2004年ルカの福音書62講
みこころのとおりにしてください
御言葉:ルカ22:39-62
要 節:ルカ22:42「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
先週、私たちはどんな人が偉い人なのかについて学びました。私たちの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになる人です。私たちは皆若いと言えるでしょう。若い者だから本物の若者として偉い人と言えるでしょうか。そうではないでしょう。なぜなら、年は若くても老人のような人もいるし、老人でも若者のように生きている人もいるからです。ほんとうに偉い人は年を取っても、老人になっても一番年の若い者のようになって謙遜に学び、働き、成長する人なのです。どうか、私たち一人一人がいつも若者のようになって真に偉い人として生きることができるように祈ります。
今日の御言葉はイエス様が逮捕される前日の夜、オリーブ山に行って祈られたことです。イエス様は神の御子ですが、同時に完全な人間です。私たちと同じく悲しいときには悲しみ、苦しいときには苦しまれる方です。イエス様は人間として神様の御心に従い、悲しみ、苦しみ、恥辱の十字架を負うために祈られました。そして祈りによって苦しみを乗り越えて、悪魔に打ち勝ちました。しかし、弟子たちは祈りませんでした。その結果、彼らは霊的な戦いにおいて負けました。ユダも、ペテロも誘惑に陥ってしまいました。私たちも祈っていなければ誘惑に陥ってしまいます。ではどのように祈るべきでしょうか。
この時間、イエス様の祈りを学び、実践することによって誘惑に陥ることなく、霊的な戦いにおいて勝利者となるように祈ります。祈りによって神様のみこころに従い、自分の力以上のこと、素晴らしい神様の働きも経験していくことができるように祈ります。
?.わたしの願いではなく、御心のとおりにしてください(39-46)
39節をご一緒に読んでみましょう。「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」とあります。「それから」とありますが、37、38節の御言葉につながっています。イエス様は弟子たちに「『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いていることが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します」と言いました。これはイザヤのメシヤに関する預言が実現することです。イエス様は罪人を救うために罪人の中に数えられて逮捕されます。その後には、重い十字架の苦難と死が待っています。イエス様はそれらのことが実現すると言われたのです。ところが、弟子たちはイエス様が罪人の中に数えられて逮捕される時は、剣で戦おうとしていたようです。彼らは「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」と言いました。彼らは剣によって苦難に立ち向かおうとしました。しかし、イエス様は苦難に向かおうとされる時、どうされましたか。もう一度39節をご覧ください。イエス様は出て、いつものようにオリーブ山に行かれました。イエス様は十字架の苦難が迫ってきたとき、いつものようにオリーブ山に行かれたのです。この山は、イエス様がしばしば行かれた所です。いつものように祈っておられた所です。イエス様はこの地上で弟子たちと過す最期の夜も、このオリーブ山に行かれました。そこで、イエス様何をなさいましたか。
40節をご覧ください。「いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。」とあります。イエス様は十字架の苦難に立ち向かおうとする時、弟子たちに命じられたことは祈りでした。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」ということです。この世にはさまざまな誘惑が多くあります。アダムとエバの時から誘惑がありました。テモテ2:14節を見ると「また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。しかし、女が慎みを持って、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。」とあります。人類の先祖アダムとエバの時からサタンの誘惑、惑わしがあったのです。サタンがユダにはいった時、彼は誘惑に陥ってしまいました。金銭を愛する心のために誘惑に陥ってイエス様を裏切り、イエス様を売ってしまいました。サタンは常に私たちも誘惑しています。金銭を愛する者だけでなく、自分を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、怠け者、快楽を愛する者になるようにキリストの弟子たちを誘惑します。何よりもサタンは苦難の十字架を避けるように誘惑します。十字架を負わないご利益信仰を持つように誘惑します。ですから、私たちは誘惑に陥らないように祈っていなければなりません。イエス様は、弟子たちがいかなる誘惑にも陥ることなく、神様の御心に従い、キリストの弟子の道をまっすぐに歩んでいくことを望んでおられます。そして、イエス様が歩まれた十字架の道を歩むために最も必要なことは祈りです。弟子として生きるために最も大切なことも祈りです。誘惑に立ち向かう時の力は、神様から与えられます。私たちは神様から与えられる霊の武器を身にまとわなければなりません。それが祈りです。そこで、イエス様は「祈っていなさい。」と命じられました。そして、イエス様ご自身から祈り始められました。
