15Xmas2.主のために用意する
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15special, あなたの神、主を愛しなさい
15acts04m, この方以外には, 2015年使徒の働き第4講この方以外には御言葉:使徒の働き4:1, 31要, 節:使徒の働き4:12 「, この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」, 私たちは1章〜3章の御言葉を通して聖霊がどのように臨まれ、どのように働かれたかについて学びました。特に、先週は生つき足の不自由な男が癒され、救われた出来事を学びました。そこで、ペテロは説教を通してその男はイエス様が与える信仰によって完全に治ったことを証しました。それから、ユダヤ人はイエス様を拒み、十字架につけて処刑しましたが神様が復活させてくださったことも証しました。しかも、それは偶然に起こったことではなく、神様が昔からの預言を実現してくださったことだと証しました。こうなると、ユダヤ人の宗教指導者たちも納得し、受け入れるべきでした。しかし、彼らはペテロとヨハネを逮捕しました。聖霊のみわざが起こっているところに迫害も襲って来たのです。ではペテロとヨハネはその迫害と試練をどのようにして乗り越えて行ったでしょうか。迫害と脅迫の中でも彼らは何を証していたでしょうか。そして、釈放されたペテロとヨハネの報告を聞いた信者たちは何をしたでしょうか。今日の御言葉を通してペテロとヨハネの信仰的な勇気と霊的価値観、試練の中でも祈りと賛美にあふれている信徒たちの信仰生活を学びたいと思います。 1, 3節をご覧ください。ペテロとヨハネが話しているところへ、祭司たちや神殿の警備隊長、それに、サドカイ人たちがやって来ました。この人たちは、ペテロとヨハネが午後の祈りの時間、ずっと民を教えていた内容を聞いていたようです。ペテロとヨハネはイエス様のことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えていました。それはサドカイ人にとって本当に困る内容でした。なぜなら彼らは「復活はない」と教えていたからです。ユダヤ教には大別して三つの派がありました。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派です。パリサイ派は律法主義者として、エッセネ派は神秘主義者として知らされています。そして、このサドカイ派は現実主義者でした。彼らの特徴は復活をはじめ、超自然的なことを信じていなかったことです。ところが、ペテロとヨハネは目撃者たちと共に確かな証拠を持ってイエス様の復活を伝えていました。だから、サドカイ人たちは困り果ててしまいました。サドカイ人たちは皆の前でペテロとヨハネの証に反撃することもできず、それを許すこともできなかったからです。結局、彼らはペテロとヨハネに手をかけて捕えましたが、その時はもう夕方だったので、一晩、留置場に入れて置くことにしました。そうすることによって復活の話はそれ以上広がらないだろうと思ったようです。実際に捕えられたペテロとヨハネは何もできなくなりました。しかし、その時にも聖霊は働いておられました。4節をご覧ください。「しかし、御言葉を聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。」とあります。五旬節の日に三千人が回心して教会に加えられましたがさらに多くの人々が加え続けられました。男の数が五千人ほどですから男女を合わせると大人だけでも1万人を超えたでしょう。一般的に考えると教会のリーダーたちが捕えられたから、人々がその教会のメンバーになることをためらうはずです。ところがそんな人間の予想とは裏腹に大勢の人々がクリスチャンになりました。聖霊は一般的な考え、常識を超えて働いておられたことが分かります。事実、いくら権威ある集団でも、たとえ最高権力機関であっても聖霊のみわざを留めることはできません。5, 7節をご覧ください。翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まりました。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席しました。彼らは数か月前にイエス様を処刑するようにピラトに渡した人たちです。つまり、彼らはイエス様を十字架につけて殺した張本人たちなのです。そんな彼らが使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだしました。その時のペテロとヨハネの気持ちはどうだったでしょうか。普通に考えれば、彼らは「私たちもイエス様と同じようにさばかれて殺されるのではないか」という不安と恐れにさいなまれたはずです。しかも彼らは最高の権力者たちの前で尋問されています。震えて一言も言えないような状況なのです。しかし、ペテロは「民の指導者たち、ならびに長老の方々。…」と言い始めて大胆にイエス様を証ししました。どうしてそのようにできたでしょうか。それは「聖霊に満たされて」いたからです。8a節をご覧ください。彼らは聖霊に満たされて大胆になりました。彼らはイエス・キリストを信じて聖霊を受けていましたが、聖霊に満たされることによってますます強くなっていたのです。私たちもイエス・キリストを信じると、聖霊を受けます。そして聖霊に満たされることによってますます強くなります。聖霊に満たされると、力あるキリストの証人になります。したがって私たちはいつも聖霊に満たされることを望む必要があると思います。聖霊充満を期待し、祈り求めるのです。すると、私たちは聖霊に満たされて大胆にイエス・キリストを証することができるようになります。ペテロのように変えられて行きます。聖霊に満たされていなかったペテロはとても弱い者でした。以前にイエス様が捕えられた時は遠く離れてついて行ったし、女中の前でもイエス様を知らないと言いました。三度もイエス様を知らないと繰り返していたほどに弱かったのです。しかし、ここでは何も恐れずに大胆に説教をしています。それは、彼らが十字架につけ、神様が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によってできたことでした。事実、詩篇118:22節に預言された通りに、イエス・キリストは、家を建てる者たちに捨てられた石でしたが、礎の石となりました。イエス様はユダヤ教の指導者たちによって捨てられ、十字架につけられて殺されましたが、この石こそなくてはならないものでした。神様はこのイエス様を死者の中からよみがえらせたのです。なくてはならない方だったからです。この石こそ一度は捨てられたもののやがて最も栄光に満ちた礎の石となったからです。すなわち、このイエス様こそなくてはならない方、あの礎の石、聖書の中で何千年も前から預言されていた救い主であったということです。ですから、ペテロは結論として12節を言いました。12節をご一緒に読んでみましょう。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」皆さんにもこのような確信があるでしょうか。ペテロはイエス・キリスト、この方以外に、だれによっても救いはないと確信していました事実、この方こそ、私たちを罪による永遠の破滅から救い、永遠のいのちを与えることのできる唯一の救い主です。ですから、私たちはこの御名を信じなければ救われません。この方の他に誰によっても救いはありません。日本は多神教の国です。多神教の国だからこそ、日本人には寛容な心があり、誰にも親切にすることができるという人もいます。だから、唯一の神様を証することに対しては抵抗する場合が多くあります。「この方以外には…」ということは独善的、排他的だと言います。そして、あれも神、これも神と言うことに対しては寛容的であると言います。どの神でも信じるなら救われるような教えを好む傾向があります。これが普通の日本人の宗教観ではないかと思います。富士山に登るのも、山梨県から行っても、静岡県から行ってもまじめに、まじめに上れば山頂にたどり着くのだと思うのです。それで、どの宗教もみな同じ、大切なのは信じることだ、たとえ信じなくても良い行ないをすれば、みんな良い所に行くから大丈夫だと言います。しかし、聖書はそのように教えていません。聖書は言います。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と言うのです。私たちは最初の人間アダムの子孫として皆が原罪を持っています。その原罪と自分の罪のゆえに、私たちはみんな滅んでしまう存在になってしまいました。