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15ACTS03M イエス様によって与えられた信仰

15acts03m, イエス様によって与えられた信仰, 2015年使徒の働き第3講イエス様によって与えられた信仰御言葉:使徒の働き3:1, 26要 節:使徒の働き3:16そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。先週、私たちは聖霊の臨在によって形成された最初の教会について学びました。聖徒たちは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていました。そのような素晴らしい教会だったので主も毎日救われる人々に加えてくださいました。それだけではありません。この教会は使徒たちによってナザレ人イエス様が行なわれた力あるわざと不思議としるし、つまり奇跡が行なわれるようになります。今日はその一つの奇跡を学びます。聖霊によって私たちの間に住まわれるイエス様は使徒たちを通して奇跡を行なわれました。足のなえた人を立たせ、歩かせました。40年間も歩けなかった人が立って歩けるようになったのです。どのようにしてそういういのちのみわざが起こったでしょうか。御言葉を通してイエス・キリストの御名の力、イエス・キリストによって与えられる信仰の力を学びたいと思います。そしてその御名によって癒され、救われた人の人生がどうなるかも学びたいと思います。どうか、主が御言葉を通して私たちの信仰を新たにしてくださいますように。私たちもあの使徒たちのように主が聖霊によってなさる力あるわざと不思議なわざに用いられますように祈ります。?., ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい(3:1ー11)1, 3節をご覧ください。ある日の午後、ペテロとヨハネは宮に上って行きました。午後三時の祈りをするためです。ユダヤ人には朝の9時とお昼の正午、そして午後3時と、一日に三回祈りをしていました。ペテロとヨハネは、この定まった時間に祈りをしていたことが分かります。毎日、朝に祈ることは難しくありません。毎日夜祈ることもそれほど難しくありません。毎晩寝る前に祈ることができます。しかし、毎日午後3時に祈ることは難しいです。私は正午12時に祈ろうと決断して闘争したことがあります。ところがなかなかできませんでした。特に決まった場所で祈ることはほんとうに難しいと思います。特にペテロとヨハネは、一度に三千人の人たちが救われてかなり忙しかったと思います。それでも彼らは祈りの時間に、祈りの場所に行って祈っていたのです。どんなに忙しくても祈りを第一にしていたことが分かります。ダニエル書を見ると、ダニエルはいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していました, 6:10, 。私たちも一日一度でも祈りの時間、祈りの場所を決めてそれを守ることができるように祈ります。祈りをするために宮に上って行ったペテロとヨハネは、もうすぐ宮だという所で、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来るのに出会いました。この男はいつも、宮の「美しの門」のそばに置いてもらい、宮に入る人たちから施しを受けていたのです。ふたりが前を通り過ぎようとすると男は、「だんなさま。どうぞお恵みを」と施しを求めました。ペテロとヨハネはこのような足のきかない人をどのように助けましたか。4節をご覧ください。ペテロは、ヨハネは立ち止まり、男をじっと見つめました。それは彼に何が一番必要なのかを知るためだったでしょう。彼らは何も考えずに10円、100円を投げて行くのではなく、足のなえた人を憐れむ心から彼を正しく助けようとしたのです。そこで、ペテロとヨハネは彼に「私たちを見なさい。」と言いました。すると、男は何かもらえると思って、ふたりに目を注ぎました。ところが、ペテロは全く意外なことを言いました。6節をご一緒に読んでみましょう。「するとペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って」とあります。ペテロはそういって彼の右手を取って立たせました。すると男は、驚いたことに足も、くるぶしもたちまち強くなり、しっかりと立ち上がったのです。そして、すたすた歩き始めました。ペテロとヨハネが宮に入ると、彼は跳んだり、はねたりして、神様を賛美しながらついて来ました。, ここで私たちは、人を助ける方法とイエス・キリストの御名の力について学ぶことができると思います。私たちクリスチャンはキリストの愛のゆえに人を助ける生活をしなければなりません。特に、牧者や宣教師は聖書勉強を通して人を助けます。親も子どもを助けなければなりません。だれかを助けることはほんとうに素晴らしいと思います。私は牧者として、宣教師として、職場では教師として何とか人を助けようと考えて来ました。4人の父親としてもどのように助けようかと考えて来ました。そのうちに、ほんとうに生きがいを感じる時が多くあります。私はちょっとだけ助けたので助けたかも忘れているのに、「ほんとうにその時は助かりました。」と言われる時はほんとうに嬉しいです。ところが、人を助けることはやさしくありません。助ける側は善良な心を持って助けますが、相手は誤解して受け入れる場合もあります。自分の子どもでさえ、助ける親の心を誤解してしまう場合があるでしょう。誠意を尽くしてアドバイスをしたつもりなのに「あなたのせいでもっと悪くなったよ。」と言われる場合もあるでしょう。では正しく助けることがどうすることでしょうか。それは助けようとする人の状態を知って共感し、同情することです。足なえの人に必要なのは金銀でした。表面的に見ると、誰が見てもそのように見えたことでしょう。ペテロは彼をじっと見つめているうちに、彼の状態を把握しました。もし、自分に金銀があって100円でも、1000円でもあげたら、一時的には助かるでしょう。でも、明日も、明後日も、しあさっても物乞いをしなければなりません。それを思うと、ペテロははらわたが痛むほど深く同情しました。彼はイエス様が38年間も病気だった人を見て深く同情して「よくなりたいか。」と言われたことを思いだしたかも知れません。そして、イエス様はなら、この人をもっと深く同情し、助けてくださると信じたでしょう。そこで、彼はイエス様によって与えられた信仰によってイエス・キリストの御名を信じるように助けたのです。これこそ、人を正しく根本的に助ける方法です。人の痛み、悩みに共感し、深く同情してイエス様を信じるように助けることです。イエス・キリストの御名によって生きるように助けるのです。それこそが永遠に残る助けです。天国に行けば、イエス・キリストの御名によって生きるように助けた人々が一番輝いていることでしょう。そして、この助け方はクリスチャンなら誰でもできます。クリスチャンなら、イエス・キリストの御名によって救われているし、イエス・来リスの御名によってささげる祈りの体験をしているからです。もちろん、私たちが経済的に精神的に助けることも素晴らしいことです。ただ、それはイエス・キリストの御名に生きる人生につながらないなら一時的なものにすぎないでしょう。ペテロには金銀はありませんでした。しかし、彼にあるものがありました。それはイエス・キリストの名です。彼はナザレのイエス・キリストの御名によって彼に信仰を植え付け、信仰によって歩くように助けました。どうか、私たちも私たちにあるもの、イエス・キリストの御名によって人々を助けて行くことができるように祈ります。二つ目はイエス・キリストの御名の力について学ぶことができます。第一に、イエス・キリストの御名には人を癒す力があります。ペテロが「私たちを見なさい」と言うと、男は何かもらえると思って、二人に目を注ぎました。ところが、ペテロは彼に一円もあげませんでした。