2005年聖誕の御言葉第1講
初めてメシヤに出会った人々
御言葉:ヨハネ1:35-51
要 節:ヨハネ1:41 「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリ
スト)に会った。」と言った。」
「人生は出会いで決まると」と言われますが、ほんとうに、どんな人と出会ったかで、人生は変ると思います。人は出会った中で、何かしらの影響を受けて成長していくと思います。とても魅力的な先生に出会って学校の先生になったと言う話や、とても素晴らしい宣教師に出会って、自分も宣教師になられたという話も聞いたことがあります。実際に、その人が、楽しい人生を歩むのも、辛いだけの人生を歩むのも「どういう人と出会ったか!」で大半は決定されているような気がします。それで、私たちはいい人たちと出会いたいと思うし、特に独身の方はクリスマスシーズンになると、素敵な出会いを求めるかも知れません。私は今年のクリスマスに皆さんにとても素敵な出会いがあるように祈っています。ところが、いろんな出会いがありますが、イエス・キリストとの出会いほど素晴らしいものはありません。それでこれから四週間、イエス・キリストに出会った人々を証しします。初めてメシヤに出会った人々からはじめ、来られるメシヤに出会ったイザヤ、イエス様の公的活動の中でメシヤに出会った中風の人とマタイ、よみがえられたメシヤに出会ったトマスのことを紹介します。彼らはイエス・キリストとの出会いによって全く新しく変えられました。この出会いには、喜びと感激があり、新しいいのちと癒しがありました。また、ビジョンと信仰が与えられました。どうか、2005年のクリスマスを迎える私たちに新しくメシヤと出会う喜びと感激が満ち溢れ、癒しとビジョン、新しいいのちが与えられるように祈ります。
今日は「初めてメシヤに出会った人々」のことを学びます。この人たちは平凡な生活の中でメシヤに出会いました。使徒パウロのように奇跡的にメシヤに出会った人もいますが、大多数のクリスチャンは平凡な生活の中でイエス様に出会っています。アンデレ、ペテロ、ピリポ、ナタナエルのように、先生や家族、知り合いを通してメシヤに出会っているのです。そして彼らの証によって、また新しい人々がキリストに出会い、そういう伝道によって私たちもイエス・キリストに出会っているし、これから出会うこともできます。
では、初めてメシヤに出会った弟子たちにどんなことがあったでしょうか。また、イエス様との出会いが私たちの人生をどう変えるのでしょうか。どうか、聖霊が私たちのうちに働いてくださるように祈ります。
?.私たちはメシヤに会った(35?42)
35、36節をご覧ください。「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。」とあります。前日、ヨハネは自分のほうにイエス様が来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と言いました。ところが、今度はイエス様が歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と証ししています。ヨハネはイエス様が来られる時も、行かれる時もイエス様を神の小羊として証しています。すると、ふたりの弟子はイエス様について行ってしまいました。ここで「ついて行った」と言うことはパレードの後について行くようなことではありません。原語のギリシャ語では、エーコルーセーサン(ηκολουθησαν)という言葉が使われています。それは「弟子としてついて行った」という意味です。つまり、ヨハネの弟子であったふたりは、この時からイエス様の弟子となることを決意しました。単なる好奇心ではなく、イエス様の弟子になろうという決然たる態度でイエス様について行ったのです。イエス様は、このような心の決断を喜んでくださいます。イエス様は才能や実力、業績がなくても、罪深い人であっても、キリストの弟子になろうという決断さえあれば、その人を受け入れてくださるのです。
38節をご覧ください。「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」とあります。