ところが、あわれみ深い神様は、そのあわれみによってご自分のひとり子イエス・キリストをお与えになりました。そして、イエス・キリストは私たちのすべての罪を担って十字架に架かって死なれました。それによって私たちのすべての罪の代価を払われ、赦して下さいました。それから三日目に死者の中からよみがえられました。この復活はその以前にも、以後にもありません。イエス様だけが聖書に従って死者の中からよみがえられたのです。だから、このイエス・キリストだけが唯一の救い主なのです。この方以外に救いはありません。そして、この救いは何か悟る知識ではありません。生まれつきの足なえの人が癒され、救われるような奇跡です。福音書にも使徒の働きにもイエス・キリストの御名による数々の奇跡が記されています。私たちがイエス・キリストを信じて救われるということは神様の力を体験することでもあります。自分の人生において変化と癒しを経験して行く力です。ペテロとヨハネは三年前までガリラヤ湖で漁をしていました。ユダヤ人たちが言っているとおりに無学な人、普通の人でした。ところがそんな彼らが学者やこの世の権力者を前にして、堂々と「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言いました。当時、ユダヤの最高の権力者、知識人たちを圧倒する説教をするほどになりました。それはペテロに知識と力があったからではありません。彼がイエス・キリストの御名によって救われ、イエス様の御名に頼っていたからです。, ユダヤの最高権力者たちは、ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚きました。人々はこの無学な二人が話すことを不思議に思い、どうすることもできなくなりました。ただ、自分たちが持っている世の権力で彼らを脅そうとしました。そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じました。しかし、ペテロとヨハネは彼らに何と答えて言いましたか。19、20節をご覧ください。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」彼らは人を恐れず、神様を恐れました。「人を恐れず、神様を恐れる。」これこそ、私たちクリスチャンが持つべき霊的価値観です。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人達などを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタイ10:28)。」と言われました。ペテロとヨハネはこのイエス様の御言葉を心から受け入れ、堅く守っていたことが分かります。彼らは主の御言葉に従ってはっきりとした霊的価値観を持っていたのです。だからが、彼らは最高権力者たちの前でも大胆にキリストの御名を証することができました。結局、宗教指導者たちは、聖霊に満たされた使徒たちの勇気と迫力に圧倒されてどうすることもできず、釈放しました。では、使徒たちはこのような勇気と力をどこから得られたでしょうか。それは聖霊によるものです。使徒たちは聖霊によって働かれるイエス様とともにいました。だからこそ彼らはイエス様と同じように勇気を持って大胆に語ることができたのです。それは彼ら自身の力によったのではありません。イエス様と深い関係にあった使徒たちが、聖霊の力によって語ったのです。私たちも同じです。私たちは弱いです。自分の力だけでは何もできないかも知れません。でもイエス様は強いのです。イエス様とともにいるならば、聖霊によってイエス様が私たちに勇気と力を与えてくださいます。聖霊は私たちが大胆にみことばを語ることができるようにしてくださいます。特に、私たちが弱い時こそ聖霊が力強く働いてくださいます。そして聖霊の力によって人々は悔い改め、回心することができます。 イギリスにチャールズ・スポルジョン, 1834, 1892, という有名な説教者がいました。彼の語る説教には迫力がありました。彼が活動している時代から150年も超えている今でも彼のメッセージは読まれているほどです。私のような人でも彼が後輩たちへ残した三冊の本を持っているほどです。しかし、ある主日の礼拝の時に、彼は失望感に襲われました。説教の途中で口ごもっただけでなく、なぜかうろたえてしまったのです。彼は説教に失敗したという挫折感にさいなまれました。そこで帰宅の途中でひざまずき、祈りました。「主よ。ないものをあるもののようにされる主よ、私の力のない説教を祝福してください。」 彼は一週間そのように祈り続けました。ある時は夜中に起きて祈った時もありました。そして、次の聖日にはすばらしい説教をして、失った自信を回復するという決心をしました。その祈りのとおり、次の日曜日にはすばらしい説教をすることができました。礼拝が終わると人々が押し寄せて来て熱烈に賞賛してくれました。満足して家に帰ったとき、彼はあることに気づかされました。彼が振り替えてみると、「あれっ、失敗したと思った先週の説教の時には41人の人が回心しました。それなのに、あんなに賞賛されたきょうの説教では回心者がひとりもいなかったのです。これはいったい、どういうことなのかと思われました。そこで、彼は「私たちの弱さを助けてくださる聖霊の力がなくては何もすることができない」ということが分かったのです。 そうです、私たちは、私たちを助けてくださる聖霊の力によってのみ人を変えることができます。どんなに無力で、普通の人でも、イエス様とともに歩む生活の中で聖霊に満たされると大胆にみことばを語ることができるようになるのです。もし、自分が無学で、普通の人であることに失望している方はいないでしょうか。神様はそのような人を用いられるのです。自分が無学で、普通の人であることに感謝しましょう。なぜなら、弱い者、足りない者であるという自覚があるかにこそ、そういう人はもっと主により頼もうとするからです。そして主の力によって大胆にみことばを語ることができるようになるからです。ではどうやって聖霊に満たされることができるでしょうか。それは一方的な神様の働きです。でも聖書を読んで見ると祈る時に神様が私たちのうちに働いてくださることが分かります。留置所から釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告しました。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神様に向かい、声を上げて祈りました。彼らは祈りの力を体験していたからこそ、声をあげて祈ったと思います。彼らは何を祈りましたか。彼らは「主よ。彼らの脅迫から私たちを守ってください。無事に信仰生活が送れるようにしてください。」と祈りましたか。いいえ。そうではありません。弟子たちは「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」と祈りました。29、30節をご覧ください。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。聖霊の力によって神様のことばを大胆に語り出しました。神様のみこころと一致した祈りを主は聞いてくださいます。御心に反した祈りが聞かれるわけはありません。私たちの祈りが神様の御心に一致するとき、神様は天地を造られたあの力で応答してくださいます。その時、私たちはどんな権力、どんな脅迫に対してもびくともしない証し人とされるのです。, 以上から、ペテロがイエス・キリストの御名によって、足のきかない男を歩かせた出来事を通してイエス・キリストを証ししたことを学びました。イエス・キリスト、この方以外には、だれによっても救いはありません。イエス・キリストの御名は世のすべての人々を罪と死の力から救います。私たちがイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生となるように祈ります。特に祈り、声をあげて祈ることによって聖霊に満たされますように祈ります。聖霊に満たされてイエス・キリストの御名によって生まれつき足のきかない男のような人々を救いに導くことができるように祈ります。そういう生活を通してイエス・キリストの御名による救いのみわざを体験してますます大胆にイエス・キリストの御名を証しすることができるように祈ります。このイエス・キリストの御名が私達を通してあがめられますように祈ります。