実際には彼には金銀だけではなくお金もなかったかも知れません。しかし、ペテロにはイエス・キリストの御名を信じる信仰がありました。そこで彼は「私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせました。するとどうでしょう。するとたちまち、彼の足もくるぶしも強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。40年間一度も立ったことがない人が立つことだけでも奇跡なのに、膝を伸ばして飛び上がったのです。これは紛れもない奇跡的な癒しです。ペテロは16節で「完全なからだにした」と言っています。イエス・キリストの御名には肉体の癒し、それも完全な癒しがあるのです。私はこのイエス・キリストの御名による癒しの力を信じています。ヤコブ5章14,15節には、「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます」とあります。ほんとうにその通りです。私自身が体験して来ました。これからはオリーブ油も備えていて病気の人に塗って祈ることもしたいと思っています。でも、大事なのは信仰による祈りです。私たちがイエス・キリストの御名によって、信じて祈ると、神様が働いてくださいます。第二に、イエス・キリストの御名には人を救う力があります。8,9節を見ると癒された男は神様を賛美しつつ、二人と一緒に宮に入って行きました。人々はみな、彼が歩きながら、神様を賛美しているのを見ました。彼のたましいが救われていたのです。おそらく、40歳になっていた男の人は美し門の前にすわっていて多くの人々から助けられていたと思います。慰めの言葉も聞いていたでしょう。しかし、そうした彼らの施しと慰めが彼を救うことはできませんでした。ただ、イエス・キリストの御名が、この男の人を救うことができたのです。ペテロは人を救う力の源がイエス・キリストの名にあることの確認ができたでしょう。ほんとうに、イエス・キリストこそ、神様が私たち人類に与えてくださった最も素晴らしい賜物です。なぜなら、このイエス・キリストによって私たちは救われて永遠のいのちを持つことができるからです。今あるすべてを失っても、イエス・キリストの御名を信じているなら、私たちはほんとうの満足を得ることができます。険しい世の中で私たちは傷つけられ、病気にかかって悩み、苦しむ時もあります。その状態から救えるのは、金銀でも、お金でも、政治でもありません。この世のいかなる組織や団体でもありません。ただ、イエス・キリストの御名によって救われます。私たち自身がイエス・キリストの御名によって救われていますし、イエス・キリストの御名によって祈りながら救いを体験し続けています。そして、私たちに与えられている使命とは、このイエス・キリストの御名によって人々を救いに導いて行くことです。ペテロとヨハネのように、人々にイエス・キリストを伝え、イエス・キリストの御名によって救われるように助けることです。そうしてイエス・キリストの御名によって生まれつき足なえが癒され、救われる素晴らしいみわざを体験して行くことです。ペテロの信仰によってペテロだけではなく、そこにいる人々も素晴らしい奇跡を体験することができました。足のきかない男が歩きがなら、神様を賛美しているのを見た人々はみな非常に驚いて、ソロモンの廊という回廊に、やって来ました。ペテロはその時に何をしましたか。彼はこの機会を利用して自分の栄光を現わすこともできました。しかし彼は、集まって来た民達の関心を誰に向かせましたか。12, 15節をご覧ください。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」ペテロは集まって来た民達の関心をイエス様に向かせました。16節をご一緒に読んでみましょう。「そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」信仰が単なる知識にとどまってしまい、実際の生活の上で力になっていないことが多くあります。イエス・キリストの名によって、歩くとき、今まで味わうことも見ることもできなかった神様の福音によって、躍り上がって喜び賛美する生活へと変えられて行くのです。イエス様の名を信じる信仰がなければ、イエス様の名も私達の内に力を発揮しません。私達が人に頼り、金銭に頼っている間は、イエス様が来られたことによってもたらされた福音にあずかることはできません。私達が、ナザレのイエス・キリストの名によって歩むというイエス・キリストの御業にふさわしく生きて行く時、祝福にあずかる生活に生きる者となります。私たちがナザレのイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生、力ある主のしもべとしての人生を送ることができるように祈ります。, 19節をご覧ください。「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」ペテロのメッセージを聞いて男だけ五千人が悔い改めてイエス様を信じました(4:4)。彼がナザレのイエス・キリストの御名の力に頼って大胆に悔い改めのメッセージを伝えた時、多くの人々を悔い改めさせ、神様に立ち返らせることが出来ました。しかし、イエス・キリストの御名を信じず、悔い改めなければどうなりますか。22、23節をご覧ください。「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」とあります。これは申命記18章15節からの引用です。モーセのような預言者というのは、モーセのように神様と親しい特別な関係にある預言者ということです。この預言者がイエス・キリストです。申命記で預言しゃれていたメシヤ的預言は、イエス・キリストのよって成就したのです。ですから、イエス・キリストに聞き従わない者はだれでも、民の中から滅び絶やされるのです。では、イエス・キリストを受け入れ、信じる人々の生活はどうなりますか。結論として25、26節をご覧ください。「あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」とあります。ペテロは自分の民たちに「あなたがたはほんとうに祝福された民です。あなたがたは預言者たちの子孫です。アブラハムの子孫です。モーセとダビデとアブラハムにすべての約束がまさにあなたがたのものなのです」と言っています。神様はアブラハムに「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」と約束してくださいました。この祝福がイエス・キリストによって私たちにも与えられるのです。アブラハムに「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」」と約束されたことがそのまま私にも適用されます。誰かが私を祝福するなら、彼も祝福されます。しかし、だれかが私を呪うなら彼は呪われます。私が祝福の源になるのです。実際に、創世記を見るとアブラハムはあらゆる面で祝福されました。彼の子どもイサクも祝福されました。彼が井戸を掘ると、掘る度に水が多く出ました。日本ではどこを掘っても水が出る、お湯が出ると言われますが、パレスチナ地域はそうではなかったのです。だから、その地域の人々はイサクが掘った井戸を奪いました。ところがイサクが掘ると水が出たのです。イサクは行く所々で祝福されました。私たちもイエス・キリストによって与えられる信仰によって生きるなら、そう言う祝福を受けるのです。しかし、イエス・キリストを拒んだユダヤ人のように、イエス・キリストを信じない、悔い改めない生活を続けるなら民の中から滅ぼされるのです。どうか、私たちが心を新たにし、イエス・キリストの御名を信じる信仰をますます確実にして行きますように祈ります。

15ACTS04M この方以外には