イエス様はご自分について来るふたりを見て「何を求めているのですか」と聞かれました。人はだれでも何かを求めていると思います。もちろん、それが何であるのか自分でも分からない場合もあるでしょう。しかし、人は自分の人生の夢をかなえてくれるものとか、自分が今必要としているものを求めているのです。ある人は自分とか家族の癒しを求めているでしょう。ある人は心の平安を求め、経済的な必要が満たされることを求めます。皆さんが今求めていることは何でしょうか。どうぞ、何でも皆さんのほしいものを求めてください。そうすれば、皆さんのためにそれがかなえられます。ヨハネの福音書15:7節を見ると「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」と言われています。ただ、イエス様は「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい」と言われる前に、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、・・・」と言われました。ここで、何でもほしいものを求める前にイエス様にとどまり、イエス様の御言葉にとどまる必要があるということを学ぶことができます。不思議にもイエス様の最初の弟子になったふたりは、その事実をよく分かっていたようです。彼らは、「何を求めているのですか」と言われるイエス様の質問に対して「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」という質問で答えています。この答えには彼らがいかに深い求めを持っていたかを示しています。うちの教会でもご利益ではなく、純粋にキリストを求めて来た方たちがいますが、彼らは自分たちのほしいものを求める前にイエス様と交わることを望んだのです。つまり、彼らはまずイエス・キリストご自身を求めました。イエス様がお泊りになるところを聞いているということは彼らがイエス様と交わることを求めたことです。彼らはイエス様の御言葉を聞き、イエス様を体験したいと思ったでしょう。彼らはイエス様にとどまり、イエス様と交わりたいという霊的な望みに満ちていたのです。
今日、はたしてどれだけの人がこのふたりのように、どこまでもキリストを求めて教会に来ているでしょうか。どれだけの人が最優先的にイエス様との交わりを求めているでしょうか。ここにいる私たちはどうでしょうか。どれだけ霊的な望みに満ちているでしょうか。イエス様はご自分と交わろうとする人を歓迎なさいます。霊的な望みに満ちている人々を招いてくださいます。ですから、イエス様は「来なさい。そうすれば分かります。」と言われました。
「来なさい。そうすれば分かります。」この短い言葉は、いつも私たちを歓迎するイエス様のお招きです。だれでもイエス様と交わりを求めるなら、イエス様は「来なさい」と歓迎してくださいます。そして、イエス様は、その人に真の平安と休み、新しいいのちを与えてくださいます。今もイエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)。」と招いておられます。たましいに真の休みと心の平安を与えるためです。だれでもイエス様が与えてくださる平安と新しいいのちを得るためには、まずイエス様の所に来なければなりません。このことは、2000年の歴史の中で数億の人々が体験した事実です。世の多くの人々は分かってからイエス様に行こうとしています。特に日本の方は科学万能主義者が多く、頭で分かってから一歩踏み出すという考え方に支配されているような気がします。しかし、イエス様のところに来なければ、決して分かるものではありません。信仰と言うのは「キリストのふところに飛び込んで行く」という意味を持っています。飛び込まなければ、決して分かるものではないものが信仰なのです。
二人の弟子たちは、イエス様の言われたとおり、イエス様について行きました。イエス様に身を投げて飛び込んでいったのです。彼らは実に霊的な望みだけではなく、行動力がありました。イエス様の泊まっておられる所に行ってその日、彼らはイエス様といっしょにいました。おそらく、彼らは、今まで持っていた疑問、質問のすべてをイエス様に浴びせかけ、自分の根掘り葉掘り、イエス様からさまざまなことを聞いたでしょう。人格的な1:1聖書勉強をしたのです。たった一日の交わり、一回の聖書勉強でしたが、この交わりによって、彼らはイエス様との出会いができました。イエス様の御言葉を聞いて、イエス様がメシヤだと悟るようになりました。それで、彼らはイエス様のことを「ラビ」すなわち、先生と呼んでいたのですが、今は「メシヤ」と呼ぶようになりました。彼らはイエス様と一緒にいてみるとイエス様がヨハネのあかしした通りに世の罪を取り除く神の小羊であることがわかりました。つまり、神様から遣わされた神の小羊、長いイスラエルの歴史の中で先祖たちが待ち望んできたメシヤであることが分かったのです。その時の感激はどうだったでしょうか。
