2005年マルコの福音書基礎勉強第2講
朝早く祈られたイエス様
御言葉:マルコの福音書1:21-45
要 節:マルコの福音書1:35「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
神の子イエス・キリストの福音は始まりました。イエス様はヨハネによって用意された主の道を認められ、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。その時、天が裂けて御霊が鳩のようにイエス様の上に下られました。そして、天から声がしました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と言われたのです。このように、イエス様は御霊を受けることによって改めてご自分の使命を確認し、神様に愛され、喜ばれる神の子としての確信を持って福音宣教の生涯をスタートしました。
私たちも新学期とともに心を改めて福音宣教に励みますが、聖霊を受けることによって自分の使命を確認することができるように祈ります。特に悔い改めて福音を信じて神様に愛され、喜ばれている者としての確信を持って生きるように祈ります。
今日の御言葉は、イエス様がどんな目的を持ってこの地に来られたか、目的の達成のためにどのように行動されたかということについて教えてくれます。イエス様は常に福音の御言葉を教え、知らせることを目的としておられました。その目的達成のために夜明けから祈られ、病人を癒す活動をなさいました。ここで、私たちはイエス様のライフスタイルを学ぶことができます。私たちがイエス様のライフスタイルを学び、自分の生活に適用すると、神様に喜ばれ、成功する人生を生きることができます。「成功する人々の七つの習慣」(Stephen R. Covey著)によると、第二の習慣は「目標を確立し、行動する」ことです。何に重点を置くべきかをはっきりしているということです。私たちが成功する人生を生きるためにはさまざまなことをしていながらも、いつも何に重点を置いて生きるべきかをはっきりする必要があるのです。イエス様はこの地上の生活の中で多くのことをなさいました。イエス様は病人を癒し、悪霊を追い出しました。時には経済的問題を助けてくださいました。人々のさまざまな問題を解決してくださったのです。しかし、それらが目的はありませんでした。イエス様の目的は、福音を知らせることでした。イエス様は「そこにも福音を知らせよう。わたしはそのために出て来たのだから。」と言っておられます。この福音のみわざのために、イエス様がご自分の人生において重点を置かれたことは夜明けの祈りです。イエス様は、朝早くまだ暗いうちに起きて祈られました。イエス様は前日にいくら遅くまで働かれても(32節)、朝早く祈られる生活習慣を持っておられたのです。その祈りの時間を通して、イエス様は神様とのコミュニケーションを取り、何のために来られたかを確認してますます福音を知らせるために励んでいかれたことでしょう。この時間、このようなイエス様のライフスタイルを学び、私たちもイエス様のような生活習慣を身に着けていくことができるように祈ります。
?。イエス様の権威ある教えと力あるみわざ(21-34)
21節をご覧ください。「それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。」とあります。イエス様の一行はカペナウムに入られました。カペナウムはガリラヤ湖の北西岸にある町でイエス様の宣教のうち最も重要なガリラヤ伝道の本拠地となっていました。そこで、イエス様は何をなさいましたか。漁師出身の弟子たちとともにガリラヤ湖の岸辺に行って魚釣りをしたでしょうか。漁師の仕事は大変なことですが、たまに、湖に行って釣りをすることは想像することだけでも楽しいことです。しかし、イエス様は安息日に会堂にはいって教えられました。会堂とはギリシャ語ではシュナゴーグーで、一般にシナゴーグと言われています。当時、ユダヤの人々は毎安息日にシナゴーグに集まり、聖書に精通している者として選ばれた律法学者、ラビたちの教えを聞いていました。ラビたちはモーセの律法から始め、聖書を教えていました。人々は彼らの教えを習慣的に聞いていました。儀式と心地よいプログラムだけの礼拝を求め、それに満足していました。しかし、イエス様が教えられると、人々はどうなりましたか。
22節をご一緒に読んで見ましょう。「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」人々はイエス様の教えに驚きました。注解書によると、原語の意味は「彼らが瞬間的に驚いたのではなく、感嘆して「ほう」としている驚き」であるそうです。なぜ、人々はイエス様の教えにそれほどに驚いたのですか。それはイエス様が、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからです。同じ内容の教えでも、教える教師がだれかによってその教えの効果が違います。律法学者たちは、当時聖書に精通していると言われる聖書学者たちでした。しかし、彼らの教えには権威がありませんでした。彼らの教え方は、昔からの伝承を引用しては、果てしのない議論をする類のものでした。特に、彼らは私生活において信仰と従順が伴われなかったために教えに力がありませんでした。しかし、天から送られた聖霊によって御言葉を教えるイエス様の教えには権威がありました。神様の御言葉に謙遜に従い、真実と行ないによって愛する生活、祈りの生活によって聖霊充満になっていたイエス様の教えには権威があったのです。その権威はみわざによっても明らかにされました。