15acts12m 信仰の門を開いてくださった, 2015年使徒の働き第12講 信仰の門を開いてくださった言葉:使徒の働き13:1, 14:28要 節:使徒の働き14:27「そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」 今年、私たち「使徒の働き」を学んでいますが、この書物にすべての使徒の働きが記されているのではありません。先週まで勉強した前半部, 12章, では、主に使徒ペテロの働きが記されてありました。地理的にはエルサレムとユダヤ、サマリヤまでにユダヤ人を中心にしたが使徒たちの働きです。 今日から学ぶ後半部, 13章, 28章, は、主に使徒パウロの宣教活動が中心になっていますし、地理的にもユダヤを超えて世界の人々に広がって行きます。その中でも今日の御言葉には異邦人に信仰の門を開いてくださったことが記されてあります。パウロは現在トルコの南部地方になっている小アジア地方から開拓して行きます。開拓、開店など何か新しく始めることはやさしくないと思います。先週、教会の一階に開店した「ピーシャイ・タイカフェ」を見ると、契約してから準備期間だけで2か月以上かかりました。言うまでもなく、誰も知らない新しい地域に行って教会を開拓して行くことはやさしくなかったでしょう。使徒パウロはどのようにして新しい地域を開拓して行くことができたでしょうか。聖霊はどのように働いて彼を助け、異邦人に信仰の門を開いてくださったでしょうか。本文の御言葉を通して使徒たちの働き、聖霊の働きを深く学ぶことができるように祈ります。?.アンテオケの教会と小アジアでの伝道, 13:1, 3節をご覧ください。アンテオケの教会にはバルナバ、ニゲル, 黒い人, と呼ばれるシメオン、クレネ出身のルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、それにパウロなどが預言者や教師になっていました。生まれも、育ちも違うし、顔色も身分も違う人たちが預言者や教師として活動していました。ある日、彼らが主に礼拝をささげ、断食していると聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われました。それで彼らはさらに断食して祈ったあと、ふたりに手を置いて任命し、送り出しました。ここで、素晴らしい教会の姿を見ることができます。彼らには主への礼拝、断食、祈りがありました。宣教師を任命して送り出す宣教の働きがありました。何よりも聖霊の御声を聞いて従う教会でした。私たちの教会にも礼拝と断食と祈りがあります。宣教師を任命して送り出すこともありました。これからもますます主を礼拝し、祈りと断食をしながら聖霊の御声に聞き従うことができるように祈ります。特に、今日はイエス・キリストが十字架の苦難を受けられた受難週の第一日に当たります。イエス様はこの日曜日にエルサレムに入城され、木曜日に聖餐式を行なわれました。そして金曜日に十字架にかかって死なれ、葬られました。土曜日は墓に納められていました。キリスト教ではこの一週間を受難週として守っています。断食をしたり遊びに行くのをやめたりしてそれぞれ努力して敬虔に過ごそうとします。私たちもこの一週間は夜8時に祈り会を通してイースター修養会を準備し、イエス・キリストの受難を覚えて行きたいと思っています。この期間にはパソコンやスマートフォンなどのsns断食もしながら敬虔に過ごすことができるように祈ります。今週だけではなく、常に、アンテオケの教会のように、主を礼拝し、断食と祈りをしながら聖霊の御声を聞いて交わり、聖霊に従う生活ができるように祈ります。では教会から送り出されたふたりは何をしましたか。4, 8節をご覧ください。ふたりは聖霊に導かれてセルキヤに行き、そこから船でキプロスに向かいました。その島のサラミスという町に着くと、さっそくユダヤインの会堂で神のことばを宣べ始めました。ヨハネ, マルコ, も助手として同行しました。彼らは島全体を巡回して、最後にパポスという町に来ました。そこで、にせ預言者でバルイエス, イエスの息子, と名乗る魔術師に出会いました。彼は総督セルギオ・パウロの取り巻きのひとりでした。総督は賢明な人で神の御言葉を聞きたいと思うほどに霊的な望みを持っていたのでバルナバとパウロを招きました。ところが、魔術師は、ふたりに反対しました。パウロやバルナバの言葉に耳を傾けないようにそそのかし、総督を信仰の道から遠ざけようとしました。しかし、聖霊に満たされたパウロはどうしましたか。9, 11節をご覧ください。「しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言った。するとたちまち、かすみとやみがかれをおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜し回った。」とあります。パウロの呪いによって信仰の道を遠ざけていた魔術師エルマは盲目になってしまいました。この出来事を目のあたりにした総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入りました。これは考えてみればすごいことです。その地方のトップ、つまり県知事とか都知事とか、そういう人が信仰を持つに至った、ということです。しかしこれは決して特別な、この時代の事だけではありません。パウロによって切り開かれたローマ帝国への宣教は、どんどん広がっていきました。313年にはローマ皇帝がキリスト教を公認しました。そして391年には、キリスト教を国教に定めるに至りました。こういう素晴らしい出来事の後もパウロの一行は伝道旅行を続けます。13節をご覧ください。パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡りました。ここでヨハネと呼ばれるマルコが一行から離れ、エルサレムに帰ってしまいました。その理由は分かりません。同労の問題があったのか、健康の問題があったのかは分かりません。信仰の強いパウロが感情的になって言い過ぎてしまうことがあったかも知れません。私たちと同じ人間だからあり得ることでしょう。確かなことは、弱さを持っていながらも福音を伝える働きを進めて行ったことです。パウロたちはペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行きました。ここのアンテオケはパウロを送り出したシリアのアンテオケとは違うアンテオケです。そこでも安息日に会堂にはいると、会堂の管理者たちから話す機会が与えられました。パウロが立ち上がり、手を振りながらメッセージを伝えました。16, 41節までは使徒パウロのメッセージです。まず17, 21節でイスラエルの歴史を紹介しています。神様はご自分の民イスラエルを大きな力によってエジプトから導き出し、約四十年間、荒野で養われました。それからカナンの地に入らせて七つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。彼らが王をほしがったので、神様はサウロをイスラエルの初代王として立ててくださいました。それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされました。パウロはそのイスラエルの歴史をダビデまでに語りました。それはダビデに対してメシヤの約束が与えられているからです。その約束の救い主がイエス・キリストです。最近、流行っている幸福の科学の大川さんとか、儒教の孔子、仏教の仏陀、イスラム教のモハメットなどは、誕生の前から預言されたという話を読んだことも、聞いたこともありません。しかし、イエス・キリストの誕生は旧約聖書に預言されていたのです。キリストの道を備える先駆者バプテスマのヨハネのことも預言されていたし、そのとおりに現れてイエス様の道を備えました。24、25節をご覧ください。「この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』」とあります。旧約聖書に預言されたとおりにバプテスマのヨハネが現れて悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。キリストが自分のあとからおいでになることも言いました。そして、その通りにイエス様はキリスト、メシアとして来られたのです。それによって救いの言葉は私たちに送られました。従ってだれでもこのイエス様をキリストとして受け入れ、信じるなら救われるようになったのです。それは誰よりも旧約聖書を持ち、信じているはずのユダヤ人がよく分かっていることでした。しかし、ユダヤ人たちはイエス様を信じるどころか、十字架につけて殺してしまいました。ところが、それも聖書に預言されたとおりでした。イザヤ書53章5節によると「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」とあります。イエス様はユダヤ人の背きの罪のために、私たちの罪と咎のために、十字架につけられて死なれたのです。しかし、神様はキリストをどのようにされましたか。