりません。神様は私たちが耐えられない苦しみにあわせることのない方だからです。
 そして私たちは本性的な自分の捨て、自分の十字架を負って神様の御心に生きようとする時、新しい自分に生まれ変わって行きます。そのために神様は、私たちの日常の生活の中に、訓練を与えておられます。心磨り減らすような人間関係を置かれます。それによって私たちの古い自分が死に、神様に生きる新しい自分として造り変えられていくためです。この「自分の十字架」を背負って、主についていく者だけが、主に従う者です。キリストの弟子です。弟子の道は安易な道ではありません。十字架と言われるほどの苦痛と重荷の道です。しかしそれに従って行った者だけが知る、それは十字架を経て復活があります。苦難を経て栄光と喜びがあるということです。苦しめるための十字架ではなく、喜びと恵みに至らせるための十字架です。私たちがその十字架を日々、新しい思いをもって担い、背負っていくことができるように祈ります。
24節をご覧ください。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」この御言葉は逆説的ですが、真理です。人々は自分のいのちを尊く思います。事実、私たちのいのちはこの世界の何よりも尊い存在です。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。私たちはたった一つのいのちを何のために使うことがもっと有益になるかを深く考えてみる必要があります。私たちの人生は短いです。私たちの人生は試行錯誤する時間的な余裕がありません。人が自分を失わないために力を尽くすことが賢く見えますが、過ぎ去ってみると何も残らず、結局は自分さえ失うようになります。しかし、真理を知るために自分の夢を捨て、若さを犠牲にし、自分のすべてを失う者は地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ一粒の麦のように豊かないのちの実を結ぶようになります。神の人たちは、自分を守り、取り集めることによって偉大になったのではありません。自分を捨て、自分を失い、過去の自分から離れることによって偉大な足跡を残しました。モーセがエジプトの皇太子の身分を失った瞬間、神の人になりました。モーセがエジプトの宮殿を捨てて出て行った時、永遠に輝く自分となりました。ペテロとヨハネ、ヤコブが何もかも捨ててイエス様に従った時、人類の大先生になりました。永遠なるもののために永遠ではないものを捨てて、永遠にあるもののために永遠ではないものを失うことは決して愚かなことではありません。両手を握っていると何ももらうことができません。本当に恵まれ、祝福されたい人は両手を開かなければなりません。空手の上に神様の恵みが臨まれるからです。何よりも主のために自分を捨て、自分を失う者の人生は主が責任を持って下さるし、祝福してくださるから、結果的にはすべてを得るようになります。
26節をご覧ください。「もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」イエス様のために生きるのではなく、自分のために生きている人はイエス様と御言葉を恥と思います。そのような人は、やがてイエス様が栄光を帯びてさばき主として来られる時に辱められるようになります。致命的な恥を受けるようになります。

結論的に、イエス様は神のキリストです。だれでもイエス様について行きたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負ってイエス様について行かなければなりません。私たちがイエス様のために自分のいのちを失うとき、永遠のいのちを得るようになります。私たちがこの時代にキリストの弟子として日々自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従っていのちと栄光に至る道を歩むことができるように祈ります。