2005年マルコの福音書20講
神を信じなさい
御言葉:マルコ11:20?25
要 節:マルコ11:22「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい。』」
先週の主日まで行なわれた2005年日本全国夏修養会を大いに祝福してくださった神様の恵みを心から賛美します。私は修養会を準備しながら自分の力量の足りなさをよく感じていました。さまざまな問題もありました。しかし、私たちが毎日祈り会を設け、神様を信じて祈りに励んだ時、神様は祈りに答えてくださいました。すべての感謝と栄光を神様に帰します。
今日のメッセージのタイトルは「神を信じなさい」です。この御言葉は先々週学んだ11章前半部の御言葉とつながっています。12‐14節を見ると、葉の茂ったイチジクの木が実を結んでいなかった時、イエス様がそれを呪われたことが記されてあります。そこで、私たちはイエス様がなぜ葉っぱだけで実がないイチジクの木を呪われたのかということについて考えてみました。それは口や頭では神様を信じ、敬虔な姿をしていても実を結んでないイスラエルに対するイエス様の警告であるということでした。実際に15?19節を見ると、聖なる都エルサレムの宮は祈りの家であるはずなのに強盗の巣になっていました。イエス様がご覧になった時、イスラエルは実を結ぶところか腐っていたのです。そこで、イエス様は宮の中で売り買いしている人々を追い出し、宮をきよめてから宮は祈りの家であることを教えてくださいました。そして、夕方になると、イエス様の一行は都から外に出られました。ところが、イエス様が呪われたイチジクの木はどうなりましたか。
20、21節をご覧ください。「朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」」とあります。朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていました。葉の茂っている木だったのに、ただ一晩の間に枯れてしまったのです。しかも根まで枯れてしまいました。弟子たちは驚いたことでしょう。ただ、木が枯れていたからではなく、ただ一日の前にイエス様が呪われた木が枯れていたからです。ペテロはそれを思い出して、イエス様に言いました。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」驚嘆しているペテロの気持ちがよく現われています。ペテロはイエス様がこの木を呪われた時、こんなに早く枯れてしまうとは思わなかったでしょう。あんなに葉の茂った木が枯れてしまうとは考えられなかったのです。時になると、おいしい実を結ぶだろうと思っていたかも知れません。ところが、驚くべきことに翌朝早く見ると、呪われた木は枯れていたのです。ペテロはここで何を考えたでしょうか。それはよく分かりません。では、イエス様はこの出来事を通して弟子たちに何を教えようとされたでしょうか。
一つ目は、イエス様が創造主であり、全能の神様であるということです。葉の茂っていた木でもイエス様の一言で枯れてしまいました。この方こそ、イチジクの木を造られた方、創造主、全能の神様です。今まで学んだマルコの福音書を振り替えて見ると、イエス様の言葉には風も波も従いました(4:41)。イエス様はゲラサ人から悪霊を追い出されました。死んだヤイロの娘を生き返らせてくださいました。霊の世界を支配しておられるのです。朝早く、通りがかりに見ると、植物のいちじくの木もイエス様の言葉に従っています。イエス様は植物の世界も支配しておられるのです。本当に、動物も、植物も、目に見えるものも、目に見えないものも、イエス様に支配されています。なぜなら、それらのすべてはイエス様が創造されたものだからです。そして、創造主であるイエス様の御言葉に全能の力があるのです。イエス様がイチジクの木を呪われると、枯れてしまいました。ペテロは目の前でこのイエス様の全能の力を体験して驚嘆しました。
今も、イエス様を信じる者はそのようなイエス様のわざを見て驚嘆します。イエス様を信じる者はイエス様のようなわざをすることができます。イエス様を信じる者は、イエス様の行なわれるわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます(ヨハネ14:12)。実際に、マルコ6:12,13節を見ると、12弟子はイエス様を信じて伝道旅行に出かけました。すると、彼らはイエス様の行われるわざを行なうことができました。私たちもイエス様を信じるなら、そのようなわざを行なうことができるのです。葉の茂った木がイエス様の一言で枯れてしまうことも見ることができます。信じる者はイエス様の御力を体験することができるのです。ペテロはイエス様がなさることを見るときごとに、自分もイエス様のように力あるわざを行いたいと思っていたでしょう。ただ、一言でイチジクの木が根まで枯れてしまうようなイエス様の霊的な権威、大いなる力を自分も所有したいと思ったのではないでしょうか。それが可能になることは神様を信じることです。ですから、イチジクの木の変化に驚いているペテロにイエス様は言われます。「神を信じなさい」