30, 37節をご覧ください。ここで、パウロはイエス様の復活をはっきりと証ししています。ユダヤ人はイエス様を十字架につけて殺しましたが、神様はイエス様を死者の中からよみがえらせました。復活は、神様の打ち負かされないご計画と力との証拠でした。これもまた聖書の御言葉通りになったことです。特にパウロは詩編2:7「あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。」と言ったダビデの預言はイエス様の復活を預言していると証しました。結局、パウロのメッセージの結論は何ですか。38、39節をご一緒に読んでみましょう。「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」とあります。パウロはモーセの律法によってではなくイエス様を信じることによって罪から解放されると証しています。「解放される」と言うのは、「赦される、義と認められる」という意味です。私たちはイエス様をキリストとして信じるなら、その信仰によって罪が赦され、義と認められるのです。これこそが罪の赦しの福音です。私たちは宣教旅行の途中でエルサレムに帰ってしまったマルコのように弱くなる時があります。自分の限界にぶつかり、同じ罪を繰り返して犯してしまうと、自分自身も自分を赦せなくなります。しかし、それでも主を信じて悔い改め、主の御前に出て行くなら、主は私たちを赦し、恵みを施してくださいます。私たちは、ただ、イエス・キリストを信じるなら救われるのです。それではこのパウロのメッセージに対する反応はどうでしたか。42, 44節をご覧ください。ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼みました。会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神様を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来ました。それで、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めました。すると、次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来ました。ところが、人々が多く集まって来る群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃えました。彼らはパウロの話に反対して、口ぎたなくののしりました。その時、パウロとバルナバは新しい方向をつかむようになりました。46、47節をご覧ください。「そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」とあります。パウロはイザヤ49:6節の御言葉に基づいて異邦人宣教の方向をつかみました。異邦人は心が開かれていました。異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美しました。ここから、異邦人宣教が具体的に始まって行きます。どのようにして異邦人の心が引かれ、開拓のみわざが起こるようになったでしょうか。?., 信仰の門を開いてくださった(14, 28)14章1, 7節をご覧ください。イコニオムでも、ふたりの使徒は連れ立ってユダヤ人の会堂にはいり、話をしました。すると、ユダヤ人もギリシヤ人も大ぜいの人が信仰に入りました。しかし、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせました。それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語りました。異邦人とユダヤ人が彼らの指導者たちといっしょになって、使徒たちをはずかしめて、石打ちにしようと企てました。そのとき、ふたりはそれを知って、ルカオニヤの町であるルステラとデルベ、およびその付近の地方に難を避け、そこで福音の宣教を続けました。具体的にパウロはルステラにある足のきかない人に目を留め、彼にいやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言いました。すると彼は飛び上がって、歩き出しました。パウロのしたことを見た群衆は、声を張り上げ、ルカオニヤ語で、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになったのだ。」と言いました。パウロとバルナバにいけにえもささげようとしました。それに対して使徒たち、バルナバとパウロはどうしましたか。「そうなんだ。私が神なんだ。私を拝め。」と言ったでしょうか。決してそうではありませんでした。14、15節をご覧ください。「これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」とあります。ここで、衣を裂いて、群衆の中に駆け込んだのは、自分の立ちも同じ肉体を持っている人間であることを示すためでした。そして神様が、「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった方」として説明しました。ところがパウロがルステラで福音を宣べ伝えている時、ユダヤ人たちはパウロを妬みました。彼らはアンテオケとイコニオムから来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにしました。何度も何度も石に打たれたパウロは死んだ人のようになっていました。実際に死んでいたかも知れません。彼らは死んだものと思ってパウロを町の外に引きずり出しました。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行きました。パウロは石に打たれ、死にそうになっても少しも迫害に負けませんでした。神の国への望みがあったからです。22節をご覧ください。「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言いました。この望みのゆえに彼は多くの苦しみの中でも落胆しませんでした。むしろ艱難の中でも喜びました。なぜなら今の時のいろいろの苦しみは、将来私達に啓示されようとしている栄光と比べれば、取るに足りないものと思っていたからです(ローマ8:18)。私たちにも神の国に対する望みがある時、苦難の十字架を負うことができるし、艱難さえも喜ぶことができます。ふたりの使徒はピシデヤを通ってパンフリヤに着き、ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、そこから船でアンテオケに帰りました。そこに着くと、教会の人々を集め、宣教報告をしました。どのような報告をしましたか。最後に14章27節をご一緒に読んでみましょう。「そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。」彼らは自分たちがどれほど苦労したかを報告しませんでした。「皆さん、私がどれだけが苦難を受けたのか、死にそうになっていたよ。皆さんも分かってほしい。」と言いませんでした。彼は神様が彼らとともにいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告しました。実際に異邦人はやみの中にいました。彼らの心は閉ざされていました。パウロは彼らに福音の光を照らす異邦の光として選ばれましたが、その任務を果たすことはやさしくありませんでした。しかし、神様がともにおられ、任務を果たせるようにしてくださいました。何よりも、閉ざされている異邦人に信仰の門を開いてくださいました。神様が主を礼拝し、断食をし、祈りをしているアンテオケ教会から派遣されたパウロを異邦人の宣教のために貴く用いられました。だから、福音によって小アジア地方を開拓し、宣教旅行を続けることができます。教会を開拓し続けることができました。今日も、福音の光を知らず、やみの中にいる人々にキリストの福音を伝えることは決してやさしくありませんでした。, 閉ざされている人々に福音を伝えることは岩に卵を投げるようなものです。パウロも多くの苦難を受けました。しかし、神様は主を礼拝し、祈る私たちとともにおられます。私たちが福音を伝える時、異邦人に信仰の門を開いてくださいます。だからこそ、全くイエス・キリストを知らない人々にキリストの光を照らすことができます。聖霊が私たちとともに働いてくださるからです。この日本の人々に信仰の門を開いてくださるからです。ですから、私たちも使徒パウロのように異邦人の光として働き、用いられることができます。どうか、主が私たちを異邦人の光として用いられますように祈ります。