15acts04m, この方以外には, 2015年使徒の働き第4講この方以外には御言葉:使徒の働き4:1, 31要, 節:使徒の働き4:12 「, この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」, 私たちは1章〜3章の御言葉を通して聖霊がどのように臨まれ、どのように働かれたかについて学びました。特に、先週は生つき足の不自由な男が癒され、救われた出来事を学びました。そこで、ペテロは説教を通してその男はイエス様が与える信仰によって完全に治ったことを証しました。それから、ユダヤ人はイエス様を拒み、十字架につけて処刑しましたが神様が復活させてくださったことも証しました。しかも、それは偶然に起こったことではなく、神様が昔からの預言を実現してくださったことだと証しました。こうなると、ユダヤ人の宗教指導者たちも納得し、受け入れるべきでした。しかし、彼らはペテロとヨハネを逮捕しました。聖霊のみわざが起こっているところに迫害も襲って来たのです。ではペテロとヨハネはその迫害と試練をどのようにして乗り越えて行ったでしょうか。迫害と脅迫の中でも彼らは何を証していたでしょうか。そして、釈放されたペテロとヨハネの報告を聞いた信者たちは何をしたでしょうか。今日の御言葉を通してペテロとヨハネの信仰的な勇気と霊的価値観、試練の中でも祈りと賛美にあふれている信徒たちの信仰生活を学びたいと思います。  1, 3節をご覧ください。ペテロとヨハネが話しているところへ、祭司たちや神殿の警備隊長、それに、サドカイ人たちがやって来ました。この人たちは、ペテロとヨハネが午後の祈りの時間、ずっと民を教えていた内容を聞いていたようです。ペテロとヨハネはイエス様のことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えていました。それはサドカイ人にとって本当に困る内容でした。なぜなら彼らは「復活はない」と教えていたからです。ユダヤ教には大別して三つの派がありました。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派です。パリサイ派は律法主義者として、エッセネ派は神秘主義者として知らされています。そして、このサドカイ派は現実主義者でした。彼らの特徴は復活をはじめ、超自然的なことを信じていなかったことです。ところが、ペテロとヨハネは目撃者たちと共に確かな証拠を持ってイエス様の復活を伝えていました。だから、サドカイ人たちは困り果ててしまいました。サドカイ人たちは皆の前でペテロとヨハネの証に反撃することもできず、それを許すこともできなかったからです。結局、彼らはペテロとヨハネに手をかけて捕えましたが、その時はもう夕方だったので、一晩、留置場に入れて置くことにしました。そうすることによって復活の話はそれ以上広がらないだろうと思ったようです。実際に捕えられたペテロとヨハネは何もできなくなりました。しかし、その時にも聖霊は働いておられました。4節をご覧ください。「しかし、御言葉を聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。」とあります。五旬節の日に三千人が回心して教会に加えられましたがさらに多くの人々が加え続けられました。男の数が五千人ほどですから男女を合わせると大人だけでも1万人を超えたでしょう。一般的に考えると教会のリーダーたちが捕えられたから、人々がその教会のメンバーになることをためらうはずです。ところがそんな人間の予想とは裏腹に大勢の人々がクリスチャンになりました。聖霊は一般的な考え、常識を超えて働いておられたことが分かります。事実、いくら権威ある集団でも、たとえ最高権力機関であっても聖霊のみわざを留めることはできません。5, 7節をご覧ください。翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まりました。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席しました。彼らは数か月前にイエス様を処刑するようにピラトに渡した人たちです。つまり、彼らはイエス様を十字架につけて殺した張本人たちなのです。そんな彼らが使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだしました。その時のペテロとヨハネの気持ちはどうだったでしょうか。普通に考えれば、彼らは「私たちもイエス様と同じようにさばかれて殺されるのではないか」という不安と恐れにさいなまれたはずです。しかも彼らは最高の権力者たちの前で尋問されています。震えて一言も言えないような状況なのです。しかし、ペテロは「民の指導者たち、ならびに長老の方々。…」と言い始めて大胆にイエス様を証ししました。どうしてそのようにできたでしょうか。それは「聖霊に満たされて」いたからです。8a節をご覧ください。彼らは聖霊に満たされて大胆になりました。彼らはイエス・キリストを信じて聖霊を受けていましたが、聖霊に満たされることによってますます強くなっていたのです。私たちもイエス・キリストを信じると、聖霊を受けます。そして聖霊に満たされることによってますます強くなります。聖霊に満たされると、力あるキリストの証人になります。したがって私たちはいつも聖霊に満たされることを望む必要があると思います。聖霊充満を期待し、祈り求めるのです。すると、私たちは聖霊に満たされて大胆にイエス・キリストを証することができるようになります。ペテロのように変えられて行きます。聖霊に満たされていなかったペテロはとても弱い者でした。以前にイエス様が捕えられた時は遠く離れてついて行ったし、女中の前でもイエス様を知らないと言いました。三度もイエス様を知らないと繰り返していたほどに弱かったのです。しかし、ここでは何も恐れずに大胆に説教をしています。それは、彼らが十字架につけ、神様が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によってできたことでした。事実、詩篇118:22節に預言された通りに、イエス・キリストは、家を建てる者たちに捨てられた石でしたが、礎の石となりました。イエス様はユダヤ教の指導者たちによって捨てられ、十字架につけられて殺されましたが、この石こそなくてはならないものでした。神様はこのイエス様を死者の中からよみがえらせたのです。なくてはならない方だったからです。この石こそ一度は捨てられたもののやがて最も栄光に満ちた礎の石となったからです。すなわち、このイエス様こそなくてはならない方、あの礎の石、聖書の中で何千年も前から預言されていた救い主であったということです。ですから、ペテロは結論として12節を言いました。12節をご一緒に読んでみましょう。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」皆さんにもこのような確信があるでしょうか。ペテロはイエス・キリスト、この方以外に、だれによっても救いはないと確信していました事実、この方こそ、私たちを罪による永遠の破滅から救い、永遠のいのちを与えることのできる唯一の救い主です。ですから、私たちはこの御名を信じなければ救われません。この方の他に誰によっても救いはありません。日本は多神教の国です。多神教の国だからこそ、日本人には寛容な心があり、誰にも親切にすることができるという人もいます。だから、唯一の神様を証することに対しては抵抗する場合が多くあります。「この方以外には…」ということは独善的、排他的だと言います。そして、あれも神、これも神と言うことに対しては寛容的であると言います。どの神でも信じるなら救われるような教えを好む傾向があります。これが普通の日本人の宗教観ではないかと思います。富士山に登るのも、山梨県から行っても、静岡県から行ってもまじめに、まじめに上れば山頂にたどり着くのだと思うのです。それで、どの宗教もみな同じ、大切なのは信じることだ、たとえ信じなくても良い行ないをすれば、みんな良い所に行くから大丈夫だと言います。