2005年新年修養会第2講
アブラハム、イサク、イスラエルの神
御言葉:列王記第一18:1?46
要 節:列王記第一18:36
「ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。『アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。』」
昨日の御言葉を通して、「信じる者にはどんなことでもできるのです。」という信仰を学びました。この信仰によって、預言者エリヤはカルメル山で四百五十人のバアルの預言者たちに戦いを挑み、勝利を収めました。彼は「アブラハム、イサク、ヤコブの神様」に、イスラエルの民たちが神様の事を知り、心を翻して神様に立ち返るように、切に祈りました。
では、「アブラハム、イサク、イスラエルの神様」は果たしてどんな方なのでしょうか。
エリヤの時代、アハブ王は異邦人イゼベルを妻に娶り、バアルとアシェラに仕える偶像崇拝の罪を犯していました(16:29-32)。それで預言者エリヤはアハブ王に言いました。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」と警告しました(17:1)。果たしてエリヤの言葉の通り、イスラエルの地に飢饉が襲いました。
もう一度18:1節をご覧下さい。「それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。『アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。』」神様は再びイスラエルに雨を降らせるために、エリヤをアハブ王に会いに行かせました。エリヤが神様の御言葉の通りに、アハブ王に会いにサマリヤに行きましたが、その途中で、オバデヤに出会いました。このオバデヤはどんな人だったのでしょうか。
3節をご覧下さい。「アハブは王宮をつかさどるオバデヤを呼び寄せた。・・オバデヤは非常に主を恐れていた。」とあります。オバデヤは今日でいうと国務大臣に匹敵するほどの高い官職についていました。飢饉の時、アハブ王は数多くの臣下の中でオバデヤを抜擢し、食料問題を解決しようとしました。これを見ると、オバデヤがどれだけ王から厚い信頼を受けていたのか、またオバデヤが自分に任された仕事をどれだけ忠実に遂行していたのかが分かります。何よりオバデヤは非常に神様を恐れていました。4節をご覧下さい。「イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。・・」オバデヤは、迫害の時、王命に背いて神様のしもべ百人の預言者を救い出しました。そして五十人ずつ、ほら穴にかくまい、パンと水で彼らを養いました。このオバデヤの行為は王に対する背信行為のようにも思えます。王にばれてしまえば、彼は官職を失ってしまうでしょう。そればかりか彼やその家族、更には親族に至までいのちの危険にさらされてしまうのです。にも関わらず、オバデヤは王命に背いて主のしもべたちをかくまっていました。オバデヤは苦難の中でも自分の信仰を守るだけではなく、隣りの人々に関心を示して、愛して仕えました。彼は平信徒として模範的な生活をしました。神様はこのオバデヤを通して、絶望の中でも、希望の光を消さずに保ち続けて来られたのです。この国にもオバデヤのような人がいます。17世紀頃、日本はキリスト教に対して迫害をして来ました。江戸幕府三代将軍徳川家光は踏み絵を使ってクリスチャンを探していました。それはキリストの銘が刻まれている銅版を踏めない者をみな殺してしまうためでした。この激しい迫害によって、この国に蒔かれた福音の種がみな枯れてしまったかのように思えます。
ところがカトリックの宣教師たちが再び日本に来た時でした。初めて長崎に大浦天主堂という聖堂を建てました。その時何人かの日本の農民たちが中に入って来ました。そのうちの一人がそっと彼らに打ち明けました。「わしらは異人様と同じ心にございます。」(遠藤周作著「沈黙」より)。いわゆる隠れキリシタンがいて、迫害の中でも福音の根が枯れずに日本に根付いていたのです。
今日の日本では、キリスト教が全人口の1%に満たず、多くの偶像が取り巻いているので、「クリスチャン」というと何だか寄留者か異邦人であるかのような扱いを受けることも少なくありません。ところがよく見ると、このような環境の中でも職場生活を忠実に担い、神様の御業に熱心に仕えるクリスチャンたちが多くいます。それで韓国人のクリスチャンは「日本のクリスチャンは質が高い。」というほどです。ここにいる皆さんも「質の高い」クリスチャンの一人でしょう。神様はこのような人々を通して、暗い時代に希望の光を照らすお方なのです。私たちも弱くて足りませんが、平信徒としてオバデヤのように自分だけではなく、隣人を顧みて愛して仕える生活ができるように祈ります。
