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15ACTS04M この方以外には

15acts04m, この方以外には, 2015年使徒の働き第4講この方以外には御言葉:使徒の働き4:1, 31要, 節:使徒の働き4:12 「, この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」, 私たちは1章〜3章の御言葉を通して聖霊がどのように臨まれ、どのように働かれたかについて学びました。特に、先週は生つき足の不自由な男が癒され、救われた出来事を学びました。そこで、ペテロは説教を通してその男はイエス様が与える信仰によって完全に治ったことを証しました。それから、ユダヤ人はイエス様を拒み、十字架につけて処刑しましたが神様が復活させてくださったことも証しました。しかも、それは偶然に起こったことではなく、神様が昔からの預言を実現してくださったことだと証しました。こうなると、ユダヤ人の宗教指導者たちも納得し、受け入れるべきでした。しかし、彼らはペテロとヨハネを逮捕しました。聖霊のみわざが起こっているところに迫害も襲って来たのです。ではペテロとヨハネはその迫害と試練をどのようにして乗り越えて行ったでしょうか。迫害と脅迫の中でも彼らは何を証していたでしょうか。そして、釈放されたペテロとヨハネの報告を聞いた信者たちは何をしたでしょうか。今日の御言葉を通してペテロとヨハネの信仰的な勇気と霊的価値観、試練の中でも祈りと賛美にあふれている信徒たちの信仰生活を学びたいと思います。  1, 3節をご覧ください。ペテロとヨハネが話しているところへ、祭司たちや神殿の警備隊長、それに、サドカイ人たちがやって来ました。この人たちは、ペテロとヨハネが午後の祈りの時間、ずっと民を教えていた内容を聞いていたようです。ペテロとヨハネはイエス様のことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えていました。それはサドカイ人にとって本当に困る内容でした。なぜなら彼らは「復活はない」と教えていたからです。ユダヤ教には大別して三つの派がありました。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派です。パリサイ派は律法主義者として、エッセネ派は神秘主義者として知らされています。そして、このサドカイ派は現実主義者でした。彼らの特徴は復活をはじめ、超自然的なことを信じていなかったことです。ところが、ペテロとヨハネは目撃者たちと共に確かな証拠を持ってイエス様の復活を伝えていました。だから、サドカイ人たちは困り果ててしまいました。サドカイ人たちは皆の前でペテロとヨハネの証に反撃することもできず、それを許すこともできなかったからです。結局、彼らはペテロとヨハネに手をかけて捕えましたが、その時はもう夕方だったので、一晩、留置場に入れて置くことにしました。そうすることによって復活の話はそれ以上広がらないだろうと思ったようです。実際に捕えられたペテロとヨハネは何もできなくなりました。しかし、その時にも聖霊は働いておられました。4節をご覧ください。「しかし、御言葉を聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。」とあります。五旬節の日に三千人が回心して教会に加えられましたがさらに多くの人々が加え続けられました。男の数が五千人ほどですから男女を合わせると大人だけでも1万人を超えたでしょう。一般的に考えると教会のリーダーたちが捕えられたから、人々がその教会のメンバーになることをためらうはずです。ところがそんな人間の予想とは裏腹に大勢の人々がクリスチャンになりました。聖霊は一般的な考え、常識を超えて働いておられたことが分かります。事実、いくら権威ある集団でも、たとえ最高権力機関であっても聖霊のみわざを留めることはできません。5, 7節をご覧ください。翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まりました。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席しました。彼らは数か月前にイエス様を処刑するようにピラトに渡した人たちです。つまり、彼らはイエス様を十字架につけて殺した張本人たちなのです。そんな彼らが使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだしました。その時のペテロとヨハネの気持ちはどうだったでしょうか。普通に考えれば、彼らは「私たちもイエス様と同じようにさばかれて殺されるのではないか」という不安と恐れにさいなまれたはずです。しかも彼らは最高の権力者たちの前で尋問されています。震えて一言も言えないような状況なのです。しかし、ペテロは「民の指導者たち、ならびに長老の方々。…」と言い始めて大胆にイエス様を証ししました。どうしてそのようにできたでしょうか。それは「聖霊に満たされて」いたからです。8a節をご覧ください。彼らは聖霊に満たされて大胆になりました。彼らはイエス・キリストを信じて聖霊を受けていましたが、聖霊に満たされることによってますます強くなっていたのです。私たちもイエス・キリストを信じると、聖霊を受けます。そして聖霊に満たされることによってますます強くなります。聖霊に満たされると、力あるキリストの証人になります。したがって私たちはいつも聖霊に満たされることを望む必要があると思います。聖霊充満を期待し、祈り求めるのです。すると、私たちは聖霊に満たされて大胆にイエス・キリストを証することができるようになります。ペテロのように変えられて行きます。聖霊に満たされていなかったペテロはとても弱い者でした。以前にイエス様が捕えられた時は遠く離れてついて行ったし、女中の前でもイエス様を知らないと言いました。三度もイエス様を知らないと繰り返していたほどに弱かったのです。しかし、ここでは何も恐れずに大胆に説教をしています。それは、彼らが十字架につけ、神様が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によってできたことでした。事実、詩篇118:22節に預言された通りに、イエス・キリストは、家を建てる者たちに捨てられた石でしたが、礎の石となりました。イエス様はユダヤ教の指導者たちによって捨てられ、十字架につけられて殺されましたが、この石こそなくてはならないものでした。神様はこのイエス様を死者の中からよみがえらせたのです。なくてはならない方だったからです。この石こそ一度は捨てられたもののやがて最も栄光に満ちた礎の石となったからです。すなわち、このイエス様こそなくてはならない方、あの礎の石、聖書の中で何千年も前から預言されていた救い主であったということです。ですから、ペテロは結論として12節を言いました。12節をご一緒に読んでみましょう。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」皆さんにもこのような確信があるでしょうか。ペテロはイエス・キリスト、この方以外に、だれによっても救いはないと確信していました事実、この方こそ、私たちを罪による永遠の破滅から救い、永遠のいのちを与えることのできる唯一の救い主です。ですから、私たちはこの御名を信じなければ救われません。この方の他に誰によっても救いはありません。日本は多神教の国です。多神教の国だからこそ、日本人には寛容な心があり、誰にも親切にすることができるという人もいます。だから、唯一の神様を証することに対しては抵抗する場合が多くあります。「この方以外には…」ということは独善的、排他的だと言います。そして、あれも神、これも神と言うことに対しては寛容的であると言います。どの神でも信じるなら救われるような教えを好む傾向があります。これが普通の日本人の宗教観ではないかと思います。富士山に登るのも、山梨県から行っても、静岡県から行ってもまじめに、まじめに上れば山頂にたどり着くのだと思うのです。それで、どの宗教もみな同じ、大切なのは信じることだ、たとえ信じなくても良い行ないをすれば、みんな良い所に行くから大丈夫だと言います。しかし、聖書はそのように教えていません。聖書は言います。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」と言うのです。私たちは最初の人間アダムの子孫として皆が原罪を持っています。その原罪と自分の罪のゆえに、私たちはみんな滅んでしまう存在になってしまいました。ところが、あわれみ深い神様は、そのあわれみによってご自分のひとり子イエス・キリストをお与えになりました。そして、イエス・キリストは私たちのすべての罪を担って十字架に架かって死なれました。それによって私たちのすべての罪の代価を払われ、赦して下さいました。それから三日目に死者の中からよみがえられました。この復活はその以前にも、以後にもありません。イエス様だけが聖書に従って死者の中からよみがえられたのです。だから、このイエス・キリストだけが唯一の救い主なのです。この方以外に救いはありません。そして、この救いは何か悟る知識ではありません。生まれつきの足なえの人が癒され、救われるような奇跡です。福音書にも使徒の働きにもイエス・キリストの御名による数々の奇跡が記されています。私たちがイエス・キリストを信じて救われるということは神様の力を体験することでもあります。自分の人生において変化と癒しを経験して行く力です。ペテロとヨハネは三年前までガリラヤ湖で漁をしていました。ユダヤ人たちが言っているとおりに無学な人、普通の人でした。ところがそんな彼らが学者やこの世の権力者を前にして、堂々と「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言いました。当時、ユダヤの最高の権力者、知識人たちを圧倒する説教をするほどになりました。それはペテロに知識と力があったからではありません。彼がイエス・キリストの御名によって救われ、イエス様の御名に頼っていたからです。, ユダヤの最高権力者たちは、ペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚きました。人々はこの無学な二人が話すことを不思議に思い、どうすることもできなくなりました。ただ、自分たちが持っている世の権力で彼らを脅そうとしました。そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じました。しかし、ペテロとヨハネは彼らに何と答えて言いましたか。19、20節をご覧ください。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」彼らは人を恐れず、神様を恐れました。「人を恐れず、神様を恐れる。」これこそ、私たちクリスチャンが持つべき霊的価値観です。イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人達などを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい(マタイ10:28)。」と言われました。ペテロとヨハネはこのイエス様の御言葉を心から受け入れ、堅く守っていたことが分かります。彼らは主の御言葉に従ってはっきりとした霊的価値観を持っていたのです。だからが、彼らは最高権力者たちの前でも大胆にキリストの御名を証することができました。結局、宗教指導者たちは、聖霊に満たされた使徒たちの勇気と迫力に圧倒されてどうすることもできず、釈放しました。では、使徒たちはこのような勇気と力をどこから得られたでしょうか。それは聖霊によるものです。使徒たちは聖霊によって働かれるイエス様とともにいました。だからこそ彼らはイエス様と同じように勇気を持って大胆に語ることができたのです。それは彼ら自身の力によったのではありません。イエス様と深い関係にあった使徒たちが、聖霊の力によって語ったのです。私たちも同じです。私たちは弱いです。自分の力だけでは何もできないかも知れません。でもイエス様は強いのです。イエス様とともにいるならば、聖霊によってイエス様が私たちに勇気と力を与えてくださいます。聖霊は私たちが大胆にみことばを語ることができるようにしてくださいます。特に、私たちが弱い時こそ聖霊が力強く働いてくださいます。そして聖霊の力によって人々は悔い改め、回心することができます。 イギリスにチャールズ・スポルジョン, 1834, 1892, という有名な説教者がいました。彼の語る説教には迫力がありました。彼が活動している時代から150年も超えている今でも彼のメッセージは読まれているほどです。私のような人でも彼が後輩たちへ残した三冊の本を持っているほどです。しかし、ある主日の礼拝の時に、彼は失望感に襲われました。説教の途中で口ごもっただけでなく、なぜかうろたえてしまったのです。彼は説教に失敗したという挫折感にさいなまれました。そこで帰宅の途中でひざまずき、祈りました。「主よ。ないものをあるもののようにされる主よ、私の力のない説教を祝福してください。」 彼は一週間そのように祈り続けました。ある時は夜中に起きて祈った時もありました。そして、次の聖日にはすばらしい説教をして、失った自信を回復するという決心をしました。その祈りのとおり、次の日曜日にはすばらしい説教をすることができました。礼拝が終わると人々が押し寄せて来て熱烈に賞賛してくれました。満足して家に帰ったとき、彼はあることに気づかされました。彼が振り替えてみると、「あれっ、失敗したと思った先週の説教の時には41人の人が回心しました。それなのに、あんなに賞賛されたきょうの説教では回心者がひとりもいなかったのです。これはいったい、どういうことなのかと思われました。そこで、彼は「私たちの弱さを助けてくださる聖霊の力がなくては何もすることができない」ということが分かったのです。 そうです、私たちは、私たちを助けてくださる聖霊の力によってのみ人を変えることができます。どんなに無力で、普通の人でも、イエス様とともに歩む生活の中で聖霊に満たされると大胆にみことばを語ることができるようになるのです。もし、自分が無学で、普通の人であることに失望している方はいないでしょうか。神様はそのような人を用いられるのです。自分が無学で、普通の人であることに感謝しましょう。なぜなら、弱い者、足りない者であるという自覚があるかにこそ、そういう人はもっと主により頼もうとするからです。そして主の力によって大胆にみことばを語ることができるようになるからです。ではどうやって聖霊に満たされることができるでしょうか。