二つ目は、イエス様がさばき主であると言うことです。イエス様は葉の茂ったいちじくの木を呪われました。実を結んでいなかったからです。イエス様はご自分の計画とおりに実を結ぶべきときに実を結ばなかったいちじくの木をさばかれたのです。私たちもイエス様に期待されている存在です。神様がご計画の中で創造された創造物なのです。そして、神様は私たちを創造してから放置してしまうのではありません。ずっとずっと見守っておられます。イチジクの木に雨を降らせ、太陽を照らしておられる神様は私たちに必要な物もの与えてくださいます。そして、時になると、実を見に来られます。何かありはしないかと実を見に来られるのです。その時、私たちが自分にふさわしい実を結んでいるなら、神様はどんなに喜ばれるでしょうか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結んでいるなら、神様はとても喜ばれるでしょう。実を結んでいる人、自分自身も喜んで生きることができますが、神様は非常に喜ばれるのです。しかし、時になっても神様が期待しておられる実を結んでいなければ、さばかれます。恐ろしいことですが、イチジクの木を呪われた主が実のない人生をさばかれます。実を結ぶべき時に実を結んでいない家庭も、教会も、国も神様はさばかれます。旧約聖書を見ると、いちじくの木はイスラエルを象徴する木として用いられています。ところが、イエス様がご覧になったいちじくの木は葉が茂っていました。遠くから見ると実がありそうに見えました。しかし、近づいてみると、実がありませんでした。それは当時のイスラエルの状態を現わしていました。イスラエルの信仰の状態が葉の茂ったいちじくの木のようだったのです。彼らはすばらしい神殿を持っていました。敬虔に行う宗教の形式もすばらしいものでした。しかし、中を見ると内容がなく、実を結んでいませんでした。遠くから見ると、とても美しく見えた神殿の中は腐っていました。中に入ってみると、祈りの家であるはずの宮が強盗の巣になっていました。その結果、紀元70年にローマ軍によってエルサレムは陥落され、神殿は破壊されます。
では、今日私たちの状態はどうでしょうか。主が遠くから私たちを見ると、すばらしく見えるかも知れません。表面的には世界的な宣教団体であり、聖なる国民、祭司の王国を目指す、敬虔な教会です。ところが、イエス様が私たちの教会に、私の所に近づいてこられた時、どう思われるでしょうか。私たちは礼拝をささげています。高らかに声を上げて賛美をしています。メッセージもよく聞いています。たまに、居眠りする方もいるけれども、毎週欠かさずに礼拝の御言葉を聞いています。これらのことは大切なことです。しかし、それらよりはるかに大切なのは礼拝をささげている私たちが生活の中でどれほどの実を結んでいるかということでしょう。どんな実を結んでいるのかということでしょう。礼拝の時間だけでは、本当に実を結んでいるかどうかが分かりません。礼拝の後に、私たちの行動がどのように変わっているのかが大切なのです。私は昔の自分ではない、もう怠け者ではない、つぶやくものではないと言えるでしょうか。私たちも以前は、愚かな者であり、不従順であり、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした(テトス3:3)。しかし、今は支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者になっているでしょうか。また、だれをもそしらず、争わず、柔和ですべての人に優しい態度を示す者になっているでしょうか。昨日よりは少しでも親切な人になり、愛の人、謙虚な人、仕える人になったと言えるでしょうか。
私たちは今年のSBCを通して大きな恵みを受けました。私は多くの方たちから本当に大きな恵みを受けたと聞きました。もちろん、次回の修養会のために改善すべきことも聞きました。私自身は涙を流すほどに恵みを受けました。神様のご臨在、聖霊の働き、神様のあわれみを深く体験しました。修養会を通して悔い改め、もっともっと道であるイエス様に頼って生きようと決断しました。ではこれからどうするべきでしょうか。もう祭りは終わったからそれでいいでしょうか。神様は私たちに受けた恵みにふさわしい実を結ぶことを期待しておられるでしょう。恵みを受けた人らしく、信仰と希望を持って生きること、クリスチャンらしく、聖なる国民らしく生きることを期待しておられるのではないでしょうか。