7a節をご覧下さい。「オバデヤがその道にいたところ、そこへ、エリヤが彼に会いに来た。」アハブがオバデヤと二人で国を二分して、馬と騾馬の草を探していると、突然エリヤがオバデヤに会いに来ました。そしてオバデヤに言いました。「行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言え。」これを聞いたオバデヤは恐れおののきました。もしアハブ王に「エリヤがいる」と告げれば、自分が殺されてしまうも知れないからです。そこでエリヤはオバデヤを助けました。15節をご覧下さい。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。必ず私は、きょう、彼の前に出ましょう。」それを聞いたオバデヤはアハブ王に知らせました。オバデヤの話を聞いたアハブはエリヤに会うためにやって来ました。アハブはエリヤを見るとすぐに言いました。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」(17)と罵ったのです。彼は自分の罪を棚に上げて、「エリヤのせいでこの国が三年もの間ひどい飢饉にあっているんだ」と怒りをあらわにしました。ではエリヤはどうしたのでしょうか。エリヤは冷静に言いました。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。」(18)
エリヤはアハブ王が偶像崇拝の罪を悔い改めるように促しました。
19,20節をご覧下さい。「さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。」
エリヤはまことの神様がどんな方であるのかを示すために、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアル預言者と四百人のアシェラの預言者を、カルメル山に集めさせました。
そしてエリヤはみなの前に進み出て言いました。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」
なぜエリヤは民たちにこのように言ったのでしょうか。それは神様と偶像の二つの主人に仕えている民たちの曖昧な態度を厳しく戒めるためでした。そしてイスラエルの民が罪を悔い改めてイスラエルの神様に聞き従うように促すためでした。イスラエルの地が三年もの間露も雨も降らずに飢饉に見舞われたのはアハブ王の罪によるものでした。ところが実際には民たちにも問題がありました。彼らはダビデやソロモンの時代には主なる神様に仕える生活をしていました。ところがアハブが王になり、かたくなで偶像崇拝を行なうと、民たちもアハブ王や偶像崇拝の文化を言い訳にして、それに習って偶像崇拝を行なったのです。今で言うなら、「私も仏教徒だから」と言って仏壇に手を合わす感覚でした。正月に神社に初詣に行くような気持ちで偶像崇拝を行なっていたのです。
このような民たちに対して、エリヤは何を提案したのでしょうか。
22-24節をご覧下さい。「そこで、エリヤは民に向かって言った。『私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は四百五十人だ。彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。』民はみな答えて、『それがよい。』と言った。」このエリヤの提案に、民たちはみな「それがよい」と同意をして準備をしました。
いよいよあの有名なカルメル山での戦いの幕が切って落とされました。
26-29節をご覧下さい。カルメル山の戦いはバアル預言者たちの先攻で始まりました。彼らは朝から真昼までバアルの名を呼んで言いました。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もありませんでした。そこで彼らは自分たちの作った祭壇のあたりを、踊り回りました。彼らの行動はますますエスカレートし、大きな声で呼ばわりました。そしてついには彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけました。このように彼らは必死になって何度も何度もバアルの名前を呼びました。しかし死んだ神々の一つである偶像のバアルが答えるはずがありません。何の変化も起こりませんでした。
29節をご覧ください。「このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。」とあります。
いくらバアルの名を呼んでも叫んでも、バアルから何の答えも得ることができませんでした。偶像は人間が恐れて勝手に作り出したものなので、いくら人が祈っても叫んでも偶像は答えてはくれないのです。
一方エリヤは何をしたのでしょうか。