23、24節をご覧ください。「すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」とあります。イエス様がメッセージを伝えておられたその会堂に、汚れた霊につかれた人がいました。なぜ、彼が汚れた霊につかれてしまったのかはよく分かりません。夜ごとに隠密に変なサイトを見たり、汚れたところを歩き回ったりしていたでしょうか。彼は誘惑を打ち破ることができず汚れた罪に倒れていました。何か惹かれていく自分の行動を抑制することができませんでした。すると、自意識と罪責感のためにさらに苦しい生活が続きました。心も、体も疲れてしまいました。毎週安息日に会堂礼拝に参加してメッセージを聞いても眠くなるばかりでした。ところが、イエス様のメッセージは今までのメッセンジャーたちとは全く違いました。イエス様が教える御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く、たましいと霊、骨髄の分かれ目さえも刺し通しました。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができてすべての罪がさらけ出されました。イエス様の目には、すべてが裸であり、さらけ出されていることが分かると恐ろしくなりました。そこで、彼は自分も知らずに叫んで言いました。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
25?28節をご覧ください。イエス様は彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われました。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行きました。人々はみな驚いて、互いに論じ合って言いました。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」人々はイエス様の「権威ある者のように教えられた」「その教えに驚いた」ばかりでした。それなのに、今また、主の力ある働きの権威を見せ付けられました。こうして、イエス様の評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まりました。
新学期を迎えている私たちに権威あるマルコの福音書の御言葉を与えてくださり感謝します。私はこのメッセージを準備しながら御言葉の権威に驚いているのか、権威ある御言葉として伝えているのかと問われました。イエス様のようではなく、律法学者のようであった自分の姿に悔い改め、本当にイエス様のように教え、御言葉を伝える生活に励みたいと決意するようになりました。また、私たちの聖書勉強が議論や空振りの知識伝達ではなく、御言葉の権威に驚く勉強会になるように祈るようになりました。権威ある御言葉に驚き、御言葉によって悪霊どもの支配から解放される力あるみわざが起こるように祈ります。特に権威ある御言葉、権威ある働きのために私自身から権威にイエス様の御言葉に対する不動の信仰を持って御言葉を伝え、御言葉にふさわしい生活に励むことができるように祈ります。
29、30節をご覧ください。イエス様は会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられました。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていました。なぜ、シモンのしゅうとめは熱病にかかってしまったでしょうか。よく分かりません。おそらく、婿のシモンが自分の娘と孫たちの面倒を見ないでイエス様について行ったからでしょう。それが頭にきて熱を出していたのではないでしょうか。病気はひどくなり、しゅうとめは熱病で床に着いていました。ガリラヤ全地域に広まったイエス様の権威ある働きも見ることができませんでした。でも、権威あるイエス様の御言葉、権威ある働きぶりを見ていた人々はイエス様の一行が家に入られると、人々はさっそく彼女のことをイエス様に知らせました。「主よ!シモンのしゅうとめが熱病で床に着いています。どうか、癒してください。」それで、イエス様は、彼女に近寄り、その手を取って起こされました。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなしました。素晴らしい光景です。ここにも権威あるイエス様の働きがありました。