それは一方的な神様の働きです。でも聖書を読んで見ると祈る時に神様が私たちのうちに働いてくださることが分かります。留置所から釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告しました。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神様に向かい、声を上げて祈りました。彼らは祈りの力を体験していたからこそ、声をあげて祈ったと思います。彼らは何を祈りましたか。彼らは「主よ。彼らの脅迫から私たちを守ってください。無事に信仰生活が送れるようにしてください。」と祈りましたか。いいえ。そうではありません。弟子たちは「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」と祈りました。29、30節をご覧ください。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。聖霊の力によって神様のことばを大胆に語り出しました。神様のみこころと一致した祈りを主は聞いてくださいます。御心に反した祈りが聞かれるわけはありません。私たちの祈りが神様の御心に一致するとき、神様は天地を造られたあの力で応答してくださいます。その時、私たちはどんな権力、どんな脅迫に対してもびくともしない証し人とされるのです。, 以上から、ペテロがイエス・キリストの御名によって、足のきかない男を歩かせた出来事を通してイエス・キリストを証ししたことを学びました。イエス・キリスト、この方以外には、だれによっても救いはありません。イエス・キリストの御名は世のすべての人々を罪と死の力から救います。私たちがイエス・キリストの御名を信じる信仰によって自立的に歩く人生となるように祈ります。特に祈り、声をあげて祈ることによって聖霊に満たされますように祈ります。聖霊に満たされてイエス・キリストの御名によって生まれつき足のきかない男のような人々を救いに導くことができるように祈ります。そういう生活を通してイエス・キリストの御名による救いのみわざを体験してますます大胆にイエス・キリストの御名を証しすることができるように祈ります。このイエス・キリストの御名が私達を通してあがめられますように祈ります。

15ACTS07M 主イエスよ。私の霊をお受けください

15acts07m, 主イエスよ。私の霊をお受けください, 2015年使徒の働き第7講 主イエスよ。私の霊をお受けください御言葉:使徒の働き6:8−7:60要, 節:使徒の働き7:59,60 「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」  先月、シグモンド宣教師夫婦に男の子が生まれました。その名は「ステパノ」です。それはステパノのようになってほしいという親の願いが込められていることでしょう。あるいは「ステパノ」がシグモンド宣教師の「ロールモデル」になっているかも知れません。 「ロールモデル」とは、自分にとって、具体的な行動や考え方の模範となる人物のことです。もちろん、すべてのクリスチャンにとっての「ロールモデル」はイエス・キリストです。イエス様のようになりたい、イエス様のように考え、イエス様のように判断し、イエス様のように行動したいという願いがあります。でも、イエス様は私たちの救い主、神様です。私たち人間が神様になることはできません。そういうわけで私たちにはイエス様よりはレベルが低いけれども同じ人間として真似できるようなモデルが必要だと思います。今日、学ぶ聖書の御言葉には皆様に確信を持って勧めることができる人生の「ロールモデル」ステパノのことが記されてあります。ステパノは使徒ではありませんでした。使徒パウロのように能力ある人でもなかったと思われます。彼は牧師でもなく、一般の信徒だったのです。では、どのような点で2, 000年前のステパノを今なお多くの人々が人生のロールモデルにするほどに素晴らしい人だったでしょうか。シグモンド宣教師が自分の子どもの名前にしたほどに尊敬しているステパノはどのような人だったでしょうか。また、彼が伝えた最後のメッセージにはどういうことが記されているでしょうか。この時間、ステパノの信仰とメッセージを学ぶことができるように祈ります。?.人生の「ロールモデル」ステパノの生き方とメッセージ(6, 53), 8節をご覧ください。「さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。」とります。ステパノは恵みと力とに満ちていました。3節と5節を見ると「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人」、「信仰と聖霊とに満ちた人」でした。一言で言えば、ステパノは聖霊に満たされた人でした。聖霊に満たされるなら、その自然の結果として神様の知恵に満たされ、また信仰にも満たされ、なお恵みと力にも満たされます。聖霊は知恵と黙示の霊であり、信仰の霊であり、恵みの霊であり、また力の霊だからです。聖霊に満たされたステパノは人々の間で、素晴らしい不思議なわざとしるしを行なっていました。彼にどんな事が起こりましたか。9節をご覧ください。「ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。」とあります。リベルテンとは「自由」を表わすラテン語です。調べてみると、この会堂はローマの奴隷から解放され、自由にされた人々がエルサレムに来て建てました。それで、ユダヤ人のディアスポラが自由に出入りするようになっていたそうです。彼らにとって評判の良いステパノが素晴らしい不思議なわざとしるしを行なっていることが妬ましくなったでしょうか。彼らはステパノに議論をふっかけました。でもステパノに勝つことはできませんでした。彼らは見事に負けてしまいました。すると、彼らは、ある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた。」と言わせました。また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行きました。そして、偽りの証人たちを立てて二つのことでステパノを告訴しました。一つは、モーセの律法を汚しているということです。もう一つは、聖なる所、神殿を汚していると事です。当然ながら偽りの証人である彼らの言うことは嘘です。扇動された民衆と長老たちと律法学者たちに襲われ、ひっぱられて行ったステパノにはなんの力もありません。特に、自分には何の罪もないステパノにとってはとても腹立つことです。自分の行動が誤解され、不当な扱いを受ける時ほど腹立たしいこともないでしょう。私は一晩だけでしたが拘置所で尋問を受けることがあります。夜自転車のライトに点灯しなかったことで逮捕され、拘置所にひっぱられて行きました。その時、当時の軍事政権に対する怒りや恨み、憤りは言葉で表せないほどでした。私だけではなく、不当に逮捕された人々の顔はこみ上げる怒りのため真っ青になっていました。人間的に考えると、ステパノもそういう腹立たしい状況に置かれました。しかし、ステパノの顔はどうでしたか。15節をご覧ください。「議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。」とあります。リビングバイブルによると「彼の顔は、天使のように輝いていました。」と訳されています。彼の顔から神様の栄光が輝き出ていたの、天使のように見えたことでしょう。普通なら、彼の顔は腹立たしく、怒りや復讐心に燃えていたことでしょう。しかし、聖霊の力に満たされたステパノは違っていたのです。どうしてでしょうか。それは彼のたましいが主とともに歩んでいたからでしょう。人は誰と住んでいるか、何を考えているかによって顔色が変わると思います。「男は、40歳過ぎたら、自分の顔に責任を持て」という言葉があります, アブラハム ・リンカン, 。ステパノは聖霊とともに歩み、霊的な考えをしていたのです。だから、彼の顔は天使のように輝いていたのです。顔は生まれ持ったものであり、自然に変えられるものではありません。でも、顔の表情には内側にあるものが現われるものです。大祭司はそのステパノの顔を見たでしょうか。ステパノに訴えの内容が「そのとおりか。」と尋ねました。大祭司はステパノの顔から輝き出る神様の栄光に恐れたかも知れません。彼はステパノに弁論の機会を与えました。そこで、ステパノは彼らが問題にしている律法と神殿に関するメッセージを伝えました。第一にモーセの律法についてのステパノのメッセージ, 7章2節を見るとステパノは「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。」とやさしくメッセージを始めています。それから彼らがよく知っているはずのイスラエルの歴史を紹介しています。つまり、ステパノはメッセージを聞いている聴衆をよく把握して彼らが尊敬している彼らの先祖アブラハムから始め、旧約聖書を要約して伝えます。2, 16節までは創世記の要約です。神様がご自分の民を救うためにアブラハムとヤコブ、ヨセフを召され、導かれたことです。アブラハムの孫に当たるヤコブの時に十二人の族長が生まれました。その兄弟の中でヨセフは兄たちから妬まれてエジプトに売られていきました。しかし、神様は彼とともにおられ、あらゆる患難から彼を救い出しました。彼に恵みと知恵をお与えになり、彼をエジプトと王の家全体を治める総理大臣に任じました。そしてエジプトとカナンとの全地にききんが起こった時は、ヨセフをいのちを救うみわざに貴く用いられました。17, 43節は出エジプト記から申命記までの要約です。神様がご自分の民をエジプトから救い出すためにモーセを用いられた話です。エジプトではヨセフのことを知らない別の王がエジプトの王位につくときまで続きました。この王はイスラエル人を苦しめて、幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。このようなときに、モーセが生まれたのですが、神様はモーセを選ばれました。彼をパロの娘の子として40年間指導者としての教育を受けさせました。その後、40年間は荒野訓練を通して謙遜と忍耐を指導者として育て上げました。そうして、80歳になったとき、神様はモーセを呼ばれ、イスラエル人の指導者また解放者としてエジプトに遣わされました。そこで、モーセはイスラエル人を導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行ないました。何よりも神様はモーセに律法を授かり、イスラエル人に与えるようになさいました。その中でモーセは神様から言われた通りに、神様がイスラエルの中に自分のような預言者、キリストをお立てになることも預言しました。ところが、イスラエル人はモーセの言葉に従うことを好みませんでした。かえって彼を退け、神様に逆らって偶像崇拝の罪を犯しました。ユダヤ人は、絶えず、反逆と不従順を繰り返して来ました。モーセの時代には、金の子牛を造って反逆しました。アモスの時代には、モロクと星の神々に従いました(アモス5:27)。それゆえ、神様は、彼らをバビロンのかなたへ移されました。イスラエルは偶像崇拝の歴史をたどり、ついに、バビロンに、奴隷として捕らえ移されてしまったのです。つまり、ステパノは「あなたがたは律法、律法と叫んでいますが、あなたがたこそ律法を守っていません」と訴えました。続いて、聖なるところ、神殿についても証します。第二に、神殿についての弁論したステパノのメッセージ, 53節は主にヨシュア記、サムエル記第二から歴代誌第二までの歴史書、エゼキエル書からマラキ書までの預言書に関する内容です。ここで、ステパノは幕屋及び神殿について語り、彼らの罪を責めて結論づけます。神殿はイスラエル人が荒野生活をしていた時に神様がモーセに言われた通りに造ったあかしの幕屋でした。このあかしの幕屋は天にあるあかしの幕屋の模型でした。実物は変わりませんが模型はいつでも変わります。このあかしの幕屋はカナンの地を征服する時に、ヨシュアが運び入れ、ついにダビデの時代となりました。そして、ダビデの子ソロモンは神殿を建てました。しかし、この神殿は、人が手で造った家なので根本的に限界があります。神様はそこにはお住みになりません。神様は天地を創造された方で、天は神様の王座、地は神様の足の足台です。なのに、ユダヤ人は、全宇宙におられる全人類の神様を、エルサレムだけに住んでおられるユダヤ人の神様にしてしまいました。だから、彼らこそ、聖なる神殿を汚していたのです。結局、彼らがステパノを告訴した二つの点は彼らの先祖から始め、彼ら自身がこわし、けがしていたのです。彼らはステパノのメッセージを聞いてそれがよく分かったはずです。すると、悔い改めるべきでした。ところが、彼らは悔い改めませんでした。人は自分の罪を自ら悟ると涙ながら悔い改めますが、それが他人から指摘されるとなかなか悔い改めません。他人から指摘されても謙遜に悔い改めができる人は霊的にも人格的にも成長して行きます。ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々は悔い改めませんでした。そんな彼らに対してステパノは何と言いましたか。51, 53節をご覧ください。「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」とあります。ステパノは怒りと悲しみを込めて彼らの罪を責めました。ユダヤ人は預言者達を迫害し、神様が立てられた指導者達を捨てて来ました。同じく彼らは神の御子であるイエス様を十字架につけて殺しました。そのような罪を犯させたのは、ユダヤ人の高慢と不従順です。ですから、彼らはステパノのメッセージに答えて悔い改めるべきでした。それなのに彼らは悔い改めるどころか、ますますステパノに向かって歯ぎしりします。?.ステパノの殉教, 54節をご覧ください。ステパノが律法について、神殿についてメッセージを伝え、結論として彼らの罪を責めると、人々は、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしました。メッセージを聞いて心が刺された時は、素直に悔い改めると罪の赦しの恵みを受けます。しかし悔い改めなければ、自分のはらわたが煮え返る思いで苦しむようになります。その心はもっと頑なになります。あのユダヤ人がそうでした。では、その時、ステパノは何を見ましたか。55、56節をご覧ください。ステパノは聖霊に満たされて天を見つめ、神の栄光と、復活され神の右に立っておられるイエス様を見ました。そして、こう言いました。