30-35節を見ると、エリヤは民全体に目を止め、「私のそばに近寄りなさい。」と言って民たちを集めました。そして壊れた主の祭壇を建て直しました。
もう一度、36,37節の御言葉を皆さんと一緒に読んでみたいと思います。
「ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。『アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。』」
この祈りの中に現れるエリヤの願いは何でしょうか。
第一に、神様こそ本当の神様であることを民たちが知ることを願いました。
36節をご覧下さい。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。」エリヤは、「アブラハム、イサク、イスラエルの神様」に頼って祈りました。ここで「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とは死んだ者の神ではなく、今も生きて働いておられる神様を指しています。この神様は天地万物を創造された全知全能なる神様です。信仰の先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神様です。力強い御手によって、奴隷の民イスラエルをエジプトの地から購い出された救いの神様です。アブラハムと結んだ契約に従って、イスラエルを約束の地カナンに導いてくださった真実な神様です。イスラエルに三年の飢饉があった時、エリヤはこの神様と交わり信仰の訓練を受けていました。最初エリヤはヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに住んで川の水を飲みました。そして毎日朝と夕の二回烏からパンと肉をもらって食べる生活をしました。川の水が枯れると、今度はシドンのツァレファテに行き、異邦人の貧しいやもめから食べ物をもらって生活しました。そして飢饉の間、やもめのかめの粉は尽きず、つぼの油がなくない奇跡を行ないました。またやもめの子どもが死んだ時には、いのちの主人である神様を信じて、神様に頼って祈ることで、死んだ子どもを生き返らせる奇跡を行ないました。死んだ子どもが生き返ったのを見たやもめは「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」と告白するようになったのです(17章)。この訓練を通して、エリヤ自身「神様こそ本当の神様」であることを体験しました。エリヤを召された方はこの神様であり、神様は、御言葉に聞き従って行なうエリヤを通して、力ある御業が民たちの前で行なわれたことを証明してくださるように祈りました。エリヤがカルメル山の戦いで勝利することによって、民たちに神様こそ本当の神様であることを現そうとしたのです。
第二に、エリヤは民たちが心を翻して神様に立ち返るように祈りました。
37節をご覧下さい。「私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」エリヤは、偶像崇拝の罪を犯してイスラエルを悩ましたアハブ王に出て行きましたが、彼の関心はイスラエルの民にありました。それで「アハブ王を裁いてください」とも「バアルの預言者たちを懲らしめてください」とも祈りませんでした。むしろ「この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」と祈りました。「この民が」という言葉の中には、イスラエルの民に対する切なるエリヤの思いが込められています。イスラエルの民が、バアルやアシェラではなく、心を本当の神様に翻して、立ち返るようにと切に祈ったのです。エリヤはカルメル山で勝利することに満足しませんでした。どこまでも彼の関心は失われた民たちにありました。偶像崇拝の罪によって滅ぼされるしかない民たち、神様から裁かれるしかない民たちに対する憐れみに満ちていました。そして民たちが神様に立ち返ることによって、彼らが生かされることを願っていたのです。
では、私たちは神様に何を求めているのでしょうか。一年を出発した私たちは、何を今求めているのでしょうか。私はこのメッセージを準備しながら、今自分が何を求めているのかを深く考えるようになりました。
神様は、2004年の要節シンポジウムを通して、もう一度神様が私にどんな恵みを施してくださったのかを思い起こすように、導いてくださいました。昨年神様はマルコ9:23節「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」の御言葉を私にくださいました。そして私がこの御言葉を堅く掴んで神様に祈り求めた時、神様は長年の祈りを聞いてくだいました。皆さんも知っている通りに、9月に待望の子ども、娘マリヤが生まれました。私は娘マリヤの誕生によって心に大きな喜びが満たされるようになりました。仕事で多くのストレスを受け、疲れて帰って来ても、娘マリヤの顔を見ると、一瞬のうちに仕事の疲れがなくなるほどでした。それだけではありません。神様は職場の問題をも解決してくださいました。