15acts1m, 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき, 2015年使徒の働き 第1講メッセージ(朴エズラ)聖霊があなたがたの上に臨まれるとき御言葉:使徒の働き1, 1−26要 節:使徒の働き1, 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」」今日から使徒の働きを学ぶように導いてくださった神様に感謝します。使徒の働きは、イエス様が復活された後、地の果てにまで、わたしの証人となるようにという使命をうけた弟子たちが、どのようにエルサレムからローマまで福音を伝えたかについて、記録したものです。使徒の働きは28章までしかありませんが、私たちは現在29章の舞台を飾っていると言えます。私たちが使徒の働きを通して、何故福音が地の果てにまで伝えられなければならないのか、この福音を伝える証人の姿勢はどうあるべきかについて学べるように祈ります。今日は、第1講として私たちの上に聖霊が臨まれ、力を受けることによって、イエスキリストの証人の人生が生きられることについて学びたいと思います。昔、ベニーヒン(benny, hinn)牧師が書いた、『聖霊様、おはようございます!』(1994)という本を読んだことがあります。イエス様を信じるようになった私たちの中には、常に聖霊がともにおられます。現代の私たちには、神様とイエス様は目に見えない存在ですが、聖霊様が私たちとともにおられ、私たちを導いてくださいます。私たちが今日の御言葉を通して聖霊に満たされ、力を受けることが出来るように祈ります。?。聖霊を送ると約束されたイエス様, 3節では使徒の働きの前書きです。ここでルカの福音書と使徒の働きが繋がれていることを説明しています。そこで、使徒の働きの著者もルカの福音書を書いたルカであることが分かります。イエス様は復活した後、40日の間、弟子たちとともにおられながら、彼らに復活信仰を植え付けました。イエス様が十字架に付けられ死なれた後、弟子たちの信仰は揺らぎ、共同体が壊れる危険性がありました。そこで、イエス様はガリラヤを訪れ、彼らを助けられたのです。具体的に、数多くの証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示されました。わき腹と手の平を見せながら、十字架の釘の痕を触ってみるように助け、復活したご自身の姿を彼らに直接証しされました。また多くの復活の証人たちの証言も聞くようにされました。イエス様の福音の証人となるためには、まず復活信仰が絶対的に必要だったからです。次に、イエス様が教えた内容は神の国に関することでした。イエス様を信じながらも、この世に望みをおく時、聖霊の力を受けることは難しいです。そこで、イエス様の地上での教えも神の国に関するものでした。そして、使徒たちに神の国に対する望みを植え付けて、世界宣教を担えるように準備させました。それでは、イエスさまは弟子たちに復活信仰を植え付けた後、どんな方向をくださいましたか。4、5節をご覧ください。“彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。/ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」”ここで、4節の「父の約束」とは、「聖霊のバプテスマ」であることが分かります。ヨハネは悔い改めのしるしとして水でバプテスマを授けて、イエス様を受け入れるように心を準備させました。しかし、弟子たちが受ける聖霊は罪の赦しを与える聖霊のバプテスマを指しています。当時、エルサレムは弟子たちにとって非常に危ないところでした。弟子たちはガリラヤを舞台にしてイエス様とともに活動しました。しかし、イエス様がエルサレムに上られてから宗教指導者たちの執拗な迫害を受けて、最後にこのエルサレムで逮捕されて十字架につけられました。したがって、エルサレムは弟子たちにとって一刻もはやく離れたい場所でした。ペテロは、エルサレムでイエス様のうしろから遠く離れて付いていく途中、命の危険を感じて三度もイエス様を否定せざるを得ませんでした。ほかの弟子たちもイエス様が十字架で死なれる時、みんな命の危険を感じて逃げた場所でした。彼らにとって、エルサレムはまことに恐ろしくて早く逃げたい危ない場所でした。私たちも自分の属している所の状況が悪かったり、気に入らなかったりすると新しい環境をもとめ、そこを離れてどこかに逃げたい気持ちになります。新しい環境で新しく始めたいからです。しかし、この世では、私たちの気に入る完全な環境はありません。どんな所に行っても、気に入る部分と気に入らない部分があります。イエス様は、私たちが息苦しい所、気難しいところから逃げるのではなく、乗り越えて打ち勝つことを願われます。それでは、なぜ、イエス様は、弟子たちにエルサレムを離れないように言われたのでしょうか。それは、聖霊を待つためでした。イエス様はエルサレムで全人類の罪を贖うために十字架の上で死なれて3日目に復活されました。そして、弟子たちにエルサレムで聖霊を待ちなさいと言われました。旧約のユダヤ人たちがメシヤを待ったように、イエス様の弟子たちはイエス様の昇天後に聖霊を待つべきです。私たちは再び来られるメシヤを待っています。待つためには忍耐が必要です。我慢して待たなければなりません。聖霊を待ちなさいとは、聖霊に頼りなさいという意味でもあります。イエス様が一緒におられる時は、弟子たちはイエス様だけにもっぱら頼れば問題ありませんでした。しかし、イエスキリストが昇天された後は、キリストの霊である聖霊に頼りなさいという命令です。現代の私たちにとって直接会えなくなりましたが、今もイエスキリストは聖霊によって私たちとともにおられます。イエス様が弟子たちとともに生活したように、聖霊も私たちとともに住まわれます。私たちも弟子たちのように全面的に聖霊を信頼し、頼らなければなりません。?。イエスキリストの証人の人生を願われるイエス様, 6節をご覧ください。“そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」”, イエス様が, 40日間神の国に対して教え、最後の日に「父の約束を待ちなさい」とおっしゃると、弟子たちはやっと待ちに待っていた祖国の解放の時が来たと誤解をしました。当時、イスラエルの状況は、国が滅びてから約, 600年の間バビロン、ペルシア、ギリシャの植民地となり、異国の人々に蔑視され、さげすまれました。またその頃には全世界を支配していたローマ帝国の植民地となっており、苦しい毎日でした。イスラエルの民たちはローマの政治的な圧迫と人権蹂躙の中で奴隷のような惨めな状態にありました。ローマの経済的な搾取によって民たちの生活は飢えの苦痛を受けていました。神様の選民であるプライドは深く傷つけられ、羞恥と屈辱を耐え忍ぶしかありませんでした。志のあるイスラエルの若者なら、誰もが祖国イスラエルをローマから解放させる切実な願いを持っており、これこそが、当時の民たちの切実な現実問題でした。弟子たちはイエス様の神の国に対する教えを聞いて大きな感動を受けました。イエス様があらゆる病人を癒し、荒波と風も鎮められ、死んだ者も生き返らせる働きを目撃して、イエス様を通して祖国の独立の夢を成し遂げるためにイエス様に献身的に頼りました。イエス様が将来大きな能力でローマ軍隊を追い出して地上のメシヤ王国を建設することを夢見ました。その夢とビジョンのため、彼らは生活の頼りであった舟と父親を捨ててイエス様についてきました。しかし、イエス様は彼らの期待を裏切り、逮捕されてピラトから死刑宣告を受けて十字架の上で無力に死なれました。イエス様の死と同時に、彼らの望みも泡水のように消えてしまいました。ところが、イエス様は約束された通り、再び3日目によみがえられて、彼らに現われました。彼らは新しく力と勇気を得ました。とくに、壊れた彼らの夢も再び復活しました。イエス様が40日間、神の国に対して教える時、彼らは、それを地上のメシヤ王国建設だと思い込み、イエス様がエルサレムで地上のメシヤ王国を建設し、王になれば、彼らはイエスキリスト内閣の各大臣になる夢を持つようになりました。同時に、祖国イスラエルがローマの植民地の統治下から回復される夢を持っていました。そういった夢を膨らませている時、イエス様が急に、彼らを離れようとしたので、イエス様に質問せざるを得ませんでした。“「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」”彼らの質問にイエス様は何と答えましたか。7, 8節をご一緒に読んでみましょう。“イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。/, しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”, イエス様はイスラエルの回復は神様の主権にあるので、すべてを主に委ねて、弟子たちがやるべきことを教えてくださいました。“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」”弟子たちはほとんどが地方の田舎出身であり、きちんとした教育を受けることができませんでした。また彼らの代表者であるペテロも、魚ばかり取っていた漁師出身でした。イエス様がともにしない時、彼らは、弱い存在であったし、自分たちを逮捕しようとする宗教指導者たちを恐れるしかない弱虫の人々でした。イエス様は彼らの弱さを誰よりもよくご存じでした。そこで、彼らに聖霊を約束されたのです。では、聖霊は具体的にどんな働きをしますか。第一に、聖霊を受けると、力を受けます。“しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます, ここで、力とは、語源がダイナマイトと同じです。弟子たちに聖霊が臨まれる時、人々に対する恐れも乗り越えて、力のあるしもべとなれます。実際に、ペテロが聖霊の力を受け、大胆にメッセージを伝えると、一度で3, 000人が悔い改めたり、次には5, 000人が悔い改め、バプテスマを受けて、弟子に加えられ、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをするようになりました。このように聖霊を受ける時、現実の圧力と恐れを乗り越えて、大胆に神様の御言葉を伝える、大胆で力のある働きをすることができます。第二に、イエス様の証人として働くように助けます。“そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります, 。」”「わたしの証人となります。」とは、(NIV聖書では)「you, will, witnesses」となっており、イエス様の強い意志が現れています。聖霊が臨まれる目的は、すべての人がイエス様の証人になるためでした。これはイエス様のこの世での最後の地上命令であり、私たちクリスチャンにくださった使命です。福音を知らない時、人々は罪と死の問題の解決が出来ないため、罪のなかで死ぬしかありません。このような人々に罪のゆるしの福音、復活の福音を証することで罪が赦され、死の勢力から離れ、希望と意味ある人生、究極的には永遠の命を得るようにする証人の人生こそ、この世で最も偉大で価値ある仕事なのです。この世には、たくさんの仕事がありますが、このように死んでいく魂を生かすことより重要で至急な仕事はありません。使徒たちは、イエスさまからこのように偉大で重要な使命を受けたのです。この使命は、弟子たちに与えられた特権なのです。このように重要で至急な仕事なので、イエス様は使命だけ与えたのではなく、聖霊を送り、聖霊さまの力によってこの使命を担うようにされました。すなわち、証人となる主体は、弟子たちの力で担えるのではなく、ひとえに聖霊さまの力が臨まれる時、担うことができるのです。世のことは、自分の力と知恵で努力さえすればある程度は成し遂げますが、イエス様を伝え、人を救うことは自分の力と知恵では絶対に出来ないことです。証人の人生は、聖霊が臨まれる時のみ可能です。そこで、イエス様はいきなり、「私の証人となりなさい」と言われませんでした。聖霊を注いでくださると約束してくださったのです。弟子である私たちが証人の職務を担える原動力は、まさに聖霊さまなのです。聖霊が世界宣教を担える力をくださるのです。人間的な能力と才能が多いからといって世界宣教をよく担えるのではありません。むしろ、人間的な能力をたくさん持っていると、聖霊の力に頼らなくなり、それが聖霊の力を受けさせないようにする障害要因にもなります。信仰によって聖霊の力を受ける時のみ、すべての限界状況を乗り越え、力のある証人の人生を生きることができるのです。したがって、私たちは聖霊様に頼り、聖霊さまが私たちのなかで働き、聖霊さまが主体となって私の中で強く働き、私を用いてくださるように自分を備えておかなければならないのです。現在アフリカの宣教師として遣わされた李サムエル宣教師は、どうすれば聖霊に満ち溢れた人になれるかについて、『聖霊様とは』という本で、次のように記しています。「現代、私たちはあまりにも忙しい生活をしています。サタンは必要のないことにまで関わらせ、私たちをどんどん忙しくさせます。それがサタンの狙いです。聖霊さまを熱望する時間を奪っていきます。目を覚まさなければなりません。朝、起きるや否や聖霊様を心の奥底から切に熱望すべきです。聖霊様無しには一瞬も生きられないという姿勢を持たなければなりません」と。来週学ぶ予定の、使徒の働き2:38節には、聖霊を受けるためには、私たちが日々どのように生きるべきかについて教えてくれます。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」と。御言葉にもあるように、私たちが、毎日、聖書の御言葉によって照らされる罪を、瞬間瞬間悔い改め、祈ることによって聖霊に満たされる1年となるように祈ります。先週、私たちは新年修養会を通してたくさんの恵みを受け、各自2015年の要節と祈り課題を決めたと思います。出発したばかりの2015年、各自が御言葉と祈りによって聖霊充満となり、力強いキリストの証人としての2015年を過ごせるように切に祈りたいと思います。そこで、私たちをめぐるあらゆる現実問題にも負けず、打ち勝つことが出来るように祈ります。また、クリスチャンの数が少ない周りの環境であっても、大胆に聖書の御言葉をのべ伝えることができるように祈ります。私も、使徒の働き6:4「私たちはもっぱら祈りと御言葉の奉仕に励むことにします」を今年の要節とし、御言葉と祈りにもっぱらはげみ、聖霊様のくださる力によって力強いキリストの証人としての1年を過ごせるように祈りたいと思います。9, 11節をご覧ください。イエス様が弟子たちに御言葉を残した後、彼らが見ている間に、天に上って行かれたので、弟子たちは天をずっと見つめていました。その時、白い衣を着たふたりの御使いたちが、彼らのそばに立って言われました。“「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」”。イエス様とともに生活した3年間、弟子たちにとってイエス様は彼らの主であり、保護者であり、師匠でした。そういったイエス様が急に昇天されると、弟子たちは意外な出来事に対する驚きと、離別による悲しみによって天を見つめていました。その時、御使いを通して、イエス様の再臨を知らせてくれました。弟子たちはイエス様が地上でイスラエルを再興されないなら、イエス様と一緒に天国に行きたいという思いが強かったでしょう。しかし、イエス様は弟子たちがイエス様の再臨を備える働きをするように助けました。イエス様の再臨を準備する人生とは、どんな人生でしょうか。昇天されたイエス様が再臨を準備する間に、私たちはこの地上でイエス様が言われたとおりに、聖霊に満たされ、力を受けた後、私たちが住んでいる東京をはじめ、日本中、さらには地の果てにまでイエス様の証人となることが求められます。つらい時、さびしい時、悲しい時、この世で失敗する時、弟子たちのようにこの世を去り、イエス様のおられる天国に行きたいと思いがちです。私たちも弟子たちのようにいつまでも天だけを呆然と見つめないで、積極的に聖霊に満たされる生活が出来るように祈ります。?。聖霊を受ける準備をする弟子たち, 弟子たちは聖霊を受ける準備をするために何をしましたか。第一に、イエス様の御言葉に順従しました, 。12節をご覧ください。“そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。”弟子たちはイエス様が昇天された後、すぐオリーブ山を越えてガリラヤに行きたい思いがくすぶったでしょう。故郷のガリラヤに行ってイエス様の証人になることもできました。エルサレムは危ない所であり、漁師が多かった彼らにとって、仕事を探すことも難しかったでしょう。しかし、エルサレムを離れないように言われたイエス様の御言葉に順従して、再びエルサレムに帰って来ました。弟子たちは危ない場所ですが、自分たちの安全よりもイエス様の約束の御言葉をより大切に考えました。そして、イエス様の御言葉に順従してエルサレムに帰って来ました。第二に、みな心を合わせ、祈りに専念しました, 。13, 14節をご覧ください。“彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。