イエス様は私たちの東京UBF教会が言葉や口先だけではなく、真実と行ないによって愛する教会になることを期待しておられます。どんな方がはいってきても親切に迎えてくれる教会、喜びと平安とに満ちている教会としての実を結ぶことを望んでおられるのです。イエス様は私たちが職場でも実を結ぶことを期待しておられるでしょう。家でもそうです。ある人は「今日、仕えるしもべイエス様を学んだでしょう。ちょっと仕えてちょうだい。」言うそうですが、それはどうでしょう。イエス様が私に実を期待しておらえるし、時になっても私が実を結んでいなければ、私をさばかれるのです。イエス様がさばかれると、今は葉の茂っているように見える人生でも枯れてしまいます。ですから、私たちは何の実もなく枯れてしまうその日が来る前に、実を結ばなければなりません。人生において実を結ぶことはとても大切なことです。
では私たちが実を結ぶ生活をするためにはどうするべきでしょうか。
第一に、神様を信じることです。
22節をご一緒に読んで見ましょう。「イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。」」21節を見ると、ペテロはイエス様の御言葉を思い出して「あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」と言いました。ペテロは実を結ばないと呪われてしまうことに対する不安があったようです。そこで、イエス様は「神を信じなさい」と言われました。私が言ったとおりになったのではないか、「御言葉の力を信じなさい」ということです。「宗教指導者たちのように律法や制度に縛られないで、神様を信じなさい」ということです。葉の茂ったイチジクのように、人に見られるところだけを飾る者ではなく、「神を信じる者になりなさい」ということです。宗教指導者たちは目に見える宗教的な活動、やり方を気にしていますが、あなたがたは「神を信じなさい」ということです。
イエス様は弟子たちに信仰を求められました。イエス様は弟子たちに「神学的な知識をそろえなさい。」と言われませんでした。「議論しても宗教指導者たちに負けない実力を持ちなさい」と言われませんでした。ペテロは自分がガリラヤの漁師出身に過ぎず、エルサレム大学出身でもないからイエス様のような働きはできないと思っていたかもしれません。自分はリーダーとして大きなわざを行なうためには力量が足りなく、限界があると思ったかもしれません。どうやって実を結ぶ人生を生きられるかという心配もあったでしょう。しかし、イエス様はペテロの出身背景と学歴と知識などを問題にされませんでした。イエス様はペテロに人間的に弱点が多く、足りないところが多くあっても彼が本当に神様を信じるなら、実を結ぶ人生になると信じました。イエス様は彼が神様を信じるなら、偉大な能力と、霊的な権威を持つ神様のしもべになることを信じておられました。イエス様はその信仰と希望を持ってペテロに言われました。「神を信じなさい」
では、神様を信じる者はどれほどのことにチャレンジすることができますか。
23節をご一緒に読んでみましょう。「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」山の特徴は何でしょうか。動かない、動かすことができないことでしょう。山に向かって、『動いて、海にはいれ。』ということは望めないことです。ところが、イエス様はその「山に向かって『動いて海にはいれ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」と言われました。イエス様は神様を信じる者は山に向かって『動いて、海にはいれ』ということができると教えておられます。神様を信じる者は全く不可能に見えることにチャレンジすることができるのです。そして、信仰のある者は、人々ができないと思っているものにチャレンジして全能の神様の力を体験します。できそうに見えるものだけにチャレンジしてできたら、大いなる神様の力を体験することができません。
この間、私はある方から今の会社が不安な状態ですが、自分の年も35歳を過ぎているから転職もできないから自分の将来が不安だったと聞きました。ところが、彼より10歳近く先輩である李ヨシュア宣教師は信仰によって40代に大学にチャレンジして進学し、修士号を取りました。信仰によってチャレンジすると48歳の年にも就職できました。このように不可能に見えることにも、信仰によってチャレンジすると、大いなる神様の御力を体験することができます。その人生には実があります。顔も輝いています。ですから、私たちに人生において最も大切なことは神様を信じることです。牧者や宣教師たちにとっては弟子養成が富士山のように見えるかもしれません。兄弟姉妹たちの心を動かすことは富士山を動かすようなことでしょう。しかし、イエス様は私たちに言われます。「神を信じなさい」