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」ステパノはよみがえられたイエス様を見て感激しました。ここで、私たちは問題が起こった時に激しい怒りにゆがんでいる人々ではなく、天を見つめ、イエス様を見る必要があることを学ぶことができます。私たちが高慢な人、かたくなな人を見ていると怒りっぽくなります。時には腹立たしくて我慢できなくなります。しかし、そのような時にも天を仰ぎ見、イエス様を考えると、どうなりますか。心が静まり、平安になります。祈る心に聖霊が注がれ、聖霊に満たされるようになります。ステパノがそうでした。しかし、ユダヤ人達はステパノのことばを聞いて神様をけがしていると思いました。それで大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到しました。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺しました。ステパノを殺したのは、盲目的で、自制心を失った、爆発的な怒りでした。証人たちは、自分達の着物をサウロという青年の足元に置きました。この人は後に有名な使徒パウロになった人です。こうして彼らがステパノに石を投げ付けている時、ステパノは両手を広げて待っておられる主イエス・キリストを見ました。その時、ステパノはなんと祈りましたか。59,60節をご一緒に読んでみましょう。「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」ステパノは主を呼んで、こう言いました。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」ステパノは自分の霊を主に委ねました。そして、ひざまずいて、大声でこう叫びました。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りにつきました。この祈りは「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られた十字架のイエス様の祈りと同じです。つまり、彼はイエス様の御姿にまで変えられていました。彼はどうやってここまでに成長したでしょうか。それは彼がイエス様の十字架の愛を知り、イエス様のようになろうとしていたからでしょう。イエス様の十字架の愛は敵でさえ赦す愛です。それはほんとうに難しいです。「敵が嘘を言っても、悪口を言っても我慢しなさい。」と言われるならある程度守ることができます。でも、敵を愛することはほんとうに難しいです。だから諦めるべきでしょうか。いいえ。ステパノはイエス様を人生のロールモデルにし、イエス様のようになろうとしていたと思います。私たちがイエス様のようになろうと思う時、希望を持つ時に、少しでも変えられて行きます。ステパノのように殺される時にも、イエス様と同じ祈りができるほどに成長して行くのです。結局、ステパノは殉教しましたが、彼の殉教によってエルサレム教会に大きな迫害が起こります。しかし、彼の殉教は世界宣教の火種となりました。激しい迫害のために人々はユダヤとサマリヤに散らされますが、それによって福音が全世界に広がるようになりました。特に、ステパノの死を目撃したサウルがパウロに変えられてから福音は力強く全世界に広がるようになります。その広がりは来週から学びます。今の時代にもキリスト教に対する迫害があります。今月15日イスラム過激派組織「イスラム国, 」はリビアで拘束したエジプトのキリスト教の一派であるコプト教の信者21人を殺害したことを公開しました。その前、日本人クリスチャン後藤さんが殺害されました。この日本ではそれほどの迫害はありません。でも、私たちが直面する困難があります。時には自分を捨てなければならない現実にぶつかります。重い自分の十字架のために心細くなる時もあります。時には自分の善意が誤解され、偽りの証言によって自分の立場が不利になり、曖昧な苦難を受ける時もあるでしょう。どうやってそういう現実を乗り越えて行くことができるでしょうか。その答えの一つはステパノように生きることだと思います。ステパノのように生きるなら勝利の人生を送ることができます。ステパノは知恵と力、恵みと聖霊に満ちていました。だから、迫害が激しい時代に生きていても大胆にキリストを証することができました。聖霊に満たされて知恵と力、恵みに満ちたメッセージを伝えることができました。そして、イエス・キリストの愛と殉教の信仰によって自分を殺す人々をも赦す祈りをささげることができました。その祈りは答えられて迫害者サウルが偉大な使徒パウロに変わるようになりました。私たちがステパノをロールモデルにしてステパノように祈り、ステパノのような信仰を持つことによって神様の栄光が輝き出る器となることができますように祈ります。やがて、人生の最期にはステパノように、イエス様と同じ祈りができるほどに成長して行きますように祈ります。

14Genesis11M 星を数えることができるなら、それを数えなさい

14genesis11m, 星を数えることができるなら、それを数えなさい, 2014年創世記第11講星を数えることができるなら、それを数えなさい御言葉, 創世記15, 1−16, 16要節, 5「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」フランスの数学者・哲学者・思想家だったブレーズ・パスカルは「神を感ずるのは心情であって理性ではない。これが信仰と言うものである。」と言いました。私も共感しているところです。アブラムを召され、彼を導かれた神様を理性では理解することができません。アブラム自身も理性では神様の導きが理解できなかったことでしょう。ところがアブラムは心情で神様を感じ、御言葉を信頼して従いました。すると、彼は神様の御言葉を体験することができます。そうしてますます深く神様と交わり、信仰が成長して行きました。先週、14章を通して学んだようにアブラムはロトを救い出すために自分の家で生まれたしもべ318人を召集してケドルラオメル大同盟軍と戦い、勝利しました。でも、それは理性では理解できない非常識、無鉄砲の行動でした。何とか国々の王たちと戦って勝利しましたが、戦いの後には連合軍の報復を恐れるようになりました。その上、命がけの戦いで救い出したロトは再びソドムの地での世俗的な生活に戻ってしまいました。この現実を思うと、ほんとうに寂しく、虚しくもなりました。そんなアブラムに主のことばが臨まれました。神様は現実の問題に縛られているアブラムに約束の御言葉を与えられます。彼の家庭の問題も解決してくださいます。この時間、御言葉を通して偏狭な自分の世界、現実問題から目を上げて神様の世界を仰ぎ見ることができるように祈ります。神様の御言葉を信じて神様に義と認められ、祝福される人生を生きることができるように祈ります。?.恐れるな。わたしはあなたの盾である15章1節をご覧ください。「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」」とあります。神様は連合軍の報復を恐れているアブラムに「アブラムよ。恐れるな。」と励ましてくださいました。神様は「アブラムの盾である。」から恐れる必要がありません。「盾」は昔の戦いで自分を守る武器です。現代の家やパソコンを守るセキュリティ・システムと言えます。神様は最高のセキュリティ・システムより安全に私たちを守ってくださるお方です。神様は高感度のセコムのレーザーセンサーよりも遥かに高い感度の聖霊のセンサーで私たちを守ってくださいます。それだけではありません。神様は報いてくださる方です。神様は「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と約束してくださったのです。実際に、神様が信仰によって良心的に生きている人が受ける報いは非常に大きいです。やがてアブラムは体験して行きます。子どもが生まれるし、あらゆる面で祝福された人生であると告白するようになります。 ところが、私たちはアブラムと同じく、神様の御言葉に従って来たにもかかわらず今の状況が良くなければ恐れと不安感に苛まれます。漠然として不安感に苛まれて苦しんでいる人もいます。何度も挑戦したのになかなか就職が決まらないと不安になります。「はたして就職できるだろうか」と恐れます。就職すると安心して生きられるでしょうか。会社員は「リストラされるかも知れない。」「この会社が倒産するかも知れない。」と言う不安感に苛まれている場合が多いです。未婚の方は結婚に対する不安と恐れがありますが既婚の方は子育てや子どもの将来のことで恐れ、不安感に苛まれて苦しみます。それだけではありません。今月8日未明に乗客乗員239人を載せたマレーシア航空機が姿を消してしまいました。いつ、どこで何が起こるか分かりません。通り魔事件もあります。会社生活、社会生活の中では中傷・あざけり、おどし等などが私たちに襲って来ます。私たちが信仰によって勝利したとしてもサタンの報復は終わっていません。私たちの敵であるある悪魔が、ほえたけるししのように食いつくべきものを捜し求めながら、歩き回っています(?ペテロ5, 8)。だから、私たちはしばしば恐れと不安感に苛まれて苦しむのです。しかし、神様を信じている人は恐れなくてもいいです。神様は私たちにも言われます。「アブラハム寺崎よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」「祈祷よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」神様は必ず私の盾、あなたの盾となってくださいます。この険しい世の中でも、神様は私たちを守り、私たちの行く先々に勝利を与えてくださいます。また私たちの受ける報いは非常に大きいものになります。 ですから、私たちは安心して平安に生きることができます。私たちが理性的に考えないで心から神様に信頼するならば、私たちは衣服の下に防弾チョッキを付けているようなものです。神様があらゆる敵から私たちを守ってくださるからです。また、神様は神様を信じて生きる私たちに報いてくださいます。私たちの受ける報いは非常に大きいものです。 ○○牧者はフランスで留学してきて東京大学を卒業しました。日本社会で言うところの典型的エリート街道驀進中のキャリアウーマンでした。でも、イエス・キリストを信じてからアブラムのように新しい出発をしました。世間では理解できないほどに貧しい留学生と結婚してアルバイトしながら学生の夫を支え、二人の子育てもしてきました。将来に対する恐れと不安もあったことでしょう。でも彼女は○○姉妹を始め、兄弟姉妹たちに仕え、赤門フェローシップのみわざに同労して来ました。オーケストラを結成し、忠実に仕えて来ました。それにもかかわらず、夫の崔ヨセフ宣教師の卒業が伸ばされ、就職がなかなかできなかった時もありました。ヨセフ宣教師が福岡に行っている2年間は夫と離れて生活をしてきました。時々、このような事情を考えると私自身が心配になりました。ところが、神様は今年ヨセフ宣教師を福岡ubfの支部長、九州でトップの秀才が集まる九州大学の準教授にならせてくださいました。すでに兄弟姉妹たちも送ってくださって霊的に育てるようにしてくださいました。 私はこの家族を見ながら神様がご自分を信じる者たちの盾となって守ってくださること、彼らに非常に大きい報いがあることを深く悟り、確信するようになりました。神様は決してご自分を信じる者たちが滅びるようにすることはなさいません。ご自分の子どもたちを手放して置くこともなさいません。宇宙的なセキュリティ・システムで私たちを守り、私たちの将来を保証してくださいます。神様は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいます。私たちの盾となり、非常に大きい報いとなってくださる神様に心から感謝を申し上げます。 ?.天を見上げなさい 2, 3節をご覧ください。「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」とあります。アブラムは神様から「非常に大きい報い」と言われても理解できませんでした。彼の心には子どもの問題しかなかったからです。そこで、彼は「私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と言いました。彼は落胆していることが分かります。私たちもなかなか自分の問題が解決されない時は、神様の御言葉が聞こえません。神様は大切な事ほど小さな声でささやきますが、それを聞き取ることができないのです。では神様はアブラムをどのように助けてくださいましたか。4節をご覧ください。「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」」とあります。原語のヘブル語では、かなり強い語調で「その者があなたの跡を継いではならない。」と命じられているそうです。神様は、強い意志でアブラムから生まれてくる者がいるのだとおっしゃったのです。神様はアブラムが理性で考えて現実の可能性ばかりに目を向けることを叱られました。そして、ただすべてをお造りになった神様にある可能性を覚えるように助けておられます。それは天を見上げることでした。5節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」神様がアブラムを外に連れ出して神様が造られた世界の天を見上げるように命じられました。それは人間の可能性ばかり考えないで天地の創造主であられる神様を仰ぎ見なさいということです。それから神様が造られた星を数えることができるなら、全能の神様を考えなさいということです。実際に、アブラムが天を見上げて星を数えると、それを数えることができたでしょうか。東京に住んでいる私たちには星を数えることができるかも知れません。最近は朝5時になってもかなり明るくなっていますが、まだ暗い時は夜空の星が見えます。時々私は数えてみます。12個くらいで数えられなくなります。47個まで数えてみたいと思いますが一度もできませんでした。しかし、実際には数え切れない星があります。私たちの太陽系が属する銀河系には、2, 000億個の星があると言われています。そして、宇宙には銀河が1, 000億個以上もあると考えられています。まさに天文学的な数の星があるといえるでしょう。それらをどうやって数えることができるでしょうか。地球から人間の目で見える星の数だけでも7, 500個くらいだと言われていますがそれでも数えることは無理です。この無限な世界を造られた方が神様です。ですから、神様には不可能なことがありません。おそらく、アブラムは天を見上げて無限な世界を造られた全能の神様に気づかされたことでしょう。