32、33節をご覧ください。「夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。」とあります。汚れた霊を追い出し、シモンのしゅうとめの熱病も言わされたことが知らせられると、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエス様のもとに連れて来ました。人々はさまざまな病気にかかっていました。花粉症、アトピー、うつ病、中風、鼻炎、頭痛、肩こりなどの病気だけではなく、安逸病、高慢病、情欲病、インターネット中毒などの精神病にかかっている人も数多くいました。この世には全く健康な人よりもさまざまな病気のために苦しんでいる人がもっと多くいるようです。人は風邪を引いただけでも食欲を失い、喜びも意欲も失ってしまいます。しかし、肉体の病気よりもっと深刻なのは心とたましいの病気です。たましいが病気になっていると人間は幸せになりません。先週、亡くなられた法王は肉体の病気のために苦しみながらも心の中では神様との交わりによる喜びのゆえに、最後の遺言として「私は幸せです。みんなも幸せになってください」という遺言を残したそうです。法王は心やたましいの病気のために苦しんでいる人々を深く哀れんでいたことでしょう。私たち人間は心とたましいの病気が癒されなければ、苦しみ、さまよいます。何とか人々との交わりの中で、理解され、慰められることによって心もたましいも癒されることを願いますが、人に期待すると、むしろ傷つけられてしまう時が多いものです。しかし、イエス様は、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになりました。また多くの悪霊を追い出されました。そして悪霊どもがものを言うのをお許しになりませんでした。彼らがイエスをよく知っていたからです。
私たちもイエス様のみもとに出て行き、さまざまな病気を癒していただけるように祈ります。日ごとにイエス様に出てきてこの世でさまざまなことで傷つけられた心、病んでいるたましいを癒していただける生活ができるように祈ります。私たちが権威ある御言葉を堅く信じ、イエス様の十字架の力を信じることによってすべての病が癒されて平安と喜びに満たされて幸せな人生を生きることができます。なぜなら、まことに、イエス様は十字架の死によって私たちの病を負い、私たちの痛みをになってくださったからです。また、イエス様は私たちのそむきの罪のために砕かれました。イエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼のうち傷によって、私たちは癒されるようになったのです。どうか、私たち一人ひとりがイエス様の癒しを経験し、権威ある御言葉によって喜びと平安に満ちた勝利の人生、幸せな人生を生きるように祈ります。
?.まだ暗いうちに起きて祈られたイエス様(35?45)
35節を読んでみましょう。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」前日、イエス様は朝から晩まで休まず働かれました。会堂に入って人々に御言葉を教えられました。シモンの家を訪問して彼のしゅうとめだけではなく、さまざまな病気の人々を癒してくださいました。このように一日中働くと疲れ果てて翌朝早く起きるのはやさしいことではありません。私は先週、本文の御言葉を準備しながら恵みを受けて夜明けに息子のサムエルも起こして教会に連れて来て祈りました。でも、徹夜して仕事をした日の翌日はとても難しいものでした。しかし、イエス様は、前日多くの仕事をなさったにもかかわらず、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられました。おそらく、ペテロとアンデレも早く起きたでしょう。でもイエス様は彼らよりも先に、まだ暗いうちに起きて夜明けの祈りをしておられました。ペテロは、イエス様が朝早くまだ暗いうちに起きて祈っておられた姿に驚いていたのではないでしょうか。いつも、夜明けに祈っておられたイエス様の姿は心に刻まれました。それで彼は夜明けに鶏が泣く前に三度もイエス様を否認しましたが、後では鶏がなく前に起きていつも祈る祈りのしもべになりました。
私たちも、朝早くまだ暗いうちに起きて祈られたイエス様のように祈る生活ができるように祈ります。私の携帯電話は五時半に私を起こしてくれます。ところが、私は起きても座ったまま眠っている時が多くあります。特に疲れている時には心の中で戦いが始まります。「行くか、もっと寝るか」しかし、この戦いで勝ってセンターに来て祈ると恵みを受けます。私は今まで数え切れない神様の恵みを受けて来ましたが、その秘訣の一つを言うなら夜明けの祈りです。小学校の4年生のころから、友達のお母さんに誘われて教会の夜明けの祈り会に出席しました。中学校3年生の頃から高校生の時は教会から離れていましたが、大学一年生の時、UBFに来て牧者になってからは夜明けの祈りに励んでいます。途中まじめにできなかった時もありましたが、私は祈りこそ神様に祝福される近道であり、幸せな生活の秘訣であると信じています。本当に、祈りに励むと素晴らしい経験をすることができます。
私達が朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、祈っておられたイエス様に見習い、夜明けの祈りを捧げる生活ができるように祈ります。私たちが夜明けの祈りを続けて捧げる時、使命と学問の十字架も担うことができます。ダビデは夜明け前に起きて神様に叫び求めました(詩119:147)。マルチン・ルターは一日の十分の一である2.4時間を祈る生活をしていたそうです。特に一日の仕事が多ければ多いほどもっと多く祈られたそうです。私たちの生活は忙しいですが、忙しいからこそもっと祈る生活に励むことができるように祈ります。
イエス様が祈っておられるところにシモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、「みんながあなたを捜しております。」と言いました。イエス様は彼らに何と言われましたか。