第二に、祈ることです。
24節を読んでみましょう。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」ここには、祈りがどのように答えられるかが書かれています。「神様を信じる者の祈りは働くと、大きな力があります。エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び、祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました(ヤコブ5:16?18)」祈る人に神様は実を実らせてくださいます。信仰による祈りをするとき、私たちの心にサタンが植えつける疑いと恐れの病が癒されます。その代わりに、神様が与えてくださる信仰と確信に満ちるようになります。ですから、信仰による祈りは病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。祈る人の心に変化が起こり、心も、体も癒されるようになります。祈って求めることによって山が動かされる神様の力を体験することができます。ですから、私たちは信仰を保つために、さらに大きな信仰を持ち、大いなる神様の御力を体験するために祈らなければなりません。祈る時、大切なことは祈って求めたことを、すでに受けたと信じることです。自分が祈り求めるものをすでに受けたと信じると、それがかなえられます。
単純に祈ると、祈りの中でさまざまな問題が解決されます。どんな問題でも無条件、神様にひざまずいて祈ってみてください。祈ると、祈って求めるものが与えられるだけではなく、自分の考えを超えたベストのものが与えられます。今の自分の生活に困っている問題があるでしょうか。神様に祈ってください。自分の家族に問題が見えるでしょうか。この教会に問題が見えるでしょうか。自分の会社に問題が見えるでしょうか。自分の方から進んで神様に向かって祈りましょう。
私たちは祈る時、複雑に考えないで、直接的に、積極的に祈る必要があります。ある人は日本人の祈り方と韓国人の祈り方の違いについてこういうことを言っていました。親切で礼儀正しい日本のクリスチャンは祈る時も、とても丁寧に祈るそうです。神様にご迷惑をかけないように気をつけながら祈るんです。神様の御心なら助けてください。声も小さくして周りの人に迷惑をかけないように気をつけているのです。ところが、韓国人の祈りは単純明確です。「主よ!○○○をください。ください、ください、くださったことを信じます。」ある点では、無礼な言い方です。声も大きくて隣の人にはじゃまでしょう。ところが、どちらの祈りがもっと答えられているでしょうか。正確なデータはよく分かりませんが、単純な韓国人の祈りがもっと答えられているようです。祈る時、単純に祈りましょう。子どものように祈りましょう。子どもは「ママ!○○○をください。ください。」と求めます。求めても与えられないと泣いてしまいます。子どもは母に求めると、何でも与えてくれると確信しているからです。親が自分の必要を満たしてくれることは当たり前だと思っているでしょう。私たちもそういう確信を持って祈りましょう。とりあえず祈り求めると、神様が私たちにベストのものを与えてくださいます。
ところが、ある方は自分が確信を持って祈っているのに、あまり答えられないと言います。自分の生活の中で、祝福があまりない、神様のいのちや力を体験しない、と思っている方がいるのです。それは対人関係が解決されていないからです。人との葛藤があったり、心の中に恨みこと、妬みこと、高慢などがあったりするのです。つまり、人を赦していないのです。教会に来ても気になる人がいるなら、その人の祈りには力がないでしょう。教会に来ても、会社に行っても、自分の家に行っても人々の弱点がよく見えている人は祈ってもなかなか祈りが答えられないのです。神様の御前で生きるということは人々の間では自分勝手に生きていてもいいということではありません。対人関係がよくなければ祈り生活もうまくできないのです。人生の実を結ぶこともできなくなります。ですから、イエス様は何と言われますか。
第三に、人生の実を結ぶためには人を赦すことです。
25節を読んでみましょう。「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」私たちが祈っても問題が解決されないならそれは赦しの問題です。私たちが人を赦しているか、そうでないかということはとても重要なことです。なぜなら、自分が赦されるためです。「赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」と言われているとおりです。神様との関係が正しくないのに、祈りが答えられることを期待することは無理なことではないでしょうか。ですから、祈ろうとする時、罪が解決されているかどうか、深く考えて見る必要があります。イザヤはこう言っています。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(59:1,2)」パウロは「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」と勧めています。