その時に、神様は「あなたの子孫はこのようになる」と仰って下さいました。神様のご計画は実に遠大なものでした。アブラムの想像をはるかに超えていました。神様はアブラムから子どもが生まれることだけではなく、その子孫は数えることができないほどに多くなると約束してくださったのです。私たちは自分の人生を自分の可能性の中で切り開くものだと考えています。自分の学歴や会社の資本金、親からの相続財産などで自分の人生が決まると思っています。ですから、それらの有無によって自分の人生の可能性も決めつけてしまいます。しかし実際はそうではありません。アブラハム寺崎牧者の家庭でも7年目に子どもが生まれました。奇跡は起こります。決して神様には不可能なことなどないのです。神様のご計画の通りにアブラハムの子孫は夜空の星のように数多く広がりました。イサク、ヤコブ、ヨセフに続いてダビデに繋がり、ダビデの子孫からイエス・キリストが生まれました。イエス様がお生まれになるとき、東方の博士たちがメシアの星を見て遠い東からベツレヘムまで訪ねて来ました。それで、ユダヤ人だけではなく、キリスト教も、イスラム教もアブラムの子孫であることを誇りにしています。このように、神様は私たちひとりひとりにも遠大な計画とビジョンを持っておられます。イザヤ55章8,9節を見ると, 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。エレミヤ29章11節を見ると「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。 ――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。天が地より高いように、神様のご計画は私たちの思いより高く遠大なものです。時々、私たちはちっぽけなことで悩み、恐れています。しかし、神様は私たちが夜空に輝く星のようにこの世の中で輝く将来と希望を与える計画を持っておられます。この時間、私たちが目を上げて神様の広大な世界、荘厳な世界を見ましょう。今の現実が暗ければ暗いほど、苦しければ苦しいほど天を見上げてください。夜空に輝く星を数えてみてください。神様は私に災いではなくて平安を与える計画を持っておられます。神様のなさることは、すべて時にかなって美しいものです。神様は必ず私たちに最高のもの、最上のものを与えてくださいます。神様はアブラムに息子イサクを与えてくださいました。ですから、私たちは神様の約束の御言葉を信じ、私に対する輝かしい将来と希望も計画しておられることも信じて行かなければなりません。どうか、神様が夜空に輝く星のような祝福を計画しておられることを受け入れてどこまでも神様の御思いに心を合わせて生きることができるように祈ります。では、神様の約束に対するアブラムの反応はどうでしたか。 6節をご覧ください。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラムは主を信じました。アブラムは自分に与えられた約束の御言葉を信じました。それを神様は喜ばれます。人間的には何の根拠もありません。ただ、神様がそう言われるので信頼します。それが信仰です。人間的な根拠を求め、理性的に考えるのではなく、それを超えて素直に信じるのです。父親が約束したことを、子どもが「どうせ父さんは口だけなんだから」と考えてしまうなら、親としては悲しいことです。しかし、「ぼくは父さんを信じるよ」と信頼してくれるなら、嬉しいものです。それと同じように、私たちの父なる神様は、私たちが約束の御言葉を信じることを喜ばれます。満足なさいます。そして、そのような信仰を神様は喜ばれ、義とされるのです。神様は私の立派な何かを根拠にして喜ばれるのではありません。子が父を信頼するように、神様を信頼し、神様の御言葉を信じる者を神様は喜ばれるのです。そのような者を神様は義と認められます。私たちもアブラムのように神様の御言葉だから素直に受け入れて信じる信仰を持って生きるように祈ります。神様に信頼しながら歩む人生は、神様に造られた者として神様の造られた世界で、神様の御力を味わいながら歩む人生になります。アブラムはその信仰の人生を選び取りました。すると、神様は彼の信仰を義と認められることだけではなく、彼をカルデヤ人のウルから連れ出した目的を教えてくださいました。それはカナンの地をアブラムの所有として与えるためでした。8, 21節を見ると神様がアブラムと彼の子孫が所有する地に対して契約なさったことが記されてあります。?.主は私をご覧になっている16章にはサライの問題を解決されたことが記されてあります。神様は、アブラムの子孫を星の数のようになさると約束されました。年老いたアブラムはそれを信じました。しかし、現実を見ると妻サライにはすぐに実現しそうには思われませんでした。そこで、サライはアイディアを出してひとつの提案をしました。自分には子ができないので、女奴隷のハガルによって夫アブラムの子を得ることです。いわゆる、代理母出産です。このような方法は当時の一般的な風習でもありました。そこで、アブラムもあまり深く考えませんでした。人間的には問題がなかったからです。しかし、それは信仰的な方法ではありませんでした。ハガルが妊娠すると、彼女は高ぶるようになりました。主人であるサライを見下げるようになりました。これでは本末転倒です。妻であるサライの立場がありません。サライは厳しい仕打ちをハガルに向けるようになります。ついにハガルは、サライの顔を避けて逃げ出しました。アブラムは神様の約束の御言葉を信じて義と認められたし、サライもそれを知っていたはずです。ところが、彼らは不安感と焦りに苛まれて人間的、理性的に考えてしまいました。その不信仰から家庭に問題が生じました。夫婦が信仰の中心を守り続けたなら、家庭問題も生じなかったはずです。新約時代のバプテスマのヨハネ「あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」と言っています。もし、アブラムとサライがこういう信仰を持っていたなら家庭の危機が来なかったでしょう。ところが、彼らは理性的に考えてあれこれをもって実現しようとした結果、問題が大きくなってしまったのです。ただ、あわれみ深い神様はサライとアブラムの失敗にもかかわらず、その家庭を見捨てませんでした。神様はハガルに現われて家に戻って女主人に仕えること、お腹の子をイシュマエル(「神は聞かれる」の意)と名付けることを告げてくださいました。このような神様の助けによってハガルは勇気を得ました。顔も見たくないと思っていたサライのもとに帰ることができました。それは、奴隷の自分さえも、主はご覧になっているのだと知ったからです。それまでのハガルにとって、神様は、アブラムにしか現れてくださらない遠い存在でした。しかし神様は自分もご覧になっておられました。神様は卑しい女奴隷の自分にさえ語ってくださいました。そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼びました。エル・ロイ」とは「神は私をご覧になっている」という意味です。ハガルはこの事件を通して、霊的な視点が開かれるようになりました。それが「エル・ロイ」です。神様が私をご覧になっているという視点です。私たちには誰も分かってくれるはずがないと思われる悲しみや苦しみに悩む時があります。自分の苦労を誰も認めてくれない時もあります。しかし、神様は私をご覧になっておられます。この時間、一緒に神様に告白してみましょう。「あなたはエル・ロイ」そうです。主は私をご覧になっているのです。私の主はエル・ロイです。 どうか、私たちひとりひとりが天を見上げて神様の世界を見ましょう。そしてこの世界を造られた神様を信じ、神様から与えられた御言葉を信じて生きるように祈ります。

14Genesis4M 罪を犯した人間と神様の愛

14genesis4m, 罪を犯した人間と神様の愛, 2014年創世記第4講罪を犯した人間と神様の愛御言葉:創世記3:1−24要 節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」, 先週、私たちは神様の人間創造は特別であると学びました。神様は人の鼻にいのちの息を吹き込んで神様と交わるができるようにしてくださいました。素晴らしい環境も備えてくださいました。人が神様を愛し、互いに愛し合える家庭も造ってくださいました。では、どうして、神様は世界を造られ、人間を造られたのでしょうか。聖書には神様がお造りになったことが宣言されているだけです。その理由は記されてありません。どうしてでしょうか。それは神様のご品性にあると思います。?ヨハネ4, 8節に「愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」とあります。神様は「愛」です。愛さずにはいられないようなお方が神様です。愛するために世界を造り、人間をお造りになったのです。そういう意味で「君は愛されるため生まれた, 作詞・作曲, イミンソプ, 」というゴスペルソングの歌詞は素晴らしいと思います。「君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている♪君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている//永遠の神の愛はわれらの♪出会いの中で実を結ぶ♪きみの存在が私には♪どれほど大きな喜びでしょう//君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪」とあります。愛であられる神様がその愛のゆえに創造されたので私たちはその愛を受けているのです。ところが、最初の人間はその愛を拒みました。サタンのささやきに騙されて神様の愛を拒み、神様に逆らいました。罪を犯してしまったのです。それにもかかわらず、神様は人間を見捨てになりませんでした。神様は人間を捜し求め、見つけると、救いの道を約束してくださいました。定めの時になると、神の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、御子を信じる者は救われて永遠のいのちを持つようにしてくださいました。ここに神様の愛があります。どうか、御言葉を通して神様の愛を深く悟ることができるように祈ります。?.あなたはどこにいるのか(1‐13) 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。「狡猾」という言葉はもともと「賢い、頭がいい」という意味です。ところが、その狡猾さのゆえに、蛇はサタンに用いられてしまいました。蛇は女に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。非常に巧みで陰湿です。蛇は「園のどんな木からも食べてはならない。ほんとうにそんなひどいことを言われたのですか。」というようなことを言ったのです。神様の愛を疑わせてその関係を崩そうとしました。先週、学んだばかりの2章16, 17節を開いてみましょうか。「「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とあります。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。食べ放題です。何でも自由に食べることができました。ところが蛇は神様が「園のどんな木からも食べてはならない」とほんとうにひどいことを言ったのです。「あれもだめこれもだめではつらいでしょう」というようなことを言って人を神様の愛から引き離そうとしています。でも、女が簡単に騙されるのはありませんでした。2、3節をご覧ください。「女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」とあります。女は蛇の言葉を訂正しています。確かに神様は「園のどんな木からも食べてはならない。」とは言われませんでした。園にある木の実を食べてよいのです。それは間違いではありません。しかし、蛇のささやきに女の心が揺れているように思われます。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。ここで、「どの木からでも」「思いのまま」という御言葉の中に神様の愛が満ちていす。ところが、女の心は神様の愛への感謝が薄れてしまいました。女は「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。また、神様は「善悪の知識の木」と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」と言いました。神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言います。つまり、女の心は揺れていては神様の御言葉に自分の思いを付け加え、曖昧に変えています。実はそれがサタンの狙いでした。サタンの関心は御言葉を曖昧なものにし、誤解するようにします。それによって人を神様の愛から引き離そうとするのです。4、5節をご覧ください。「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」とあります。蛇は心が揺れている女を見て神様の御言葉とは全く正反対のことを言いました。さらに、サタンは女に神様のようになるとも言いました。それは人間にある最大の誘惑です。人はもっと地位の高い人になりたがるし、もっと大きな権力を待ちたがります。神様のようになることまでも望むのです。それで、野球の神様、相撲の神様、学問の神様などがあります。サタンはこのような人間の心を巧みに利用しました。結局、女はどうなりましたか。6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。女はその実を取って食べてしまいました。一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べました。すると、蛇が言ったようにふたりの目は開かれました。それで彼らは自分たちが裸であることを知りました。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。結局、ふたりは互いに恥ずかしく思う関係になりました。神様との関係も神様の御顔を避けて逃げ回る孤独な人生、不安と恐れの人生を生きるようになってしまいました。人間同士の愛の関係も、神様との愛の関係も崩れてしまったことが分かります。神様が造ってくださった環境は変わっていないのに、自分を隠して暗闇の園で恥ずかしい人生を生きるのです。