1999年コリント人への手紙第二 第9講(♪229)

 

わたしの恵みは、あなたに十分である

 

御言葉:コリント人への手紙第二12:1?13:13

要 節:コリント人への手紙第二12:9

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、

わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで

私の弱さを誇りましょう。」

 

 今日の御言葉は10,11章に続くパウロの使徒職に対する弁護です。12章でパウロは自分の神秘的な体験とともに自分の弱さを誇る理由と自分の使徒としてのしるしが何かを言っています。13章は最後の勧めの言葉です。

 今日の御言葉を通して神様が私達に施された恵みはどんな点で十分であるかを考えてみたいと思います。それによって神様から受けた大きな恵みを覚えて主に感謝することができるように祈ります。

 

?.パウロの幻と肉体のとげ(12:1?10)

 

第一に、パウロの神秘的な体験(1?6)

 1節をご覧下さい。パウロは自分を誇るのが無益なことであることを知っていました。実際に人間的なことを誇るのは人を高ぶらせ、偽り者にします。また、相手の心を傷つけ、結局争いを起こします。人間的な誇りは自分にも相手にも無益なことです。パウロが誇ろうとするのは人間的な誇りではなく主の幻と啓示のことでした。それもコリント教会の人々の信仰のために、やむをえず、誇ろうとしています。当時、にせ使徒たちは神秘的な体験を話すことによって自分を誇り、パウロを非難したので彼らの口をふさぐために仕方なく自分が体験した神秘的なことを誇ろうとしました。

 パウロは十四年前にあった神秘的な体験を話します。彼は自分を3人称化して話すことによってできるだけ自分が現われないように話します。十四年前はコリント人へ手紙を書いた時期を紀元55‐56年と見ると、紀元41‐42年の時です。その時、パウロはタマスコの途上で復活されたイエス様に出会ってから故郷であるタルソに行って神様の御言葉を黙想している時でした。その時、彼はパラダイスに引き上げられ、天国を味わう神秘的な体験をしました。「第三の天」とは神様がおられるところであり、彼が引き上げられたのは聖霊に支配されたことを言ってくれます。彼が聖霊の導きによってパラダイスに引き上げられた時、それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りませんが、神様はご存知であると言いました。彼はパラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞きました。彼はこのような神秘的な体験をした後、14年間も沈黙していましたが、コリント教会の人々のためにやむをえずそれを話しました。

 ここで考えてみたいことは神秘的な体験が信仰生活にどんな影響を及ぼすのかということです。神秘的な体験は主と深い人格的な関係性や愛の関係性を結ばせてくれます。使徒パウロは体験を通してキリストの愛を確信していたので「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:35)と叫ぶことができました。また、神秘的な体験は福音の働き人としての召されに対する確信を与え、使命を担うことができる力を与えます。また、神の国に対する望みを与えてこの世に縛られず、聖なる巡礼者として生きるようにしてくれます。さらに、神のみわざのために働こうとする霊的な熱心を与えてくれます。18世紀半ば頃、アメリカが生んだ偉大な説教家であり、神学者であり、哲学者であり、思想家であったジョナタン・エドワードは信仰とは今日神様に実存的に出会うことだと言いました。すなわち、信仰は理論ではなく神様との生きた出会いだということです。

 一方、神秘的な体験は危険性もあります。神秘的な体験をした人が個人的な確信を持ちすぎて高慢になる場合があります。たとえば、異言を語る人が異言を語れない人を判断したり、無視したりすることです。神秘的な体験をした人が聖書の御言葉をおろそかにして神秘的な体験だけを求めながら信仰生活が変な方向に流れてしまうこともあります。健全な信仰を所有するためには、私達の信仰が主の御言葉に基づいていなければなりません。このような危険性のためにパウロは十四年間も沈黙していました。

 

第二に、肉体に一つのとげを与えられた御旨(7?10)

 7節をご覧下さい。「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」肉体のとげが何かについてはいろいろな説がありますが、正確にはわかりません。ただ、肉体のとげと言ったのを見ると、持続的な肉体の苦しみがあったと思われます。また、肉体のとげを「サタンの使い」と言ったのを見ると、体が弱くて生じた肉体的な病気ではなくサタンが彼を妬んで神様の許可を得て彼を苦しめるために与えた病気であることがわかります。神様がこのような肉体のとげを与えられた御旨は何でしょうか。それはパウロが受けた啓示があまりにもすばらしいものだったので、高ぶることのないようにでした。

