2006年ヨハネの黙示録第8講

あなたの冠を奪われないように

御言葉:黙示録3:7?13
要 節:黙示録3:11「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っ
ているものをしっかりと持っていなさい。」
 
先週、私たちは「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」と言われる主の御言葉を学びました。死にかけているほかの人たちを力づけることは素晴らしいことです。落胆している人を勇気付けることだけでも素晴らしいことでしょう。
この間、日本はトリノオリンピックでなかなかメダルを取ることができませんでした。メダルへの希望は死に掛けていました。ところが、荒川静香選手は金メダルを獲得しました。日本をノーメダルから救って、私たちを力づけてくれました。彼女は、本当にりっぱなことをしてくれたのです。それで、最近の新聞やテレビでは毎日のように彼女のことを報道しています。今、日本で一番輝いている人は、何といても荒川静香選手でしょう。でも、それも一ヶ月、二ヶ月が過ぎると、彼女のことも人々の脳裏からも消えていくでしょう。しかし、永遠の滅び、第二の死にかけている人々を力づけて救う人の名前は永遠に残ります。この世で死に掛けている人たちを力づけて救いに導いた人々には永遠に輝く冠が与えられ、彼らには新しい名前が与えられて永遠に残るのです。
私たちはこの永遠の冠、いのちの冠を目指して走っています。今日、学ぶフィラデルフィヤにある教会の聖徒たちは少しばかりの力しかなかったけれども、いのちの冠を目指してよく走っていました。そこで、イエス様は言われました。「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」この御言葉は、今の私たちにも言われる御言葉です。
では、フィラデルフィヤ教会に紹介されたイエス様はどんな方でしょうか。また、イエス様が彼らを賞賛されたこと、イエス様が彼らに約束されたことと方向は何でしょうか。今日も聖霊が私たちに働いてくださって御言葉を正しく悟り、心から受け止めることができるように祈ります。