ここに人間の悲劇があります。人間は神様の愛を避けて逃げて行ってしまいました。でも、神様はこんな人間でも捨てませんでした。ではどのように助けてくださいましたか。9節をご一緒に読んでみましょう。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」『あなたは、どこにいるのか』とはヘブル語で「アイェーカ」です。たった一つの言葉「アイェーカ!」です。皆さんにはどのように聞こえているでしょうか。厳しく大声で「あなたはどこにいるのか?」と聞こえるでしょうか。あるいは小さな声で「あなたは、どこにいるのか。」とささやいているように思えるでしょう。「あなたはどこにいるのか!」私には深い悲しみを込めて呼びかける父親の声を感じます。私にはただ一度父から殴られた記憶があります。小学校3年生の時だったと思います。父はお酒を飲まない代わりにタバコをよく吸っていましたが、たまに私にタバコの買い物を頼みました。ところがある日、私はタバコを買って家に戻る途中に友だちに会って遊んでしまいました。ちょっとだけ遊ぶつもりでしたが長くなったのか、父が来て私を捕まえて行きました。家に戻ると気が狂ったかのように殴りました。海には満潮, 上げ潮, 、干潮, 引き潮, の時がありますが、私のせいで遅れていたからです。その時、祖母が来てくれて助かったのですが、私はその場で家から逃げました。夜になっても家に戻れませんでした。祖母が友達の家に隠れていた私を見つけて連れて行きましたが家に入ることはできませんでした。父に罪を犯した私は父が恐くて家に入れなかったのです。ところが、海の漁から帰って来る父が「お前、何でそこにいるの。速く入りなさい。」と言いました。全然殴ったことがなかったかのように、でも悲しい顔で「お前、そこで何をしているの。」と言ってくれたのです。優しい父の愛の声です。父がいなくなった今でも私の心に鮮やかに残っている父の愛の声です。このように、神様は深い悲しみの中からアダムに「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださったと思うのです。しかしアダムはまだ、神様の愛を素直に受け入れていません。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。ただ、言い訳を言いました。それでも神様はあきらめませんでした。彼が悔い改めることができるように、罪を指摘してくださいました。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」とあります。神様は人が自分の罪を言い表わして悔い改めることを望まれました。それによって罪が赦され、愛の関係性が回復されるからです。聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。, ?ヨハネ1, 」とあります。もし、アダムがここで、自分の罪を言い表わして悔い改めたなら、人の罪は赦され、きよめられて神様との関係が回復されたはずです。ところが、アダムは何と答えましたか。12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。夫婦喧嘩が始っています。人アダムは、女が与えられた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と喜びました。「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と神様に感謝しました。それが今、「この女が悪いんです」と言っています。それだけではありません。「あなたが私のそばに置かれた」と言いました。「あなたが私に与えたこの女さえいなければ、こんなことにはならなかったんです。」と神様を責めているのです。このようなアダムの態度は彼の息子カインにも遺伝されて行きます。ヨセフを妬んだ彼の兄弟たち、荒野のイスラエル人にも遺伝されて行きます。今は全人類に遺伝されているように思われます。イエス・キリストを信じて生まれ変わらない限り、何でもかんでも人のせいにします。親のせいにし、教師のせいにしています。政治家のせいにしています。そして、神様のせいにしています。「人のせいにするな。」と言いながら自分も人のせいにしています。嫌な人間の姿です。それでも神様は人間に対する希望を捨てませんでした。?.救い主を約束された神様, 14‐24, 14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。神様は蛇に対しては悔い改めるチャンスが与えられませんでした。何も聞かずに呪われました。しかし、人間に対する神様の愛はどうですか。, 15節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は蛇に与えましたが、蛇を用いたサタンに対する神様の裁きです。神様は女の子孫からキリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。そうしてサタンに支配されている人々を罪から救われるという約束です。そして神様はこの約束を守られました。約束のとおりに、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。アダム以来すべての人類が犯した罪をイエス様に負わせてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれましたが死者の中からよみがえられました。それによって神様が女の子孫イエス・キリストによってサタンの頭を踏み砕かれたことを明らかにしてくださいました。それによって神様は罪と死の奴隷となっている私たちを救って下さいました。ここに神様の変わらない愛があります。人間は愛されるために生まれたにもかかわらず、神様に愛されることを拒みました。大いなる神様の愛を裏切り、神様の御言葉に逆らってしまいました。それにもかかわらず、神様は人を呪いませんでした。神様は私たちを救うために女の子孫を約束し<、約束の通りに御子イエス・キリストを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。しかも、神様はご自分の約束の実現のために人間を保護してくださいます。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 とあります。蛇は呪われ、男のゆえに土地が呪われました。しかし、女については苦しみがあっても、呪いはありません。女のみごもりの苦しみは救い主の誕生につながるのです。そのために、神様は人間を保護してくださいます。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これも罪人に対する神様の愛の表現です。, では、神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22‐25節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神である主は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と言うのは皮肉的な表現です。人間が神様になったのではありません。「神のようになる」というサタンの誘惑に負けてしまった彼らの罪を指摘し、そのために神様と直接に交わることができないようにエデンの園から追い出すのだということです。しかし、完全に捨てたのはありません。「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。ここでケルビムは、翼のある一対の御使いのような存在です。幕屋や神殿では、神様が臨在される最も聖い所、至聖所に十戒の2枚の板を納めた契約の箱が置かれます。つまり、御使いたちを通して人間を守り、保護してイエス様の十字架と復活を通してエデンの園を回復させてくださるということです。それでイエス様が十字架にかかって息を引き取られた時、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。十字架でイエス様が流された血によって、私たちを神様から隔てるケルビムの幕はなくなりました。ですから、私たちは、ただ、このイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われます。神様との愛の関係を回復することができます。十字架の血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちの希望はただ十字架の福音にあります。十字架こそが私たちの恥を覆う神様の愛の衣であります。十字架のイエス様の肉体こそが、私たちが神様のお会いする垂れ幕です。たとえ自分の心が責めても、人知をはるかに超えたキリストの愛において罪が赦されて神様に愛される人生を生きるのです。 以上で、サタンの誘惑、神様の保護、変わらない神様の愛を学びました。私たちはサタンの誘惑に騙されないためにはどうすればいいでしょうか。まず御言葉を正確に学び、堅くつかんでいなければなりません。御言葉を曖昧にしてはいけません。でも、もし、罪を犯した場合はそれでも私に探し求めておられる神様の愛を覚えましょう。愛の御声に耳を傾けましょう。そうして、自分が今どこにいるのかを発見して神様の家に戻るのです。神様はイエス・キリストの十字架の血潮によって私たちを赦し、迎え入れてくださいます。皆さんは、今どこにいますか。先週金曜日は韓国のお正月でうちの学校は休みでした。それで、私は故洪ヨセフ宣教師のお墓参りをしてきました。いろいろ考えさせられました。帰りに床屋さんによって髪の毛を切って心を新たにしました。この時間も、神様は私たちに「あなたは、どこにいるのか」と呼んでおられます。神様は人間が神様から愛されることを拒み、神様に逆らったにもかかわらず、見捨てられませんでした。神様は相変わらず愛しておられました。堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を賛美します。今週も、この神様の愛、キリストの愛を堅く信じて勝利しますように祈ります。

14Genesis8M 人類の歴史とバベルの塔

14genesis8m, 人類の歴史とバベルの塔, 2014年創世記第8講人類の歴史とバベルの塔御言葉:創世記9, 18−11, 26要, 節:創世記11, 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」先週、私たちは大洪水の後に箱舟から出たノア、ノアに与えられた契約のしるしについて学びました。神様はご自分が創造した世界ですが、人が肉に過ぎないほどに堕落した時、大洪水によってさばかれました。でも愛と希望の神様は地球を完全に捨ててしまうことはなさいませんでした。地球という本体を壊さなかったのです。大洪水の後、かわききった地をリカバリします。箱舟から出て来たノアの家族を通して新しい人類の歴史を始められるのです。ではどのようにして人類の新しい歴史が始まったでしょうか。また、どのようにして人類に異なる言語が存在するようになったでしょうか。ここで、私たちはなかなかなくならない人間の罪、人間の高慢をさばかれる神様について学ぶことができます。?.新しい人類歴史(9:18−10:32) 9章18、19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」とあります。ここで、私たちはノアの3人の息子たちから全世界の民は別れ出たことが分かります。この3人はどのような人格を持っていましたか。 20、21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」 ここにはノアの失敗が記されてあります。酔っぱらって裸になっていることは醜態です。ぶどう畑で働く農夫だったノアがぶどう酒を飲むことは自然なことでしょう。ぶどう酒を飲んだことには問題がなかったと思います。ところが酒を一杯、二杯と飲んでいくうちに酔ってしまいました。判断力を失い、裸になっていました。これは本当に恥ずかしいことでした。だれにも見られてはいけないような姿です。ではこのノアの醜態に対する息子たちの反応はどうでしたか。 22節をご覧ください。「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。ここで「告げた」ということは嘲笑したことです。ハムは裸になっている父の醜態を見て嘲笑ったのです。「あれが信仰人の姿なのか。」と軽蔑しました。それに対し、セムとヤペテはどうしましたか。23節をご覧ください。「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」とあります。彼らはハムを通して父の恥ずかしい行動が分かった時に嘲笑いませんでした。そのままにして置くこともしませんでした。彼らは父の醜態に後ろ向きとなって行動しました。しかも、彼らは父の裸をおおいました。彼らは顔をそむけて、父の醜態を見ませんでした。彼らは父の弱さに同情し、父の恥をかばってあげたのです。これは息子として当然なことです。子どもは父を尊敬し、父の弱さをかばわなければならないでしょう。父親だけではなく、人の弱さに付けこむことはよくありません。私たちクリスチャンは神様の愛によって弱い人の手助け、フォローし、味方をするように気をつけていなければなりません。吉野弘さんの祝婚歌の中に「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい。」とあります。ほんとうにそうだと思います。ハムが「ノアが裸になっている」と告げるのはウソを言ったのではありません。正しいことです。でもそれが見られたことで恥かしく思う人を傷つけやすいものだと気付いていなければならないのです。ところが、そういう人より人の弱さに付けこむ人が多いです。人間は自分が完璧でもないくせに、他人には完璧な行動を要求します。他人の欠点、弱点をすぐに暴き立てようとします。 時々私は本屋で立ち読みをしていますが、週刊誌の記事はほとんどが告げ口です。人の失敗や弱さに同情し、かばってあげるような記事はほとんどありません。人の罪と失敗さらけ出して辱めようとしているような感じです。それはほとんどの人々が人のうわさや告げ口に興味を示すからでしょう。このような世の中で自分だけが人の弱さをかばい助けることはやさしくありません。人々の多くは強いものには良くあわせ、弱い者には厳しくなる傾向があるからです。