その一方で、早稲田大学文学部キャンパスで1Tのマンツーマンに仕えることを祈りの課題として、週1回はキャンパスに上りFELLOWSHIPの祈り会に参加して来ました。ところが今年の初めにカレブ君を短期宣教師としてカナダのバンクーバーに派遣した後からは、はっきりと目に見える伝道の実がありませんでした。私は忙しいことを言い訳にして、次第にキャンパスから足が遠ざかっていました。キャンパスの牧者として立てられたものの、具体的なマンツーマンの実がないことに焦りと不安を感じていました。しかし「伝道ができないのはキャンパスの学生たちが聖書に無関心であり、自分のことに精一杯だから」と自分なりに理由をつけ合理化させました。そして原因が自分の不信仰から探さずに、伝道のあり方、伝道の方法に問題があるのだと思っていました。神様はこのような私を憐れんでくださり、夢を通して、キャンパス伝道に対するビジョンを植えてくださいました。これはエリヤのような心を持って、キャンパスの学生たちを愛し祈ることによって、学生たちが神様に立ち返り、神様を礼拝するようになることです。このセンターが聖書勉強するために多くのキャンパスの学生たちで満ち溢れる教会になることでした。ところが、私の心の中には「ビジョンはビジョン、現実は現実だ」というあきらめに似た感情が先に出て来ました。
しかし神様は今回メッセージを準備して行くことを通して、私がキャンパスの学生たちに対して無関心、無感覚であったことを悟らせてくださいました。彼らは本当の神様を知らず、偽りの神に仕え、死と破滅の道を歩んでいました。それなのに私は牧者でありながら、その学生たちに伝道できず、目先のことだけに捕らわれていたことを悟るようになりました。私の関心は「今週何チーム聖書勉強ができたのか」目に見える数字だけでした。それでその数字を見て私は一喜一憂しました。自分が目標どおりにできなかったことに関して絶望はしましたが、キャンパスの学生たちのたましいが滅んでいくことに関してはそんなに心を痛めることはありませんでした。
この時間キャンパスの学生に対する無関心、無感覚を悔い改めます。そして目標達成のためではなく、エリヤのように憐れみ愛する心からもう一度キャンパス伝道に挑戦することができるように祈ります。今年はヤコブ1:5節「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」を要節にしました。私は足りなく何もありませんが、エリヤのようにキャンパスの学生たちに深い関心を持って神様に頼って祈る時、神様が助けて下さることを信じます。私が本謙遜にキャンパスの学生たちを憐れみから仕えようとする時、神様は今年の要節どおりに、私にその知恵をくださることを信じて確信します。そしてキャンパスの学生たちが神様こそ本当の神様であることを知り、心を翻して神様に立ち返り、神様を礼拝する御業が起こることを信じ確信します。そのために祈ってください。
では、このようなエリヤの祈りに対して神様はどのようにお答えになったのでしょうか。
38.39節をご覧下さい。「すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です。』と言った。」神様はエリヤの切なる願いに、強烈な火でお答えになりました。主の火が降りて来て、全焼のいけにえと、たきぎだけではなく、石とちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまいました。何よりも民たちは神様に立ち返りました。民はみな、これをみて、ひれ伏して「主こそ神です。主こそ神です。」と信仰告白しました。心を翻して神様を礼拝するようになったのです。
その後、どんなことが起こるようになったのでしょうか。
41-42節をご覧下さい。「それから、エリヤはアハブに言った。『上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。』そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。」
民たちが心を翻して神様に立ち返るのを見て、エリヤはイスラエルの地に雨が降ることを信じて確信しました。ところがエリヤは信じて確信するだけにとどまりませんでした。では、エリヤは具体的に何をしたのでしょうか。「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。」とあります。ここで、「地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた」とは、「神様を恐れ敬い、服従し、最後まで神様の御力に頼って切に祈った」ことを意味します。私たちはこのエリヤの祈りの姿勢を学ぶことができます。