?.イエス様の自己紹介
7節を読んで見ましょう。「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。』」イエス様は「フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ」と命じておられます。
フィラデルフィヤは、BC2Cの半ばに建てられた都市です。この間、ペルガモの教会のことを学んだのですが、ペルガモ王国にエウメネス2世という王がいました。彼には「アッタロス2世」という弟がいました。弟は政治においても、軍事的な面においても優れた知識を持っていていつも兄を助けていたそうです。お兄さんが戦争のために出かけると、弟は兄の代わりに国をりっぱに統治していました。それで、ある時はローマ軍から「兄が戦争に出ている間にあなたが王権を取りなさい」という要請を受けました。もし、その要請を許諾すれば、彼は巨大のローマ軍の協力を得て王になることができました。しかし、弟はローマ軍の提案を拒み、兄から頼まれた使命を忠実に担いました。彼は高ぶることなく、謙遜に兄に忠実な弟として兄弟愛を守ったのです。そのような弟に名づけられたニックネームが「アッタロス・フィラデルフォス(兄弟愛)」でした。
後日に弟は兄から王位を受け継いで立派な王になりました。そして、ギリシャの学問を普及する中心都市を建設した時は、その都市の名前を「フィラデルフィヤ」と名づけました。兄弟愛を意味するアッタロス・フィラデルフィスにちなんで、その名を「フィラデルフィヤ」と名づけたのです。それで、フィラデルフィヤは「兄弟愛」から生まれた都市として「兄弟愛」を大切にする素晴らしい町となりました。
でも、地理的にはフィラデルフィヤは、断層の真上にあったので、地震が起きやすい所でした。AD17の大地震では、大きな打撃を受けました。その後20年間も苦しみました。市民は同じ場所に住むことができませんでした。頻繁に移動する生活が続きました。特に、地震の時には被害が大きい都市から離れ、天幕を張って市外に住まなければなりませんでした。それで、彼らはこの世の財産や所有物に希望をかけることができませんでした。そうなると、真実なクリスチャンは自然に、「神の国」に対する希望を堅くつかむようになりました。そして、建物を建てるときには、大地震にも耐えられるように丈夫な柱を作ることに力を入れていたそうです。現在にトルコに残っている教会の遺跡を見てきた人の記録によると、柱だけが残っていますが、教会の柱は横も縦も7mの大きさだったそうです。丈夫な柱だけは今も残っているのです。
このような背景を持っているフィラデルフィヤ教会にとっては地震があっても残る「丈夫な柱」はとても大切な存在でした。言うまでもなく、「神の聖所の柱」となることは驚くべき恵みであり、特権でした。地震によっても無くならない「天から下って来る新しいエルサレムの名」ということばも彼らにとって大きな励ましになったに違いないと思います。特に、この地上のものは汚れるし、移り変わるものですが、イエス様は聖なる方であり、真実な方であるということは、どんなに大きな励ましと力になったでしょうか。
フィラデルフィヤ教会の聖徒たちはフィラデルフィヤ地域の伝統である「兄弟愛」のゆえに、「愛すること」がよく理解できていたと思います。何よりも彼らはイエス・キリストの愛の教えをよく理解していたでしょう。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。(?コリント13:4?6)」ということがよく分かり、その愛を実践していたと思います。アッタロス王がそういう生活の見本を残したからです。それで、彼らはフィラデルフィヤという都市を造ってくれたアッタロス王のように高ぶることなく、兄弟を愛する生活をしていたでしょう。それだけではなく、聖徒たちはクリスチャンとして友のために自分のいのちを惜しまないキリストの愛、真実と行ないによって愛する愛を実践していたと思います。ですから、フィラデルフィヤの教会にはイエス様からの叱責がありません。ペルガモの教会も素晴らしかったのですが、その教会には少しばかり非難すべきことがありました。しかし、フィラデルフィア教会には少しばかり非難すべきこともなかったのです。やはり、「兄弟愛」という素晴らしい伝統を持っているということは素晴らしいことですね。「兄弟愛」が素晴らしい徳目として認められる、賞賛される地域でキリストの愛を実践する生活は、それほど難しくなかったかも知れません。
ところが、その町に、その教会に、サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうではなくて、うそを言っている者たちは入ってきました。彼らは純粋なフィラデルフィヤの聖徒たちを迷わせました。彼らは世の中で成功するためにはある程度のうそを言ってもいいじゃないかと言いました。「要領がなければ金持ちになれないよ」、「うちの会社は黒字だ、と言わなければ、人々はうちの会社の株を買ってくれないでしょう。」「汚れている世の中だから少し汚れてもいいじゃないか」という人もいました。そういうサタンの会衆に属する者たちが聖なる国民として生きようとするクリスチャンを誘惑しました。また、頻繁に起こる地震のために、この世のものに対する未練がなくなることもありますが、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」と言う誘惑もありました。友だちが悪ければ良い習慣がそこなわれますが、サタンの会衆に属する者たちが真実に生きようとするクリスチャンの良い習慣をそこなわせていたのです。
そこで、イエス様はご自分を「聖なる方、真実な方」として紹介しているのです。フィラデルフィヤの聖徒たちが聖なる国民として、真実なクリスチャンとして生き続けるように励ますためです。特に、イエス様はすべての権威を持っておられます。「ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開くことができない、その方」がイエス様ご自身であられるのです。
「ダビデのかぎを持っている方」とは天国の門を開いたり閉じたりすることだけではなく、地上の王の権威も持っておられます。フィラデルフィヤを建設するようにされたのも、その都市に「兄弟愛」という伝統を与えられたのもイエス様です。フィラデルフィヤにある教会の聖徒になったクリスチャンの心を開かれた方もイエス様です。イエス様が開かれた門を閉じることはだれもできません。
ですから、私たちはどんな時にも、イエス様の権威を信じてイエス様に頼り、すべてをイエス様に委ねて生きる必要があります。イエス様の教えを真実に守る生活が求められているのです。幸いにフィラデルフィヤの教会は少しばかりの力があってもキリストの御名を否むことなく、信仰の中心をよく守っていました。そこで、イエス様は彼らを賞賛しておられます。