しかし、聖書はそのように教えていません。聖書は言います。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と言うのです。私たちは最初の人間アダムの子孫として皆が原罪を持っています。その原罪と自分の罪のゆえに、私たちはみんな滅んでしまう存在になってしまいました。ところが、あわれみ深い神様は、そのあわれみによってご自分のひとり子イエス・キリストをお与えになりました。そして、イエス・キリストは私たちのすべての罪を担って十字架に架かって死なれました。それによって私たちのすべての罪の代価を払われ、赦して下さいました。それから三日目に死者の中からよみがえられました。この復活はその以前にも、以後にもありません。イエス様だけが聖書に従って死者の中からよみがえられたのです。だから、このイエス・キリストだけが唯一の救い主なのです。この方以外に救いはありません。そして、この救いは何か悟る知識ではありません。生まれつきの足なえの人が癒され、救われるような奇跡です。福音書にも使徒の働きにもイエス・キリストの御名による数々の奇跡が記されています。私たちがイエス・キリストを信じて救われるということは神様の力を体験することでもあります。自分の人生において変化と癒しを経験して行く力です。ペテロとヨハネは三年前までガリラヤ湖で漁をしていました。ユダヤ人たちが言っているとおりに無学な人、普通の人でした。ところがそんな彼らが学者やこの世の権力者を前にして、堂々と「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言いました。当時、ユダヤの最高の権力者、知識人たちを圧倒する説教をするほどになりました。それはペテロに知識と力があったからではありません。彼がイエス・キリストの御名によって救われ、イエス様の御名に頼っていたからです。, ユダヤの最高権力者たちは、ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚きました。人々はこの無学な二人が話すことを不思議に思い、どうすることもできなくなりました。ただ、自分たちが持っている世の権力で彼らを脅そうとしました。そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じました。しかし、ペテロとヨハネは彼らに何と答えて言いましたか。19、20節をご覧ください。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」彼らは人を恐れず、神様を恐れました。「人を恐れず、神様を恐れる。」これこそ、私たちクリスチャンが持つべき霊的価値観です。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人達などを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタイ10:28)。」と言われました。ペテロとヨハネはこのイエス様の御言葉を心から受け入れ、堅く守っていたことが分かります。彼らは主の御言葉に従ってはっきりとした霊的価値観を持っていたのです。だからが、彼らは最高権力者たちの前でも大胆にキリストの御名を証することができました。結局、宗教指導者たちは、聖霊に満たされた使徒たちの勇気と迫力に圧倒されてどうすることもできず、釈放しました。では、使徒たちはこのような勇気と力をどこから得られたでしょうか。それは聖霊によるものです。使徒たちは聖霊によって働かれるイエス様とともにいました。だからこそ彼らはイエス様と同じように勇気を持って大胆に語ることができたのです。それは彼ら自身の力によったのではありません。イエス様と深い関係にあった使徒たちが、聖霊の力によって語ったのです。私たちも同じです。私たちは弱いです。自分の力だけでは何もできないかも知れません。でもイエス様は強いのです。イエス様とともにいるならば、聖霊によってイエス様が私たちに勇気と力を与えてくださいます。聖霊は私たちが大胆にみことばを語ることができるようにしてくださいます。特に、私たちが弱い時こそ聖霊が力強く働いてくださいます。そして聖霊の力によって人々は悔い改め、回心することができます。 イギリスにチャールズ・スポルジョン, 1834, 1892, という有名な説教者がいました。彼の語る説教には迫力がありました。彼が活動している時代から150年も超えている今でも彼のメッセージは読まれているほどです。私のような人でも彼が後輩たちへ残した三冊の本を持っているほどです。しかし、ある主日の礼拝の時に、彼は失望感に襲われました。説教の途中で口ごもっただけでなく、なぜかうろたえてしまったのです。彼は説教に失敗したという挫折感にさいなまれました。そこで帰宅の途中でひざまずき、祈りました。「主よ。ないものをあるもののようにされる主よ、私の力のない説教を祝福してください。」 彼は一週間そのように祈り続けました。ある時は夜中に起きて祈った時もありました。そして、次の聖日にはすばらしい説教をして、失った自信を回復するという決心をしました。その祈りのとおり、次の日曜日にはすばらしい説教をすることができました。礼拝が終わると人々が押し寄せて来て熱烈に賞賛してくれました。満足して家に帰ったとき、彼はあることに気づかされました。彼が振り替えてみると、「あれっ、失敗したと思った先週の説教の時には41人の人が回心しました。それなのに、あんなに賞賛されたきょうの説教では回心者がひとりもいなかったのです。これはいったい、どういうことなのかと思われました。そこで、彼は「私たちの弱さを助けてくださる聖霊の力がなくては何もすることができない」ということが分かったのです。 そうです、私たちは、私たちを助けてくださる聖霊の力によってのみ人を変えることができます。どんなに無力で、普通の人でも、イエス様とともに歩む生活の中で聖霊に満たされると大胆にみことばを語ることができるようになるのです。もし、自分が無学で、普通の人であることに失望している方はいないでしょうか。神様はそのような人を用いられるのです。自分が無学で、普通の人であることに感謝しましょう。なぜなら、弱い者、足りない者であるという自覚があるかにこそ、そういう人はもっと主により頼もうとするからです。そして主の力によって大胆にみことばを語ることができるようになるからです。ではどうやって聖霊に満たされることができるでしょうか。それは一方的な神様の働きです。でも聖書を読んで見ると祈る時に神様が私たちのうちに働いてくださることが分かります。留置所から釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告しました。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神様に向かい、声を上げて祈りました。彼らは祈りの力を体験していたからこそ、声をあげて祈ったと思います。彼らは何を祈りましたか。彼らは「主よ。彼らの脅迫から私たちを守ってください。無事に信仰生活が送れるようにしてください。」と祈りましたか。いいえ。そうではありません。弟子たちは「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」と祈りました。29、30節をご覧ください。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。聖霊の力によって神様のことばを大胆に語り出しました。神様のみこころと一致した祈りを主は聞いてくださいます。御心に反した祈りが聞かれるわけはありません。私たちの祈りが神様の御心に一致するとき、神様は天地を造られたあの力で応答してくださいます。その時、私たちはどんな権力、どんな脅迫に対してもびくともしない証し人とされるのです。, 以上から、ペテロがイエス・キリストの御名によって、足のきかない男を歩かせた出来事を通してイエス・キリストを証ししたことを学びました。イエス・キリスト、この方以外には、だれによっても救いはありません。イエス・キリストの御名は世のすべての人々を罪と死の力から救います。私たちがイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生となるように祈ります。特に祈り、声をあげて祈ることによって聖霊に満たされますように祈ります。聖霊に満たされてイエス・キリストの御名によって生まれつき足のきかない男のような人々を救いに導くことができるように祈ります。そういう生活を通してイエス・キリストの御名による救いのみわざを体験してますます大胆にイエス・キリストの御名を証しすることができるように祈ります。このイエス・キリストの御名が私達を通してあがめられますように祈ります。