38、39節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」ここで、イエス様はご自分がこの世に来られた目的をはっきりしておられたことが分かります。イエス様はご自分がこの世に来られた目的が福音を知らせることであると言われました。イエス様は今までさまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになりました。また多くの悪霊を追い出されました。しかしイエス様の働きの重点は病気を直すことではありませんでした。イエス様は福音を知らせることに重点を置かれました。この世で体が癒されても福音を知らなければ永遠のいのちを得ることができません。しかし、この世ではしばらく、体の不自由があっても人は悔い改めて福音を信じる時、救われて神の国を所有することができます。もちろん、神様は私たちがこの世でも健やかに生きることを願っておられるから病気を癒してくださいますが、最も大切なのは救われて神の国の民となり、永遠のいのちを得ることです。ですから、イエス様は何よりも福音を知らせることによって全世界の人々を救う目的を持っておられたのです。それでイエス様は言われました。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」
40節をご覧下さい。「さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。『お心一つで、私はきよくしていただけます。』」とあります。当時のらい病人が置かれていた状況は、悲惨なものでした。肉体をしばむ病気に加えて、社会から隔離され、卑しめられていたのです。律法によると、この病気は汚れた病気でした。その病気にかかった人は唇の上までおおって、歩くときには、「汚れた者、汚れた者」と叫び声をあげて、自分が汚れた存在であることを人々に知らせなければなりませんでした(レビ記13:45、46)。イエス様はこのように哀れならい病人どのようにしてきよめてくださいましたか。41,42節をご覧下さい。イエス様は深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなりました。イエス様はらい病人が近づいて来た時、「それ以上近づいてはいけない。」と言われませんでした。イエス様は彼を深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわってくださいました。イエス様は心から彼を迎え入れてくださいました。誰も彼に触ろうとしませんでした。近づくことさえも許しませんでした。しかし、イエス様は彼の醜くなった体に触ってくださいました。それは愛がなければ不可能なことです。当時らい病人にさわることは律法によって禁じられていることでした。しかし、イエス様の愛は律法を越えました。イエス様は彼の体の苦しみ、精神的な苦しみに触ってくださいました。そして、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。イエス様は彼がからだだけではなく心や魂もきよくなることを願われました。イエス様はどんなにひどい罪人でも信仰によって出て来るとあるがまま迎え入れてくださいます。
イエス様は罪によって醜くなった人がきよめられ、神様のかたちを回復することを切に願われます。そのためにイエス様は十字架につけられ尊い御血を流されました。キリストの血はどんな罪人も救い、新しく生まれさせる力があります。もし、私達が自分の罪を言い表すなら、主はその罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます(?ヨハネ1:9)。たとい、私達の罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださいます(イザヤ1:18)。このイエス様によってきよめられるとらい病人のような人が丈夫な人になります。それは恵みであり、祝福です。
43,44節をご覧下さい。そこでイエス様は、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせました。そのとき彼にこう言われました。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」イエス様はこれから多くのところへ行かれ、福音を知らせなければなりません。そういうわけでらい病人がきよめられたことが知らされるのを願われませんでした。福音を知らせることに専念するためです。ただ、彼の正常な社会生活のために、癒された体を祭司に見せてモーセが命じたものをささげ、健康診断書をもらうようにしました。ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めました。そのためイエス様は表立って町の中にはいることができず、町はずれの寂しい所におられました。
結論、イエス様は福音を知らせる目的を持ってこの世に来られました。この福音のみわざのために夜明けから祈られました。私達もこのイエス様を学び、キャンパスの学生達に福音を知らせることができるように祈ります。毎日夜明けに起きて祈られたイエス様のように祈る生活を通して福音を知らせる力と知恵を得ることが出来るように祈ります。