しかし、私たちクリスチャンだけでも、人の弱点や欠点をすぐに暴き立てるようなことをしないように気をつけているべきだと思います。なぜなら私たちを愛しておられる神様の愛は多くの罪をおおうからです。ハムのように、人の罪と咎をあざ笑うものではありません。神様の愛は、セムとヤペテのように人の弱さをかばい助けることです。聖書に「愛は多くの罪をおおうからです(?ペテロ4:8)。」とあります。また、聖書に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストのうち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(?ペテロ2:24)」とあります。神様は私たちの罪と咎をさらけ出すようなことをなさいませんです。罪に定めない愛によって私たちの罪と咎をおおってくださいました。イエス・キリストはご自分の十字架の死によって私たちのすべての罪と咎を担ってくださったのです。私たちがセムとヤペテのように神様の愛を実践して行きますように祈ります。人の弱さを咎め立てるのではなく、人のために祈り、その弱さをかばい助ける愛の人に変えられて行きますように祈ります。10章はノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史です。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれました。最初にヤペテの子孫が書かれています。彼らは主にヨーロッパに住んでいる民族になりました。特に5節をご覧ください。「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」とあります。この表現が10章に何度も記されてあります。当然なことですが、ノアの3人の息子は同じ言語を話していました。ですから、その子孫も一つの民であり、一つのことばを話していたのです。そのまま、続いてきたらどんなに良かったでしょうか。ところが、残念なことに、11章を見ると分かるようにそのまま、続くことができませんでした。6節から20節まではハムの子孫が書かれています。ノアはハムを呪われましたが、彼の子孫の中から神様に反抗する動きが出ます。ハムの子孫の中ではニムロデに焦点が当てられています。10章8、9節をご一緒に読んでみましょう。「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。」「ニムロデ」とは、「反抗者、敵対者」という意味です。彼は地上で最小の権力者、力ある猟師ですが、学者たちはこのニムロデが中心になってバベル等を建てたと言っています。10節に「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった」とありますし、12節に大きな町を建てたことが記されてあるからです。ハムは父ノアに反抗的になっていましたが彼の子孫の中に反抗的であり、高慢なニムロデが生まれていることが分かります。私たちの人格が私たちの子孫に影響を及ぼすことが分かります。実際にセムの子孫からは信仰の先祖アブラハムが生まれます。そしてアブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれます。今の私の信仰と人格が私の子孫にも影響を及ぼすのです。私たちが自分からでも人の弱さに付けこむのではなく、すべての罪と咎をおおい助けることができるように祈ります。そうすると私たちの子孫にも良い影響を及ぼすことができるようになります。最後に、21節から30節までにセムの子孫が列挙されています。神様は、この子孫から救いのみわざを行われます。21節に「セムはエベルのすべての子孫の先祖であって」と記されてありますが、ここの「エベル」から「へブル」という言葉が出てきています。ここからイスラエル人はよく、「へブル人」と呼ばれているのです。以上が、その国々にいるノアの子孫たちの歴史です。大洪水の後にこれから、諸国の民が地上に別れ出たのです。これが10章の要約です。そして、どのようにして諸国の民が地上に別れ出るようになったのかについて記されているのが11章です。?.バベル塔(11:1−26)11章1、2節をご覧ください。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ニムロデが王国を立てたシヌアルの地に、人々は定住しました。そこで、彼らは互いに言いました。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは建築に石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いました。瀝青とはアスファルトのことです。レンガとアスファルトの開発は、当時として革命的な技術でした。レンガとアスファルトを用いると天の頂までの高層ビルを建てられるという確信を持つようになりました。そこで、彼らは一階、二階、レンガを積み上げて行こうとしました。では、なぜ人々はそれほど高い塔を立てようとしたでしょうか。それは人々の心にノア時代の大洪水に対する不安があったからだと思います。2011年3月11日に想定外の津波を経験した日本が不安になって想定外も想定していることと同じです。彼らは洪水が起こっても自分たちの町を守る方法を考えました。そこで彼らは天まで届く塔を立てようとしたのです。また、シヌアルの地に快適な街を作ったので、今までの生活が変わることを恐れました。バラバラに散らされてしまうと、新しい土地を開拓して生きて行かなければなりません。来週、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に派遣する礼拝をささげますが、新しい土地を開拓して行くことは決してやさしくありません。だから、人々は散らされてひとりぼっちになることを恐れ、みんなが塔の周りに集まって住もうとしたのです。特に、彼らはレンガとアスファルトという革命的な技術によって高ぶっていました。自分たちの力でユートピアが現実になると思ったようです。そうして彼らは神様の命令に背きました。神様はノアとその家族に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と命じられました。ところが、その子孫は、この祝福の命令を「散らされる」と否定的にとって、故意に神様の命令に背いてしまったのです。そこで、主は、彼らをさばかれます。5, 8節をご覧ください。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられる事はない。さあ、降りていって、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」とあります。先ほど話しましたが、今もなお全世界が一つの民として一つのことばで話すならどんなに良かったでしょうか。私たちは外国語を学ぶ必要がなかったのです。すべての人が日本語、あるいは韓国語だけを使うならどんなにいいでしょうか。英語勉強をしなくてもいいし、英語のためにストレスを受けるようなこともありません。ところが、バベルと言う町において、人間が高ぶって神様に反抗したので、神様は彼らの言葉を混乱させました。そのため、ノアの3人の息子から出て来た子孫は、違う言葉を話すようになりました。異なる民族を形成するようになりました。9節をご一緒に読んでみましょう。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」 この混乱は、ヘブル語で、「バラル」と発音するそうです。すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたのでばらばらに散らされて行きました。結局、シヌアルで人間が自分の力で自分を守り、自分の名を有名にしようと建て始めたバベルの塔は失敗しました。ここで、私たちは大切な教訓を得ることができます。私たちのうちにもバベル塔を建てようとする野望があるからです。ノンクリスチャンと比べれば素朴に謙遜に生きていると思われるかも知れません。でも、私たちのうちにもシヌアルの人々のような心の持ち主がいあるでしょう。ような東京の平地で安定的な生活をしながら地位も名誉もある生活をしたがる要素があるのではないでしょうか。年の初めには「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えよう」と決心しましたが、いつの間にか、霊的な望みよりも現実的な生活に縛られている時はないでしょうか。自分のためにいろいろ計画を立てて自分の力で一階、二階…とバベル塔を建てあげて行くのです。神様に頼って祈り求めるのではなく、自分の知恵を尽くして自分の計画、自分の目標に向かって行くのです。私たちは日々謙遜に神様に頼って祈り、洪水以前のノアのように神様とともに歩んでいるでしょうか。シヌアルの人々のように自分の力でバベル塔を建てているでしょう。神様がご覧になっておられます。そして、決定的なときに神様は降りて来られます。ノアのように救われるか、シヌアルの人々のようにバベル塔が倒れ、混乱してしまうかは私たちが神様の御前でどのような態度で生きているかにかかっています。、先週、日ごとの糧を通してアサ王を通して謙遜と傲慢の結果をはっきりと見ることができました。アサ王の人生の朝は非常に良かったんです。彼は人生の朝にその神、主に叫び求めていました。心を尽くして主を求めました。すると神様は彼に平安をくださいました。彼に勝利をくださいました。預言者を通して彼が信仰によって生きるように激励してくださいました。彼に会ってくださいました。彼だけではなく、彼の回りにも平安をくださいました。しかし、彼が祝福されて安定した時、祈る代わりに、主の祝福によって与えられた主の宮と王宮の宝物倉から銀と金を取り出してアラム王に送り届けて人の助けを求めると彼の国に悲劇が始まりました。神様は予見者ハナニを通してアラムを鳴らし、悔い改める機会を与えましたが、その時も悔い改めませんでした。結局、彼は両足とも重い病気にかかって死にました。傲慢は滅びに行ったのです。結局、私たちが神様に祝福されてどこに行っても勝利することは常に謙遜になっていることです。ハムのように人の失敗を指摘し、正しさを主張する前に謙遜になって人の弱さも失敗もかばい助けるのです。神様の祝福によって安定的な生活ができる時に気をつけるべきは傲慢になってバベル塔を建てることです。もちろん、自分の力でもいろんなことができるでしょう。スカイツリーよりも高いビルを建てることもできるでしょう。私たち人間にはそういう力があります。でも、私たちが傲慢になっていると、神様はどう思われます。神様はこの地に下りて来られ、混乱させます。すると、傲慢は滅びに至ります。神様がバベル塔を建てようとして人々を混乱させましたが、それでも人間に対する希望は捨てませんでした。神様は決して人間にあきらめたりされませんでした。神様は、民族として互いに分れてしまった人間を、どのように祝福されるか考えられました。そこで、神様は、まったく新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられたのです。神様により頼み、神様に仕える民族を生み出し、世界に散らされた民族を、その新しい民族によって祝福する計画を立てられました。それが、イスラエルであり、そのイスラエルの先祖がアブラハムです。26節をご覧ください。神様は、セムに与えられた祝福のことばを、このアブラハムによって実現されます。このことは来週から学びます。どうか、今日の御言葉を通して神様の愛を実践する者、謙遜に神様に頼って生きる者として変えられて行きますように祈ります。私の子孫に良い影響を及ぼすことができる人格を形成して行きますように祈ります。

14Genesis6M 主の心にかなっていたノア

14genesis6m, 主の心にかなっていたノア, 2014年創世記第6講 主の心にかなっていたノア御言葉:創世記6:1−22要 節:創世記6:8「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」 今日は東京UBF教会開拓26周年記念礼拝をささげています。ここまで私たちを助け、導いてくださった神様の恵みを心から感謝します。今日まで来たのは主の恵みです。新聖歌331番をご一緒に歌ってみましょう。, これからも、神様は私たちのうちに力あるわざ、しるしと不思議を行なわれ、私たちひとりひとりを助け、導いてくださることを信じて感謝します。振り替えてみると神様は私たちが足りなくても小さなノアとして生きるように守り、導いくださいました。日本はクリスチャン人口が1%にも至らないと言われています。自分のクラスでたった一人きりのクリスチャン、職場でただひとりのクリスチャンである場合が多いということでしょう。こんな時代にあってもノアのように生きようとする方たちがいますし、この教会にもいるということは大きな感謝です。, 私は海外に行くと、「日本宣教は難しいでしょう」と言われる場合が多くあります。すると、私は「人数は少ないけれども、敬虔なクリスチャンがいますよ。」と答えます。事実、私は26年間宣教師として働きながら日本のクリスチャン、UBFの牧者、兄妹姉妹たちから多くのことを学び、感動する時も多くありました。そういう意味で26周年の礼拝にノアを深く学べることは神様の導きではないかと思われます。どうか、本文の御言葉を通して主の心にかなっていたノアを深く学び、私たち自身も主の心にかなっている者として成長して行きますように祈ります。 ノア時代はイエス様が最も堕落した時代として取り上げられた時代です。イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」と言われました。では、ノア時代は具体的にどうでしたか。, 2節をご覧ください。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。ここで、「神の子ら」とは神様を信じたセツの子孫であると思われます。, 先週、学んだように、人類は二つの流れに分かれました。カインの家系とセツの家系の二つに分かれていたのです。カインの子孫は自分の力で町を作り、人間中心の文化を発展させていきました。一方、セツの子孫は礼拝と祈りを重んじて行きました。素朴ながら、神様を信じる信仰と祈りを受け継いで行きました。彼らは神様と共に歩む生活の中で驚くべき長寿を恵まれました。メトシェラは969年も長生きしました。自然で、素朴な生き方をしているセツの子孫は美しく魅力もありました。ところが、神の子らが人の娘たちを自分たちの妻としました。