41節をご一緒に読んでみましょう。「そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。」イエス様は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れていきました。これは二つのことを示唆してくれます。一つはイエス様が祈りの時間と場所を重んじられたことです。ルカは、イエス様がしばしば祈りのために退かれたことを伝えています(5:16、11:1)。もちろん、祈ることはいつでも、どこでもできることです。しかし、イエス様は祈る時間を大切にして特別な場所を取って置かれました。それほどに、祈りを重んじられたのです。二つ目は、弟子たちがイエス様の祈りの姿勢を学ぶことを願われたことです。石を投げて届くほど離れて所は弟子たちがその祈りの姿に触れることができるほどの距離です。もちろん、弟子たちは今までもイエス様が祈っておられる姿を見てきたはずです。でも、イエス様と過した最期の夜、見るイエス様の祈りの姿はもっともっと鮮やかに心に残るはずです。イエス様は弟子たちの心に敬虔な祈りの姿勢を残しておきたかったのです。ではイエス様はどんな姿勢で祈られましたか。
もう一度41bをご覧ください。「ひざまずいて、こう祈られた。」とあります。イエス様はひざまずいて祈られました。イエス様がひざまずいて祈られる姿はこの世で最も美しい姿です。本当に、人が神様の御前に謙遜にひざまずいて祈る姿ほど美しいものもないでしょう。でも、イエス様の当時の人々は立って祈るのが普通でした (18:11、13)。しかし、イエス様はひざまずいて祈られました。「ひざまずいた」ということは神様へ従順、畏敬の念を表します。祈りの敬虔な態度を教えてくれます。神様は私たちの敬虔な祈りを聞いてくださいます。
ヘブル5章7節を読んでみましょう。「キリストは、人としてこの世におられた時、自分を死から救うことのできる方に向かって大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」ある人は祈りながら携帯の電話も取ったり、コーヒーを飲んだりします。しかし、神様は携帯の電話を使わなくても敬虔にささげる祈りを聞いてくださいます。イエス様は苦しみの中でもひざまずいて祈られました。大体、苦しんでいる時、悲しいときには神様の御前にひざまずいて祈ることが難しくなります。私の場合は疲れた時、苦しく悲しい時は寝てしまうときが多いものです。御言葉を準備しながら悔い改めるようになりました。しかし、イエス様はまさにその時に神様にひざまずいて祈られました。では、イエス様は何のために祈られましたか。
42節をご一緒に読んでみましょう。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」ここで「この杯」とは相撲の横綱をもらうようなものではありません。十字架での苦しみを示している苦い杯です。イエス様は弱い体を持っているひとりの人間としてこの苦しみの杯を取りのけてくださるように祈りました。人間は誰でも苦しむことを願いません。死ぬことは言うまでもありません。年寄りの方ももっと長く生きることを願います。良い言葉でもしてはいけない挨拶の言葉があります。今年九十九歳になったおばあさんに「おばあさん!100歳まで長生きしてください。」と言うことです。また、人は長生きして死ぬときも、平安に死ぬことを願います。鞭に打たれ、剣に刺されて苦しみながら死ぬことは望みません。イエス様もそのような苦しみの中で死ぬことを願われませんでした。まだ若い33歳の年に、しかも、お母さんよりもはやく死ぬことは耐えられない苦痛であったでしょう。ですから、イエス様は「みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られました。杯を取りのけてほしかったのです。それはひとりの人間としてのほんねでした。イエス様は本当に真実な祈りをささげたのです。しかし、イエス様はそれだけに留まりませんでした。一歩進んで神様のみこころを考えました。どうすることが神様の栄光になるかを考えられました。すると、やはりイエス様が十字架にかかって死ぬことは父なる神様のみこころでした。それは苦しくて辛くてどうしても取りのけていただきたかったのですが、人類の救いのためには負わなければならない十字架であることが分かりました。そこで、イエス様は「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られました。