ところがエリヤが祈ったからといって、すぐに雨が降ったわけではありませんでした。
最初エリヤは「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」と若者に言いましたが、若者は「何もありません。」と答えました。エリヤは若者に「七たびくり返しなさい。」と言いました。若者が七度くり返すと、何もなかったところに、かろうじて「人の手のひらほどの小さな雲が海から上っている」のが見えました。しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨になりました。三年もの間、露と雨が降らず、飢饉に見舞われたイスラエルの地に、ようやく神様の恵みの雨がもたらされたのです。エリヤは、祈りによって雨が降ることを経験しました。
この恵みの雨はやがてこの国にもたらされる聖霊の雨です。なぜならこの国にも「手のひらほどの小さな雲」のしるしが見えているからです。昨年から日本では韓国の「冬のソナタ」というドラマが大ヒットをしました。いわゆる「ヨン様」ブームによって、人々の関心は金銭的なものよりも、精神的な面、心の安らぎに関心が傾いて来たからだと思います。目に見えるものよりも、目に見えない心の満足、霊的な満足を求めるようになったからです。日本は世界的に経済大国で食べる物に困りませんが、たましいの飢え渇きに悩まされています。そして「ヨン様」ブームによって、ようやくそのことに気づかされるようになったのではないでしょうか。
東京センターでも「手のひらほどの小さな雲」のような兆しが見えて来ました。昨年は礼拝に参加する人数が30人を超えました。キャンパスの学生たちとの聖書勉強も起こり、新しい学生が礼拝に参加しています。関東地区の聖誕礼拝には71人が参加しました。続けて私たちがエリヤの心情を持って神様に祈り続ける時、神様は今年この国にも豊かな聖霊の雨、恵みの雨を降らしてくださいます。今年は2倍の60人が礼拝に参加する御業が起きることを信じます。そして日本の全てのキャンパスに一人づつ信仰の先祖が立てられる御業が起きるのです。日本開拓二十周年を迎える2008年には聖殿の建築の御業が起こり、120人が礼拝に参加する御業が起こるのです。
ではどのようにしてこの御業が起こるようになるのでしょうか。
46a節をご覧下さい。「主の手がエリヤの上にくだったので」と記されています。アブラハム、イサク、ヤコブの神様である主の御手がエリヤの上にくだったので、エリヤは勝利することができました。同じようにこの神様の御手が私たちの上に下る時、私たちは勝利に満ちた信仰生活を送ることができるのです。私は昨年一年をふり返って見ると、なかなか闘争がうまく行かず落ち込むことのほうが多くありました。しかし神様は私がよく闘争できないからと行って日本宣教のビジョンを断ち切られる方ではありません。むしろ神様のビジョンはどんな状況の中でも、どんな時代の中でも決して変わることがないのです。
たとえ私たちが足りなくて多くのことができなくても絶望する必要がありません。エリヤのように「牧者の心情を持って、アブラハム、イサク、ヤコブの主に頼り祈り求める人」、「神様の御言葉に頼ってキャンパスの学生たちのためにとりなしの祈りをする人」を、神様は尊く用いてくださるのです。神様が私たちの信仰によってみずから働かれるのです。事実ヤコブはエリヤについて次のように預言しました。「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコ5:17,18)
エリヤは平凡な人でしたが、神様に頼って祈った時、エリヤの上に主の御手がくださりました。この主の御手によって、霊的な戦いで勝利を収めるようになったのです。私たちも、このエリヤのような心情を持って神様に祈り求め、キャンパスの学生たちが本当の神様を知り、心を翻して神様に立ち返るように祈るなら、神様は私たちの祈りを聞いてくださり、そのように働いてくださいます。
この時間、一人一人が「アブラハム、イサク、ヤコブの神様」に頼り、まず内面にある敵に挑戦し、崩れた主の祭壇を建て直す中で信仰の勝利を収めることができるように祈ります。更に進んでエリヤのイスラエルの民に対する切なる思いを学び、私たちもキャンパスの学生たちに対して切なる思いを持って神様に祈り、今年牧者の心情を持って聖書勉強にチャレンジすることができるように、祈ります。主の御手がエリヤに勝利をもたらしてくださったように、私たち一人一人の上にも神様の御手が下り、主の御手によってキャンパスの学生たちが心を翻して神様に立ち返り、神様に礼拝することによって、勝利の人生を歩むことができるように祈ります。