/, この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。”イエス様の弟子たちがエルサレムに帰って来た時、彼らは当然、行く所もなく、彼らが主に集まったマルコの屋上の間(使, 12)に上がりました。そこには、十一使徒と女性たちとイエス様の肉身の家族たちが集まっていましたが、その数は120人ほどでした。彼らは聖霊を受けるために、心を合わせて祈りに専念しました。14節をご一緒に読んでみましょう。“この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。”, 彼らは心を合わせて、祈りに専念しました。心を合わせて、祈りに専念したという意味は、祈る時、みんなが一つになったということです。そして、同じ祈り題目を持って心を合わせて祈りました。祈りが答えられるまで諦めず、祈りました。彼らは周りの環境が難しいからこそ、より一層祈りに力を入れました。どんな環境と条件でも乗り越えられる、強力な祈りをささげたのです。このように、同じ声、同じ心、同じ祈り課題で祈る時、神様の祝福を受けることができます。イエス様の弟子たちは、彼らの主であり、師匠であるイエス様との急な離別によって、未来に対する漠然とした不安と恐怖にさいなまれず、むしろ積極的に祈りました。彼らは彼らの恐れと悲しみを祈りに昇華させました。祈ることによって、未来に対する不確実な約束を確かな望みに変えました。その結果、彼らは約束された聖霊を受けることができました。さらには、究極的に世界を変える世界的なリーダーたちになることができました。彼らによってキリスト教は全世界に広がり、現在私たちも信じるようになったわけです。このように悲しみと孤独に打ち勝つことは、まさしく積極的な祈りであることを学ぶことができます。このように彼らが祈りに専念するためには忍耐する祈りが必要だったでしょう。彼らは聖霊が臨まれるまで忍耐して諦めず繰り返して祈りました。2015年、私たちも心を合わせて祈りに専念することができるように祈ります。
15john12, もし死ねば、豊かな実を結びます
15xmas3, 主をあがめ、よろこびたたえます
p15dbc1, あなたの進歩はすべての人に明らかになる
15xmas4, 救い主がお生まれになりました。
15acts05m, 主イエスの復活を非常に力強くあかしした使徒たち, 2015年使徒の働き5講 主イエスの復活を非常に力強くあかしした使徒たち御言葉:使徒の働き4:32―5:16要 節:使徒の働き4, 33「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」 先週、私たちはペテロが, 「イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはない」と証ししたことを学びました。宗教指導者たちはペテロとヨハネとの大胆さを見、生まれつき足なえから癒された人が一緒にいるのを見てはふたりを議会から退場させました。そして、二人にいっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと脅かしてから釈放しました。すると、二人は仲間たちのところに行き、祭司長や長老たちから脅かされたことを報告しました。そこで、人々は心を一つにして声を上げて「主よ。今彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちに御言葉を大胆に語らせてください。」と祈りました。すると、一同は聖霊に満たされ、神様のことばを語り出しました。その後、教会はどうなったでしょうか。 今日の本文である32節を見ると、信じた者の群れは、心と思いを一つにしていました。だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていました。まことに麗しい愛の共同体になっていたのです。持ち物に対する人の心はそれぞれです。夫婦であってもお金の使い方が違います。育ってきた環境が違うからそれぞれの関心、好き嫌いも違うでしょう。それで、多くの人々は夫婦でも通帳を別々にして財産を管理しているそうです。ところが、初代教会はいろんな地域から集まって来た信者たちが心と思いを一つにしていたのです。ほんとうに素晴らしい共同体になっていたことが分かります。では、どうやってこのように素晴らしい愛の共同体になることができたでしょうか。本文の御言葉を通して私たちが目指している教会の姿を学ぶことができるように祈ります。 第一に、力強い証と大きな恵みがありました。33, 35節をご覧ください。「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」とあります。使徒たちはイエス様の復活を非常に力強く証ししました。彼らは宗教指導者たちから「イエスの名によって語ってはならない」と脅かされていたにも関わらず、イエス様の復活を力強く証したのです。どうやってそれほど力強いキリストの証人になったのでしょうか。それは、聖霊の働きです。イエス様は天に帰られる前、弟子たちに「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1, 8)と言われました。その約束のとおりに、聖霊が使徒たちの上に臨まれたので、彼らは力あるキリストの証人となりました。彼らは力強く「十字架に殺されたイエス様は、復活して、今生きておられる」と証ししていたのです。生きておられるキリストが生まれつきの足なえを癒したと証したでしょう。青年は幻を語り、老人は夢を語っていたでしょう。彼らの間で力あるわざと不思議としるしを行なわれる復活のキリストは証しました。「キリストは生きておられる(♪257番)」という賛美もしながら証したと思います。すると、すべての者の上に主の大きな恵みがありました。すると、人々は「喜び」と「寛容」の雰囲気になりました。緊張した雰囲気ではなく、失敗や弱さを受け入れ、愛し合う雰囲気になったのです。その中で聖霊は豊かに働き、聖徒たちはのびのびと成長して行きました。 ところが、今の私たちはどうでしょうか。日常生活の中で「復活の主、生きておられるキリスト」を体験しているでしょうか。日常会話の中で「イエス様は生きている」と言うのを証しているでしょうか。私たちは、毎週礼拝の後にフェローシップで交わる時間を持っています。そこで、生きておられるキリストを体験した信仰の証、恵みの報告があるでしょうか。・・・・自分の中でいつの間にか、イエス様を観念的なものにしている方はいないでしょうか。特に祈りが少なくなると、いつの間にか、信仰生活が知識的、観念的になってしまうと思います。私たちは祈りを通して生きておられるイエス様を体験し、イエス様の復活を証しすることができます。その人の上に大きなイエス様の恵みが臨みます。さらにそこにはイエス様の働きがあるようになります。するとますます生きておられるイエス様を生々しく体験することはできます。したがって今、自分には復活のキリストを体験することも、大きな恵みもないと感じている方はまず祈りから始める必要があります。使徒の働きを読んでみると、聖書を見ると、信者たちは声を上げて祈ったり、夜を通して祈ったり、祈りに専念したりしています。どうか、そういう祈りをしてみてください。すると、復活の主、今も生きて働いておられる主を体験するようになるでしょう。自分の上にも主の大きな恵みがあるようになります。私たちに恵みがなければ心細くなり、喜びも寛容もなくなって行きます。しかし、恵みがあると喜びと寛容があるので何でも分かち合うことができるようになります。雨が大地に降り注ぐように主の恵みが私たちのうちに注がれると、私たちの心は癒され、喜びに満たされるようになります。人々を慰め、施すこともできるようになります。そういう人が増えることによって私たちの教会もますます麗しい愛の共同体になって行きます。その具体的な例がバルナバの献身です。36、37節をご覧ください。「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ, 訳すと、慰めの子, と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。レビ人というのは、イスラエル12部族の一つの部族に属していました。旧約聖書によると、彼らはもともと自分たちの地所を持っていませんでした。彼らは他の11部族が所得の10分の一を受けていたから、それが相続財産になりました。また、それによって土地を購入することもありました。だからレビ人の中でも相当の財産を持っている人たちがいました。バルナバはそうしたレビ人の中の一人だったのでしょう。彼はそれを売り、その代金を使徒たちのところへ持って来たのです。