15ACTS11M 初めてキリスト者と呼ばれるようになった弟子たち

15acts11m, 初めてキリスト者と呼ばれるようになった弟子たち, 2015年使徒の働き第11講初めてキリスト者と呼ばれるようになった弟子たち御言葉:使徒の働き11:19〜12:25要, 節:使徒の働き11:26 「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」今日学ぶみことばには、アンテオケ教会の誕生の様子が描き出されています。エルサレムから地の果てまでの宣教の歩みの中で、後に異邦人宣教の重要な拠点となる教会です。弟子たちは、そのアンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになります。この異邦人宣教は、ステパノが殉教した出来事がきっかけでした。その日から、激しい迫害の嵐がエルサレムの教会を襲い、使徒以外の者たちはみな、ユダヤとサマリヤへと散らされたのです, 8:1, 。しかし彼らは、タンポポのようにその飛ばされた所で、神のことばを宣べ伝えながら、巡り歩きました, 8:4, 。それによって、神のことばは広く異邦人の世界にまで及んでいくようになったわけです。それは人間の考えと理解を超えた神のご計画と聖霊の働きがあったからこそ、成し遂げられたものでした。そして、「・・・エルサレム、ユダヤとサマリヤ全土、および地の果てにまで、私の証人となります」, 1:8, とのみことばが、こうした迫害によっても実現されたのです。さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、どこまでも進んで行ったのでしょうか。11章19節に挙げられている地名の「フェニキヤ、キプロス、アンテオケ」は、すべて異邦の地を指します。その中の「アンテオケ」は、当時、ローマ、アレクサンドリヤに次ぐローマ帝国の第三の都市として栄えた、人口50万人ほどの国際都市でした。「東方の女王」「麗しいアンテオケ」「大いなるアンテオケ」などと賞賛されるほど、様々な文化や宗教がごった返す大都市でした。またシルクロードの出発点としても知られる貿易の都市でもありました。彼らはそこに何をするために行ったのでしょう。アメリカン・ドリームのような夢を抱いて、億万長者になりたくてでしょうか。いいえ、彼らはただ激しい迫害から逃れるためだったのでした。そこで彼らは、誰にみことばを語ったでしょうか。それは異邦人でしょう!と思ったら違いました。19節後半部には、「ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった」とあります。というのも、最初はどこに行ってもユダヤ人だけを福音の対象とし、イエス様が命じた「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」, マタ28:19, という使命からは、非常に遠かったわけなのです。ところが、その中にいた何人かのキプロスとクレネ出身の弟子たちが、ギリシヤ人にも、主イエスのことを宣べ伝えました, 。これは今までの宣教のやり方と全く違う新しい挑戦でした。享楽的な罪の町アンテオケで、それも福音とは全く無縁な生き方をしている異邦人に、主イエスの福音を宣べ伝えたのです。その結果は、「大ぜいの人が信じて主に立ち返った」, です。それは何故でしょうか?彼らがとても上手に伝道したのでしょうか。あるいは様々な工夫がなされたのでしょうか。それとも誰かが優れた才能を発揮したのでしょうか。勿論、主は人を用いて福音を拡大させられます。ところが、根本的に人を主に立ち返らせるのは、神の力のみです。21節に書いてあるように、「主の御手が彼らとともにあった」からなのです。このようにして、異邦の地で初めて、アンテオケ教会が誕生したわけです。異邦人伝道の始まりは異邦人から始まったということに、神様の不思議なわざを感じられます。私が清州にあるubf教会に足を踏み入れた大学3年生の頃は、同じ年の友が2人いました。当時、教会のみなは、世界宣教に燃えていました。「聖書と靴一足だけあれば、世界のどこまでも・・・」、というビジョンに満ちていました。最初は3人共に鶏を捌く職業で、アメリカへ渡って行こうとしました。しかし、ビザが得られなかったこともあって、一人はリトアニアへ、一人はドイツへ、そして私は日本へ、と散らされて行きました。その他の先輩や後輩もほとんど、安定的な仕事を辞めて、アメリカを初め、中国、チリ、マレーシア、ニュージーランド、オーストラリア、ドイツ、イタリアなどに散らされ、今も現地の人々に主イエスのことを宣べ伝えています。この日本UBF教会も、まだ開拓教会みたいな小さいものですが、主の御手がともにあってLAやPNG、タイに宣教師を派遣してきました。宣教において一番大切のものは、「イエスは主である」というただ一つのメッセージです。時が良くても悪くても、結果が見えても見えなくても、福音を語り続けることです。そこに主の御手がともにあり、主が私たちの人生やこの教会を大いに祝福してくださるのです。11章22〜24節をご覧ください。「大ぜいの人が信じて主に立ち返った」という知らせを聞いた、エルサレム教会は、バルナバをアンテオケに派遣しました。バルナバはキプロス生まれのレビ人で、「慰めの子」と呼ばれる立派な人物で, 4:36, 、さらに聖霊と信仰に満ちた人でした, 。なぜ、彼はアンテオケ教会に派遣されたのでしょうか。23節をご覧ください。「彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を固く保って、常に主にとどまっているようにと励ました」とあります。それは、「一人一人に、どんな犠牲をはらっても、絶対に主から離れないようにと忠告し、励ます」, l・B11, ためでした。彼がそこに着いて目の当たりにした光景は、神の恵みが彼らに満ちている様子でした。主イエスのことを信じ、多くの異邦人が救われた教会には、神の恵みが満ちていたのです。バルナバが彼らに励ましたことばは、一言で言えば、「主にとどまっている」ことでした。なぜ、「主にとどまっている」ことが、それだけ大切なのでしょうか。イエス様はこう言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。・・・」, ヨハ15:4, と。具体的に言えば、主のみことばにとどまること、主の愛にとどまることです。ルカの福音書8章には、「種を蒔く人のたとえ」が記されています。その中に、岩の上に落ちた種のたとえがあります。「岩の上に落ちるとは、・・・聞いたときには喜んでみことばを受け入れますが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまう」, ルカ8:13, 人のことです。アンテオケ教会の人々の信仰は、まさにそういう状態になりかねない懸念がありました。ですから、バルナバはそういうことを見通して、彼らが常に主にとどまっているように、と励ましたのではないでしょうか。