1999年度新年特別メッセージ
恥じることのない働き人
御言葉:テモテへの手紙第二2:14?26
要 節:テモテへの手紙第二2:15
「あなたは熟練した者、すなわち、真理の御言葉をまっすぐに説き明かす、
恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」
新年あけましておめでとうございます。今日の御言葉は使徒パウロが若い牧者テモテに恥じることのない働き人となることと自分をきよめて尊く用いられる働き人となることを進めている御言葉です。パウロは間もなくこの世を去るようになります。テモテはパウロの後継ぎとして異端が勢力を得ているエペソでパウロが伝えてくれた福音の真理を守らなければなりません。パウロはテモテに偽りの思想の正体は何であり、福音の働き人としてどうやって福音を守り、どんな姿勢を持って神様の教会に仕えなければならないかを教えてくれました。今日の御言葉を通して恥じることのない働き人となり、神様の救いの御業に尊く用いられるように祈ります。
?。恥じることのない働き人(14ー19)
14節をご覧下さい。「これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」パウロはテモテに教会の中で論争をしないように、神の御前できびしく命じるように言いました。テモテ第一の手紙でもパウロは偽りの教えを説いたり、果てしのない空想話と論争をする偽りの教師達を警戒し、退けるように命じました(?テモテ1:3,4,4:7a、6:3-10)。その後、3,4年が過ぎましたがこの問題は解決されていませんでした。彼らは巧妙な話によって信じる人々を惑わしました。彼らと論争すると惑わされるしかありません。ですから一番良い解決策は彼らと論争しないことです。論争するのは何の益にもなりません。論争はお互いに傷つけ、普段持っていた悪い感情が爆発するようになります。興奮状態では相手の弱点を非難するだけですから心に大きな傷と痛みを与えます。関係性が破壊され、信頼性を失うようになります。また、論争したり、感情的になって争う指導者達を見ると尊敬する心がなくなり、共同体に対する不信を持つようになります。ですから、どんな理由があっても論争してはなりません。パウロは論争しないようにきびしく命じてからテモテに何を命じましたか。
第一に、真理のみことばをまっすぐに説き明かしなさい(15)
15節をご覧下さい。「あなたは熟練した者、すなわち、真理の御言葉をまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」真理の御言葉をまっすぐに説き明かす、恥じることの働き人となるように言いました。恥じることのない働き人となるためには、真理の御言葉をまっすぐに説き明かさなければなりません。ここで「真理の御言葉」とはイエス・キリストに対する信仰による救いを得させる聖書の教えと戒めです。「まっすぐに説き明かす」とは、道をまっすぐにする意味で真理の御言葉を正しく解釈して教えることを意味します。当時様々な異端思想は羊達を惑わしました。それで牧者の一番大きな使命は羊達を偽りの思想から守ることでした。羊達を守るために牧者がするべきことは何でしょうか。何よりも真理の御言葉をまっすぐに説き明かし、教えることです。今の時代も同じです。牧者は真理の御言葉をまっすぐに説き明かす聖書先生にならなければなりません。最近話題となっている法の花という新興宗教の代表者は自分は天の声を聞いてそのとおりにすると言っていました。彼はそのようにして多くの人々を騙して金を儲けました。羊の群れを預かっている牧者は何よりも真理の御言葉をまっすぐに説き明かす聖書先生にならなければなりません。そのためには学者の姿勢を持って聖書を学ばなければなりません。ベレヤの人々のように非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べる姿勢が必要です(使徒17:11)。問題が発生する時御言葉に頼り、真理の御言葉から問題の解決策を探さなければなりません。御言葉に頼って祈らなければなりません。それで羊達の中に働くサタンの理論と思想を打ち破ることができる鋭い御言葉のしもべにならなければなりません。新年には私達が日々聖書を読み、研究することができるようにいのります。
恥じることのない働き人となるためには道徳的にも信仰的にもきよく、正しく生活をしなければなりません。理論的な聖書の知識だけで羊達を神様に導くことはできません。道徳的な生活が伴い、実生活の中でその真理が証明されなければなりません。大抵異端達は教えは論理的で非常に合理的ですが彼らの生活は不道徳的であり不法と淫らな生活が多くあります。このような生活を正当化するために様々な方法によって人々を騙し、暴力や脅迫や残忍な方法を使います。ですから自分が教える真理が自分の生活を通して必ず証明されなければなりません。いくら口先では正しいことを言ってもその生活がめちゃくちゃだったら神様と人々の前で恥じる働き人となるしかありません。ですから福音の働き人は自分の生活を通して神様と人々の前に恥じることのない働き人として認められなければなりません。真理の御言葉をまっすぐに説き明かすために励まなければなりません。偽りの理論を打ち破り、羊達を守らなければなりません。それだけではなく積極的に真理の御言葉を実践する、恥じることのない働き人にならなければなりません。パウロはテモテに真理の御言葉をまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神様にささげるよう、努め励みなさいと言いました。
第二に、俗悪なむだ話を避けなさい(16-19)