彼らは感動に満ちて叫びました。「私たちはメシヤに会った。」彼らは自分の先祖達から代々にわたって待ちに待っていたメシヤに出会ったのです。メシヤとは「油注がれた者」という意味です。旧約時代には、預言者や祭司や王が任命される時に油を注がれたので、彼らは「油注がれた者」と呼ばれました。しかし、「メシヤ」という言葉が独特の意味を持ってくるのは、これが「世の救い主」を意味するからです。私たちのあらゆる悩み、苦しみの根本的な原因である罪から救い出してくださる救い主としてのメシヤなのです。人間は罪と死の海に溺れて死にそうになっています。誰も自分の力によってはこの絶望的な状況から免れることができません。険しい世の中で悩み、苦しみながら悲しい存在、孤独な存在、むなしい存在として生きているのが人間です。神様はこのような人間を哀れんで下さり、イエス様を救い主としてこの世に遣わしてくださいました。イエス様は世の罪を取り除く神の小羊として私達の身代わりとなって十字架につけられ死なれました。また、死者の中から三日目によみがえられました。それによって私たちのすべての罪と咎を赦してサタンの支配、永遠の破滅から救ってくださいました。このイエス様こそ、人類を罪と死から救ってくださることができるメシヤです。このメシヤ出会った人は人生が変ります。メシヤに出会ったアンデレも変わっています。彼に喜びと行動力が与えられました。彼はすぐに自分の兄弟シモンのところに行ってメシヤを紹介しました。アンデレのようにメシヤに出会った人は、その喜びと感激を自分の親しい人たちに伝えたくなるものです。そこから家族伝道、個人伝道が始まります。
41節をご一緒に読んでみましょう。「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私達はメシヤ(訳していえば、キリスト)に会った。』と言った。」アンデレは、自分の兄弟シモンを見つけてメシヤに出会った感動とその喜びを伝えました。アンデレはバプテスマのヨハネから聞いてメシヤに出会いましたが、彼は自分の兄弟にキリストを伝えました。説明よりメシヤに出会った感動と喜びを伝えました。この単純な家族伝道によってイエス様の十二弟子のリーダーとなるペテロが立てられるようになりました。イエス様はこのシモンをどのように祝福してくださいましたか。
42節をご覧ください。「彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」とあります。ユダヤ人にとって、名前はその人自身を表わします。ですから、名前が変わるということは、その人が変わるということを意味します。聖書を見ると、人々は神様が名前を変えてくださると、変わった名前のような人になりました。アブラハムの名前がアブラム(父を愛する、彼は父のゆえに高められるという意味)からアブラハム(多くの国民の父)に変えられた時、その名前のとおりに、多くの国民の父となりました。またヤコブの名前がヤコブ(かかとをつかむ、だますと言う意味)からイスラエルに変えられた時、彼は神様によって選ばれ祝福された12部族の父として用いられるようになりました。神様が特別に名前を与えられ時は、その名前に神様のビジョンと祝福が込められているのです。つまり、イエス様がペテロの名前をシモンからケパ(訳すとペテロ)に変えられたことは、イエス様の彼への祝福とビジョンが表われているのです。生まれながらのシモン(砂という意味)は、風によって飛ばされる砂のように軽く行動する人であり、すぐ気が変わってしまいやすい性格の持ち主でした。しかし、イエス様は彼に礎、不動の岩を意味するケパという名前を与えられました。イエス様は、彼がキリストの出会いによって、キリストとの新しい関係に入ると、彼は岩のように動かない不動の器に変えられるというビジョンを持って祝福してくださったのです。イエス様がシモンにペテロという名前を与えたのは、「お前は、名前にふさわしい者にならなければならない、頑張れ、頑張るんだ、失敗したら承知しないぞ」という意味ではないのです。むしろ「あなたはペテロだ。私があなたをペテロにしてあげよう。リーダシップがあり、頼りがいのある人物、初代教会の中心的な人物にしてあげよう。」という約束なのです。実際に、イエス様の約束のとおりになりました。今日、キリスト教は、岩のような彼の上に立てられるようになりました。
このようなみわざは、今日も起こっています。私自身も経験しています。私は意志の弱い男で、何事も自分でやり通すことがなかなかできませんでした。いつも恐れるばかりで、自分は何もできないと思って意気消沈していました。特に肝炎にかかってしまった時、一日中疲れている体のために運命的になり、自殺さえを考えていました。しかし、イエス・キリストとの出会いによって変えられました。名前も台棟からダニエルに変わりましたが、今はダニエルのように信仰の中心を守り、外国の地で平信徒宣教師として生きるようになりました。何よりも今は「信じる者にはどんなことでもできる」という信仰、プラス思考を持って前向きに生きる人生になりました。
皆さんはどうでしょうか。イエス・キリストと出会っているでしょうか。イエス・キリストと出会うと、キリストとの新しい関係に入ります。そして、キリストは王として、祭司として、預言者として私たちのうちに働かれ、私たちを全く新しい者に造り変えてくださいます。
?. あなたは神の子です(43?51)