イエス様はご自分の願いに執着することなく、神様の御心に従おうとしました。ご自分を喜ばせることより神様を喜ばせようとしました。そして、「みこころのとおりにしてください。」と祈られました。私たちはどうすればいいのか分からない時は「みこころのとおりにしてください。」と祈ることができます。自分はまだよく知らないけれども神様がきっと「良い方法で素晴らしい道に導いてくださるだろう。」と期待して祈るのです。しかし、「自分が十字架を負わなければならない、苦しみを受けなければならない、自分が命までも犠牲にしなければならない」ということが分かる時は、それらを担うために祈ることは難しくなります。なかなかできません。むしろ、「御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことがないようにしてくださいますように」と祈るでしょう。私もこのヤベツの祈りが好きです。もちろん、主は私たちがヤベツの祈りをささげると、神様は祈りに答えてくださいます。しかし、イエス様は十字架での苦しみ、十字架の死を分かってもそれから遠ざけてくださるように祈られませんでした。十字架の死が分かっても「みこころのとおりにしてください。」と祈られました。イエス様はご自分に与えられた十字架を担うために祈られたのです。十字架こそが人類を救う道であったからです。私たちも、自己中心の祈りから、イエス様のように祈ることができるように祈ります。いのちを救うためなら自分の十字架を拒まない、死ぬことも覚悟して祈れる主のしもべとして成長することができるように祈ります。
事実、自分の前にある十字架を担うことも難しいことです。自分の願いではなく、愛する同労者の願いどおりにすることも難しいことです。ましては重い十字架を知っていながらそれを担うために祈ることはどうでしょうか。全人類の罪を背負っていく十字架の重さを考えると、その十字架を担うために祈ることは何と難しいことなのか、想像を越えるもので自分の言葉では言い尽くせません。でも、イエス様が御心に従う覚悟をしてみこころのとおりになるために祈ると、神様は天から御使いを遣わしてイエス様を力づけてくださいました。そこで、イエス様は苦しみもだえても、いよいよ切に祈られました。取りのけてほしかった杯を飲むために汗が血のしずくのように地に落ちるほどに祈られたのです(43、44)。
こういう祈りによってイエス様は私たちを救うための十字架を担える力を得ました。祈りによって心の弱さ、体の疲れを乗り越えました。そして祈りによって神様の御心に従うことができました。イエス様が苦しみもだえていよいよ切に祈られたからこそ、人類を救う十字架を背負うことができたのです。そしてその祈りのお陰で、私たちは、今救われています。イエス様の祈りを心から感謝します。
このように救いのみわざは、祈りから始まります。祈りには労苦がともないます。自分の有益のために、自分と家族の救いのために祈ることでも労苦がともなわれるのです。私たちの性質として、祈らないというものがあるのです。楽しめるようなものではないから、労苦がともなうのです。私たちは自分のためにも、自然には祈ろうとは思いません。人のために人類の救いのために祈ることはなおさらです。ですから、私たちは意識的に時間を開けて、祈りをささげるようにしなければならないのです。そういう努力を通してイエス様のように祈りの習慣を身につけることができます。いつものように祈ると、祈ることが自然にできるようになります。汗が血のしずくのように地に落ちるほどに祈ることができるようになります。私たちは汗が血のしずくのように地に落ちるほどまではできないかも知れません。しかし、汗をかくくらいの祈りができるでしょう。どうか、私たちがイエス様のように敬虔な祈り、汗をかくほどに切実に祈るの祈り生活を励むことができるように祈ります。
45、46節をご覧ください。イエス様は祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていました。弟子たちは、単に眠くなったのではなく、悲しみの果てに眠り込みました。つまり、落ち込んでいたのです。それで、イエス様は彼らに言われました。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」イエス様は再び、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と命じられたのです。弟子たちはイエス様の御言葉を聞いて祈っていなければなりませんでした。しかし、彼らはどうなりましたか。
?.ユダの裏切り(47-53)
47、48節をご覧ください。イエス様がまだ話をしておられるとき、群衆がやって来ました。誘惑の時がおとずれました。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていました。ユダはイエス様に口づけしようとして、みもとに近づきました。イエス様は愛と信頼のシンボルである口づけを詐欺的に用いるユダに対して言いがたい悲しみと怒りを感じられたはずです。しかしイエス様はそんな彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われました。イエス様は深い同情と愛を示しておられました。イエス様はてユダが「人の子を裏切る」罪の深刻さを悟り、悔い改める機会を与えたのです。その時、弟子たちは何をしましたか。
49、50節をご覧ください。イエス様の回りにいた者たちの中である者は、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落としました。彼らは血肉の戦いを仕掛けたのです。これが誘惑でした。私たちも何か問題が起こると、その問題の本質を見誤って、祈り以外の方法で対処しようとします。ところが、そうなると、私たちはサタンに誘惑されてサタンの餌食となってしまいます。しかし、私たちが一歩さがって主の御名によって祈ると、誘惑に陥らないで勝利することができます。祈られたイエス様は「やめなさい。それまで」と言われました。そして耳にさわって彼を直してやられました(50)。祈られたイエス様は弟子たちが無駄な反抗しないように戒めることができました。また、神の力が与えられてしもべを癒すことによって救い主としての真実の使命を証することできました。