どうやってそれができたでしょうか。貧しい人、生活に苦しい人を見てかわいそうに思ったからでしょうか。事実、そう言う心があったかも知れません。しかし、ただセンチメンタルな同情心だけでは自分の財産を売ることまではなかなか難しかったと思われます。それより、バルナバもイエス・キリストの御名の力を体験する中で、大きな恵みを受けたと思われます。だから、彼は喜びと寛容な心から神様のためにささげる大決断ができたのです。そうでなかったらこのようなことはできないのです。人を慰め、人に施すためにはまず神様から大きな恵みを受けなければなりません。私たちがバルナバのような生き方をしたいと思うなら、まずは主イエス・キリストの復活を信じ、生きておられるキリストを体験することが必要なのです。そのうちに、イエス様と心から交わる中で大きな恵みを受けると人のために施しをしたいと言う心も生まれてくることでしょう。その時に自らすすんで自分の持ち物を主にささげ、人々を慰めるために用いるのです。どうか、私たちのうちにもバルナバのように大きな恵みを受け、大きな施しもできる人が増えますように祈ります。, 第二、神様への恐れがありました。5章1,2節をご覧ください。「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」とあります。ここには、アナニヤとサッピラという夫婦が登場します。彼らはバルナバのように尊敬されたいと思ったでしょうか。あるいはバルナバから刺激されたでしょうか。アナニヤ夫婦も自分たちの持ち物を売ってそれを使徒たちのところに持ってきました。この持ち物というのは8節で「地所」と置き換えられています。おそらく、彼らは、自分たちの土地を売り、その代金を使徒たちのところへ持ってきたと思われます。自分の土地を売って献金をしたのです。それはなかなか難しいことでしょう。だから、バルナバのように自分の畑を売ってささげる人は尊敬されます。私が大学3年生の時、通っていた教会の建築がありました。その時、ある先輩は自分の家を売って献金しました。私は非常に驚きました。ほんとうに素晴らしいことでしょう。後でその先輩の家族が非常に祝福されて行くことを見て私は神様への献身と信仰とは何かということも体験的に学ぶことができました。バルナバをはじめ多くの信者たちは信仰によって宣教のみわざのために献金をしたと思います。自分の土地や財産を売ってでも宣教のみわざを支えようとする情熱がありました。ところが、アナニヤにはそういう情熱がなかったようです。彼はその代金をささげる際に、その一部を自分たちのために残しておきました。そこでペテロが、「これがあなたの売った代金のすべてですか。」と尋ねました。すると、アナニヤは「そうです」と答えました。その代金の一部を残して置いたと言えば良かったと思いますが、偽ってしまいました。そこでペテロは彼に何と言いましたか。3,4節をご覧ください。「そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分たちのために残しておいたのか。それはもともとあなたのためであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」とあります。アナニヤ夫婦は人々を欺いていました。しかし、ペテロは、彼らが人を欺いたのではなく、神様を欺いたのだと言いました。そう言うと、アナニヤは息が絶えて、死んでしまいました。ここで、神様を欺くことはどんなに大きな罪であるかが示されています。その罪の代価は死でした。神様への欺きが、即、死刑ということになりました。彼らは想像を超えた酷い罰を受けています。神様はそれほどのさばきをなさった目的は何だったでしょうか。5節の後半のことばをご覧ください。「そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」とあります。同じことが11節にも記してあります。「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」とあります。この恐れというのは、怖いといった恐れのことではなく、聖い恐れです。神様は生きておられるという厳粛な思いです。教会にはこの聖い恐れが必要でした。教会が調子よく進んでいきますと、いつしかこの聖い恐れというものを感じなくなってしまうことがあります。神様を神様とも思わなくなってしまうのです。そうなったらさまざまな腐敗や罪がはびこるようになって内側から崩壊することになってしまいます。なぜなら、教会はキリストのからだであり、神のいのちである聖霊の宮だからです。教会は神様を恐れて生きる時のみ、大きく前進していくことができます。このアナニヤとサッピラの事件は、そうした罪の恐ろしさと、その罪がもたらす影響というものを示しながら、そういうものを取り除いていく必要性を訴えていたのです。教会に神様を恐れることがなければ人々は人間中心になってしまいます。ですから、聖なる恐れがあるときに教会は一致して愛の共同体を維持することもできます。第三に、教会の成長がありました。13、14節をご覧ください。, 「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。」 「ほかの人々」とは、ノンクリスチャンのことです。彼らは、ひとりもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、それらの人々は彼らを尊敬していました。また、主を信じる者はますます増えて行きました。ちょっと矛盾しているように思われますが、事実です。, おそらく、あのアナニヤとサッピラの事件の後で、彼らの間には非常な恐れが生じ、この群れに加わることはできないと考えていたのでしょう。それでも心の中では彼らを尊敬していたのです。だから、誰かがイエス・キリストを力強く証してくれると、主を信じるようになります。そうして信じる者はますます増えて行くのです。それは初代教会に限らず、今の日本でも同じことが言えるでしょう。クリスチャンってすごいなぁ、いい人だなぁ、大したもんだいと思っている人々がいます。でも、自分はその中に入ろうとしません。それが日本の多くの人々の態度だと思います。しかし、そのような中でも、主を信じる人たちはますますふえていくのです。そうして、イエス・キリストを信じて救われると、自分たちの間で多くのしるしと不思議なわざを体験して行くようになります。復活の主を体験するようになるのです。15節と16節をご覧ください。ついに、病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロがそこを通りかかるときには、せめて彼の影だけでも、だれかにかかるようにしたほどになりました。人々はキリスト教会を大いなるものと認めていただけでなく、実際にその中に加わることによって、大きくふえていったのです。 今日、私たちは家庭でも、, 学校でも、, 社会でも、心と思いを一つにすることは難しい時代に生きています。どこにおいも、みんなばらばらです。しかし、クリスチャンは違います。クリスチャンには従うべき一定の基準があるのです。それが聖書です。神様のみことばは、神様のみこころが記されてあります。だから、聖書の教えによって心と思いを一つにすることができます。家族も、教会も、世界も聖書の御言葉を通して一致することができます。自己中心や虚栄といった態度によって人を遠ざけ、人を騙すのではなく、へりくだって互いに人を自分よりもすぐれた者と思うようになります。つまり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしていくようになるのです。私たちの教会の姿がそのように変えられて行きますように祈ります。すると、教会の姿は、世間の人たちから見ても非常に魅力的で、彼らの尊敬と信頼を勝ち取り、さらに力強く前進していくようになります。結局のところ、すばらしい愛の共同体としての教会とはどういう教会でしょうか。力強くイエス・キリストの復活をあかしし、大きな恵みがあるところです。神様への恐れと成長がある教会です。特に神様を恐れることはとても大切であると思われます。そうすれば、主はその歩みを確かなものとし、祝福してくださいます。私たちの上に大きな恵みをあるようになります。神様を神様とせず、神様を欺きながら、利己的に生きようとするなら、そこにはいろいろな乱れが生じてくるでしょう。教会の内部もばらばらになってしまいます。ですか、結局のところ、神様を恐れることはとても大切です。私たちひとりひとりがただ神様を恐れ、神様のみこころに歩む者でありますように祈ります。また、心と思いを一つにして神様に仕え、人々を愛する者として生きることができるように祈ります。