16?17節をご覧下さい。「俗悪なむだ話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔に深入りし、彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。」パウロは偽りの教師達の悪い影響がどれほど大きく深刻なものであるかを悟らせ、俗悪なむだ話は避けなさいと言いました。「俗悪なむだ話」とは神様の御名をみだりに唱えたり、無意味で偽りに満ちたグノーシス主義者達の教えを指しています。このような話に惑わされた人はますます不敬虔に深入りします。彼らは語れば語るほど神様から遠ざかってこの世と調子を合わせるようになります。聖なる生活から離れてますます世俗的な生活を慕うようになります。キリストに見習う生活をすることを嫌がり、堕落した本性に従うようになります。それだけではありません。17節を見ると、彼らの話は癌のように広がると言っています。異端思想や偽りの教訓は癌のようにたましいを滅びに至らせます。その一人で終わるのではなく共同体全体に広がるのです。ですから、俗悪なむだ話を避けなければなりません。
俗悪なむだ話をする代表的な人としてヒメナオとピレトの名前が出ています。彼らは根本的な間違いは何でしょうか。18節をご覧下さい。「彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。」彼らは真理からはずれてしまいました。彼らはグノーシス主義者の思想の影響を受けて二元論的に見ました。彼らによると物質世界は悪で霊的な世界は善です。人間の肉は悪で霊は善だと思いました。はなはだしくは肉体はたましいの墓だと思いました。たましいが肉体から離れることが救いだと思いました。それで自殺を美徳だと思いました。なぜなら自殺は監獄のような肉体から自分のたましいを脱出させる偉大な行為として考えたからです。彼らにとってからだの復活は祝福になることができませんでした。それで彼らは死者の復活を否定しました。イエス様が教えてくださった復活は霊的な復活を意味すると言いました。道徳的に新しい生活をするのが復活であり、霊的な知識を悟るのが復活だと主張しました。彼らはからだの復活を否定したのでキリストの復活も否定しました。キリストはイエスという青年のからだを借りていたが十字架につけられる直前にからだから離れたと主張しました。もちろん私達クリスチャンの復活も否定しました。このような偽りの話で聖徒達の信仰を崩していました。からだの復活がなかったならキリストの復活もなかったでしょう。キリストが復活されなかったのなら、キリストの死は無駄な死になります。キリストの死が無駄であるなら、私達の罪の赦しも偽りとなります。それだけではなく復活がないとしたら、イエス様が天に上られることもありえないことです。するとイエス様の再臨もありません。再臨がなければさばきもなく、永遠の神の国もありません。このように復活を否定するとキリスト教のすべての真理が崩されてしまいます。私達が信じているすべてのことが無駄なことになります。キリスト教のすべての真理はイエス・キリストの十字架の死と復活に根拠を置いています。イエス様の死、復活、昇天、再臨の真理は四つの柱だと言えます。従って復活を否認する人々は私達の信仰を根こそぎ取り除こうとする福音の敵です。
しかし19節をご覧下さい。「それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」」ここで神の不動の礎とは、教会のことです。異端思想は人々の信仰を崩すことはできても神様の教会を崩すことはできません。神様の教会は真理の礎の上に堅く置かれているので決して崩れることがありません。
?.尊いことに使われる器(20?22)
20節をご覧下さい。「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。」大きな家にはあらゆる種類の器があります。金の器、銀の器があります。木の器、土の器もあります。恥ずかしいことに使われるもの、名誉あることに使われるものもあります。いろいろな物があります。教会内でも同じです。教会にはいろいろな人々が混ぜています。教会はあらゆる種類の人々が必要です。聖書では教会の働き人を器としてたとえています。神様は使徒パウロを指してこう言われました。「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒9:15)。パウロが神様から受けた報酬は特別な名誉でも特権でもなく、特に高い地位でもありませんでした。彼の報酬は神様の器として用いられることでした。大きく分ければ尊いことに用いる器と卑しいことに用いる器があります。ある器は綺麗なものを入れる器として用い、ある器は卑しいものを入れるものとして用います。このようにある人はモーセのように神様の救いの御業に尊く用いられます。ある人はパロ王のように神様の敵として用いられます。パウロのような土の器が栄誉あるところに用いられ、ユダのような金の器が一番不名誉の器として用いられることもあります。ですから私達は自分を神様の御業に用いられるにふさわしいものとしようと、常に考えなければなりません。それでは私達はどうすれば神様に尊い器として用いられることができるでしょうか。
21節をご覧下さい。「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」「これらのことを離れるなら」とは異端思想から離れることを意味します。誰でも自分自身をきよめて、異端思想から離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。金の器だけ尊いことに使われるのではありません。プレスチックの器も尊いことに使われることができます。いくら高い器だとしても中が汚れていたり、汚いものが入っていたりすると使うことができません。ですから、私達は自分自身をきよめなければなりません。神様が用いようとする時、いつでも自分を捧げる準備ができていなければなりません。心の中に汚れたものが入っていると神様に用いられることができません。神様が用いられる条件は器の問題ではなく清さの問題です。