私たちは修養会の時、十字架のメッセージ、洗礼・聖餐式の御言葉を通してすべての罪が赦されていることを学びました。イエス様は、「たとい、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださいます(イザヤ1:18)。」「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(?ヨハネ1:9)。」イエス様は私たちを赦すために多くの苦しみを受け、十字架の上で御血を流されました。イエス様は私たちを赦すためにご自分のいのちをお与えになったほどに私たちを愛してくださったのです。虫に等しき私たちを赦して救うためにあれほどの大きな代価を払ってくださったのです。どうか、私たちが自分の罪を赦すために残酷な十字架刑を受け、十字架の上で流されてイエス様の十字架の血潮を覚えて感謝し、人々を赦すことができるように祈ります。皆さんの中には私に対して赦せないことがあるかも知れません。もしそういうことがあるなら、壇の上に立っている者としてとても恥かしいことですが、イエス様の十字架を覚えて赦してください。皆さんの祈りが答えられるためです。正直に私にとって赦していない方はいません。自分の足りなさのために皆さんにすまない心はありますが、赦せないと思っている方は一人もいません。どうか、私たちひとりひとりが2005年の夏修養会を一つの区切りにして赦された者としてすべての人々を赦して愛する生活に励むことができるように祈ります。すると、私たちの祈りは働くと、大きな力があります。祈りが答えられる喜びを経験することができます。
私は今回の修養会を通して多くのことを経験しました。そのひとつは信仰の祈りを聞かれる神様を体験したことです。90人以上の参加のために祈ったのですが、そのとおりでした。雨が降るように祈ったのですが、それも答えられました。Paul Hong宣教師を招きましたが、リーダーたちが新しく、信仰を回復し、ビジョンを持たせるためです。多くのリーダーたちがそのようになったことを聞きました。今年初めてのCBFの修養会のことで韓国の出身センターに支援をお願いする時は、信仰がいるものでした。私が4月に光州センターに行った時、財政委員会で3人の牧者を支援することが決まっているということでした。それだけでも感謝するべきことですが、50人を超えるメンバーに仕えるためには足りない人数でした。それにUBFの修養会も同時に行なわれるのでCBFのプログラムも企画して全幅的に支援していただかなければならないと思いました。それで、このような事情を話しますと、光州センターでは再び財政委員会を開いてCBF修養会の経験がある方を中心にメンバーを構成し、すべてを準備してくださいました。ところが、修養会の直前になって日本の修養会なのに韓国語を使うのかということで心配する声を聞きました。私はがっかりしました。でも、神様は祈り会を通して「神を信じなさい」という御言葉を与えてくださり、神様がなさるみわざは、必ず神様が祝福してくださると信じるようにしてくださいました。そして、神様はその信仰の祈りを祝福してくださいました。CBFの親たちから期待以上の成果があったと言われました。神様に感謝します。本当に、神様を信じることをとても大切なことです。神様を信じましょう。私はこの御言葉を準備しながら来年のSBCに120名以上の参加のために祈ることにしました。皆さんの神様を信じて祈ってください。UBFが2041年までに10万の宣教師を派遣するように信仰を持って祈りましょう。日本からも12000人の宣教師を派遣することができるように信仰を持って祈りましょう。イエス様は私たちに言われます。 「神を信じなさい。」
結論的に、私たちが本当に、豊かな実を結ぶ人生を生きるためには神様を信じることです。そして、神様を信じる人は祈る人です。本当の信仰は祈りによって現われます。本当に神様を信じている人は祈っている人です。昨日の日ごとの糧の御言葉の中に「しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです。」とありました。私たちが愚かな議論、口論、論争を避けて信仰の祈りに励むことができるように祈ります。そうして、山が動いて海にはいるような神様のみわざを体験することができるように祈ります。
「神を信じなさい。」