 ここで私達はパウロに対する神様の繊細な愛を知ることができます。神秘的な体験を多くした人が陥りやすいのは霊的な高慢です。人間的な高慢は悔い改める機会がありますが、霊的な高慢に陥った人はなかなか難しいです。教祖になった人々は自分なりの神秘的な体験をして霊的に高慢になった人々です。神様は使徒パウロが高ぶることのないように、彼を打つための、サタンの使いを許されたのです。信仰生活において私達が戦うべき一番大きな敵は外からの敵ではなく内側にある敵である高慢です。高慢は失敗した時に生じるのではなく成功した時に生じます。それでは私達は成功しないほうがいいでしょうか。いいえ。そうではありません。神様は私達が成功すること、多くの実を結ぶこと、祝福されること、恵みを受けることを望んでおられます。しかし、その時、覚えなければならないことがあります。それはそれらの祝福が神様から与えられたものだということです。そして、すべての栄光を神様に帰すべきです。その時に、自分のうちに働く高慢と戦って謙遜になることを学ばなければなりません。それが続けて恵みを受け、祝福を受ける秘訣です。聖書は次のように言っています。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(?ペテロ5:5)。神様が尊く用いられた人はみな謙遜な人でした。

 パウロは肉体のとげがどんなに苦しかったかこれを去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。一般的に人々は苦しみを受けると神様の愛を疑ったり、神様につぶやきやすいです。しかし、パウロは問題解決のために主に祈りました。「主よ。このしもべの肉体のとげを去らせてください。」しかし、主は言われました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」この御言葉から幾つかの学べることがあります。

 第一に、神様の恵みは、私達に十分だということです。自分は神様から恵みを受けてないし、受けたとしても少ないと思う人もいるでしょうか。しかし、私達はすでに十分な恵みを受けました。神様から受けた一番基本的な恵みであり、大切な恵みは救いの恵みです。私達は過去心の欲望のままに罪を犯し、罪悪感のために苦しみました。ある人は罪による頭痛によって苦しみました。ある人は悪夢で苦しみました。ある人は虚しさと自殺したい心でさいなまれていました。神様はこのような私達を哀れみ、一人子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして、イエス・キリストの十字架の犠牲によって私達を罪と死の勢力から救ってくださいました。イエス様は私達のすべての罪を赦し、値なしに救いの恵みを施してくださいました。神様は十字架と復活によって私達に永遠のいのちと神の国に対する生ける望みを与えてくださいました。そして、神の国に向かって進む聖なる巡礼者の人生を過ごすようにしてくださいました。これはいくら考えても驚くばかりの神様の恵みです。

 神様はこの救いの恵みだけではなく生きている間、神様のために働ける聖なる使命を与えてくださいました。もし、私達が救いの恵みだけ受けて何もすることがなければどれほど惨めなことでしょうか。人は働く存在として造られたので何か価値あることのために熱心に働く時、生きる喜びや幸せを感じることができます。人は何もしないで毎日のんびりしていると幸せになりそうですが、決してそうではありません。人の幸せは何もしないで毎日のんびりしているのにあるのではなく、価値ある仕事のために熱心に働くのにあります。 

 神様は私達に一番価値と生きがいがある仕事を任せてくださいました。それは永遠に滅びるしかない人々に福音を宣べ伝えて命を生かす仕事です。世の中にこれより尊く価値のある仕事はありません。この仕事は自分に能力や資格があるから与えられたのではありません。それはただ神様の恵みによって与えられたのです。ですから私達が生きている間に神様のみわざのために働くことは大きな恵みであり、祝福です。

 このように神様は私達に十分な恵みを与えてくださいました。ところが、私達は時々恵みを全然受けてない人のように、恵みを少なく受けた人のように不平不満を持つときがあります。これは神様の御前で大きな罪です。私達が励むべきことは神様から施された恵みを覚えていつも感謝することです。

 第二に、苦しみがなくなることだけが恵みではなく苦しみを受けることも恵みだということです。パウロは肉体のとげのために謙遜になり、主に頼り、主の十字架の苦しみに参加し、それを通して復活の力を体験できたので恵みでした。一般的に人々は苦しみがなくなれば幸せになり、苦しみがあれば不幸だと思います。しかし、そうではありません。私達は苦しみを通して主の恵みをもっと深く体験することができるし、復活の力を体験することができます。また、ヨセフのように苦難を通して神様に用いられる指導者として成長することができます。それで詩篇の御言葉は次のように言っています。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(詩篇119:67)。

 第三に、神様の働く方法です。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」この御言葉には神様が働かれる方法がよく現われています。神様は人間の強さを通して働かれるのではなく、人間の弱さを通してご自分の力を現わすことを願っておられます。人間は自分の強さを信じる時には神様に頼りません。しかし、自分の弱さを深く悟る時、謙遜に神様に頼ります。神様は全幅的にご自分に頼る人を通してご自分の力を現わされます。

 神様はアブラハムを召されて25年目に息子イサクを与えてくださいました。その時、アブラハムの歳は100歳で彼の体は死んだも同然でした。また、彼の妻サラも90歳で子供を産むことは不可能なことでした。しかし、神様はその時、アブラハムとサラに息子イサクを与えてくださることによって、ご自分の力を現わされました。

 モーセは自分の力によってイスラエル人を救うことができると思ったとき、失敗するしかありませんでした。しかし、40年間の荒野の訓練を通して完全に自我が砕かれ、自分の力では何もできないことを悟った時、神様は彼を呼ばれ、彼を通してイスラエル人をエジプトの奴隷から解放してくださいました。神様は自分を信頼する人を用いられません。自分の弱さを深く悟って全能なる神様に全幅的に頼る人を用いられます。