?。イエス様の賞賛
8節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」とあります。
 イエス様はフィラデルフィヤ教会の行ないを知っている」と言われました。そうです。イエス様が私たちの行ないを知っておられます。すべての行ないをイエス様が知っておられます。私たちはイエス様のために、日本宣教、世界宣教のために奉仕しますが、時々、誰にも見られない奉仕をする時があります。平日に教会に来て片付けをし、掃除をしたり、ゴミを捨てたりする方もいるでしょう。これは素晴らしいことです。家が遠くて教会まで来られませんが、毎日夜明けになると、必ずとりなしの祈りをしている方もいるでしょう。誰もいないところで、とりなしの祈りをすることは誰にも見られません。しかし、イエス様が私たちの行ないをすべて知っています。私たちがどれだけイエス様のために働いているかをイエス様は知っておられます。
 また、すべての権威を持っておられるイエス様が門を開かれると誰も閉めることができません。閉めると誰も開けることができません。私は最近、イエス様が私たちのために二つの門を開いておいたと思っています。一つ目は東京UBF教会のために若者への伝道、キャンパス伝道へ門を開いておいたということです。まず、イエス様は伝道に対する私たちの心の扉も開いてくださいました。先週、私はひとりの牧者に長崎で開かれる「星を数えよう会」に参加することを勧めましたが、彼は「4月1日は早稲田入学式がある日で伝道を考えていた」と言いました。私はそれでも行って来るように勧めましたが、伝道への心が開かれていることを心から感謝しています。主はすでに、東京にあるキャンパスの大学生たちの心の門も開いておいたと信じます。イエス様は「だれも閉じることのできない伝道の門」を、私たちの前に開いておかれたのです。二つ目は祈りの門が開かれています。私たちはいつでも、どこでも祈ることができます。絶体絶命のピンチ、そんな時でも、祈ることができます。私たちが主を祈り求めると、主はいつも私たちとともにいてくださいます。
先週の日ごとの糧で歴代誌第二の15:2節を見ると「アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。」私たちが開かれた祈りの門を通して主を求めるなら、主は私たちにご自身を示してくださいます。私たちは祈りを通して主と交わり、私たちに示される主の愛と力を体験することができます。目に見えない世界も、目に見える世界もイエス様が支配しておられること、イエス様が私の人生を導き、祝福してくださることも体験できます。ダビデのかぎを持っておられるイエス様の大いなる権威と力を体験することができるのです。この間、〇〇宣教師が大きな奨学金をもらうようになったことを知らせましたが、今まで何度も奨学金を申請してもできませんでした。でもあきらめないで祈り続けた時、今まで落ちた奨学金よりも大きな奨学金をもらうようになりました。もちろん奨学金とか、学位とか、目に見えることだけが神様の祝福ではないでしょうが、祈りを通してすべての権威を持っておられる神様を体験することができるのです。イエス様を信じる者にはその道が開かれています。信仰が強い人とか、たくさんの祈りをささげる人だけではありません。イエス様は「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」とあります。もちろん、私たちがアブラハムやパウロのような信仰の巨人になることは素晴らしいことでしょう。しかし、「少しばかりの力」で十分なのです。ただ「イエスの名を否まない」ということだけで主は評価してくださるのです。私たちの弱さを主は知っておられます。弱くても主に信頼し続けるなら、いつも閉じることのない門が開かれていることを確信しましょう。マラキ3:10節を見ると「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」とあります。少しばかりの信仰であっても、神様は天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を私たちに注いでくださいます。
 フィラデルフィヤ教会の聖徒たちには少しばかりの力があって主の御言葉を守り、キリストの名を否みませんでした。イエス様はそれを賞賛しておられます。彼が御言葉を守ったということは、先に御言葉を聞いたことでしょう。もし、彼らが御言葉を読んだことも、聞いたこともなかったら、御言葉を受け入れることも、守ることもできなかったはずです。彼らは御言葉を読み、御言葉を口ずさみ、御言葉を愛して守りました。ずいぶん歳月が流れましたが、皇太子が結婚するとき、民間人から皇室にはいる雅子さまに対して「私が守ります」といい、その言葉は流行語になりました。夫が妻を守ることは当たり前のことかも知れませんが、離婚率が非常に高い今の時代だから、素晴らしい言葉として目立ちました。夫は妻を守るべきでしょう。しかし、それより大切なのは神様の御言葉を守ることです。一週間、聖書をどこに置いたのかも知らずに過ごして日曜日になると聖書を探し回るなら、神様がどんなに悲しまれるでしょうか。フィラデルフィヤ教会は当時、小さい教会として少しばかりの力しかありませんでしたが、御言葉を守りました。彼らは神様の御言葉を自分たちの財産として、子孫に受け継がせる財産として、宝として守りました。神様は彼らが御言葉を守ったことを高く評価し、賞賛してくださいました。私たちが少しばかりの力しかない弱い信仰であっても御言葉を愛するなら、御言葉の力が私たちのうちに働くはずです。毎日日ごとの糧の御言葉を食べる人は汚れている世の中でも聖なる国民として生きることができます。神様の御言葉は私たちに力を与えてくださいます。神様に仕える力、隣人を愛する力、羊を養う力を与えてくださるのです。今は、クリスチャンも色々理屈をつけてみことばを守らない時代であるといわれています。しかし、私たちは少しばかりの人数である教会であってもしっかりと「御言葉を守る」生活ができるように励んでいきましょう。どうか、私たちひとりひとりが御言葉を愛し、御言葉を守ることによって神様に評価され、賞賛される生活ができるように祈ります。