43節をご覧下さい。その翌日、イエス様はガリラヤに行こうとされました。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい。」と言われました。ピリポはイエス様のことばに圧倒されてすぐイエス様に従いました。そして、ナタナエルを見つけて「私達は、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言いました。しかし、ナタナエルは「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と答えました。ナザレは、評判の悪い町だったようです。ピリポが、ナザレ出身と言ったので、その人はキリストではないと言っているのです。彼はピリポ牧者の話を聞いてくれませんでした。むしろ、自分の知識や常識によってピリポの話を無視しました。しかし、ピリポは諦めません。彼は単純に言いました。「来て、そして、見なさい。」ピリポはナタナエルに言葉でもって反論することもできたはずです。どちらかと言うと、ピリポも頭のいい人で、いろんな言葉で説明することもできたと思います。しかし、ピリポは、難しいことを話さずに、「来て、見てみればわかるよ、」と言ったのです。そうです、イエス様のことを知るためには、来て、そして、見ればよいのです。詩篇の記者はこう言いました。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。(34:8)」。キリストとキリストの御言葉を味わうことが大切です。最近、日本でもキムチがよく知られていますが、キムチのことをいくら一生懸命話しても、その味を知らない人にとっては説明するのがとても大変です。また、説明を聞いてもよく分からないでしょう。でも、食べて見れば、一発で、キムチの味がわかります。同じように、イエス様について、神様についていろいろな意見を持っている人がいます。そうしたら、「ただ、信じてごらんよ。そうしたら、わかるから。」と言うことができるのです。
ナタナエルは、単刀直入的な人でした。真理を包み隠さず話す人であったようです。彼はイエス様のところに出て来ました。イエス様はナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われました。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」イエス様はナタナエルのすべてをご存じでした。外面の生活だけではなく、彼の内面的な生活のすべても見通しておられました。そこで彼はイエス様に言いました。「どうして私をご存じなのですか。」イエス様は言われました。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」それを聞いたナタナエルは信仰告白をしました。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」。そうです。イエス様は神の子です。そして、イエス様を「神の子」として告白することはとても大切なことです。?ヨハネ4:15節を見ると「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」とあります。イエス様を神の子として告白するなら、神様はその人のうちにおられ、その人も神様のうちにいることになるのです。結局、ナタナエルはイエス様と出会い、信仰告白して自分のうちに住まわれる神様とともに生きる神様の人になりました。
50、51節をご覧下さい。イエス様は自分のすべてを見通しておられることにびっくりして信仰告白をしたナタナエルに言われました。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」これは私達が仲介者となられるイエス様によって天が開けて、神様と正しい関係性を学び、自由に交わることができることです。イエス様は十字架の死と復活を通して私達が神様に出ていく道を開いてくださいました。
以上で、イエス・キリストとの出会いは、イエス・キリストに出会った人との出会いから始まっていることが分かります。つまり、人々はキリストに出会う前に、クリスチャンに出会うのです。どうしてこの人はこんなに祝福されるんだろうか、どうしてあの人は輝いているんだろう、なぜ、いつも笑顔で喜んでいるんだろう、彼の話なら信頼できる、私もあの人のようになりたい、そんな思いから人は、キリストの泊まるところ、教会に来ます。特に祝福された人生を生きている人たちがアンデレやピリポのように兄弟や知り合いに「メシヤに会った」と伝えると、人々はキリストのところに来ます。アンデレも、ピリポも、自分の兄弟や友だちに「来て、見なさい」と伝えただけです。そして、ペテロも、ナタナエルもイエス様のもとに来てイエス様に出会い、その出会いによって彼らの人生は変わりました。私たちも、アンデレのように、ピリポのように、家族から、身近な人たちからはじめてイエス・キリストに出会った感動と喜びを分かち合うものになりたいと思います。特に、今年のクリスマスはイエス様に出会った時の感激と喜びを再び経験し、それを多くの若者たちに伝えることができるように祈ります。