「千里の道も一歩から」と言うように、地の果てにまで福音が広がっていくためには、何よりもまず主のことばにしっかりと根を下ろすことが大切です。神様の導きによる「doing」の前に、しっかりと「being」に徹することこそが、成長の秘訣だったわけです。これによって、アンテオケ教会では、更に大ぜいの人が主に導かれました。こうして、アンテオケ教会の成長と共に、この集いは周囲の異邦人社会からも注目を浴びる存在となっていったわけです。25節をご覧ください。バルナバは、タルソに滞在していたサウロを捜しに出かけて行きました。なぜ、バルナバはサウロを捜しにわざわざタルソへまで行ったのでしょうか。26節からその理由を知ることができます。それは、異邦人の宣教において、サウロが最適任者だったからです。サウロと言えば、主イエスから異邦人宣教に選ばれた器です, 9:15, 。また、彼は律法にも精通しており、ギリシヤ語もローマ語も話せる者でした。何より彼は、ダマスコへ行く途上で主イエスに出会って、生まれ変わったはっきりとした信仰の体験をした者でもありました。だから、バルナバは、このようなサウロをタルソからアンテオケに連れて来たわけです。では、彼ら二人は、そこで、何をしたのでしょうか。26節をご覧ください。「彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」とあります。バルナバとサウロはきっと、聖書の学びに一番心血を注いだはずです。そして毎朝聖書を黙想し、祈る訓練や教育にも力を入れていたに違いありません。もしかして、異邦人宣教に必要な語学をも教えていたのかもしれません。しかも、彼らは「まる一年の間」、集中的に教え続けたというのです。「継続は力なり」ということばがあります。彼ら二人はどんな事情があっても、弛まず挫けずに主イエスのことを教え続けたのです。その結果、どうなりましたか。26節の後半部です。「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」とあります。「キリスト者」と訳されていることばは、「クリスチャン」ということばの語源となったもので、「キリストに属する者たち」という意味です。ここで大切なのは、彼らを指してキリスト者と呼んだのは、クリスチャンではない周囲の人々であったという事実です。人々は主イエスを信じる者たちの姿を見て、「あれはキリストに属する者たちだ」と呼んだわけなのです。当時は、この呼び方は軽蔑や嫌悪の感情もこもったことばでした。しかし、ことばの響きがどうであれ、これは異邦人の弟子たちがキリストのことばに根づき始めたことを物語っています。27〜30節には、異邦人教会がユダヤ人教会に対して、救援をする美しい出来事が記されています。後に、使徒パウロはこのことを、「聖徒たちをささえる交わりの恵み」, ?コリ8, と述べています。これからは、その美談についてお話します。預言者の一人アガポという人がエルサレムからアンテオケに来て、「世界中に大飢饉が起こる」と預言しました。当時教会で預言者は、使徒に次ぐ教師として認められていました。預言者の役割は、主のことばを語ることや、人の徳を高めること、そして勧めをなし、慰めを与えることでした, ?コリ14:3, 。彼の預言は的中して、クラウデオの治世, ad41, に起こりました。その大飢饉はパレスチナ地方、特にエルサレム一帯が最も酷かったと伝えられています。エルサレム教会の人々は、きっと生活に非常に困窮していたはずです。アンテオケ教会は、「ユダヤに住んでいる兄弟たち」が大飢饉で困窮していることを知り、さっそく「それぞれの力に応じて」救援物資を送ることに決めました。そしてそれを実行して、バルナバとサウロの手によって、エルサレム教会の長老たちに送ったのです。今年で、東日本大震災から4年の年月が過ぎました。死者・行方不明者だけで約1万8千人を超え、原発の事故もあって今現在も約23万もの人が避難生活を余儀なくされているそうです。前代未聞の大被害を受けた被災地の人々を助けようと、世界から救援金や物資が送られました。私たちの教会も、それぞれの力に応じて、精一杯の献金をして寄付しました。被災地の人々が一日も速く元の生活に戻れますように祈ります。これからも皆様の力に応じてささげた献金を、助けが必要なところに良く支援できますように祈ります。12章に入りますと、エルサレム教会に対するヘロデ王の迫害から始まります。1〜5節をご覧ください。ヘロデ王, は、教会の中のある人々を苦しめようとして、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺しました。このヤコブは、主が「・・・わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします」, マル10:39, と預言した者です。その預言通りに、彼はヘロデの剣によって殉教の杯を飲んだのです。それがユダヤ人の気に入ったことを見たヘロデは、「2匹目のドジョウを狙っ」て、今度は教会のトップリーダーであるペテロを捕らえて牢に入れました。そしてその牢を十重二十重, とえはたえ, に取り囲み、十六人の兵士たちによって監視させました。それは、過ぎ越しの祭りの後に、ペテロを民の前に引き出して殺そうと考えていたからです。そのような最大の危機に瀕していた時、教会は彼のために何をしましたか。あらゆる手段を講じようと、みんなが東奔西走していたのでしょうか。いいえ、そうではありません。教会は心を一つにして、「主よ!ペテロをお守りください。彼を牢から救い出してください」と、熱心に祈り続けていたのです, 12:5, 。教会, クリスチャン, にとって、最大の武器は祈りです。クリスチャンに求められる祈りについて、聖書の一節をご紹介いたします。エペソ6章18節です。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」私の家庭は、毎晩三人で心を合わせて祈っています。現在私の会社では、不渡りの話も出始めており、また給料の大幅カットのうえ、毎月給料がでるかどうかという話もあります。私は会社のことでストレスを受け、心と魂が潰れそうになったりもしました。さらに、大きな試練が私の家庭を襲い掛かってきました。去年12月に突然Jrヨシュアが家から出られなくなり、救急車で病院に搬送されたとの衝撃的な知らせを受けました。晴天の霹靂とも言うべき大パニックでした。私は瞬間、これはサタンの仕業であることを感じ、家族みんなで祈ることを提案しました。こういう訳で祈り会が始まったのですが、今までとは違う切実さがありました。また、教会の信徒のためにも毎日切に祈りました。しかし、大学と専門学校の不合格やそれによってビザ申請ができなくなった知らせを聞いた時には、非常に残念で、自分のことのように涙が出そうになり、心を痛めました。しかし、ここにも私たちが知らない神様の大きな御旨があることを信じます。私たちは「苦しい時の神頼み」ではなく、常に主にとどまっていながら絶えず祈りましょう。そして教会の皆様の祈りの課題を共有し、互いに祈り合って行きましょう。エルサレム教会のみなが心を一つにして祈った時に、どのように応えられましたか。6〜17節の箇所です。神様は御使いをペテロのいる牢に遣わしました。御使いはペテロに、「急いで立ち上がりなさい」と言いました。これは、「タリタクム」と言われた復活のイエス様の御声です。すると、彼の手から鎖が落ちました。復活の御声を聞くと、足かせも鎖もペテロを縛っておくことはできませんでした。ペテロは御使いの助けによって、ついに、牢から外に出されたのでした。そして彼は我に返って、「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ」, と言いました。その後も、自分のために、祈っていた兄弟姉妹たちの前に現われ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせました, 。反面、エルサレム教会を迫害したヘロデ王は、どうなりましたか。彼は「神に栄光を返さなかった」ため、主の使いに打たれて死んでしまいました, 12:23, 。まさか!虫に噛まれて息が絶えたとは、驚きです。このように神様のお裁きは厳しいものです。結論として、主のことばは、どのように広がって行きましたか。この国にもこのようなリバイバルが起こるようにと願いながら、12章24節をお読みしたいと思います。「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。」 ハレルヤ&#9836, ♪アーメン。