そこで不敬虔で不道徳な人々が敬虔な人々の娘たちを交わるようになっていたのです。すると、セツの子孫はカインの子孫に影響されました。彼らも不信仰、不道徳な人になって行きました。ついに、世界は神様なしに、十分に楽しくやって行けると考える人々の勢いに圧倒されてしまいました。祈ることを始め、敬虔に生きていた人々でさえ、その人格によってではなく、肉体的、性的な美しさを重んじる世界になってしまいました。人々は生きれば生きるほどに、人として本来あるべき姿を失い、腐敗して行きました。そこで、神様はどう思われましたか。, 3節をご覧ください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。」とあります。神様が創造された人間は神様とともに永遠に生きることができました。しかし、人間が罪を犯した罪のために死ぬべき者となりました。それでも神様は人間に900歳代という長生きを許しておられました。ところが、神様は人間の寿命を120年に引き下げられると宣言なさいました。それは人が肉にすぎないからです。本来、人間は神様との交わることができる霊的な存在として造られました。神様は人のうちにとどまられ、人と交わることを喜んでおられたのです。しかし、肉にすぎない人のうちに神様が永久にとどまることはできなくなってしまいました。長く生きれば生きるほどに、罪をたくさん犯していく人間の現実を見ると、長生きも祝福ではなくなりました。むしろ、寿命を短くした方が恵みであると言えるようになっていました。なぜなら、肉にすぎない人間ばかり増えるし、神様より人間の力を誇る者が増え続けて行くからです。, 4節をご覧ください。「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」とあります。人間が腐敗して肉体的な価値観に染まって行くと、その結果としてネフィリムが生まれてしまいました。ネフィリムとは巨大な体の持ち主、巨人族のことです。彼らが昔の勇士であり、名のある者たちでありました。つまり、神様に祈り、神様とともに歩んでいる敬虔な人よりもネフィリムのような人が有力な人になっていたのです。背が高く、体力、財力を持つネフィリム族が勝ち組で、その力が正義となっている時代になっていました。弱き者は見下され、敗者はさげすまれる時代でした。イケメンが好きで神様に祈る人、神様とともに歩む敬虔な人は嫌われるような時代になっていたのです。このように、肉にすぎない悲惨な状態になってしまった人間社会に対する神様の御心はどうでしたか。, 7節をご一緒に読んでみましょう。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」神様は人の悪、いつも悪いことだけに傾く人間、神様から離れて行く人間をご覧になりましたが、あまりにも悲惨な状態でした。11,12節によると、暴虐に満ちていました。すべては神様から離れて行った人間の罪の結果です。だから、私だったら、腹が立って「こんな人間を一気に滅ぼしてしまおう」と思ったでしょう。神様は人に近づき、愛し続けたにもかかわらず、人が神様から離れて行き、堕落してしまったからです。人間は怒られても完全に捨てられても文句を言えない状態になっているのです。だから神様もそのまま置いてしまっても、滅ぼしてしまってもいいのです。しかし、神様はすべてを人間のせいにしませんでした。ご自分が地上に人を造ったことを悔やまれ、心を痛められました。神様は人の罪をご自分のものとして、深く心を痛められたのです。ダメな子、出来の悪い子のために、どこまでも心を痛める父、母のような神様の愛を感じます。, 神様は自分の罪の中にあって、罪の恐ろしさを知らず、かえって罪を誇りとしている人間なのに、その人間に対して寛容だったのです。人間の罪だけを指摘して責めるようなことをなさいませんでした。むしろ、その罪をご自分の問題として悲しみ、心を痛められるのです。ここで、神様の寛容とあわれみを学びます。私たちがどんなに酷い状態に陥っていても、神様は裁判官のように私たちの罪をさらけ出してさばくのではありません。むしろ、私たちの弱さに心を痛められる神様です。しかし、主なる神様は罪や悪と永遠に共存できるお方ではありません。きよく、正しい神様は少しの汚れも共存することはできないのです。きよく正しいお方であるだけに不敬虔や罪に対する怒りも大きいものです。そこで神様の悩み、言葉で言い尽くせない心の痛みがあったことでしょう。この神様の御心を仰ぐとき、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」という言葉が私の心に伝わって来ます。その決心の重さがどれほど重かったでしょうか。私には計り知れません。ご自分が造られたものを、ご自分の手で打ち壊さなければならない神様の御心はどんなに痛かったでしょうか。その御心は、アブラハムが自分の子どもイサクを自分の手で祭壇にささげ、殺そうとした時よりもはるかに深かったでしょう。その心痛は罪深い私たちを救うためにご自分のひとり子を十字架につけて死なせる時に通じていると思われます。では、神様がご自分の創造のやりなおしをされようとしておられた時に誰が主の心にかなっていましたか。, 8節もご一緒に読んでみましょう。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」これは、「しかしノアは主の恵みにかなっていた」と訳することができます。【新共同訳】では「しかし、ノアは主の好意を得た。」と訳しています。ノアは神様の前に恵みを見出していました。つまり、彼は他の人たちと同じく自分の力によって頑張って神様の御心にかなっていたのではなく、主の好意を得ていたのです。その主の恵みによって神様とともに歩む人でした。主の心にかなっていたから恵みを得ていたのか、恵みを得ていたから主の心にかなっていたのか、は卵が先か、鶏が先かと言う問題のようです。ただ、私はノア自身もその時代の人々とは違って神様とともに歩んでいたのですが、神様の好意を得たからこそ主の心にかなっていたと思います。ノアが生きている時代の人々は神様から離れていました。人々は人間の体力、学力、財力、権力などを崇め、愛していました。ほとんどの人が肉欲、物欲の奴隷になり、この世と調子を合わせていました。しかし、ノアはこの世と調子を合わせませんでした。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神様に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える生活をしていました。それで、彼は神様の御前に好意、恵みを得ていました。神様は彼に御目を留められました。ノアはイケメンではなくても、神様の目には信仰の巨人でした。神様はこのノアに手を伸ばされ、人類の救いのために用いようとされました。人々はノアとその家族に目を留めなかったのですが、神様は彼とその家族に目を留められ、肉にすぎない人々、どうしようもない、救いがたい人類を救うために用いられるのです。このように、神様は今も小さなノアたちを用いてこの日本と世界に救いの手を伸ばされます。ノアのように神様から恵みを見いだして生きようとしている人々を通して救いのみわざを成し遂げて行かれるのです。 私たちが住んでいる日本におけるクリスチャン人口は本当に少ないものです。私たちUBF教会を開拓してから26周年になりました。その間、私たちの教会は成長して来ました。でも、今なお日本のクリスチャン1%の壁を壊すことができませんでした。去年の調査によると、主日礼拝に参加しているクリスチャンは人口の0, 4%であるそうです。だから、私たちクリスチャンは自分の家族の中で自分だけがクリスチャン、学校に行けば、クラスの中でただ一人、学校でもたった一人きりのクリスチャンだという方が多いでしょう。それで、去る26年間、私たちの教会に来られた方たちの中では数多くの方たちがノアのように生きることをあきらめました。100人の中で自分だけがクリスチャンとしてアイデンティティを持って主の心にかなっている生活をすることはやさしくなかったでしょう。 しかし、考えてみればそのような現実があるからこそ、この日本でノアのように生きようとしている人々は神様にもっと喜ばれることでしょう。今はノアの時代のようにイケメンが好きで、美しさばかり求める人々が多いからこそ、神様はノアのように敬虔に生きようとしている人々に目を留めてくださるのです。皆さんには神様の目を留められているのです。これは大きな恵みであり、特権です。そして、神様はノアのような人々を通してこの日本と世界に救いの御手を伸ばそうとされます。それで、今日も、私たちが自分の家族の中で、クラスの中で、学校で、職場で、ノアのように主の前で恵みを得る者として生きることを願っておられます。主なる神様の心にかなっていたノアのように生きることです。では、ノアは具体的にどのような生活をしていましたか。9節をご覧ください。「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。正しい人であったというのは神様と正しい関係を持っていたことを意味します。彼はネフィリムのように自分の力を誇るのではなく、神様に頼り、神様に祈りながら神様と交わる生活をしていました。全く神様を信頼して生きていたという点において全き人でした。人々が肉にすぎないほどに堕落した時代にあっても全く神様に頼り、神様とともに歩んでいました。そのように生きることはなかなか難しかったでしょう。この世と調子を合わせず、職場の雰囲気に調子を合わせないと、空気を読めない人間だと言われるでしょう。回りの人々から非難されたり、疎外されたりします。はなはだしくは虐められる時もあるでしょう。ところが、ノアはそのような状況の中でも、罪の文化、世と調子を合わせませんでした。神様の御前で確かな価値観を持って神様の御言葉に従って生きる生活に励みました。99%の人々が飲んだり、食べたりすることを大切にしていても自分は敬虔に生きようとしていたのです。11節を見ると「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」ことが分かります。それほど堕落し、暴虐で満ちていてもノアは神様とともに歩んでいたのです。それで、神様はノアにどんな恵みを施されましたか。13, 14節をご覧ください。「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」とあります。神様はノアに裁きの計画を言われてから箱舟を造るように言われました。そして箱舟の大きさや形やどんな材料を使うかについて詳しく言われました。ゴフェルの木は舟の材料としては最高のものでした。木のやには防水の役割をします。箱舟の長さは約140メートル、その幅は約23メートル、その高さは約14メートルです。総容積は、40, 立方メートル近くにも達し、そこから導き出される排水量は、ほぼタイタニック号にも匹敵するものです。ノアの神様の御言葉に対する畏敬心はどうでしたか。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」120年後に洪水が起こるから箱舟を準備するように言われた時、それを信じて準備することはやさしくなかったでしょう。また、それを作り上げる作業は大変なものです。ノアはそういう内的外的障害を越えて神様から言われた通りに箱舟を用意する生活をしました。彼は適当に自分の都合に合わせたのはありません。神様が命じられた通りにしたのです。そしてこの箱舟を教会のひな型として見ることもできます。教会は罪に満ちたこの世の海の中に浮かぶ箱舟であるということです。そしてこの箱舟は、神様の御心に従うクリスチャンが作り上げなければなりません。イエス・キリストが来られるその日までは箱舟を作る期間であるでしょう。そして、イエス・キリストを信じる者はだれでもこの箱舟の中に入ることができます。この箱舟に入っていれば、安全です。やがてキリストの再臨の時がやって来ます。その時、この世は、終末のときさばきによって滅ぼされます。しかし、その時、ノアのように生きていた人、神様とともに歩んでいた人は救われます。つまり滅ばないで永遠の命を持つことができるのです。どうか、私たちが忠実に現代の箱舟である教会を作り上げて行きますように祈ります。ノアのように主の御名によって祈り、御言葉に忠実に従いますように祈ります。特に、東京UBF26周年を迎えたこの日、救いの箱舟であるこの教会を作り上げてゆく心を新たにして行きたいと思います。私たちひとりひとりがノアのように生きようと信仰の決断をして神様とともに歩んで行きましょう。主の心にかなっていたノアのように生きることを決断して行きましょう。どうか、全く神様に信頼する全き人として御言葉に忠実に従いますように祈ります。

14Genesis3M エデンの園と人間の幸せ