 鄭ダニエル宣教師は自分が音痴であることを恥ずかしく思っていました。しかし、イエス様に出会ってからは大胆に主を賛美するようになりました。ある日、ダニエル宣教師が歌っているのを聞いたある兄弟は「音痴でも牧者になれるんだな」と思い、勇気付けられたそうです。神様はダニエル宣教師の弱さを通してご自分の力を現わしておられます。

 このような神様の働かれる方法を悟ってから苦しみと弱いことに対するパウロの姿勢はどのように違ってきましたか。9b,10節をご覧下さい。「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」一般的に人々は自分の強さ、知恵、富、成功を誇ります。自分の弱さ、失敗、貧しさは恥ずかしくて隠そうとします。しかし、使徒パウロがそれらの意味がわかった時、苦しみや弱いことに対する姿勢が完全に変わりました。彼は、キリストの力が彼をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りました。それは彼がそのような苦しみを通してキリストの十字架の苦難に参加し、復活の力におおわれるようになるからです。

 水野源三さんは9歳の時に高熱による脳性麻痺で首から下とことばの自由を失いました。誰が見ても彼は不幸な人でした。しかし、彼は13歳の時、洗礼を受けて18歳の時から五十音表を使って詩作を始め、彼の詩は多くの人々にキリストの愛と、生きる意味を与えています。彼の詩を紹介したいと思います。

 苦しまなかったら

もしも私が苦しまなかったら

神様の愛を知らなかった

もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら

神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら

神様の愛はあらわれなかった

 キリストを知るためだと分かりました

病に倒れたその時には涙流して悲しんだが

霊の病いやしたもう

キリストを知るためだと分かり

喜びと感謝に変わりました

友にそむかれたその時には

夜も眠れずに恨んだがとわに変わらない友なる

キリストを知るためだと分かり喜びと感謝に変わりました

過ち犯したその時には

心を乱しくやんだが

すべてをばつぐないたもう

キリストを知るためだと分かり

喜びと感謝に変わりました

 

?.パウロの愛と恐れ(12:11?21)

 

 パウロは、コリントの聖徒達が自分を使徒として受け入れることを望みました。それは彼があの大使徒たちにどのような点でも劣るところはなかったからです。彼は12節で自分の使徒としてのしるしは、忍耐を尽くして彼らの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざであると言います。彼には使徒としてのしるしがあったので確信を持って福音のみわざに仕えることができました。

 私達が神様のみわざのために働こうとすると、福音の働き人としてのしるしが必要です。それでは私達において福音の働き人としてのしるしは何でしょうか。それは、神様が私達を命を生かすみわざに召されたことです。特に神様は私達をこの国のキャンパスの福音のみわざと世界宣教のために召されました。天と地を造られた全能の神様が私達を召されたという確信はどんな状況の中でも福音の働き人として仕える原動力になります。また、外側のしるしとしては私達が宣べ伝えた福音によってキャンパスの兄弟姉妹達が新しく生まれ、さらに弟子として成長することです。これこそ神様が私達をこの時代の使徒として召されたしるしなのです。

 13‐18節にはコリント教会の人々に対する使徒パウロの愛がよく現われています。パウロはコリントの聖徒達のところに行こうとして、三度目の用意ができていました。しかし、彼らに負担はかけないために心を配っています。パウロが求めているのは、彼らの持ち物ではなく、彼ら自身だからです。当時、にせ使徒達は人の魂にはあまり関心がなく、持ち物にもっと関心がありました。しかし、パウロは彼らを通して何かを得ようとするのではなく親が自分の子供を愛するように彼らを愛しました。15節をご覧下さい。「ですから、私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。」パウロは彼らを愛していたので彼らの救いのためには喜んで自分を犠牲にしようとしました。パウロは彼らの本当の牧者でした。

 今までパウロが自己弁護した本当の目的は何でしょうか。19節をご覧下さい。「あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。」20,21節でパウロは自分の恐れていることがある言います。それは彼が行ってみると、悔い改めず、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないかということです。パウロは彼らが自分の罪を悔い改めて神様との正しい関係性を結ぶことを切に願いました。

 13章はパウロの最後の勧めです。5節をご覧下さい。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。・・あなたがたがそれに不適格であれば別です。・・」コリント教会の人々は今までパウロの使徒としての権威をためして来ましたが、これからは自分自身の信仰をためし、また吟味しなければなりません。自分の信仰が純粋なものであるかどうか、自分の信仰が神様に喜ばれるものであるかどうか、自分のうちにイエス・キリストがおられるかどうかを吟味しなければなりません。

 11‐13節まではパウロの最後の勧めです。「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。 聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」

 要節をご一緒に読んでみましょう。コリント人への手紙12:9「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」神様が私達に施してくださった恵みは十分です。この神様の恵みをいつも覚えて主に感謝する生活ができるように祈ります。