15ACTS05M 主イエスの復活を非常に力強くあかしした使徒たち

15acts05m, 主イエスの復活を非常に力強くあかしした使徒たち, 2015年使徒の働き5講 主イエスの復活を非常に力強くあかしした使徒たち御言葉:使徒の働き4:32―5:16要 節:使徒の働き4, 33「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」 先週、私たちはペテロが, 「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはない」と証ししたことを学びました。宗教指導者たちはペテロとヨハネとの大胆さを見、生まれつき足なえから癒された人が一緒にいるのを見てはふたりを議会から退場させました。そして、二人にいっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと脅かしてから釈放しました。すると、二人は仲間たちのところに行き、祭司長や長老たちから脅かされたことを報告しました。そこで、人々は心を一つにして声を上げて「主よ。今彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちに御言葉を大胆に語らせてください。」と祈りました。すると、一同は聖霊に満たされ、神様のことばを語り出しました。その後、教会はどうなったでしょうか。 今日の本文である32節を見ると、信じた者の群れは、心と思いを一つにしていました。だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていました。まことに麗しい愛の共同体になっていたのです。持ち物に対する人の心はそれぞれです。夫婦であってもお金の使い方が違います。育ってきた環境が違うからそれぞれの関心、好き嫌いも違うでしょう。それで、多くの人々は夫婦でも通帳を別々にして財産を管理しているそうです。ところが、初代教会はいろんな地域から集まって来た信者たちが心と思いを一つにしていたのです。ほんとうに素晴らしい共同体になっていたことが分かります。では、どうやってこのように素晴らしい愛の共同体になることができたでしょうか。本文の御言葉を通して私たちが目指している教会の姿を学ぶことができるように祈ります。 第一に、力強い証と大きな恵みがありました。33, 35節をご覧ください。「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」とあります。使徒たちはイエス様の復活を非常に力強く証ししました。彼らは宗教指導者たちから「イエスの名によって語ってはならない」と脅かされていたにも関わらず、イエス様の復活を力強く証したのです。どうやってそれほど力強いキリストの証人になったのでしょうか。それは、聖霊の働きです。イエス様は天に帰られる前、弟子たちに「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1, 8)と言われました。その約束のとおりに、聖霊が使徒たちの上に臨まれたので、彼らは力あるキリストの証人となりました。彼らは力強く「十字架に殺されたイエス様は、復活して、今生きておられる」と証ししていたのです。生きておられるキリストが生まれつきの足なえを癒したと証したでしょう。青年は幻を語り、老人は夢を語っていたでしょう。彼らの間で力あるわざと不思議としるしを行なわれる復活のキリストは証しました。「キリストは生きておられる(♪257番)」という賛美もしながら証したと思います。すると、すべての者の上に主の大きな恵みがありました。すると、人々は「喜び」と「寛容」の雰囲気になりました。緊張した雰囲気ではなく、失敗や弱さを受け入れ、愛し合う雰囲気になったのです。その中で聖霊は豊かに働き、聖徒たちはのびのびと成長して行きました。 ところが、今の私たちはどうでしょうか。日常生活の中で「復活の主、生きておられるキリスト」を体験しているでしょうか。日常会話の中で「イエス様は生きている」と言うのを証しているでしょうか。私たちは、毎週礼拝の後にフェローシップで交わる時間を持っています。そこで、生きておられるキリストを体験した信仰の証、恵みの報告があるでしょうか。・・・・自分の中でいつの間にか、イエス様を観念的なものにしている方はいないでしょうか。特に祈りが少なくなると、いつの間にか、信仰生活が知識的、観念的になってしまうと思います。私たちは祈りを通して生きておられるイエス様を体験し、イエス様の復活を証しすることができます。その人の上に大きなイエス様の恵みが臨みます。さらにそこにはイエス様の働きがあるようになります。するとますます生きておられるイエス様を生々しく体験することはできます。したがって今、自分には復活のキリストを体験することも、大きな恵みもないと感じている方はまず祈りから始める必要があります。使徒の働きを読んでみると、聖書を見ると、信者たちは声を上げて祈ったり、夜を通して祈ったり、祈りに専念したりしています。どうか、そういう祈りをしてみてください。すると、復活の主、今も生きて働いておられる主を体験するようになるでしょう。自分の上にも主の大きな恵みがあるようになります。私たちに恵みがなければ心細くなり、喜びも寛容もなくなって行きます。しかし、恵みがあると喜びと寛容があるので何でも分かち合うことができるようになります。雨が大地に降り注ぐように主の恵みが私たちのうちに注がれると、私たちの心は癒され、喜びに満たされるようになります。人々を慰め、施すこともできるようになります。そういう人が増えることによって私たちの教会もますます麗しい愛の共同体になって行きます。その具体的な例がバルナバの献身です。36、37節をご覧ください。「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ, 訳すと、慰めの子, と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。レビ人というのは、イスラエル12部族の一つの部族に属していました。旧約聖書によると、彼らはもともと自分たちの地所を持っていませんでした。彼らは他の11部族が所得の10分の一を受けていたから、それが相続財産になりました。また、それによって土地を購入することもありました。だからレビ人の中でも相当の財産を持っている人たちがいました。バルナバはそうしたレビ人の中の一人だったのでしょう。彼はそれを売り、その代金を使徒たちのところへ持って来たのです。どうやってそれができたでしょうか。貧しい人、生活に苦しい人を見てかわいそうに思ったからでしょうか。事実、そう言う心があったかも知れません。しかし、ただセンチメンタルな同情心だけでは自分の財産を売ることまではなかなか難しかったと思われます。それより、バルナバもイエス・キリストの御名の力を体験する中で、大きな恵みを受けたと思われます。だから、彼は喜びと寛容な心から神様のためにささげる大決断ができたのです。そうでなかったらこのようなことはできないのです。人を慰め、人に施すためにはまず神様から大きな恵みを受けなければなりません。私たちがバルナバのような生き方をしたいと思うなら、まずは主イエス・キリストの復活を信じ、生きておられるキリストを体験することが必要なのです。