52、53節をご覧ください。「そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」」とあります。ユダは、イエス様の警告、悔い改めへの呼びかけにもかかわらず、裏切りの行為をしてしまいました。その結果、イエス様はユダヤ人指導者たちに捕えることが許されました。
?.イエス様を否認したペテロ(54-62)
サタンの誘惑に落ちってしまったイスカリオテ・ユダの裏切りはイエス様の心臓を刺し通すほどに心を痛める出来事でありました。ところが、またもイエス様のお心を痛めさせる出来事がありました。それはイエス様の第一弟子ペテロがイエス様を否認したことです。
54節をご覧ください。彼らはイエス様を捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来ました。ペテロは、遠く離れてついて行きました。おそらく、ペテロは弟子たちの中でもいつもイエス様の近くにいたと思います。遠く離れていたのはイエス様に従い始めて以来、これが初めてだったのでしょう。でも、本人は気づいていません。私たちがイエス様を離れる時も、なかなか気づかないものです。離れていること自体を気づかないことがほとんどです。55節をご覧ください。イエス様を離れているペテロは敵たちが座り込んでいる所まで入り、彼らの中に混じって腰を下ろしました。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言いました。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言いました。女中だから、軽くあしらっておこうか、と思ってそういったかも知れません。ところが、しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言いました。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言いました。前より強くイエス様を否認しています。すると、一時間ほどはだれも聞いてきませんでした。自分は何をやったのか、もう忘れかけているところです。ペテロガリラヤ弁のナマリが強かったでしょうか。また、別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張りました。それといっしょにどんなことが起こりましたか。
60b、61節をご覧ください。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。イエス様は振り向いてペテロを見つめられました。イエス様の目はどのようなものだったでしょうか。「ペテロ。お前は、私を否認した。もうお前は私の弟子ではない。」というものではなかったはずです。むしろ、「ペテロ。わたしは、あなたの信仰がなくならないように祈っている。はやく立ち直って、兄弟たちを力付けてやりなさい。」というメッセージを送っておられたでしょう。イエス様はあわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富む神様の目でペテロを振り向いておられたのです(出34:6)。すると、ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出しました。彼がイエス様のおことばを思い出したとき、どうなりましたか。62節をご覧ください。「彼は、外に出て、激しく泣いた。」とあります。イエス様の祈りは聞かれました。ペテロは大胆に失敗しました。でも信仰がなくなりませんでした。彼は激しく泣いています。「こんなに自分を愛しておられる主に自分が何をしたのでしょうか。お!主よ。この罪深い者を赦してください。赦してください。」と叫び、泣き続けながら悔い改めたでしょう。そして、イエス様の言われたことは必ず実現することも確信するようになったでしょう。この時間はペテロにとって悲しく辛い時でした。しかし、この悔い改めを通して彼は偉大な神様のしもべとして用いられるようになりました。彼はこの苦しい経験を通して、立ち上がってから、弱い人の弱さを担うことができました。罪を犯している人に柔和に接し、苦しんでいる人を慰めることができました。何よりも、自分は罪人にすぎないこと、こんな自分をも救ってくださるのが神様であると証しする者にすぎないことを知りました。
結論的に、もう一度41、42節を読んでみましょう。「そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」イエス様はオリーブ山で敬虔に切実に祈ることによって救いのみわざを成し遂げる神様のみこころに従いました。私たちが自分の願い通りに生きるなら救いのみわざに用いられることができません。自分の願いを否認し、神様の御心に従うことによって万民を救う救いのみわざに用いられます。イエス様のように祈ることによって私たちも、この世で最も大切な救いのみわざに用いられますように祈ります。