14genesis3m, エデンの園と人間の幸せ, 2014年創世記第3講エデンの園と人間の幸せ御言葉:創世記2:4−25要 節:創世記2:15, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。” 先週、皆さんは張パウロ宣教師を通して人間を創造された神様を学んだことでしょう。最後に人間が創造されて天地創造が完成されました。そのとき、神様は非常に喜ばれました。他の被造物にも存在価値があり、意味がありますが、人間創造は特別だったのです。人間の創造が終わると、なさっていたわざの完成を告げられました。結局、六日間なさっていたすべてのわざは人間のためだったことが分かります。そして、今日の本文では人間のために幸福のエデンの園を設けてくださった神様の愛、愛する人間が永遠に幸せに生きることを願っておられる神様の御心がよく示されています。この時間、御言葉を通して私たち人間がどんなに愛されているかを知り、その愛に答えて幸福のエデンを自分のものにして行くことができるように祈ります。4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。」とあります。この「経緯」という言葉は創世記の他の部分では「系図」と訳されています。これには「ストーリー」(物語)あるいは「ヒストリー」(歴史)といった意味があります。つまり、著者は人間の系図の一番目になるアダムの創造の時に、人間の歴史の中に働いておられる神様について書き記しています。それによって人間がいかに神様から愛されているか。どんなに祝福された存在なのか。示しています。そして天と地が創造された時の経緯を通して神様は愛する人間が幸せになることも示しています。では、人間が神様から愛されている証拠、祝福された存在である証拠は何でしょうか。第一に人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在に造られたことです。5‐7節をご覧ください。地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していませんでした。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからです。地球は創造の主人公である人間が現されるまでは何も動けない状態でした。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していました。その時、神様は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。こうして人間は他の被造物とは違って神様のいのちを持つ存在になりました。神様との交わることができる特別な存在になったのです。被造物として神様と交わりができる存在は人間しかありません。神様は人間を愛した余り、永遠にご自分の交わる存在にしてくださったのです。神様との交わりのために人間だけに霊的なものを知る知識、道徳的な価値を判断できる能力も与えてくださいました。だから、私たちは祈りもできるし、神様への賛美もできます。他の動物とは違います。動物も生きていける知恵が与えられているので敵が現れると身を隠したり、逃げたりします。それでゴキブリなどは、厳しい環境の中でも生き延びることができます。ゴキブリは核戦争があっても生き残るだろうと言われるほどです。また猿やゴリラなどの動物にも知恵が与えられていて、棒を使ってバナナを叩き落とすことができます。その棒を蜂蜜のつぼの中に入れて棒についた蜂蜜をなめることもできます。しかし、どんなに知恵があっても、動物は道徳的により良いものを目指すことはしません。日曜日ごとに礼拝することもしません。人間だけが快楽や安楽を捨ててでも価値あるものを求めます。損得を越えて正しいことを守り通そうとします。真の礼拝を求めます。それは神様からいのちの息が吹き込まれて神様との交わりができる霊的存在として造られたからです。第二に、人間のために素晴らしい環境を与えてくださったことです。8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。エデンとはスメル語では「平地」と意味する言葉ですが、ヘブル語では「喜び、楽しみ、幸せ」という意味を持つ言葉だそうです。つまり、神様は人間のために幸せの園(garden)を与えてくださったのです。神様は愛する人間が永遠に幸せに生きられるように幸せの園を設けてくださいました。その園には、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木がありました。川の水もありました。エデンの園には川があって園全体を潤していました。そのおかげで、そこにはさまざまな木が豊かに実を実らせていました。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつけていたことでしょう。毎月新しい実が出て来るのです。何を食べても賞味期限を確認する必要もありません。いつでも新鮮で美味しい自然食品を食べることができました。手を伸ばせばすぐに食べることができたのです。また、この川はピション、ギホン、ティグリス、ユーフラチスという四つの川の源流になっています。ピションの川沿いのハビラには良質の金とベドラハとしまめのうと言った宝石がありました。神様が人間に与えてくださった土地は農作物ばかりでなく、宝石も豊かにある土地だったのです。こうして「地球はいのちの星、宝の星」と言われるようになりました。神様は人間のために最も美しく素晴らしい環境を備えてくださったのです。第三に幸せな家庭を造ってくださったことです。どんなに素晴らしい環境に住んでいても、神様がご覧になると、ひとりでいるのは良くありませんでした。そこで神様は家庭を造ってくださいました。18節をご覧下さい。「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とあります。神様は人間の創造の時、人がひとりでいるのは良くないと思われました。事実、人は男一人でも、女一人でも、ひとりだけいるのは良くなく見えるものです。つまり、人は男か女一人だけでは何か足りないということです。人がどんなに強く、たくましく見えてもひとりだけでは足りません。結婚している方は分かるでしょう。家に帰った時に奥様がいないとどうでしょうか。なんかさびしく、家の空気も冷たく感じるのではないでしょうか。どこかに出かける時もひとりでいるのは良くありません。寂しさだけではなく何か忘れ物があるように感じるし、落ち着きません。奥さんも旦那さんがいないと寂しく感じるでしょう。ある奥様は「夫は家にいるだけでも安心できるし、力になる存在だ」と言いました。つまり、夫は妻の存在が、妻には夫の存在が必要だし、お互いに助け合うことが必要だということです。聖書を見るとソロモンには何人もの妾, めかけ, がいましたが、自分を真実に愛し、助けてくれるひとりの妻がいませんでした。それで彼の所有は多かったけれでも、彼の人生は光りませんでした。一方、イサクはちょっと足りないような人でした。しかし、リベカと言う立派な信仰の女性が妻であったお蔭で彼はアブラハムの信仰を受け継ぐことができました。イサクだけではなく、数え切れない夫たちが妻の助けによって立派な人生を生きることができました。去年放送されたnhk大河ドラマ「八重の桜」の八重さんも素晴らしい助け手のひとりです。新島嬢さんキリスト教に根ざした学校を作ろうとしても偏見を持つ人々の反発に遭いました。そこで葛藤する夫を支えたのは八重さんでした。「ならぬものはならぬ」の精神を持った八重さんが夫の新島さんを支えたのです。そういう八重さんの助けが同志社英学校の開校にもこぎつけます。その後も、二人の夢が一つになって同志社大学設立へと向かいます。このように、社会的にも霊的にもひとりだけではなく、互いの足りなさを補ってくれる信仰の同労者が必要です。そして、そういう家庭をつくることは大きな祝福であるのです。それでは神様は助け手をどのように造られましたか。21節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」とあります。ここで見ると男性は土地のちりで造られましたが、女性はアダムのあばら骨で造られています。神様は女を造る材料をアダムの頭とか、指の爪からとらないでわきにあるあばら骨から取られました。つまり、女性の位置は上でも下でもなく男性のわきです。男女は平等であるということです。22節をご覧ください。「こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」とあります。神様が女を人のところに連れて来られることが結婚です。結婚は自分が好きな人を選んで嫁にするするとか、旦那にするようなことではありません。自分のところに連れてきてくださった神様の導きを感じて悟り、神様が連れて来られたと信じて受け入れる結婚こそ聖書的な結婚なのです。では、神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節を男性だけで読んで見ましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」素晴らしい告白です。親にも、こうは言えないでしょう。自分の半身である妻を呼ぶときにのみ言える表現ではないでしょうか。アダムの奥さんや幸せを感じたことでしょう。実際に、夫は妻から認められ、尊敬される言葉を聞くと幸せになりますが、妻は夫からほめられると、幸せになるそうです。夫なる方は神様の傑作品である妻をほめましょう。「あなたはきれいですね。you are wonderful!」と。女性をほめることは花を咲かせることです。ほめられる女性はきれいになります。夫が自分の妻こそ神様の傑作品であると認め、告白することが家庭に平和と幸福をもたらすのです。24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とありまするのです。結婚は二人を一体とする神秘的事実です。体だけではなく、心もひとつになることによって幸せな夫婦になります。そのために信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じである必要があるでしょう。だから、クリスチャンはノンクリスチャンではなく、クリスチャンと結婚するし、同じクリスチャンでも同じ教会の人と結婚しようとするのです。結婚してから幸せな夫婦であり続けるためには互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合うために努力する必要があります。結婚によってふたりは一体となるのに、まだ心が父母を離れず、妻の料理より母の味噌汁が美味しかったというようなことを言ってはいけません。妻や夫が恥ずかしく思うようなことを言ってはいけないのです。本当に幸せな夫婦は二人の間に何も恥ずかしいことがありません。25節をご覧ください。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。素晴らしい夫婦関係を見ることができます。恥ずかしいと思わなかったということは二人の間に隠し事も、ウソもなく、罪がないということです。そのとき、夫婦は恥ずかしくない関係になります。私たちの家庭が夫は妻に、妻は夫に何も恥ずかしいことがないものでありますように祈ります。そのとき、家庭は神様に喜ばれる家庭になると信じます。エデンの幸せ、神様の祝福が皆さんの家庭に、夫婦の間にあふれるように祈ります。以上で、私たちは神様がいかに人間を愛してくださったかを学ぶことができました。神様は人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在にしてくださいました。エデンの園という素晴らしい環境を与えてくださいました。そして、ひとりでいるのは良くないので家庭を作ってくださいました。これらが私たち人間に対する神様の愛のしるしですが、私たちにとっては大きな祝福です。私たちがこの祝福の中で生き続けるためにはどうすればいいでしょうか。15節をご一緒に読んでみましょう。, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。”神様は私たちのために与えてくださった環境を耕せました。「耕す」(カルチベイト)は「文化」(カルチベイション)に通じています。人間は産業、芸術、教育などを通して文化を生み出すことで神様の愛を感じ、体験する存在として造られたのです。だから、私たちは神様から与えられた環境の中で文化活動を通して神様の恵みを味わい、神様の愛を体験することができます。それによって神様の形に造られた人として生かされている喜びを覚えることもできます。「またそこを守らせた。」とあります。「守る」とは自然を管理することであり、神様が与えられた御言葉を守ることです。神様が立てられた家庭の秩序を守ることでもあります。それを通して神様の形に似せて造られた人間、いのちの息が吹き込まれた人間として神様との交わり続けることができます。何よりも私たち人間は神様の御言葉を守る時に幸せに生きることができます。16、17節をご覧ください。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。私たち人間が最初に守るべき御言葉はこの2節だけでした。しかも、無限の自由と祝福の中でただ一つ善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言うことです。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、許可を与えてくださいました。何と恵み深いことでしょう。エデンでは毎日がご馳走のフルコースです。採るも自由、食べるも自由のバイキング状態だったのです。エデンの園での生活を想像すると、毎日が楽しく、心地よく、快適であったかと思わされます。ただ、「善悪の知識の木」だけが、食べてはいけないと命じられました。そして「食べたら、あなたは必ず死ぬ」と警告されました。なぜでしょうか。それは「人間が神様ではない、神様の命令のもとに生きるべき存在だ」ということをわきまえさせるためだったと思います。人間は神様から特別に愛される存在でした。人間は神様の創造の中心、文化を創造し、自然を守る使命を頂きました。エデンの園というすばらしい住まいにも恵まれました。すべて神様に造られたものの中で、人間は何から何まで特別扱い、特別待遇でした。しかし、そうであっても人間は神様ではないのです。善悪の知識の木を見るたびに、自分は神様の被造物にすぎない存在であることを覚え、神様を恐れよという命令だったのです。私たちの前に善と悪の道があります。神様に信頼し、神様の言葉に従うことが善です。神様が与えてくださった環境を守り、家庭を守ることが善です。夫婦関係、親子関係を守ることが善です。それこそ幸いの道でもあります。そして、神様に背き、神様から離れることは悪です。自分が地球の支配者であるかのように振る舞い、神様の造られた世界を汚し、壊すことは悪です。神様抜きにものごとを考え、判断し、神様抜きで正しく行動できる、神様抜きでも幸せになると思うことは悪です。それらは悪であって、滅亡と死へ道です。こういう知識の木から取って食べることは善悪の基準を無くしてしまうことになります。それは絶対にあってはいけません。善と悪をわきまえることは子どももできることだからその基準を覚えることは無視してしまいがちです。学校でも数学や英語を学ぶ時間は多くても倫理や道徳の時間はほんの少しです。しかし、それを無くしてしまってはいけないのです。ところが、人間はその善悪の木から取って食べてしまいます。エデンの園という最高、最善の環境におかれたのに、神様の愛と祝福を忘れてしまいます。神様を離れることが悪と知りながら神様抜きの人生を選んでしまうのです。本当に残念なことです。このことに関して来週に勉強します。私たちはイエス・キリストを信じることによってこの素晴らしいエデンの園を回復すことができます。信仰によって救われると神様との交わりができ、神様の御言葉を守るようになるからです。どうか、私たちが神様の御言葉を守ることによってエデンの園を通して示してくださった幸福を自分のものにして行くことができるように祈ります。無限に与えられている神様の恵みと祝福の中で神様の愛を経験しながら神様から与えられた御言葉もよく守って行きますように祈ります。