?。イエス様の方向と約束
 9、10節をご覧ください。「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」
 ユダヤ人でありながらそうではなく、サタンの会衆に属する者については、スミルナにある教会のところで学びました。ユダヤ人であっても、イエス様を信じないで、神様を第一にしていない者であれば、アブラハムの子孫であっても、サタンの会衆であるということです。これはもちろん、異邦人にも当てはまります。そして、「彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ」というのは、イエス様が地上に再び戻ってきてから、キリストの教会がキリストとともに地上を統べ治めることを意味しています。不信者であるユダヤ人が、イエス様が来られるのを見て悔い改めますが、そのときに彼らが、教会がイエスに愛されていることを知ることになりなります。その時まで主は教会を守ってくださいます。では、イエス様は、いつ再臨されますか。
11節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」イエス様は「すぐに来る」と約束されました。イエス様は今日、この時間に来られるかも知れません。明日来られるかも知れません。すぐに来られます。ですから、私たちは私たちの冠をだれにも奪われないようにしなければなりません。「冠」とは、主が戻ってきてくださるときに授けられる冠のことです。義の冠、いのちの冠などがあります。それを奪われないためには、持っているものをしっかりと持っていなければなりません。私たちはこれから新たに何かを持つのではなく、すでに与えられた福音をしっかりと持っていることが大事なのです。それだけで、私たちは勝利を得る者となります。
12,13節をごらんください。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』 イエス様がここでお語りになっているのは、黙示録21?22章に書かれている、新しい天と新しい地であり、天のエルサレムのことです。天から地上に神の都が降りてきます。御言葉を守り、キリストの名を否まなかった人たちは、その都の柱になり、また名前が書き記されます。ここから、フィラデルフィアの聖徒たちが、必ず救いを受けて、永遠の報いを受けることができる保証となっています。

結論的に、フィラデルフィアの教会は災難があり、迫害もありました。また、彼らには少しばかりの力しかありませんでした。大型教会でもありませんでした。しかし、イエス様から評価され、賞賛される教会でした。少しばかりの力で御言葉を守り、信仰の中心を守る教会でした。神様は彼らを賞賛し、祝福してくださいました。彼らを守って聖所の柱にしてくださいました。私たちも少しばかりの力であっても御言葉を守り、信仰の中心を守って、驚くべき主の恵みを受け、聖所の柱として用いられるように祈ります。