それではパウロはテモテにどのように自分をきよめるように言いますか。22節をご覧下さい。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」パウロはテモテに若い時の情欲を避けなさいと言いました。テモテはまだ若い青年でした。彼は独身として教会の責任が任されたので女性の誘惑を受けていたでしょう。恋愛感情を持って近づいて来る女性達もいたでしょう。それでパウロは彼に若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するようにするように言いました(?テモテ5:2)。このように若い青年は情欲を避けなければなりません。青年は性的な誘惑に一番敏感であり、弱いです。それでいつも恋愛感情に捕らわれてぼんやりしている人もいます。このような人は霊的な分別力がないので神様に用いられることができません。ヨセフがいのちを救う御業に用いられることができたのは青年の情欲を積極的に避けたからです。ヨセフはポティファルの妻が誘惑して来た時、「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(創39:9)と言って彼女といっしょにいることもしませんでした。上着をつかんで誘惑した時には上着を残して逃げました。また、青年の情欲とは必ず性的な欲望だけを意味するのではありません。青年は短気で自己主張が強いです。それで自分の意見を抑えることができません。自分以外の者の意見を認め、共感し、理解することがなかなか難しいです。反発心が強くて聞き従うことを嫌がります。青年には野望があります。青年は自制できず放蕩した生活に陥りやすいです。私達が神様に尊い器として用いられるためにはこのような青年の情欲を避けなければなりません。「避ける」ことは「安全に逃げる」「脱出する」という意味でモーセがパロから逃げたように危険から必死に脱出することです。私達は偶像崇拝、恋愛感情、あらゆる不道徳と金を愛する心、偽りの思想などから必死に逃げなければなりません。なるべく早くまた、遠く逃げなければなりません。そうしなければ青年の情欲にひざまずき、神様に用いられることができません。
それでだけではなくきよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさいと言っています。追い求めることは避けることと反対の言葉です。それは戦争や動物狩りで追撃することを意味します。パウロは「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:14)と言いました。私達が神様に尊く用いられるためには義と信仰と愛と平和を追い求めなければなりません。義は神様の御言葉に聞き従う生活です。信仰は、神様への信頼から来る忠誠と信頼性を表します。愛は、隣人に対する愛です。平和は争わず、互いに徳を高め、仲良く暮らすことです。すべてこれらのことは、主を呼び求める人々と共に追い求めるべきものです。クリスチャンは孤独の生活を求め、自分の仲間から分離し、遠ざかってはいけません。クリスチャンは共に喜び、支え合い、慰め合い、力を合わせて働かなければなりません。このように主のしもべたちは必死に霊的な危険からを避けて力を尽くして霊的な生活をしなければなりません。罪悪な習慣を捨ててキリストの中で聖なる生活をしなければなりません。そのようにする時、尊い器として神様の良い業に用いられるようになります。
?.柔和な心で訓戒しなさい(23―26)
23節をご覧下さい。「愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。」愚かで、無知な思弁は争いのもとになります。聖書の御言葉から離れた論争は終わりのない言い争いになる可能性が多くあります。絶対的な基準がないので無益な論争になるしかありません。このような論争から、ねたみ、争い、そしり、悪意が生じます。24節をご覧下さい。「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、」主のしもべは感情的になって他人と争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくしなければなりません。また主のしもべはよく教えなければなりません。どうすればよく教えることができるかをいつも考えなければなりません。また、よく忍ぶべきです。人を育てるのには忍耐が必要です。25a節をご覧下さい。「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。」ここで柔和な心とは怒るのに遅く悪に対しては忍ぶことを意味します。特に若い人は反対する人に対して感情的になって怒りやすいです。主のしもべは痛んだ葦を折ったり、くすぶる灯心を消したりしてはいけません。イエス様はご自分を指して「わたしは心優しく、へりくだっている」と言われました(マタイ11:29)。イエス様は人々にあざけられ、羞恥を受けてもほふり場に引かれて行く子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のようでした。主のしもべはこのようなイエス様を学ばなければなりません。
それではなぜこのように主のしもべは柔和な心で訓戒しなければなりませんか。25b、26節をご覧下さい。「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」神様は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるかも知れないからです。また、悪魔に捕らえられて思うままにされている人々でも、目覚めてそのわざをのがれることもあるからです。ですから反対する人を無条件律法的に切り出してしまわず、柔和な心で訓戒しなければなりません。そうすると信仰の同労者として得ることができます。モーセは、地上のだれにもまさって非常に謙遜でした(民12:3)。モーセは反対する人々を柔和な心で抱いたので偉大な主のしもべとなりました。
結論的に、恥じることのない福音の働き人は何よりも真理の御言葉をまっすぐに説き明かす御言葉のしもべにならなければなりません。それによって様々な偽りの思想に惑わされやすい羊を守ることができます。それだけではなく主のしもべは自分自身をきよめなければなりません。特に青年の情欲を避けて積極的にキリストに見習い、柔和な心を持って教え、仕える熟練した者にならなければなりません。私達が恥じることのない主のしもべとして主の御業に尊く用いられるように祈ります。