そのうちに、イエス様と心から交わる中で大きな恵みを受けると人のために施しをしたいと言う心も生まれてくることでしょう。その時に自らすすんで自分の持ち物を主にささげ、人々を慰めるために用いるのです。どうか、私たちのうちにもバルナバのように大きな恵みを受け、大きな施しもできる人が増えますように祈ります。,   第二、神様への恐れがありました。5章1,2節をご覧ください。「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。ここには、アナニヤとサッピラという夫婦が登場します。彼らはバルナバのように尊敬されたいと思ったでしょうか。あるいはバルナバから刺激されたでしょうか。アナニヤ夫婦も自分たちの持ち物を売ってそれを使徒たちのところに持ってきました。この持ち物というのは8節で「地所」と置き換えられています。おそらく、彼らは、自分たちの土地を売り、その代金を使徒たちのところへ持ってきたと思われます。自分の土地を売って献金をしたのです。それはなかなか難しいことでしょう。だから、バルナバのように自分の畑を売ってささげる人は尊敬されます。私が大学3年生の時、通っていた教会の建築がありました。その時、ある先輩は自分の家を売って献金しました。私は非常に驚きました。ほんとうに素晴らしいことでしょう。後でその先輩の家族が非常に祝福されて行くことを見て私は神様への献身と信仰とは何かということも体験的に学ぶことができました。バルナバをはじめ多くの信者たちは信仰によって宣教のみわざのために献金をしたと思います。自分の土地や財産を売ってでも宣教のみわざを支えようとする情熱がありました。ところが、アナニヤにはそういう情熱がなかったようです。彼はその代金をささげる際に、その一部を自分たちのために残しておきました。そこでペテロが、「これがあなたの売った代金のすべてですか。」と尋ねました。すると、アナニヤは「そうです」と答えました。その代金の一部を残して置いたと言えば良かったと思いますが、偽ってしまいました。そこでペテロは彼に何と言いましたか。3,4節をご覧ください。「そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分たちのために残しておいたのか。それはもともとあなたのためであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」とあります。アナニヤ夫婦は人々を欺いていました。しかし、ペテロは、彼らが人を欺いたのではなく、神様を欺いたのだと言いました。そう言うと、アナニヤは息が絶えて、死んでしまいました。ここで、神様を欺くことはどんなに大きな罪であるかが示されています。その罪の代価は死でした。神様への欺きが、即、死刑ということになりました。彼らは想像を超えた酷い罰を受けています。神様はそれほどのさばきをなさった目的は何だったでしょうか。5節の後半のことばをご覧ください。「そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」とあります。同じことが11節にも記してあります。「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」とあります。この恐れというのは、怖いといった恐れのことではなく、聖い恐れです。神様は生きておられるという厳粛な思いです。教会にはこの聖い恐れが必要でした。教会が調子よく進んでいきますと、いつしかこの聖い恐れというものを感じなくなってしまうことがあります。神様を神様とも思わなくなってしまうのです。そうなったらさまざまな腐敗や罪がはびこるようになって内側から崩壊することになってしまいます。なぜなら、教会はキリストのからだであり、神のいのちである聖霊の宮だからです。教会は神様を恐れて生きる時のみ、大きく前進していくことができます。このアナニヤとサッピラの事件は、そうした罪の恐ろしさと、その罪がもたらす影響というものを示しながら、そういうものを取り除いていく必要性を訴えていたのです。教会に神様を恐れることがなければ人々は人間中心になってしまいます。ですから、聖なる恐れがあるときに教会は一致して愛の共同体を維持することもできます。第三に、教会の成長がありました。13、14節をご覧ください。, 「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。」 「ほかの人々」とは、ノンクリスチャンのことです。彼らは、ひとりもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、それらの人々は彼らを尊敬していました。また、主を信じる者はますます増えて行きました。ちょっと矛盾しているように思われますが、事実です。, おそらく、あのアナニヤとサッピラの事件の後で、彼らの間には非常な恐れが生じ、この群れに加わることはできないと考えていたのでしょう。それでも心の中では彼らを尊敬していたのです。だから、誰かがイエス・キリストを力強く証してくれると、主を信じるようになります。そうして信じる者はますます増えて行くのです。それは初代教会に限らず、今の日本でも同じことが言えるでしょう。クリスチャンってすごいなぁ、いい人だなぁ、大したもんだいと思っている人々がいます。でも、自分はその中に入ろうとしません。それが日本の多くの人々の態度だと思います。しかし、そのような中でも、主を信じる人たちはますますふえていくのです。そうして、イエス・キリストを信じて救われると、自分たちの間で多くのしるしと不思議なわざを体験して行くようになります。復活の主を体験するようになるのです。15節と16節をご覧ください。ついに、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロがそこを通りかかるときには、せめて彼の影だけでも、だれかにかかるようにしたほどになりました。人々はキリスト教会を大いなるものと認めていただけでなく、実際にその中に加わることによって、大きくふえていったのです。 今日、私たちは家庭でも、, 学校でも、, 社会でも、心と思いを一つにすることは難しい時代に生きています。どこにおいも、みんなばらばらです。しかし、クリスチャンは違います。クリスチャンには従うべき一定の基準があるのです。それが聖書です。神様のみことばは、神様のみこころが記されてあります。だから、聖書の教えによって心と思いを一つにすることができます。家族も、教会も、世界も聖書の御言葉を通して一致することができます。自己中心や虚栄といった態度によって人を遠ざけ、人を騙すのではなく、へりくだって互いに人を自分よりもすぐれた者と思うようになります。つまり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしていくようになるのです。私たちの教会の姿がそのように変えられて行きますように祈ります。すると、教会の姿は、世間の人たちから見ても非常に魅力的で、彼らの尊敬と信頼を勝ち取り、さらに力強く前進していくようになります。結局のところ、すばらしい愛の共同体としての教会とはどういう教会でしょうか。力強くイエス・キリストの復活をあかしし、大きな恵みがあるところです。神様への恐れと成長がある教会です。特に神様を恐れることはとても大切であると思われます。そうすれば、主はその歩みを確かなものとし、祝福してくださいます。私たちの上に大きな恵みをあるようになります。神様を神様とせず、神様を欺きながら、利己的に生きようとするなら、そこにはいろいろな乱れが生じてくるでしょう。教会の内部もばらばらになってしまいます。ですか、結局のところ、神様を恐れることはとても大切です。私たちひとりひとりがただ神様を恐れ、神様のみこころに歩む者でありますように祈ります。また、心と思いを一つにして神様に仕え、人々を愛する者として生きることができるように祈ります。